(四十一)

2012-07-11 17:04:12 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(四十一
                 (四十一)



 私はナンセンス・マンガを描きたかった。所謂ストーリー・マンガ

は絶対に描けないと思った。高校性の時に、生きることに悩んで

、縋るように本を読んだが、どれも私の悩みに答える本に出会え

なかった。それは、「私は一体何の為に生まれてきたのか?」と

いう疑問だった。ある日、本屋でトルストイの「光あるうちに光の

中を歩め」という題名が気になって、早速読んでみたが「えっ!」

と思うほど心に残らなかった。ところが、本屋に行く度にその本の

題名だけは私の心を奪い、本の内容が心に残らなかった故に、

読んだことを忘れて、また買ってしまうことを何度も繰り返して、

ついにはその本を三冊も買っていた。それからは、本屋に入る時

は「光あるうちに光の中を歩め」を見ても、絶対買わないように自

分に言い聞かせた。私は闇の中を歩き過ぎて、光に目が眩んだ

のかもしれない。ただ、あの題名にはホントに騙された。

 さらに、何かの案内を見てどうしても読みたくなったドストエ

フスキーの「白痴」を、いきなり書き始めより長文が続き、さす

がドストエフスキーだと、名前が複雑な人は書くモノも難解だな

と感心しながら、これは「ヴィトゲンシュタイン」の本を読んだ時

に確信した、読み進むと、主人公のムイシュキン某に、付き合

いの無い親戚の遺産が転がり込んでくるかもしれないと為った時

、まさかそんな「嘘っぽい」展開になる訳が無いと思っていたら

、あっさりとそう為って、そこから先を読む気が起きなかった。

未だに「あれは無い」と思っているのだから随分ショックだった

。それからはあまり小説と云うものを読まなくなった。ましてや

マンガなんて嘘だらけじゃないか!どうせ嘘を描くなら「嘘に決

まってんじゃん」という、ギャグ・マンガしか描こうと思わなか

った。私には何時も裏返しになって訪れる幸運が、マンガの中で

は「ありえねえー!」と言いたくなるほど簡単に訪れるラッキィ

ーに嫉みがあったのかもしれない。

 私が描いたマンガは、珍商売を色々考えた。例えば、結婚式が

あるなら別れた時は離婚式をやりませんか?と言って離婚式をや

る会社を作る。そこでは前朗、前婦がお互いにに辛かった事の憂

さを全部吐き出して、わだかまり無くまた新しい人生に向かいま

しょう、と言って、それぞれの親族が腹にある恨み辛みを罵り合

って別れる離婚式。最後は無茶苦茶に為るんだけどね。また、エ

ステサロンで、痩身マッサージはやって貰う人よりも、マッサー

ジをする人の方が遥かに痩身効果があると言って、客にマッサー

ジをさせて、店の者はただ寝転がっているだけでお金が貰える、

などなど。どれもモノには為らなかった。

 今やマンガは政治家の共感も得て、役所の援助まで受けて

日本を代表する文化になってしまった。しかし、そもそも漫画とは

権力に抗うことで力なき大衆の支持を得て、権力者の横暴を暴

き、その偽善を戯化して、生活に苦しむ庶民の憂さを晴らした

のだ。だが、もうこの国は住み良い国になったのだ、政冶は弱

者に救いの手を差し伸し、貧富の格差などないのだ、ホームレ

スなどいないのだ、自殺する者などいないのだ、政治に不満を

持つ者などいないのだ。だから、漫画なんかいらないのだ。か

つての「正義の味方」達は悪人を追って宇宙の果てまで行って

しまったのだろう。マンガオタクの若者達は、マンガ文化に共

感を示す為政者を、自分達の理解者だと歓迎しているが、

 西洋の寓話にこういうのがある。 

 
 幸せに暮らしていた蛙たちが神様の、

「何か願い事を叶えてやろう。」

と云う事に、

「いいえ、私たちは今のままで十分幸せですか

ら何もいりません。ただ、もしお願いを聞いて

頂けるなら、あの美しい鷺(さぎ)を下さい。

何故なら、私たちはこんなにも醜い。あの美し

い鷺が、いつも私たちと一緒に居てその美しい

姿を見ることができるなら、こんな嬉しいこと

はありません。」

神様は早速願いを叶えてやりました。蛙たちは

、美しい鷺を見てみんな大喜びでした。

 しかし、しばらくして鷺は、その池の蛙を全

部食べてしまいました。

                                (つづく)

