「(菅)話放題」⑬

2010-09-29 01:58:51 | 「(菅)話放題」
           「(菅)話放題」⑬

 石原東京都知事は「中国のやり方は暴力団と同じ」と言ったそうだ

が、それは逆で「暴力団のやり方が中国と同じ」なのだ。そもそも仁

侠道は支那から持ち込まれた「漢心」で「やまとごころ」にはなかっ

た。「道」というのは極めれば狭義に至りその厳粛主義(リゴリズム)

によって身分秩序を劃した。部下は過ちを犯すと簡単に誅戮(ちゅう

りく)されてしまい階級社会の下では人権などという考えは終ぞ生れ

ず封建(儒教)道徳は近代化を遅れさせてしまった。

 現在の中国はその権力が共産党指導者に集権した独裁国家である。

国民は政治に参加することはもとより批判することも許されない。反

政府主義者は忽ち粛清される。一方、海を隔てた日本では主権は国民

に在ると謂う。政治家とはただその主権者の代表に過ぎない民主主義

の国だと聞く。そこでは毎年何処かで選挙が行われ議員や首長、首相

までが民意によって選ばれる。それが中国共産党指導者にとって如何

にプレッシャーであるかは我々には想像が及ばないかもしれない。と

は言ってもこれまでは日本も自民党一党支配による長期政権で中国共

産党とはそれ程変らなかった。民主主義といっても政治はやはり権力

者が行っているではないか。ところが、今回初めて政権交代が起こっ

て中国国民は権力者が民衆の力で変えられることを羨ましく思ったに

違いない。それは同時に中国共産党にとって有り難くない出来事だっ

ただろう。ただ、民主党といっても小沢、鳩山なら世襲を引き継いだ

元自民党出身の政治家だが、菅直人とは権力批判によって国民の支持

を集めた政治家である。その菅政権によって日本の政治がさらに民主

化されることに危惧を念を抱いている。つまり、中国は菅政権を短期

に終わらせようとして更に政治圧力を強めてくるだろう。菅政権の安

定は中国国民の民主化要求を目覚めさせるからだ。確かに菅総理は昼

行灯のようで頼りないかもしれない。しかし、これまでの世襲総理は

一体何をしたというのか?国民はこれまでの政治を変えなければなら

ないと動いたのだ。もう少し経てば日も落ちて、行灯が役に立つ時が

くるかもしれないではないか。

                                   (菅)⑬


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「(菅)話放題」⑫

2010-09-27 16:23:24 | 「(菅)話放題」
            「(菅)話放題」⑫


 尖閣諸島を巡る日中間の領有権問題について、「那覇地検」が中国

人船長を処分保留のまま釈放するとの速報が流されて、私は、勝れて

政治的な問題が、表向きであるにせよ、一地方検察庁の判断で行われ

たことに憤りを覚えて直ぐにパソコンの前に向かってブログに打ち込

もうとしたが、ただ解せないのは、こんなことは社会科の授業で政治

を習う中学生でも職務権限の逸脱だと理解できることで、たとえ民主

党政権に実績がなかったとしてもこれまで野党として前政権を批判し

てその政治能力は国民に支持されたのだ。その程度のことは卑しくも

政治家であれば、否、政治家でなくとも、国民から非難されることは

解かっていた筈ではないか。実はもっと裏があるのではないかと憤り

を収めて色々勘繰ってみた。仮に、菅政権が中国の政治圧力に混乱し

たとしても、世間で謂われているように、政治判断を誤ったとは到底

思えなかった、態と政治判断を避けたのである。もし、検察に責任を

預けて政治判断を避けようとしたのであれば何をか謂わんや、早々に

民主党政権は崩壊するだろう。

 ただ、領土問題は拗(こじ)れると二国間の紛争にまで至る微妙な

問題である。日本も中国もそれだけは避けなければならない。今日、

仙石官房長官は「日本側は船長を釈放したのでボールは中国側にある」

らしき発言をした。この発言もよく理解出来ないが、つまり尖閣諸島

を巡る日中間の領有権争いは、先の日中平和友好条約(1978年)に

基づいて双方が棚上げすることに合意して政治問題化することを避け

てきたのだ。日本はそれに従って一漁民(これが曲者)の領海侵犯問題

を政治問題として扱わなかった。さて中国政府は日中条約を犯して島

の領有権を政治問題として棚下ろしするつもりですか?つまり、日本

