(四十一)
私はナンセンス・マンガを描きたかった。所謂ストーリー・マンガ
は絶対に描けないと思った。高校性の時に、生きることに悩んで
、縋るように本を読んだが、どれも私の悩みに答える本に出会え
なかった。それは、「私は一体何の為に生まれてきたのか?」と
いう疑問だった。ある日、本屋でトルストイの「光あるうちに光の
中を歩め」という題名が気になって、早速読んでみたが「えっ!」
と思うほど心に残らなかった。ところが、本屋に行く度にその本の
題名だけは私の心を奪い、本の内容が心に残らなかった故に、
読んだことを忘れて、また買ってしまうことを何度も繰り返して、
ついにはその本を三冊も買っていた。それからは、本屋に入る時
は「光あるうちに光の中を歩め」を見ても、絶対買わないように自
分に言い聞かせた。私は闇の中を歩き過ぎて、光に目が眩んだ
のかもしれない。ただ、あの題名にはホントに騙された。
さらに、何かの案内を見てどうしても読みたくなったドストエ
フスキーの「白痴」を、いきなり書き始めより長文が続き、さす
がドストエフスキーだと、名前が複雑な人は書くモノも難解だな
と感心しながら、これは「ヴィトゲンシュタイン」の本を読んだ時
に確信した、読み進むと、主人公のムイシュキン某に、付き合
いの無い親戚の遺産が転がり込んでくるかもしれないと為った時
、まさかそんな「嘘っぽい」展開になる訳が無いと思っていたら
、あっさりとそう為って、そこから先を読む気が起きなかった。
未だに「あれは無い」と思っているのだから随分ショックだった
。それからはあまり小説と云うものを読まなくなった。ましてや
マンガなんて嘘だらけじゃないか!どうせ嘘を描くなら「嘘に決
まってんじゃん」という、ギャグ・マンガしか描こうと思わなか
った。私には何時も裏返しになって訪れる幸運が、マンガの中で
は「ありえねえー!」と言いたくなるほど簡単に訪れるラッキィ
ーに嫉みがあったのかもしれない。
私が描いたマンガは、珍商売を色々考えた。例えば、結婚式が
あるなら別れた時は離婚式をやりませんか?と言って離婚式をや
る会社を作る。そこでは前朗、前婦がお互いにに辛かった事の憂
さを全部吐き出して、わだかまり無くまた新しい人生に向かいま
しょう、と言って、それぞれの親族が腹にある恨み辛みを罵り合
って別れる離婚式。最後は無茶苦茶に為るんだけどね。また、エ
ステサロンで、痩身マッサージはやって貰う人よりも、マッサー
ジをする人の方が遥かに痩身効果があると言って、客にマッサー
ジをさせて、店の者はただ寝転がっているだけでお金が貰える、
などなど。どれもモノには為らなかった。
今やマンガは政治家の共感も得て、役所の援助まで受けて
日本を代表する文化になってしまった。しかし、そもそも漫画とは
権力に抗うことで力なき大衆の支持を得て、権力者の横暴を暴
き、その偽善を戯化して、生活に苦しむ庶民の憂さを晴らした
のだ。だが、もうこの国は住み良い国になったのだ、政冶は弱
者に救いの手を差し伸し、貧富の格差などないのだ、ホームレ
スなどいないのだ、自殺する者などいないのだ、政治に不満を
持つ者などいないのだ。だから、漫画なんかいらないのだ。か
つての「正義の味方」達は悪人を追って宇宙の果てまで行って
しまったのだろう。マンガオタクの若者達は、マンガ文化に共
感を示す為政者を、自分達の理解者だと歓迎しているが、
西洋の寓話にこういうのがある。
幸せに暮らしていた蛙たちが神様の、
「何か願い事を叶えてやろう。」
と云う事に、
「いいえ、私たちは今のままで十分幸せですか
ら何もいりません。ただ、もしお願いを聞いて
頂けるなら、あの美しい鷺(さぎ)を下さい。
何故なら、私たちはこんなにも醜い。あの美し
い鷺が、いつも私たちと一緒に居てその美しい
姿を見ることができるなら、こんな嬉しいこと
はありません。」
神様は早速願いを叶えてやりました。蛙たちは
、美しい鷺を見てみんな大喜びでした。
しかし、しばらくして鷺は、その池の蛙を全
部食べてしまいました。
(つづく)