(四十二)

2012-07-11 17:03:13 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(四十一
                     (四十二)



 牛乳配達の仕事を終えると昼まで寝た。宅配という仕事は本業

の牛乳だけに止まらず、契約農家の有機米や牛丼のレトルトパッ

ク、さらには様々な業者が売り込む加工食品のチラシも一緒に届

け注文があれば配達した。私は折角、毎朝牛乳を届けるならパン

屋と話しをして、出来立ての食パンを牛乳と一緒に宅配すれば、

深夜に売れ残りのパンをコンビニで買わざるを得ない人は注文し

てくれるのではないか、と言ったが、社長は親会社に気を使って

か、それとも業者の営業を受けるだけで満足なのか、面白いとは

言ってくれても進んで動こうとはしなかった。私は宅配という仕

事に、たとえば新聞配達でも、ただ新聞とチラシの宅配だけで、

販売店が宅配というビジネスチャンスに気付いてい無いことが信

じられなかった。何故なら、彼等は昼間でも読者拡張だ集金だと

配達区域を何度も無為に彷徨(うろ)ついているからだ。しかし

、知恵を出せば郵便配達の仕事を請け負うことだって出来る程の

販売店網が全国に張り巡らされているのだ。もちろん、そんなこ

とを新聞社が許す訳が無いが、しかし、既に新聞社は新聞はネッ

トに取って代わられることを承知している。私はホームレスにな

ってすぐに新聞販売店に住み込みで働いた。ノルマを課された読

者の拡張営業に訪れた家で何度も「チャットで見ますから要りま

せん」と断られて、いずれ販売店は無くなるだろうと思った、否

、環境問題から新聞紙そのものが無くなる日が来るに違いないと

思った。その下請けの会社が親会社の命ずる儘では、やがてぬる

ま湯が仇となって熱湯になり終わりを迎える日がやって来るに違

いない。私は、拡張員に脅されて仕方なく契約した客の、集金出

来ない新聞代を被らされる事が納得がいかなくて、またホームレ

スに戻ってしまった。

 たとえば漁業でも燃料の高騰で赤字が判っていて、なぜ漁に出

るのかが解らない。さらに生産者が買い手の言い値でものを売る

など有り得ない筈なのにそうなっている。何故彼等は連帯して生

活を賭けた抗議をしないのか?それこそ日本中の河岸から何ヶ月

も魚が無くなるまで闘うべきだろう?いったい組合は誰の為にあ

るのだ!トラックの組合は何故連帯して値上げのストライキをし

ないんだ?シワ寄せは一個のドライバーに過酷な労働を強いて、

我が身は朽ちるとも愛する家族には凌ぎに足る保険を残さんと、

さながら特攻隊のような命がけの任務に委ねられている。いった

い労働組合は何の為にあるのだ!たとえ物流が滞って生活に支障

がきたしても、メタボに悩む国民が忽ち飢え死にすることもある

まい。社会の秩序を守らんと自らを犠牲にしてまで耐えても改善

はされない。この国は何時も弱い者が我慢を強いられて、セレブ

達はウォーキング・プア達から搾り取った汗を高級クラブで酒に

換え、銀座の便器に垂れ流す。

 このまま不遇を強いられた人々が耐え難きを耐えて、埋まらぬ

格差に苛立って我慢の限界を超えた時、後戻りの出来ない事態に

為ることこそ危惧であって欲しいが。我々力の無い者たちは労働

の正当な報酬と権利を声に出して主張するべきではないのか。黙

って従っていれば都合の良い女の様に弄ばれて棄てられるだけだ

。もはや我々が奴隷であることは明白なんだから。

 話しは大分逸れてしまったが、もし産業のパラダイムが変わっ

たのだとしたら、下請けや孫請けで安穏と落ちてくるエサを待っ

ていても、やがて池の水そのものが抜かれてしまうのだ。しかし

、それは細る営みに苦しむ人々が、今こそ「草莽の決起」を試み

る千載一遇のチャンスではないのだろうか?って社長に言いたか

ったけど、まあ、今日は言わないでいてやろう。

                   
                                  (つづく)

