(九十六)

2012-07-11 08:46:06 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(九十六
                     (九十六)



 バロックの長いメールの続き。

 「ゆーさんは、自分の娘や同じ病気で苦しんでいる人の為に、

農薬を使わずに野菜を作るつもりでいたが、村の人々との摩擦か

ら諦めざるを得なくなったんや。借りていた田んぼに思い通りに

水が引けなく為り、更に農機具も借りられ無く為ってしまった。

そして遂には田んぼも取り上げられて元の荒地に戻った。ゆーさ

んは他所者扱いされ白い眼で見られた。彼自身も娘さんの病気に

よって世の中の見方が随分変わったらしい。彼は消費者の味覚に

媚びた近代農業に疑いを持ち、言われるままに作る下請け農家を

辞めてしまった。そもそも野菜は人に食べられる為に実を付ける

んや無い。舌先の味覚を充たす為に品種改良によって野菜本来の

力を損なわれた奇形の野菜が出回ってる。だいたい甘いトマトな

んて嘘っぽい。我々は舌先だけで味わうが、胃袋で味わうことを

忘れてしまった。食うとは克服することや、感服することや無い

。果たして食品偽装の問題は生産者だけの問題なんやろうか?

キュウリは消費者の為に真っ直ぐ育とうとはしない。『これか

らは、本来のクセのあるマズイ野菜を作る。』そう言ってゆーさん

はこの山奥に『虫食い野菜農園』を創ったんや。

 とは言うても、ここは山間地で猫の額ほどの平地しか無く、

やっと実った作物も害獣に荒らされたりして、自分達の分を除け

れば幾らも残らなかった。弥生以来何故人々が土地を奪い合って

争ったか少し納得でけた。ただ一面に広がる豊穣な大地は無かっ

たが、見渡せば樹木が茂る豊穣な山々が聳え立っていた。そこで

日当たりの良い山の斜面の杉林を伐採して下草を刈り、段々畑

ではなく、畝ごとに仕切った『階段畑』を考えた。立っているだ

けで転び落ちそうな斜面を、耕うん機で耕すのに苦労したが、伐

採せずに残しておいた頂きのクヌギの木にロープを掛けて耕うん

機をぶら下げ、耕うん機が倒れない様に補助棒を付けて、ロープ

を緩めながら上から下へ耕した。長い間に堆積した枯葉が腐った

土壌は良く肥えていた。そして今度は裾の方から、伐採した木材

を斜面に打ち込み横棒を渡して畦を作り、そこに上の土を降ろし

て埋めた。冬の間、ゆーさんと俺は毎日この階段畑を作ってたん

や。

階段畑は出来たけど何を作るかは未だ決めて無い。初めなんで収

穫の早い葉物になると思うけど。いずれは頂きに貯水槽を置いて

、川の水を水流発電機で汲み上げて、上から水を垂れ流して斜面

水田を作るのが夢や。

 ただ、斜面での作業は楽やない。転げ落ちないようにクヌギの

木に命綱を掛けて、まるでロッククライミングの様にして作業した

。それでも腰を屈(かが)めなくてもよく為って、思わぬことで苦痛

が解消された。世間ではこれからは農業だと持て囃すが、製造業

の様な成長は期待出来ない思う。例えば米は年に一度しか収穫

が出来無い。大地や、水や、光や、時間といった自然の恵みには

限りがある。否それでも、もしかしたらどうにかするかもしれん。

遺伝子を組み替えて品種改良し、温度調節された工場の無菌室

で土を使わずに栽培し、昼夜を問わず人工の光を照らして成長を

促がし、機械化された野菜工場から派遣社員によって出荷される

かもしれん。しかし、それでは自動車が野菜の製造に代っただけ

やないか。環境破壊によって社会構造の変革が避けられなくなり

、農業に期待されているが、一体農業にどんな可能性を見出して

いるんやろ?都会の閉塞感から『此処以外の何処か』に逃れても

、すでに農村は消費者を通して社会構造に組み込まれ、都会の

閉塞感は充分村社会に行き渡っているのや。農地を借りるにも

役所の審査を受け、指導されて栽培しても厳しい規格があり、収

穫された農作物は等級に分けられて競わされ、工場の様に組織

化された下請け農家が自由に栽培できる訳が無い。つまり、社

会構造の変換に最も疎いのが農業なんや。社会構造の変換と

