ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社) ――⑧――

2019-08-26 10:28:43 | ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ,Ⅱ 細谷貞雄 監訳

    ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社)


             ――⑧――


 ニーチェの思想を、すでに再びではなく四度五度と繰り返してい

るが、ただ私自身のために要約して箇条書きすると、

1、世界とは変遷流転する「生成」である。

2、変遷流転する「生成」の世界では「(絶対不変の)真理とは幻想」

  である。

3、いわゆる存在の本質(真理)を問う《形而上学》的命題は「真理」

  に的中できずにその使命を終える。形而上学的境涯、つまり「何

  であるか」を問うことは意味がない。

4、「真理」に到達できなかった理性はニヒリズムに陥らざるを得

   ない。それでも、形而上学的思惟に拘るのなら死ぬしかない。

5、そこで、ニヒリズムに陥らないようにするためにわれわれは芸

  術を持っている。

6、芸術は生物学的「陶酔」からもたらされる。

7、科学は絶対不変の「真理」からもたらされるので、変遷流転す「

  生成」にはそぐわない。世界とは「生成」であるとすれば、回帰

  再生されない科学技術はやがて破たんする。つまり、近代科学文

  明は「永劫回帰」できないので行き詰って「淘汰」される。

  
                        (つづく)

 


ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社) ―⑦―

2019-08-14 17:41:32 | ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ,Ⅱ 細谷貞雄 監訳

     ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社)

             ―⑦―


 ニーチェが「芸術は《真理》よりも多くの価値がある」という時

、それは絶対不変の《真理》とは幻想に過ぎないからだ。幻想でし

かない《真理》の追究はニヒリズムに陥る。では芸術はニヒリズム

に陥ることがないのだろうか?ニーチェは《真理》よりも価値のあ

る《芸術》をどう捉えていたのだろうか?そもそも芸術の本質は美

学によって規定される。「美学とは人間の感覚的感情的な態度とこ

れに規定を与えるものごとについての知である」(本書:ハイデガー)

つまり、認識としての美学は人間の感受性を規定し、感受性は美し

いものを対象にする。そこで、美しいか否かはそれぞれの感受性に

委ねられ、しかし、感受性は身体的状態に還元され、つまり、それ

らは《応用生理学》にほかならないと言うのだ。

ところで、生理学とは自然科学のカテゴリーであり、自然科学とは

あるがままの世界であり、何らかの意志、つまり創造性とは無縁で

ある。たとえば、花は昆虫による受粉を促すために華やかに彩られ

ていても、それは決してただ美しさのためにそうあるわけではない。

花の美しさというのはその関係性から逸脱した第三者の観照から生

まれる。そもそも植物自身は美しさを目的にして花を咲かせるわけ

ではない。美しさは生理学とは無縁である。美学が生理学によって

規定されるとなると、美しいか否かもまたその時その時の感情の状

態によって印象が変わり、真理と同じように「美もまた幻想なり」

ということになる。ところで、ニーチェは次のように考える。

『芸術家の心理についてーー芸術が存在するためには、なんらかの

美的な行為や観照がおこなわれるためには、どうしても或る生理学

的前提条件が不可欠である。それが陶酔なのである。陶酔がまず全

器官の興奮性を亢進させておかなくては、芸術というものは成立し

ない。どれほど異質な条件のもとで生じたいかなる種類の陶酔でも

、すべてこの力をもっている。なかでも著しいものは、性的刺激の

陶酔。――もっとも古くからの、もっとも根源的な陶酔形態である

。また、すべての大きな欲望、すべての強い情動にともなう陶酔、

たとえば祝祭、競技、神技、戦勝、あらゆる極端な動作の陶酔、残

虐行為の陶酔、破壊における陶酔、たとえば早春の陶酔のように、

一定の気象条件の影響をうけた陶酔、また麻酔薬の作用下での陶酔

、最後に、意志の陶酔、過度にはりつめて充溢した意志の陶酔も、

これと同様である』。【ニーチェ著「偶像の黄昏」第8巻】

 ハイデガーは、「以上のことを一般的命題に総括して、根本的な

美的状態とは陶酔であり、これはまたさまざまな仕方で条件づけら

れ触発され、促進されることがある、ということができる。」【本

書「美的状態としての陶酔」】

 つまり、美くしさは理性によって規定されるのではなく、むしろ

生理学的前提条件、つまり《陶酔》が不可欠であると言うのだ。

 