(四十三)

2012-07-11 17:02:17 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(四十一
                   (四十三)



 午後から駅前で絵を売った、が、全く売れなかった。水墨で描

かれた東京の高層ビル街の景色に、一瞥した人は必ず立ち止まる

ほどの関心を示してくれたが、買う、買わないの判定の玉は、き

まって私の前で弾かれてハズレの方へいった。中には興味を持

って話し掛けて来る人も居たが、大抵は、日本人独特の敬遠の

仕方で、とは言っても外国人がどうするのか知らないが、決まっ

て興味よりも訝しさが勝って、ついには無関心を装って通り過ぎ

た。バロックは「サクラに為ってやろうか」と言ってくれたが、音楽

とは違って、何時までも一人の客が前に佇んで居るのもおかしい

ので、「そのうち頼むかもしれん」と言って意地を張った。

 高層ビルは描き馴れると訳なく描けたが、水墨で陰影をつける

のに苦労した。窓を際立たせたかったのでマスキング(隠す)を

するのに時間が掛かった。最後に東京タワーだけ赤く色を付けた

。完成した絵はクリアホルダーに入れて一枚千円で陳列した。画

架などの商売道具は全てバロックの部屋に置いていたので、私は

部屋を出るとまず自転車でバロックの部屋へ行き、2回に別けて

それを運んだ。バロックの部屋から駅までは、商店街を抜けて直

ぐだったが、その商店街を幹にしてサッチャンの学校が左右両側

に校舎の増築を繰り返していて、学校の繁栄ぶりが窺えた。そし

て商店街は校舎を行き交う学生達で溢れ、その学生を当て込んだ

飲食店が、店の中が見えなくなるまで玄関前に派手なポップを張

り付けて、通りに漂うジャンクフードの脂っこい匂いと共に、学

生の旺盛な食欲を刺激した。ある店では席が空くのを並んで待っ

ていたが、私は並んでまでして食べたいと思ったことが無かった

。大概、並んでいる中に空腹が増し退屈から期待が高まり、いざ

席に着いた時には、何を出されても美味く思えるのだ。美食を求

めて整然と列んでいる人達を見ていると、餓えを満たす為に配給

に列ぶ最貧国の姿と重なり合う。もう世界の人口は65億を超え

たのかどうか判らないが、人間が幾ら平和や秩序を守る為に様々

なルールを決めても、この地球で暮らす人の定数を何人までと決

め無い限り、世界の混乱は無くならないのではないか。人間の増

加は地球環境を悪化させ、そのことが世界の秩序を崩壊させる。

地球環境の問題を語る人が、人口問題を口にしないことがおかし

い。環境問題の諸悪の根源は人口増加だ。世界の平和が人口を増

加させ、人口の増加が環境を破壊して、豊かな環境を争って戦争

が起こり、殺戮によって人口が減り、「ああ何だ、戦争すればよ

かったんだ!」って、笑い話みたいな事に為らないといいが。もし

人間も地球環境の生態系の中に在るとすれば、人間が戦争を起こ

すことで人口抑制になり、そのことが地球環境を破壊から守る大き

なファクターだとすればどうすればいいのだろう。満席の店内に、

尚入って来る人を拒まずに、溢れかえった店内で最早落ち着いて料

理を楽しむことなど無理だ。いずれ国家は国民の定数を決め出生を

管理して、それぞれの経済力に応じて許可を与える時代が来るかも

しれない。そうでもしない限り社会の秩序は、一番肝心な所が無秩

序に開いたままじゃないか。仮にそうなっても、私には許可が認め

られないだろうが。

 商店街には、街灯に付けられたスピーカーからエンドレスで音

楽が流されていた。普段は気にすることも無く通り過ぎていたが

、今日は違った。馴染みのあるサッチャンの歌声が流れていた。

いよいよサッチャンがデビューしたんだ。

                                (つづく)