は人の考えが変換しなければ起こらないからね。そもそも農業関

係者は何故『野菜はそろって実りません』と消費者を説得して理

解させないんや。ゆーさんは娘の体質の事があって無農薬に拘

り、『虫食い野菜農園』を始めた。同じ悩みを持つ人々からネット

による注文が殺到したが猫の額では間に合わなくなった。しかし、

散在する休耕地を借りる事も出来ず、仕方なく山の斜面に階段畑

を作ったんや。」

                                 (つづく)

(九十七)

2012-07-11 08:44:49 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(九十六
                  (九十七)




 私はメールを返した。

 「過去のパラダイムシフトは、明治維新では封建社会が終って

文明開化し、戦後は軍国主義が敗れ民主主義がもたらされた。い

ずれも不安があったが次の明るい時代を展望することができた。

ところが、今の温暖化問題はCO2を削減し消費を節約して環境

を元に戻そうという実にネガティブな話しである。単にダウンサ

イジング(使い方間違ってる?)を迫るだけではモチベーション

が起きない。あんたが言うように、人の意識がチェンジしなけれ

ばパラダイムシフトは生まれないかもしれない。しかし、新しい

時代を受け入れるには何らかのインセンティブが無ければ人の意

識は変わらないのではないだろうか。つまり、パラダイムシフト

が文明『退化』をもたらす様では人はポジティブに為れないと思

う。華やかな祭りの時代の幕は引かれた。我々はここを立ち去ら

ねばならない、ただ何処へ向かえばいいのか解らないのだ。」

 しかし、私はそんな事はどうでもよかった。パラダイムシフ

トも、経済危機も、北朝鮮のミサイルが飛んで来ようとも、ただ

頭の中は女社長の甘い言葉だけがリフレーンしていた。

「会いたい。」

私はこの三日間、上の空で描いていた画を早々に諦め、握り締め

ていた筆を放り投げて部屋を出た。もう昼を過ぎていた。大通り

でタクシーを止めて座席に飛び込んだ。するとドライバーが、

「都心は入れないっすよ。」

「えっ!何で?」

「あれっ、知らないんですか、マラソン。」

「あっ!今日?」

知ってはいたが今日だとは思わなかった。仕方が無いので最寄の

駅に行ってもらい電車で向かうことにした。

 大体、3万5千人もの人が一体何の為に一緒に走るのだろうか

。42キロも走ることがとても身体に良いとは思え無い。そんな

に走りたければそれぞれで走ればいいことではないか。首都機能

を止めてまですることなのか。人でごった返す電車に乗ってから

老先生の言葉を思い出した。

「ただ走る為に走るのは実に虚しい。」

「あっ!そーかっ、それで皆で一緒に走るんだ。」つまり、走る

ことが目的では無いのだ。皆と一緒に走る事が目的なんだ。殺伐

とした競争社会で、孤立した人々が社会との紐帯を確かめる為に

皆で一緒に走るんだ。ランナーにとって「走る」という個人的な

運動も、やがてその目的を見失い社会の共感を求めようとする。

「走る」ことはすでに個人的な目的では無いのだ。それは皆で一

緒に行うラジオ体操のようなものだ。私は、この国を象徴するも

のを一つ挙げろと言われれば、間違いなく「ラジオ体操」を挙げ

る。身体を解(ほぐ)すという極めて個人的な動作も、やがて組

織化され全体との協調を強いられ、本来の個人的な目的は失われ

る。我々は個人のことまで社会に委ねすぎてはいないだろうか。

個人を苦しめる競争は個人の社会性が創り出したのだ。我々は

この個人と社会の間に在るメモリーを見直すべきではないだろうか

。個人が耐えなければならない事を社会に委ねてもどうにもならな

い事がある。

 「ただ生きる為に生きるのは実に虚しい。」

しかし、社会と共感したからといってその虚しさが無くなる訳では

ない、ただ、紛らわしているだけだ。私は、虚しさに耐えられない

自分に言い聞かせた、
     
     自分の虚しさくらい

     自分で始末しろ

     ばかものよ

 

