「無題」 (九)―⑧

2012-07-28 17:27:39 | 小説「無題」 (六) ― (十)



           「無題」

            
            (九)―⑧


「お父さん、車出してっ!早くっ!」

美咲の叫びは嗚咽を伴って、彼女が受けたショックがどれ程辛いも

のだったか痛いほど伝わってきた。驚いた私はアクセルを強く踏み

過ぎたために車が前方へ飛び出して、慌ててハンドルを切ったが危

うく妻の「前の亭主」の車に接触しそうになりながら駐車場を後に

した。妻の「前の亭主」は、「コラーッ!」と怒鳴って私たちの車

が見えなくなるまで睨んでいた。

 しばらく車内は静まり返り、時折顔を伏せた美咲の咳きだけが響

いた。妻は、居た堪れなくなってカーラジオのスイッチを入れた。

DJがリスナーから届いたサマーバカンスのメールを早口で読み上

げて、リクエスト曲のサザンオールスターズの「真夏の果実」をか

けた。己然は車内の空気を読んでか寝たふりをしていたが、いつの

間にか本当に寝てしまった。切ない曲が沈んだ車内に溶け込んだ。

 それぞれがそれぞれの殻に閉じこもって、たぶん、自分はどうあ

るべきかを考えていた。家族は四人だったがイスは三人分しかなか

った。妻と己然が座ればイスはあと一つしか残っていなかった。そ

のイスを巡って私と美咲は譲り合っていた。

 十国峠で予定していた昼食をとる頃には、美咲の感情の昂りも消

えて落ち着きを取り戻していた。その後、予定通りケーブルカーに

乗って頂上に着くと、遠く太平洋を見下ろす山頂からの絶景が下界

の煩わしさを忘れさせた。その海風に追われた高原の涼風が遮るも

ののない頂きを勢いよく通り過ぎた。己然と美咲はまるで飛び立と

うとする若鳥のように両手を大きく広げて今にも舞い上がらんばか

りに羽ばたかせた。己然と妻が展望台のトイレに行った時に、私と

美咲は富士山を眺めながら少し話をした。

「お前は父親に見捨てられたと思っているかもしれないけど、それ

は間違いだったと思う時がきっとくる。それは、己然が生まれてお

父さんもよく分ったんだが、お前のパパはお前のことを忘れること

なんて絶対できないさ。いつもお前のことばかり考えているはずさ」

美咲は黙っていた。

「それに、お前はどう思っているのか知らないが、お前はお父さん

にとっても大切な子どもなんだ。なのに父親がいないなんて思うな。

お前のことを心から心配している父親が二人もいるんだから」

「お父さん、ありがとう」

すると、トイレから戻ってきた己然が、

「何て、何て、お父さん、キサにも、何て言ったのか教えて」


                         (つづく)


「無題」 (九)―⑨

2012-07-22 14:02:22 | 小説「無題」 (六) ― (十)



           「無題」


            (九)―⑨


 十国峠からは妻が運転を代わってくれた。彼女の運転で車はその

まま伊豆スカイラインを走った。かつて、海岸線の道路を走ったこ

とがあったが、信じられないくらい有料道路の関所があって通行料

をぼったくられて、これからはたとえ裏街道がどれほど遠回りであ

っても、二度とこの道は通らないぞと心に決めた。そして、他のル

ートを探していたら、ま、こっちも有料だけれども、一度だけなら

走ってみようと思った。大体、静岡県は有料道路が多すぎる、と思

っていたら、ついに第二東名まで造ってしまった。さながら幕藩体

制の時代に後戻りしたかのように関所だらけじゃねえか。静岡藩は

道路以外何もない。つまり、ただ通り過ぎるためだけにある藩なの

だ。助手席にふんぞり返って、ある事ない事を運転している妻に語

りかけたが、妻は、返事もせずに運転に集中していた。


                                             (つづく)


「無題」 (十)

2012-07-20 15:39:17 | 小説「無題」 (六) ― (十)


                     「無題」


                      (十)


 チョイ悪親父が手配してくれたペンションに着いた時はすでに海

上には帷(とばり)が降りて、早くも数多の星々が出番を待ちきれず

に煌めきを競い始めていた。宿は海岸からは少し山を登ったところ

にあった。視線を足元から遠くへ遣ると、眼下には賑わう温泉街の

街灯りが夜空を紅く染め、その先には漆黒の海原に小さな漁火を灯

した船があちこちに頼りなく漂い、波頭がそれを反射して煌めき、

遥か遠くの水平線と宇宙の果てが暗黒の中で混然一体となって、更

にその上に目を遣ると、空には何百万年前に生まれた光の粒子が

闇の彼方を越えて私たち家族と今ここでめぐり逢った。ペンション

の玄関を潜るとチョイ悪親父が私たちを待っていてくれた。彼は、

うちで用意できなくて申し訳ないと頭を下げたが、むしろ、謝らな

ければならないのは、突然無理を頼んだ私たちの方だと言って手

を差し出すと、彼はその手を固く握り返した。それから、と、私が

切り出すと、私が何を言い出すのか彼は察して、もう、挨拶はこれ

くらいで、ほら、子どもたちも疲れているみたいですから、と、実際、

彼女たちはついさっきまで車の中で電池の切れた人形のようにな

って眠っていた。「あっ!」と、私は妻の弘子とそして子どもたちを

紹介した。すると、チョイ悪親父はペンションのオーナー夫婦を紹

介してくれた。彼らはまだ若かったが東京からペンションを営むた

めに最近ここへ移ってきたばかりだった。私は、箱根で買い求め

た土産を差し出して頭を下げた。チョイ悪親父は、親しくしている

オーナーだから何も遠慮しなくていいですよ、と教えてくれた。そ

のオーナーが、

「それじゃあ、お部屋へご案内します」

と言うと、奥さんが先に立って誘導してくれた。チョイ悪親父は、

「じゃあ、また明日迎え来ますので」

と言って、玄関を後にした。彼のペンションは海水浴場の近くにあ

ったので、海水浴の時は彼のペンションを利用することになってい

た。

 私たちは、風呂から上がって、早速、オーナーの拵えた海の幸の

料理を鱈腹いただいて、部屋に戻ってベットに横になると忽ち電池

が切れた。

                                  (つづく)