側が弱腰外交と謂われる事を承知しながらも政治判断を避けた背景に

は、マスメディアは決して伝えないけれども、飽くまでも日中「平和

友好」条約を遵守しなければならなかった為ではないだろうか。そう

思って観ると多少は政府の対応が理解できるのではないだろうか。つ

まり中国側に、尖閣諸島の領土問題を政治問題にしたのは日本の方で

あるという口実を与えない為なのだ。 たとえば、日本政府が中国人

船長を起訴して有罪が確定すれば、尖閣諸島は日本の法律が及ぶ日本

の領土であると宣言したことになって、中国側にすれば日中条約で棚

上げされた問題が現実の政治問題化して、それは日本政府によってな

されたと訴えることだろう。そして日中条約を犯したのは日本政府の

方であると非難するに違いない。 

 日本政府は、日中条約に沿う限り中国政府はこれ以上尖閣諸島の領

有権を政治問題のすることはないだろうと踏んでいる。もし、中国側

が強権発動して尖閣諸島を実効支配するようなことがあれば、忽ち国

際条約違反で二国間の紛争問題になり、日本は同盟関係にあるアメリ

カに軍事援助を仰ぐことになる。そうなれば米中間の紛争に発展する

可能性すらある。恐らく中国もそれは望まないだろう。そして、その

ボールはいま中国側にある。

 平和外交とは強権的な相手の態度から捉えれば弱腰外交に映るかも

しれないが、ただ体面ばかり気にしていては思わぬ罠に落ちることだ

ってある。だって我が国は武力を背景にした強権外交など出来ないん

だから。                   

                            (菅)⑫


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「あほリズム」(60)~(63)

2010-09-21 20:39:36 | アフォリズム(箴言)ではありません
          「あほリズム」


             (60)


 「生きる意義など無い」という認識にこそ逆説的ではあるが大きな

意味が在るのではないだろうか。

つまり、「生きる意義など無い」から生きる意味があるのだ。




             (62)


 例えば、絶対者が現れて我々に生きる意義をお与え下されたとした

ら、果たして人間はその道を疑わずに生きるだろうか。つまり、我々

は「生きる意味など無い」から生きる意味を求めているに過ぎない。


             (63)


 大地は人間の社会が生まれる以前から存在した。領土や或は国境

などという概念は近代になってから国家主義の発生によって齎され

たものだ。従って「国家固有の領土」などというのは実は存在しな

い。それ以前の領土というのは曖昧で都市から外れた辺境のことな

どどうでもよかった。人口が増え交通が発達し国家が成立して領土

が定められた。そして領土を巡る争いはその結果によって決められ

た。もし仮に中国が「日本列島はかつて中国固有の領土であった」

と宣言して武力侵略してきたとしても、軍事力に劣る我が国は為す

術なく、ただアメリカに縋るしかない。しかし、かつて中国が欧米

列強の植民化から守ってくれる友好国として日本に頼った結果、反

対に支配されてしまった恨みから日本侵略を企てたとしても、世界

は経済成長する中国の言い分に理解を示すことだってあるかもしれ

ない。つまり国家主義に於いて、領土というのは戦争の結果によっ

て定められてきた。アメリカを始め英国領の植民地、或は近年では

イスラエルもそうやって建国されたことを忘れてはならない。

 ただ、グローバル経済の下では国家の枠はすでにその意義を失う

だろう。我々は国家を超えたポスト近代の枠組みを模索しなければ

ならない。


               (64)


 世界は無意味だ!故に存在することに意味が在る。

我々は「無」に内包されて存在しているのではなく、「無」と対峙

しているから存在している。

つまり、「存在」とは「無」への抗いである。


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 「あほリズム」49~57

2010-09-08 05:17:31 | アフォリズム(箴言)ではありません
           「あほリズム」


             (49)