 東京マラソンは地方から多くの人が来て、地下鉄の駅も普段と

は違って華やかな格好の人々で混雑していた。彼らの健全なスポ

ーツ精神の前では、私の邪(よこし)まな欲望が情けなく思えて

きて、すぐ近くの出口から地上に出た。しかし、そこは全く見覚

えの無い場所で、しかもマラソンコース横の歩道に出たらしく、

3万5千人の中から顔見知りを捜そうとする応援の人々でごった

返していた。私は女社長の居るホテルの方角を確かめてから、応

援する人々の邪魔をしながら向かったが、今度はマラソンコース

が邪魔をして向こう側へ渡ることが出来なかった。仕方無く来た

道を引き返して、再びさっきの入口から地下を通って対岸を目指

すしか無かった。入る前に大きく息を吸い込んでから、人熱れ(

ひといきれ)する地下迷路に潜った。しばらく進むと何事が起き

たのか、あらゆる出口から一斉に群衆が押し寄せて来て危うく人

の波に溺れるところだった。誰かが雨が降ってきたと教えてくれ

た。混雑に行く手を阻まれて目指す出口を見失いながらも人波を

掻き分けて、やっとのことで目的の出口に辿り着いて岸に這い上

がったが、そこは目指していた道路の向こう岸では無かった。

「あれっ?」

雨に打たれて途方に暮れていると、K帯が鳴った。女社長からだ

った。気が付かないうちに約束の時間が過ぎていたのだ。私は顛

末を説明してから必ず行くからと説得した。ただ、もうあの複雑

な地下迷路には一生入らないと決めていたので、彼女の元へ辿り

着く方法は一つしか無かった。私は、ガードレールを跳び超えて

3万5千人のランナーが引きも切らさず通り過ぎるマラソンコー

スへ侵入した。近くに居たギャラリーは騒いでいたが、私は女社

長の元へ行く事しか考えていなかった。ランナー達は疲れている

にも拘わらず私に罵声を浴びせた。それでも私は止めずに、向か

ってくるランナー達にぶつかりながら激走した。そう!私はマラ

ソンコースを逆走していた。ヨレヨレのランナー達をステップを

踏んでかわし、気付いた係員等が阻止しようとしたが、クリステ

ィアーノ・ロナウド並みのフェイントですり抜け、彼女が待つホ

テルを目指して激走した。私は、彼女にGOOOOOOOOOO

OOOOAL!を決めたかったのだ。次から次に現れて私の邪魔

をするランナー達が私の彼女への想いを更に頑固なものにした。

そして、全力で走ることがそれまでの憂鬱な感情を忘れさせ爽快

な気持ちすら覚えた。顔を打つ雨さえ心地良く、私は、もしも機

会があればこの次はちゃんとマラソンを走ってみたいと思いなが

らマラソンコースを逆走した。

                                  (つづく)

(九十八)

2012-07-11 08:40:40 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(九十六
                (九十八)