(四十四)

2012-07-11 17:00:48 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(四十一
                      (四十四)
 
 
 
 「一週間も聴かされたら飽きてくるね。」
 
「大丈夫や、二週間目からは馴れてくるよって。」
 
彼女のCDがどれ程の売り上げを記録しているのか知らないが、
 
学校の周りでは耳にしない日が無いほど、息を吸えば空気と一
 
緒に彼女の歌が身体の中に入ってきた。私はバロックに聞いた、
 
「馴れてくるって?」
 
「気にならんように為る。」
 
「それも可哀想だよね。」
 
事実、彼女の歌が流れていても、それに気付かずに商店街を通り
 
過ぎることが多くなった。
 
「人には許容できる量ちゅうもんがあるんや、それを超えたら、
 
ただウザいだけや。」
 
「それって絵画と同じかもしれんね?」
 
「そうっ、あれや、一瞥主義!」
 
「はいはい。でも、一週間は短いよね。」
 
「大丈夫や、またすぐに忘れてくれるから。」
 
「やっぱり良いって為るのかな?」
 
「ああ、良いもんはな。たとえばコンサートで散々聴き飽きた曲
 
でも皆なと一緒ならノレるやん。あれって音楽云々よりも聴く者
 
の状況の変化が聴き飽きたことを忘れさせるんや。」
 
「ライブってそうかもしれん。」
 
「だいたいやな、人間には自分の感動を人に伝えたいという共感
 
の欲求があるもんなんや。音楽なんか共感から生まれたんやから
 
。」
 
「それじゃあ、音楽は貧富の格差を超えて共感することができる
 
のかな?」
 
「出来ると思う。」
 
「たとえば?」
 
「・・・。」
 
彼はしばらく考えていたが思い浮かばなかった。
 
「バロックって一番好きな曲って何?」
 
「シューベルト。」
 
「えっ!シューベルト!」
 
てっきり70年代のミュージシャンが出てくると思っていたの
 
でびっくりした。
 
「死んでから見つかった曲があるんや。」
 
「クラッシック?」
 
「うん、彼は才能は認められていたけど、音楽家としては恵
 
まれないで病気で早よう死んだんや。ただ最後は、命懸け
 
でシンフォニーを創ったけれど、それは彼が生きてるうちに
 
聴くことが出来けへんかったんや。その無念さを思うと、」
 
彼は、すこし間を措いてまた話し始めた、
 
「作曲家が自分の創った曲を聴くことが出来ないで死ぬこ
 
とほど、悔しいことは・・・」
 
急に、バロックは話すのを止めた。彼は泣いていた、目から涙が
 
溢れていた。私は驚いたが、彼自身も込み上げてくる感情に不意
 
を突かれたのだろう。しばらく感情が静まるまで何も言えなかっ
 
た。
 
「ごめん、俺、シューベルトのことを考えると可哀想で、泣けて
 
くるんや。」
 
私は何も言えず、ただ彼の知らなかった純真さに驚いた。
 
                               (つづく)

(四十五)

2012-07-11 16:59:40 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(四十一
                 (四十五)



サッチャンのデビュー曲「愛はエコロジー」(誰だっ!笑った奴は)