「無題」 (十)―②

2012-07-17 05:48:32 | 小説「無題」 (六) ― (十)



         「無題」


          (十)―②


「朝食の用意が出来ていますので、いつでもどうぞ」

という、オーナーの奥さんの電話で目が覚めた。ベットに仰向けに

なったまま天井のシーリングファンを眺めながらしばらく身体を動

かすことができなかった。昨夜は気が付かなかったが建物全体がま

だ新しかった。内壁は白で統一されていたが、絨毯とカーテン、そ

れにベットカバーは同じ淡色のグリーンでその色彩が鮮やかに引き

立っていた。先に立ち上がった妻がその緑のカーテンを引いた。そ

して、

「あなた、見てっ!ほらっ、早く起きて」

と、振り返って叫んだ。私は、まだスイッチが入らなかったが、惰

性で起き出して妻の居る窓の側に寄ると、一面に朝日を浴びて銀色

に輝く大海原と、その水平線から立ち昇る力こぶのような白雲、そ

の雲間からようよう顔を覗かせた太陽が、撮影で使うクロマキーの

ブルーバックのような青空を背景にして斜めからの光で壮大な立体

感を映し出していた。二人でしばらくその鮮やかな景色を眺めてい

ると切れた電源が充電されていくのがわかった。妻は隣の部屋に居

る子どもたちをコネクトドアを通って起こしに行った。しばらくす

ると子どもたちの騒がしい声が聴こえてきた。

 慌しく支度を整えて階下のダイニングルームへ降りた。壁の時計

を見るとすでに九時を回っていた。四角い部屋の真ん中にはバイキ

ングスタイルの惣菜が並べられ、それを取り囲むように四辺にテー

ブルが十卓余り配置され、それぞれが好きなものを選べるようにな

っていた。私たち以外の宿泊客は、そのほとんどは子供連れで、す

でに事を済まして片付けられたテーブルで寛いでいた。私たちが入

っていくと、誰からともなく「おはようございます」と声を掛けて

くれた。アルバイトなのか高校生らしき女の子が「竹内様」と書か

れたテーブルに案内してくれた。そして、ひと通り説明してくれた

後に、

「こちらの方はまだ充分時間がありますので、どうぞごゆっくりお

召し上がり下さい」

と、やさしい気遣いのことばをかけてくれた。食事が終わって部屋

に戻ろうとすると、チョイ悪親父の息子だと名乗る青年がフロント

で私たちを待っていた。美咲よりも少し年上かもしれない。なるほ

どチョイ悪風のお父さんに似てイケメンだった。さらに、褐色に日

焼けした顔は精悍だった。そして、何よりも下肢を支える腰とその

上に乗った鍛えられた上半身のバランスがよく立ち姿が整っていた。

彼は、深々と頭を下げてから、

「おはようございます」

私はそれに応えた。彼は、自分の紹介をしてから、

「用意ができましたらいつでも浜までお送りしますので」

と言った。私は、

「ちょっと待ってて下さい。すぐに用意して降りてきますから」

そう言って、みんなを急かして部屋に上げた。それまでは、海には

行きたくないと言っていた美咲は、恐らく、手首の傷跡がまだ目立

つからだと思うが、用意してきたリストバンドで隠して、その上に

日焼け防止用のアームカバーで覆ってちゃっかり身支度を整えて、

己然には、

「待たせているんだから早く着替えなさい」

と追い立てて、何か、急に元気を取り戻した。


                              (つづく)


「無題」 (十)―③

2012-07-15 12:01:08 | 小説「無題」 (六) ― (十)


            「無題」


             (十)―③


 私は、車があるのでそれで行ってもいいかと訊くと、息子は、そ

の方が自由に動ける、と言うので彼の車の後を着いて行くことにし

た。チョイ悪親父のペンションは海岸と並行して走る少し高台の道

路沿いにあった。その息子は、父親のペンションの一部を増改築し

てスキュバーダイビングの現地サービスを行なっていた。従って、

チョイ悪親父のペンションの宿泊客のほとんどはスキューバダイビ

ングをするために泊まっている客のようだった。息子だけでなくそ

の他にも数人のスタッフがいて、辺りにはウエットスーツが並べて

干してあったり、酸素ボンベなどが無造作に置かれていた。彼がピ

ックアップした満員の客を乗せたワゴン車の後を追って、つまり、

我々はずーっと彼らを車の中で待たせていたのだ、道路と浜辺の間

にある教えられた駐車場に車を止めた。そこにはすでに多くの厳つ

いRV車が止まっていた。私は、チョイ悪親父に、否、もうそう呼

ぶのは止めよう、木下さんに挨拶をしてから、家族揃って海水浴場

への坂道を駆け下りた。すでに浜辺では、多くの親子連れの客が焼

け付く陽射しの下で甲高い声を上げていた。それに誘われて己然も

浮き輪を胴に撒きつけて、母の制止も聴かずに、「キャーッ!」と

叫びながら勢いよく浜辺へと駆けて行った。


                          (つづく)