 私がマラソンコースを逆走している頃、バロックのメールが届い

ていた。

 「幕末も戦後も、時代が転換する時には多くの血が流れた事を

忘れたらあかん。俺は、戦争に拠ってしか新しい時代は始まらな

いと思ってるよ。つまり、新たにものを掴むにはそれまで握って

いたものを手放すしか無いが、それがなかなか手放せ無い。それ

は新しいものはまだぼんやりとしていて、手放す事への躊躇(と

まど)いがあるからや。手放すと何もかも失うかもしれんしね。

あんたが言う様に、築き上げた文明を手放して『自然に還れ!』

なんて言うつもりは無い。しかし、莫大なエネルギー消費は我々の

豊かな暮らしを補完したけれど、我々はさながらエヴァンゲリオンの

様に不完全な巨人に為ってしまった。つまり、エネルギー循環の

補完計画を怠ってたんや。我々の吐き出したCO2が天上にまで

達して地上を破壊するというのは何と寓意的な出来事やろ。天地

が分けられて以来、空が落ちてくるなど杞憂だと思っていたが、

天に唾をして神を蔑(ないがし)ろにしてきた報いかもしれない。

 それでもこの国では、世界中が地球温暖化防止の消灯キャンペ

ーンを行っている時に、ハイウェイ料金が値下げされたといって

車を乗り回しているんや。エコロジーはどうしたんや!かつて政

府は、民主党が無料にすると言った時には環境問題を持ち出して

非難した筈やが?つまり、この国のエコロジーは都合の良い時だ

け深刻に語られるんや。何れ値下げされた料金は消費税に上乗せ

されるのに。テレビのニュースの中で、値下げを喜ぶサービスエリア

の客たちを見ていて、朝四暮三を喜ぶサルを思い出した。さらに、こ

の国の累積債務は1千兆円にも為らんとしてるのに、景気回復を名

目に歯止めが無くなった支出に浮かれている。まるで債務を忘れた

い一心から更に借金を重ねて放蕩に耽っている様に見える。将来の

ことを考えるとゾーッとする。この国が深刻に為る時は注意せなあか

ん。すぐに『喉元過ぎれば熱さを忘れる』んやから。もう戦争の悲惨さ

などとっくに忘れてるに違いない。

 水流発電機は、更に改良しようとして何もかも始めからやり直す

ことに為った。それというのも、ゆーさんが発電器をタービンの中に

入れようと決めたからや。それまで発電器はタービンの横にあった

が、本体をもっとコンパクトにする必要があった。彼が言うには、自

然エネルギーを扱う機械は自然環境にも配慮しなければならない

。ところが、風力発電機にしろソーラー発電機にしろ何と不自然な

姿をしているんやろう。山の頂に設置された風車は自然のエネル

ギーを奪う事が出来ても、間違いなく自然環境を破壊している。も

しも、ソーラー発電で日本の技術力が発揮されるならば、是非とも

パネルを小さな木の葉の形にして、それらが集まった樹木の様な

ソーラーパネルを創ってもらいたい。そもそも自然エネルギーはそ