は予想以上の売れ行きで、というのは端からそんなに売れる訳が

無いと、予想そのものが緩かった。「愛はエコロジー」は彼女の為

に創られた曲ではなく、今は売れているシンガーが「ダサい」と言

って投げ出した曲を、彼女にアレンジを換えて宛てがったのだ。と

ころが、確かに「ダサ」かった、それは歯の浮くような言葉や使い

古されたフレーズに、お尻を持ち上げられる感じがした、が彼女の

透き通る高い声は、聴いた人がそのことを忘れてしまうほど新鮮

だった。つまり、彼女の御蔭で「売れた」とまでは言えなかったが

、見積もりを超えたことは確かだった。そう為ると先見に聡い音楽

関係者は、今度はスタッフを代えて彼女の高音が生える曲をヒット

メーカーに依頼して本腰を入れだした。そしてデビュー曲からひと

月も経たずに二曲目の「エコロジーラブ」(また笑っただろ?)をリ

リースした。なんでも「二人の愛はエコロジー、あなたの他には何

もいらない」ってサビだった。(いいよ笑っても)そして彼女の「エコロ

ジー」路線は確定した。「彼女の透き通る高音はエコロジーを連想

させる。」と表書きには書かれてある。

 私はそんなことを知らずに、バロックが好きだと言ったシュー

ベルトのシンフォニー「ザ・グレート」を聴きながら、テレビの

環境情報番組の画面を見ていたら、そのエンディングに突然彼女

に良く似た女性シンガーの映像が流れてテーマ曲を歌っていた。

やっぱりサッチャンだ。以前あれほど「自然な髪」に拘ってスプ

レーで固めていたサッチャンが、今度は本当に自然のままの髪を

、不自然な風になびかせて気にもせず、しかも素ッピンのままシ

ンプルな服装で、正に彼女は「エコロジーガール」(これもジャ

ケットに書いてあった)に成りきっていた。私はその真逆のイメ

ージチェンジにびっくりして、急いでバロックにメールをしたら


「知ってる。」

「えっ、知ってるの?」

「うん、誰にも言わんとってくれって。デビュー曲が応えたみた

い。」

私は、バロックの私に対する距離が、自分の思いと隔たりがある

ことを知って少し戸惑ったが、彼女は二曲目の「エコロジーラブ

」のヒットに懸命のようだ。私は彼女のヘソのピアスがその後ど

うなったのか気になったが、バロックは、

「デビュー曲よりは今度の方が曲がいい。」

そう言ってから、

「この前、音楽は貧富の格差を越えて共感できるって言ったけど

、たとえ共感できても、また日常に戻ればそんなこと忘れちゃう

んだよね、人間は。」

「わかる。」

 サッチャンの二曲目は何が変わったのか知らないが、商店街の

スピーカーからシャワーの様に降り注ぐことは無かった。しかし

、定食屋の前には相変わらず行列が出来ていた。

 東京で生活をしていると時々人の多さにイラツクことがある。

出先で急に「もよおし」て、開店直後のデパートの上の階なら、

客の姿も疎らで気兼ねなく用を足せるだろうと思って、エレベー

ターに飛び乗って、思い通りの閑散とした広い「催し物」フロア

を抜けて、案内を辿って目指すトイレに駆け込んで、耐え難きを

耐えた「もよおし」を思う存分「開催」できると思いきや、何故

か居る筈の無い人がすぐに隣の空室に入る音が聞こえ、広く閑散

としたフロアの片隅の狭い個室に隣同士で、互いに気兼ねして排

泄することなって、「なにもココに来なくてもいいだろう!」と

、思わず言いたくなる時があるが、東京で人を気にせずに暮らす

事はできない。とは言っても、人への思い遣りを気に掛けていた

らとてもキリが無い。こうして我々の思い遣りは、時には冷淡に

あしらったり、また余計なお世話を焼いたりと、思い遣りひとつ

も思い通りにならない。これは、余りにも多くの人が屋上屋を重

さねて暮らしているからに違いない。人間のヒューマニズムとは

、人口が65億の時と1億の時と自ずから違って来るのではない

か。我々のどこかに、もうこれ以上増えないでいて欲しいと願う

気持ちが在るのではないか?特に東京で暮らす者にとっては、

電車に乗っても、車で走っても何時も行き手を塞ぐは他人だ。

そんな社会に情けが生まれる余地など在る訳が無い。つまり

、東京に暮らす者が元より薄情な訳では無くて、情けを隠さな

ければとても生きていけない街なんだ。

                              (つづく)