                        (つづく)


ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社) ー⑥ー

2019-07-14 13:20:06 | ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ,Ⅱ 細谷貞雄 監訳

      ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社)


             ー⑥ー


 さて、形而上学的境涯としての思惟が存在の本質に辿り着くこと

のできない幻想であるならば、理性に従って意味のない生存をさっ

さと終わらせるか、それとも形而上学的境涯を棄てて生成としての

世界へ転身することが迫られる。しかし、形而上学的境涯から生成

の世界への転回は決して生易しいことではない。それは、まさに信

仰に生涯をささげた者が「神の死」を知っても直ぐに信仰を棄てら

れないことと似ている。そこでニーチェは、形而上学的境涯がニヒ

リズムに陥って「没落することがないようにするために芸術をもっ

ている」と言う。つまり形而上学的境涯を「生きる意味がない」と

結論して「さっさと終わらせる」ことができない者は、芸術家的境

涯への転身によってニヒリズムから遁れるしかない。では、形而上

学的境涯よりも《価値がある》という芸術家的境涯とはいったいど

ういう境涯なのか?

 ニーチェは生成としての存在の本質は「力への意志」であると言

い、そして「芸術は力への意志のもっとも透明でもっとも熟知の形

態である」と言います。つまり、この世界にとどまる限り、それは

変遷流転する生成の世界であり、その本質は「力への意志」である

とすれば、芸術家の創造的な作業こそが生成の世界、とりわけ「力

への意志」が直載的に反映された行為であると言います。もはやそ

こでは理性による固定化した言葉による認識の「理解」は及ばない

。芸術こそが生成の世界で生きるための価値であるならば、我々は

理性によって世界の本質を確かめることはできない。 

 そもそも我々が価値を認める近代科学文明社会とは、理性による

科学的認識から生まれた科学技術によって物質文明が発展し、もち

ろん生存のための様々な問題を克服してきたが、しかし、我々にと

って最大の恐怖である「死」から解放されたわけではない。「すべ

ての命はいずれ死ぬ」、そもそもこの受け入れ難い事実を解き明か

そうとして形而上学は始まったが、しかし、科学的認識をもってし

ても存在の本質を解き明かすことはできない。

                         (つづく)


ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社) ー⑤ー

2019-06-27 05:18:47 | ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ,Ⅱ 細谷貞雄 監訳

       ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社)


             ー⑤ー

 

 ニーチェの形而上学的命題を、私にとって重要と思われるいくつ

かを繰り返しになるが整理すると、まず変遷流転する「生成」の世

界で、絶対不変の「真理」とは幻想でしかない。そして「真理」を

掴めなかった理性はニヒリズムに陥る。たとえば、宗教は現世にお

けるニヒリズムの克服ではなく来世における救済を説くが、それは

現実のニヒリズムからの「逃避」であって、ニヒリズムそのものは

何もなくならない。つまり、宗教もまた現実逃避のニヒリズムにほ

かならない。では、一体どうすればニヒリズムから抜け出せるか?