の土地の風土を利用したもので無ければならない。風車は起伏の

乏しいヨーロッパ平原で相応しくても、起伏の激しい日本の風土に

は合わないのではないか。つまり、自然エネルギーの利用とは地

域によって条件が異なりグローバル化が困難なんや。日本にはこ

の国の風土に合った水車の歴史があるやないか。ゆーさんは、や

がてこの国の自然エネルギーは、水流を利用した水流発電機に

集約されるやろうと言うた。

 発電器をどうやってタービンに内蔵させるか、重くなったタービン

をどうすれば効率的に回わせるか、その為には水圧がどれ程必要

なんか、その為にはタービンの大きさがどれ位になるのか、その為

には、発電器をどうやってタービンに内臓させるか。俺は全くの門外

漢でそれ以上詳しくは解らんけど、聞いていると生きる意味を見失っ

た者が、答えが再び疑問となり、頭の中で熱を発して何時までもグ

ルグル回り続ける、まるでタービンの様な問答に思えた。人が生き

る事もただエネルギーを撒き散らすタービンの様なものかもしれん。

つまり、何の為に転っているのか解らなくなってくる。ところが、

ゆーさんの娘が、

『家庭の電力消費を賄えないと誰も使わない思う。』

『あっ!』

発電機に拘るあまりすっかり忘れていた事を指摘されて、ゆーさん

の頭の中のタービンは回転を止め、溜まった熱は光になって輝き始

めた。

『そうや、それが基準や。』

ゆーさんの発電器内臓タービン式家庭用水沈方式小型水流発電機

は、再び問題を解決して前に動き始めた。ただ、俺の頭の中で回り

始めたタービンはまだグルグル回っているが。

 それでも同じ事を考えている人がいて、発電機内臓タービンは特

許出願がされているらしい。発電量を上げるには、水圧を高める為

にダムの様に浚渫(しゅんせつ)工事をして落差を作ればええんやけ

ど、ゆーさんは、ものものしい工事をして川の様子を変えるのは、自

然エネルギーの本意から外れると言った。その為、これまでの発電

効率を優先した試作品を諦めて水沈方式に決めたんや。ただドボン

と発電機を投げ入れるだけで電気が流れなければならない。しかも

川底に棲む生き物に影響を与えない様に石に似せた細工もする。

それでも、いずれは川底に敷き詰めて集落の電気を賄えるまでに

するつもりや。限界集落で自然エネルギーから電気を賄えれば、

現金収入に脅かされずに自立した暮らしが取り戻せるかもしれない

。電気を自分達の手に入れることは、大袈裟な言い方をすれば、

さもしい国からの独立宣言なんや。」

                                  (つづく)

(九十八)

2012-07-11 08:40:29 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(九十六
                (九十八)



