「パラダイム・シフトはどこへ行った」

2011-11-24 22:11:51 | 「パラダイムシフト」

 


      「パラダイム・シフトはどこへ行った」

 

 ひと頃、パラダイム・シフト(価値転換)の波がやってきたと喧し

く叫ばれていたが、あれは2007年の11月に発表されたIPC

Cの第四次評価報告書によって地球温暖化による環境破壊が予見さ

れたからで、そのあと、わが国では巨大地震による災害と「想定外」

の津波による原発事故と相次ぐカタストロフィーに見舞われて、す

っかりそっちの方は忘れられてしまったようだ。

 今は原発の是非とTPP問題が国を分かつ議論の中心になってい

るが、たとえば、原発推進にしろTPP参加にしろ、実は、それら

は古いパラダイムの継続であることを忘れていないだろうか。原発

が稼働して自由貿易が進む世界とは経済優先の近代の価値観ではな

いか。そもそも我々はパラダイム・シフトをどう捉えていたのだろ

うか。パラダイム・シフトとは近代文明からの転換に他ならないは

ずではなかったのか。エネルギー・シフトによる経済構造の転換と

自然循環型社会への転換を図ることではなかったのか。それらは経

済至上主義のグローバル経済からの転換を意味したはずだ。すでに

「地球資本主義」はその限界に達してその綻(ほころ)びはEUを始

め世界各国を金融不安の恐怖に陥れている。経済成長の幻想がもた

らした破綻である。世界恐慌というクラッシュを迎える前にバック

ギアにシフトチェンジしなければならないのではないか。尤も我々

の車にバックギアが備わっていての話で、更には我々がバックギア

に入れる覚悟があるかどうかにかかってはいるが。ただ私は、きっ

とそんなことは出来ないだろう思っている。目の前にある豊かさを

棄てて新しい価値を求めることなど出来ないだろう。我々が新しい

時代に目覚めるのは恐らく古い時代の崩壊の後になってしまうのだ。

つまり、再びあの忌まわしい殺し合いが繰り返されるのだ。我々は

既得した価値観を失わない限り、新しい価値観に目覚めることが出

来ないのだ。


「あほリズム」

2011-11-24 12:58:45 | アフォリズム(箴言)ではありません

                   「あほリズム」

 

                    (176)

 

 オリンパスにしろ大王製紙にしろ、先には原発事故や原発を巡る

ヤラセ問題にしろ、取り巻く関係者はおかしいと思っていたことだ

ろう。ところが、おかしいと思っていても序列を弁えて上司に意見

することができず見て見ぬ振りをしていた、それを奴隷道徳という。

それはこれらの企業に特有のものではなく何れの組織もが持ち合わ

せている謂わばこの国の社会道徳なのだ。 やがてそれが独裁者を

生む。


「あほリズム」

2011-11-21 14:06:14 | アフォリズム(箴言)ではありません

                 

 

                 「あほリズム」

            

                   (175)


 儒教道徳とは、序列の上の者には諛い下の者を蔑にする差別道徳

である。いわゆる「独立自尊の精神」の対極にある奴隷の道徳である。

 


 「益川先生」

2011-11-21 01:49:10 | 従って、本来の「ブログ」

 

                

 

          「益川先生」


 益川俊英さんの講演会に行きました。詰まんなかった。「現代社

会と科学」いうテーマでしたが、掻い摘んで言うと二点あって、基

礎科学はすぐに社会に貢献できるわけではないという事を、マクス

ウェルの電磁方程式が実際に社会に生かされるようになったのはそ

れからずーっとお後になってからだという事と、1911年にオン

ネスによって発見された超伝導も100年の年月が流れていること

を語り、もう一点は、科学は基礎を理解してないと応用が効かない

という事を、エジソンとニコラ・テスラとの送電事業に於ける直流

と交流を巡る確執と、ファーブルの「昆虫記」に記されている、パ

スツールがカイコのことを全く知らないで伝染病を撲滅させたエピ

ソードを例に語られました。おっしゃっていることはよく解ります

がもう少し夢のある話が聴きたかった。高齢の聴衆が多い中で10

0年後の応用のために基礎科学を身に着けろと言われてもピンと来

なかった。

 まず、私は彼の講演を全て記録したわけでもないので、私自身の

記憶だけで述べることを告白しますが、そこには私の思い違いが潜

んでいることを了解してください。

 会場はほぼ満員だったが先ほど言ったように聴衆の殆どが高齢者

で、高校生以下は無料にも拘らず若い人の姿が少なかったのがこの

町の未来を暗示しているようで寂しかった。私は上に記した本題よ

りも、彼が本題の前に語ったエピソードの方が興味深かった。最初

に彼は、ある本の出版に際して岩波書店の校正部と言い合いになっ

た事を紹介した。それは研究者仲間から「マダム・○○」と呼ばれ、

本人も了解している愛称を記したところ差別用語だと言われて、そ

の言い分とは、幾ら二者が了解していても社会が差別を感じたら出

版出来ないということで、彼は引き下がらざるを得なかったらしい。

更に、基礎科学の教室では「先生」という敬称は出来るだけ使わな

いのだと言い、それは実験の難しい素粒子理論を議論する時に、序

列に拘っていては上司の誤りを指摘できなくなってしまうからだと

説明した。そして、初めて日本人としてノーベル賞を受賞した湯川

秀樹氏に対してさえ彼は「湯川さん」と呼び、決して「先生」とは

呼ばなかったと語った。ところが一転して、彼が師事する坂田昌一

教授に対してだけは「先生」と呼ぶのだと言う。「私が先生と呼ん

で尊敬するのは坂田先生だけです」と言い、敬称を使い分けている

ことを明かした。すると、先ほどの差別用語の顛末を逆にしたよう

に、今度は恩師への尊敬を講演会という公の場で披露することによ

って、彼は自分が「先生」と呼ばれることに対してはどう思ってい

るのか知らないが、そのエピソードを聴いていた司会者を始め主催

者や質問者さえもそれでは「益川さん」と呼ぶものは誰一人現れず、

そう呼べば先の経緯から彼を尊敬していないことになってしまうか

ら、彼が紹介した教室の様子とは違って「先生」「先生」の敬称が

飛び交った。科学者の講演会でありながら主催者の取って付けたよ

うな堅苦しい言葉使いが聴衆の好奇心を萎えさせて、古臭い思想に

依拠するこの町の姿を垣間見た思いだった。そして、彼のような科

学の最先端で活躍する人でさえ序列意識から自由ではないのだと知

った。かつて福沢諭吉が「腐儒の腐説」とまで言って蔑んだ序列道

徳は、社会から生まれるのではなく二者の力関係から生み出される

のだと思った。

 因みに、古臭い道徳に縛られたこの町の子どもたちは、隣り町に

は「格物致知」を由来にする校名の高校まである、小学校の行き返

りに出会う大人たちに対してきちんと「行ってきます」「ただいま

帰りました」と挨拶をするが、それは言わされているからで自発的

にそうしているのではない。何故なら、やがてその子らが高校生に

でもなれば、学校の行き返りを自転車に乗って、歩道を歩く人のこ

となど考えずに二台三台が並走して来たり、或いは、謝りもせずに

すぐ横をぶつからんばかりの勢いで追い越して行くようになるのだ

から。つまり、彼等が強いられる道徳は全く身につかず、やがて成

人にでもなれば強い者には諛い弱い者を蔑にする序列に縛られた社

会人に育つ。彼等は束縛されるか放逸に過ごすかしか知らない。だ

から、この町から独立自尊の人物など生まれてくるはずがない。