ニーチェは、「芸術はニヒリズムに対する卓越した反対運動であり」

、「芸術は真理よりも多くの価値がある」と言い、そして「われわ

れは真理のために没落することがないようにするために、芸術をも

っている」とまで言う。しかし、芸術によって没落からまぬがれた

としても、理性が形而上学的「真理」を掴んでニヒリズムを解消さ

せなければ依然としてニヒリズムは大きな口を開けたまま待ち構え

ている。つまり、理性に従う限りニヒリズムに到るのは避けられな

いとするなら、芸術の優位は形而上学的思惟の敗北宣言にほかなら

ない。ニーチェは、プラトン・アリストテレスから連綿と続く西欧

形而上学の、それは存在の本質を問うことの限界を確認して、理性

による認識の限界を訴え、自らを最後の形而上学者であると名乗っ

た。「芸術は真理よりも多くの価値がある」とは、まさに形而上学

的思惟からの撤退にほかならない。だとすれば、理性からもたらさ

れる科学的認識もまたニヒリズムを解決できないことになり、そも

そもプラトンの「イデア」以来、それに続く「キリスト教世界観」、

そして「科学」もまた、それらはニヒリズムの克服ではなく逃避から

生まれた価値定立でしかなく、つまり、どれほど科学技術が進歩して

も、決してニヒリズムはなくならない。つまり、それらは固定化した

世界認識であり変遷流転する「生成」の世界にそぐわない。たとえば、

世界とは涯てしなく広がる海の上に浮かぶ船のようなものだとすれば

、身を預ける世界という船がどれほど堅固に建造されても、船底の板

子一枚下には理性では計り知れない底なしのニヒリズムが口を開けて

待ち構えているのだ。敢えて言えば、「生きていることは意味がない」

と考えて生きることをやめる者は、理性的には決して間違っていない、

アクマでもだが。   

                         (つづく)


ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社) ー④ー

2019-06-23 11:10:21 | ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ,Ⅱ 細谷貞雄 監訳

       ハイデガー著「ニーチェ」Ⅰ、Ⅱ(平凡社)


             ー④ー


 限界に達した近代科学文明に変わる新たな社会の価値定立とは、

ニーチェ=ハイデガーの命題から導けば、まず「生成」としての世

界の価値を見直すことから始めなければならない。つまり、循環回

帰しながら再生する生成の世界へ後戻りすることになる。それは当

然近代科学文明社会からの転換を意味する。ただ、科学技術は産業

革命以来絶え間なく産み出され革新されて今日に至っているので、

科学技術が産み出すすべての価値を投げ棄てて始原へ戻るべきだと

までは思わない。では、生成の世界にそぐわない技術を見直すとす

れば、まず第一に大量の温室効果ガスを排出する化石燃料と循環再

生しない石油製品などが挙げられるが、それらはすでに再生可能エ

ネルギーや自然素材の代替品の開発が急がれていてその方向性は間

違っていないと思う。私は、生成の世界にそぐわない資源から制作

された製品を見直して循環再生する素材に代えていくことや、これ

までの科学技術を改めて自然環境に配慮して再び科学し直すことを

「リサイエンス(Re-science)」と呼ぶ。流動的な「生成」にそぐわ

ない固定的な欠陥技術を、自然循環に適応した技術に「リサイエン

ス」することによって「生成」の世界を再生しなければならない。

ただ、新しい社会的価値を定立するためには、古い価値からの脱却

が求められるが、近代科学文明から脱け出そうとしない西欧社会以

外の国々は、それらはあまりにも国土が広いために科学技術なしに

は統治が成り立たないか、あるいは近代化が遅れて科学技術なしに

は経済発展が見込めない国々だが、ところがわが国はそのどちらで

もないにもかかわらず、新しい社会的価値の設定を模索することも

なく、従米主義の下に従来通りの「欠陥科学」を見直そうとしない

ことに不甲斐なさを禁じ得ない。そもそも環境技術はわが国が最も

得意とする分野であったはずだが、現政権による従米政治が転換を

積極的に推進しようとはしない。

 ところで、新たな社会の価値定立が「生成」の世界、つまり自然

への回帰だとすれば、個人はいったい何を新たな価値として設定す

ればいいのだろうか。もちろん、そんなことは人それぞれが決める

ことだが、ニーチェは、「芸術は真理よりも多くの価値があ」り、

「芸術は力への意志のもっとも透明で熟知の形態である」と言う。

世界とは変遷流転する「生成」であるとすれば、真理を追い求める

科学的認識(理性)は、絶対不変の真理に到達できずにニヒリズムに

陥る。そこでニーチェは、「われわれは真理のために没落すること

がないようにするために、芸術をもっている。」と言う。なぜなら

「芸術とは、芸術家についての拡張された概念によると、あらゆる

存在者の根本的生起である。すなわち存在者は存在するものである

かぎり、自分自身を創造するもの、創造されたものである」からだ

。つまり「芸術はニヒリズムに対する卓越した反対運動である。」

だから、いずれ忘れ去られる固定化した科学的価値(真理)を追い求

めるよりも、自らも「生成」の世界の存在者として、つまり、いず

れ死に至る者として、「生成」の流れの中で「生」に「陶酔」しな

がら生きるには、芸術こそがもっとも価値があるのだ。

                        (つづく)