 私がマラソンコースを逆走している頃、バロックのメールが届い

ていた。

 「幕末も戦後も、時代が転換する時には多くの血が流れた事を

忘れたらあかん。俺は、戦争に拠ってしか新しい時代は始まらな

いと思ってるよ。つまり、新たにものを掴むにはそれまで握って

いたものを手放すしか無いが、それがなかなか手放せ無い。それ

は新しいものはまだぼんやりとしていて、手放す事への躊躇(と

まど)いがあるからや。手放すと何もかも失うかもしれんしね。

あんたが言う様に、築き上げた文明を手放して『自然に還れ!』

なんて言うつもりは無い。しかし、莫大なエネルギー消費は我々の

豊かな暮らしを補完したけれど、我々はさながらエヴァンゲリオンの

様に不完全な巨人に為ってしまった。つまり、エネルギー循環の

補完計画を怠ってたんや。我々の吐き出したCO2が天上にまで

達して地上を破壊するというのは何と寓意的な出来事やろ。天地

が分けられて以来、空が落ちてくるなど杞憂だと思っていたが、

天に唾をして神を蔑(ないがし)ろにしてきた報いかもしれない。

 それでもこの国では、世界中が地球温暖化防止の消灯キャンペ

ーンを行っている時に、ハイウェイ料金が値下げされたといって

車を乗り回しているんや。エコロジーはどうしたんや!かつて政

府は、民主党が無料にすると言った時には環境問題を持ち出して

非難した筈やが?つまり、この国のエコロジーは都合の良い時だ

け深刻に語られるんや。何れ値下げされた料金は消費税に上乗せ

されるのに。テレビのニュースの中で、値下げを喜ぶサービスエリア

の客たちを見ていて、朝四暮三を喜ぶサルを思い出した。さらに、こ

の国の累積債務は1千兆円にも為らんとしてるのに、景気回復を名

目に歯止めが無くなった支出に浮かれている。まるで債務を忘れた

い一心から更に借金を重ねて放蕩に耽っている様に見える。将来の

ことを考えるとゾーッとする。この国が深刻に為る時は注意せなあか

ん。すぐに『喉元過ぎれば熱さを忘れる』んやから。もう戦争の悲惨さ

などとっくに忘れてるに違いない。

 水流発電機は、更に改良しようとして何もかも始めからやり直す

ことに為った。それというのも、ゆーさんが発電器をタービンの中に

入れようと決めたからや。それまで発電器はタービンの横にあった

が、本体をもっとコンパクトにする必要があった。彼が言うには、自

然エネルギーを扱う機械は自然環境にも配慮しなければならない

。ところが、風力発電機にしろソーラー発電機にしろ何と不自然な

姿をしているんやろう。山の頂に設置された風車は自然のエネル

ギーを奪う事が出来ても、間違いなく自然環境を破壊している。も

しも、ソーラー発電で日本の技術力が発揮されるならば、是非とも

パネルを小さな木の葉の形にして、それらが集まった樹木の様な

ソーラーパネルを創ってもらいたい。そもそも自然エネルギーはそ

の土地の風土を利用したもので無ければならない。風車は起伏の

乏しいヨーロッパ平原で相応しくても、起伏の激しい日本の風土に

は合わないのではないか。つまり、自然エネルギーの利用とは地

域によって条件が異なりグローバル化が困難なんや。日本にはこ

の国の風土に合った水車の歴史があるやないか。ゆーさんは、や

がてこの国の自然エネルギーは、水流を利用した水流発電機に

集約されるやろうと言うた。

 発電器をどうやってタービンに内蔵させるか、重くなったタービン

をどうすれば効率的に回わせるか、その為には水圧がどれ程必要

なんか、その為にはタービンの大きさがどれ位になるのか、その為

には、発電器をどうやってタービンに内臓させるか。俺は全くの門外

漢でそれ以上詳しくは解らんけど、聞いていると生きる意味を見失っ

た者が、答えが再び疑問となり、頭の中で熱を発して何時までもグ

ルグル回り続ける、まるでタービンの様な問答に思えた。人が生き

る事もただエネルギーを撒き散らすタービンの様なものかもしれん。

つまり、何の為に転っているのか解らなくなってくる。ところが、

ゆーさんの娘が、

『家庭の電力消費を賄えないと誰も使わない思う。』

『あっ!』

発電機に拘るあまりすっかり忘れていた事を指摘されて、ゆーさん

の頭の中のタービンは回転を止め、溜まった熱は光になって輝き始

めた。

『そうや、それが基準や。』

ゆーさんの発電器内臓タービン式家庭用水沈方式小型水流発電機

は、再び問題を解決して前に動き始めた。ただ、俺の頭の中で回り

始めたタービンはまだグルグル回っているが。

 それでも同じ事を考えている人がいて、発電機内臓タービンは特

許出願がされているらしい。発電量を上げるには、水圧を高める為

にダムの様に浚渫(しゅんせつ)工事をして落差を作ればええんやけ

ど、ゆーさんは、ものものしい工事をして川の様子を変えるのは、自

然エネルギーの本意から外れると言った。その為、これまでの発電

効率を優先した試作品を諦めて水沈方式に決めたんや。ただドボン

と発電機を投げ入れるだけで電気が流れなければならない。しかも

川底に棲む生き物に影響を与えない様に石に似せた細工もする。

それでも、いずれは川底に敷き詰めて集落の電気を賄えるまでに

するつもりや。限界集落で自然エネルギーから電気を賄えれば、

現金収入に脅かされずに自立した暮らしが取り戻せるかもしれない

。電気を自分達の手に入れることは、大袈裟な言い方をすれば、

さもしい国からの独立宣言なんや。」

                                  (つづく)

(九十九)

2012-07-11 08:38:30 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(九十六
               (九十九)