 我々が「思想」と言ってるそのほとんどは「生い立ち」から得た

観念に過ぎない。

つまり、我々は「思想」を語っているつもりで、実は自分の「生

い立ち」を語っているのだ。



             (50)

 この国ではまず人間である前に社会人でなければならない。

つまり、いくら人間の心に語っても社会人の胸には響かない。


                      
              (51)


 我々の対立の主なものは、例えば何を食べるかといったテーマのよ

うなものでなく、同じものを食べていてもその味付けに対する「好み」の

相違から生まれる。

 そして、それぞれの「好み」は「生い立ち」から生まれる。

           (52)


 我々は古い言葉で未来を語っている。

 だから、何時まで経っても新しいものが見つからない。


              (53)

 生きることとは、世界の果てまで探し訪ねて「生きる意味など無い」

という結論を得ても、「それじゃあ、生きるのを止めよう」とはなら

ない論理の外の現象である、今のところ。


          
              (54)

 ただ虚しく生きていても、

「明日になれば世界が変わるかもしれない」

或は、

「何時か何か契機が見つかるかもしれない」

と、たとえ無為であっても、生きていれば未来へ投企されている。

 つまり、肝心なのはその認識を見失わないことだ。

  
               (55)

 言い古された言葉は迷わずに語られるが、ただ迷わず語ってい

るだけに過ぎない。

 つまり、新しいことは何一つ語られていない。



              (56)


 最近なるほどと感心したのは、ネット上でだと思ったが、日本人

が中国人の模倣を非難すると、彼等が、

「お前達の漢字だってパクリじゃねーか!」って。

中国では漢字表記の日本の地名が商標登録されて我が国で問題にな

っているが、その裏には彼等のそんな思いがあるのかもしれない。

彼等は決して「NewYork」や「Chicago」は扱わない。

「そもそも漢字はおれ達の国の言葉だ」

もちろん公共の言語はその所有を認められないのは常識であるが、

さて、我々はそれをどう説明できるか?母国語を広めようとする国

は数多あれど、勝手に使うなという国は珍しい。もう漢字は鬱陶し

いのでひらがなとカタカナ表記の英語にしちゃうか。「ルー語」みた

いに「チェンジ」しちゃおうか。


         

             (56)

 先に中国のことを書いたが、彼等は「NewYork」や「Chi

cago」などと言わずとも、「東京」や「京都」さえ登録しようと

はしない。何故かと言えばそれらは世界に知られた都市であるからだ。

つまり、彼等はいくら自らの正当性を主張しても、世界からの批判は

受けたくないのだ。そこで知られていない地方を狙う。それは、土地

購入に於いて地方が狙われているのと同じことだ。中国兵法にそんな

記述がされているのかどうか知らないが、力のない弱い地方が狙われ

ている。ただ、法律は相手との相互主義が原則でなければならない。

果たして、中国の法律は日本の個人が中国の土地を勝手に売買するこ

とを認めているのだろうか?我々は法律を相手国との相互主義の原則

に改めるべきだ。つまり、相手国が日本で許されることは、また我々

も相手国で許されなければならない。


           
            (57)

