「あほリズム」
(846)
政権の浮沈が政策ではなくオリンピックの成功とパンデミックの
終息にかかっているとは相変わらず神頼みなのだ、この国の政治は!
つまり、緊急事態宣言下にオリンピック開催を決めた時点で政治判
断は終わっているのだ。オリンピックの成否もパンデミックも、政治
家がどうこうできる問題ではない。
「あほリズム」
(846)
政権の浮沈が政策ではなくオリンピックの成功とパンデミックの
終息にかかっているとは相変わらず神頼みなのだ、この国の政治は!
つまり、緊急事態宣言下にオリンピック開催を決めた時点で政治判
断は終わっているのだ。オリンピックの成否もパンデミックも、政治
家がどうこうできる問題ではない。
「象徴天皇制と民主主義」
オリンピックの開会式で大会名誉総裁であられる天皇陛下による
開会宣言の際に、菅首相、小池都知事が起立を怠り、途中で気付い
て立ち上がったことが不敬だと物議を醸しているが、しかし、その
経緯はまさに天皇と民主主義の相容れない関係をそれこそ「象徴」
しているように思えてならない。作家三島由紀夫は「国体とは天皇
である」と断言し、当然それは民主主義とはそぐわないことを承知
して民主主義を拒絶した。敗戦後75年を経てアメリカから押し付
けられた自由と民主主義は遍く浸透したが、それに反して国体天皇
論は政治家たちの挙動からも窺えるようにすっかり影を潜めた。と
ころで、そもそもオリンピックの基本理念とは民主主義の理念にほ
かならない。つまり、厳密に言えばオリンピックの基本理念もまた
国体天皇論とは相反する。ただ、「この国は神の国である」と言い
ながらオリンピック委員会の会長をのうのうと務めていた国体天皇
論者も居たが、しかし、今回の東京2020(オリンピック)大会の
大会ビジョンは「多様性と調和」を謳い、それは現代日本社会にお
ける非民主的なジェンダーギャップ、世界経済フォーラムが発表し
た2021年度の日本のジェンダーギャップ指数は156ヶ国中1
20位、の改善がオリンピック開幕に合わせて議論されたが何一つ
決められずに終わった。男女共同参画社会の実現や性的マイノリテ
ィ(LGBT)への差別撤廃、或いは選択的夫婦別姓制度などなど、
それら男女間差別の問題は何れもその根本は一つで、つまり、万世
一系を継承する皇位は男系男子に限って世襲されるという伝統文化
の下で、断じて女系天皇を認めようとしない頑迷な伝統主義者たち
によって阻まれている。つまり枝葉をいくら切り落としても根っこ
を引っこ抜かない限り、つまり、皇室に蔓延る男尊女卑の伝統文化
を改めない限り一歩も前に進まないだろう。ただ、にもかかわらず
彼ら伝統主義者たちは天皇制とは相反する民主主義を拒もうとはし
ないので、淘汰されずに残る伝統文化と進化する近代社会のギャッ
プはますます広がるばかりだ。
「あほリズム」
(845)
コロナ禍の下でのオリンピック開催の是非を巡って意見が対立し
、緊急事態宣言が発令されたにも関わらず迫る期日を前にしてなし
崩し的に開催されると、開催派は主にマスコミをはじめとする中止
派の人々の報道のあり方が「掌返えしだ」と批判するが、しかしそ
れは民主主義の何たるかをまったく理解していない教条主義者たち
の言い分である。そもそも非常事態宣言下での開催の是非を巡る議
論と開催後の競技者の活躍を一緒くたにして語るのは無知以外の何
ものでもない。いずれにせよ、つまりなし崩しにせよ、開催された
のであれば賛否を蒸し返して非難するのは段階を踏んで進めていく
民主主義的手続きを後戻りさせる論理にほかならない。それはまさ
に反対する者は非国民だと詰るかつての翼賛思想を思い起こさせる
。もしも主張が通らなかった者は反対した事案に口を挟むなと言う
なら、つまり決定後に「掌を返すな!」と言うなら、戦争に反対し
た者は戦争になっても戦争に参加しなくてもいいことになる。
しつこく「時間は存在しない」
カルロ・ロヴェッリはわれわれの「視界の曖昧さ」をこう言います、
「わたしたちに見えているコップの中の水は、月面の宇宙飛行士に
見えていた地球のように青く静かに輝いている。月からは、植物や
動物といった地球上の生物のあふれんばかりの活動も欲も絶望も、
いっさい見えない。あちこちに斑点のある青い球が見えるだけだ。
同じように、光を反射しているコップの水のなかでも、じつは無数
の分子、地球上の生命よりはるかに多い分子が騒々しく活動してい
る。」(太字は筆者)と。つまり、われわれの生存本能に規定された
視力とは当然のことながら実用に則した手段であって、その対象物
が水の入ったコップだったとすれば、コップの中で騒々しく活動す
る無数の水の分子までも見透すことはできない、もちろんその必要
がないからだ。われわれが認識する世界と科学者が追い求める真理
には大きな隔たりがある。カルロ・ロヴェッリが観察する「騒々し
く活動する」水の一分子がやがて気化し上昇して対流圏にまで達し
てすぐに凝縮し、再び雨になって地上に落ちて来て、元のコップが
あった家のある街一帯を押し流すほどの洪水になって戻って来たと
しても、その水の一分子が辿った「時間」と、そして洪水に怯えな
がらひたすら過ぎ去ることを願う人々の「時間」とは何の繋がりも
ない。
(つづく)
「あほリズム」
(844)
われわれは時間の中で生きているのではない、
われわれ自身が時間を作ったのだ。
では、時間のない世界は存在するか?
もしかしたらそれは「禅」の世界かもしれない。