 いよいよ私の個展が始まった。中国で歩数を数えている老先生の

一文が、それは雑誌に載った私との対談の記事が短かすぎて、仕方

無く空いた頁を埋める為に載せられた、その一文が人気を呼んで個

展は盛況だった。その一文の中で、老先生は私を「逆光の画家」と

呼んだ。

「ホームレスという逆境の中から独自の画風を掴み取り、まるで絵

画の技法に逆行する大胆なコンポジションは、将に『逆光の画家』

と呼ぶに相応しい。」

 私が酔っ払って汚した箇所を仕方なく墨で塗り潰して、逆光に翳

る建物のシルエットに誤魔化した、左半分が真っ黒の絵画が、何と

っ!斬新だと絶賛されていたのだ。ところが、女社長は間違ってパ

ンフレットに「逆境の画家」と書いた為、私はギャラリーから執拗

(しつこ)くホームレスの時の事を聴かれてウンザリした。

 それでも、老先生が名付けた「逆光の画家」は、私が悩んでいた

技法に大きな順光を与えてくれた。つまり、遠近法は近くが良く見

えて遠くなるにつれて見え難くなる。ところが、逆光は近くのオブ

ジェに反射する光が少ない為に色彩を奪われるが、離れるに従って

輪郭より反射した光で色彩が甦ってくるのだ。つまり、遠近法とは

逆行した光の法則で描けないだろうか。私はこの逆説的な「コンポ

ジション」の発見に飛び上がるほど歓喜した。私はもう個展どころ

では無かった。更に、女社長への想いすら忘れてしまった。私は今

すぐにでも部屋に閉じこもって画を描きたくなった。

 私と女社長は、老先生の留守の間ほとんど毎夜逢っていた。そ

れでも老先生の部屋があるホテルでは、さすがに人目を気にして

連れだって歩くことは無かった。私は彼女には言わなかったが、

老先生に対する後ろめたい気持ちが次第に頭の片隅を過ぎって、

黙り込むようになった。二人でいる時には老先生の話しを避ける

彼女も、恐らくそう思っていたに違いなかった。本能では許し合

えても、互いの理性には越えられないわだかまりがあった。

 私の個展は老先生の威を借りて盛況のうちに終わった。女社長

に呼ばれて何度も高名な画家に紹介されが、彼らは明らかに老先

生が目当てで、老先生が居ないことが判ると記帳を済ませて、展

示の前を足早に回ってからサッサと立ち去った。私はそういう人

たちに励まされる度に、自信を失った。それでも女社長は画商と

しての如才無さを発揮して、

「おめでとう、完売したわよ。」

そう言って私の両手を握ったが、私は訳の解らない屈辱感に苛ま

れていた。果たして、画家というのは絵画が売れるということを

どう理解すればいいのだろう。私は自分の絵画を買った一人一人

に、どうして私の絵画を買ったのか聞きたかった。描いた本人が

そんなことを言うのもなんだが、素直に私の絵画の価値を認めら

れたとは思えなかった。今や絵画は絵画本来の価値では無く、画

家には到底理解出来ないことだが、社会的な付加価値によって買

われている。そしてそれは芸術家の独立した精神を堕落させた。

更に深刻なのは、芸術家がその精神を大衆に売り飛ばしたことだ

。もはや芸術は大衆に媚びる淫売に身を落とした。私が言うのは

間違っているかもしれないが、芸術が失ったのは「独立した精神」

ではないだろうか。

 老先生への感謝と関係者への労(ねぎら)いをスピーチして打

ち上げパーティーが始まったが、私は緊張から解放されて乾杯の

シャンパンだけで酩酊した。

 目が覚めたらまたも老先生のベッドの上だった。私は寝返りを打

ってベッドの横のデジタル時計を見た。08:43、もう朝だった。

女社長は息子の支度で家に帰ったに違いない。私は再び寝返りを

打って天井を見つめながら昨夜の事を思い出そうとしたが、画廊

での打ち上げの後の映像を再生することが出来なかった。しかし

、女社長の「しっかりしてよ」と「ちゃんと歩きなさい」という

言葉だけは何故か録音されていた。上半身を起こすと、スーツの

上着が脱がされネクタイも解かれていた。ベルトは緩められてい

たが、ズボンは穿いたままだった。ネットカフェ以来のだるい目

覚めが不快だったが、それは動物的な反応でまだ感情は眠ったま

まだった。私は躊躇わずに大きな音のだらしない放屁をした。そ

して、

「そうだっ、」

「逆光の近遠法」だ。私は老先生の言葉から閃いた技法を、そう

タイトルを付けファイルして頭の中の「絵画」の引き出しの一番

大事な場所に優先番号①と書いて置いてあった。それを思い出し

て立ち上がった。

「画を描かなければ。」

私はバスルームへ入って用を足し、それから顔を洗い終えると

シャワーを浴びたくなった。バロックから借りてる部屋には浴室

が無かった。シャワーを浴びると眠っていた感情も目覚めた。バ

スタオルで頭を拭いていると、インターホンが鳴った。私は女社

長が戻って来たと思い、バスタオルだけを腰に巻いて疑いもせず

にドアを開けた。するとドアの前には中国を散歩している筈の

老先生が怪しいマスクをして亡霊の様に立って居た。

                                  (つづく)