 13億人を越える人々が蠢く中国は国内を安定させる為には覇権主

義に向かわざるを得ない。国際社会の論理よりも国内の論理が優先

される。遅れてきた近代帝国主義国家である。ただ、13億人が近代的

な生活を享受するには余りにも地球は小さすぎる。やがて、覇権主義は

世界との対立が避けられなくなる。その時、日本は、アジア全体主義に

呑み込まれているのか、それとも民主主義世界の一員として世界最終

戦争を・・・。

 否、あまり物騒なことを載せるのは止めよう。 


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「(菅)話放題」⑪

2010-09-03 17:16:20 | 「(菅)話放題」
          「(菅)話放題」⑪


 経済のグローバル化の次に待っているのは、民族主義者の方々は聴

くに耐えないでしょうが、恐らく民族混淆(こんこう)のグローバル化

が避けられないのではないだろうか。いくら日本は島国だからといっ

ても片道4千円の航空運賃で行ける隣の国には10億を越える人間が

犇(ひしめ)いている。(因みに、東京から4千円の鉄道運賃では浜松に

も行けない) 更に我が国は世界の人々が羨むほど治安の良い憬れの先

進国である。もちろん様々な軋轢を生むだろうが、経済だけがグロー

バル化して取引が済めばあっさり自国に引き返すとは思えない。何れ

住み着く者も交流に比して増えるに違いない。中国の経済破綻後と思

っていたが、実はもう既に元に戻ることが困難なほど多数の「外人」

が帰化しているのかもしれない。こんなことを載せながら日本への帰

化人口の推移がどの程度であるのか全く知らないし調べるのも大儀な

ので、ボヤーッと思ったことだけを記すが、それはただ日本だけの事

ではなく既にヨーロッパでも社会問題にもなっているようです。生ま

れ育った土地の文化や習慣はたとえ異国で暮らしてもそう簡単に変え

られるものではないし、まして信仰の習慣となれば個人のアイデンテ

ィティーに関わる問題なのでおいそれとやめる訳にはいかない。しか

し、帰化した者もその国に馴染まずに暮らすことには耐えられないの

で頭を低くして障ることは厳に慎み、そうやって二世三世と代を重ね

ていくうちにその国の人情にも染まり、そのうち「外人」の愛国主義

者でも現れるようになれば、民族と国家は一つでなくなり、例えば日

本は日本民族の国だなどと言えなくなる日がくるかもしれない。ただ、

自ら訪ねて接する異文化交流ならまだしも、異文化が押し寄せて来て

交流を迫られるのは辟易する。ヴィトゲンシュタインは、「生の問題

の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく」と言ったが、「外人」

との間に起る様々な問題は何れ民族の混淆によって問題そのものが消

滅する。例えば、日本人と中国人の間に生まれた子供は果たして日中

間の対立を望むだろうか?分けても日本人は宗教に関しては極めて寛

容なので、ヨーロッパで起っているような排他的な運動が起らない。

何れの宗教も八百万の神々の一つとして受け入れられるるに違いない。

一神教の国では決定的な対立を引き起こす邪教の戒律でさえ、恐らく

この国はうまく共存することだろう。更に日本民族と言ったところで

行政上の日本国籍以外に何らかの厳格な定義がある訳ではない。例え

ばユダヤ人の定義はたとえ異民族であってもユダヤ教徒であれば足る。

 そうなると当然、やまと民族だ漢民族だ朝鮮民族だなどという民族

意識は混淆によって曖昧になって、汎アジア人という括りでグローバ

ル化すれば、恐らく今の我々が抱くような国家意識は希薄になり、そ

の時こそ東アジア共同体が現実のものとなるのではないだろうか。つ

まり、グローバル化が進めば国家間の行政上の取り決めや条約が結ば

れる前に民族混淆が進み、国家は追認するように行政上の条約を締結

する。政治というのは何時だって腰が重い。そして、国家を定義する民族

や言語や宗教や国境といったものが怪しくなってやがて消滅するに違い

ない。その時、過去を振り返って、近代化が齎した最大の功績は「国家

概念の消滅である」と言う日がくるかもしれない。

 やがて人類は地球上に人種混淆によって一種族だけになり、民族や

国家はその拠りどころを失くして消滅し対立はなくなるだろう。人々

がアイデンティティーを失うのではなく、民族や国家といった概念が

アイデンティティーを失うのだ!とは言っても宗教対立は残るのかも

しれないが。そして個人は、世界市民として自己と共同体のあたらし

い関係を再び模索しながら創り上げていくことだろう。暑さの盛夏そ

んな取り止めもないことを考えた。つまり、我々が縁(よすが)とする

民族や国家などというものは案外呆気なく変換されてしまうのだ。伝

統文化や歴史にばかり縛られていては硬直した考えしか生まれて来な

いのではないだろうか。

                                    (あつい)


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