「めしべ」⑪

2013-03-08 11:02:27 | 赤裸の心



         「めしべ」⑪




 もしそうだとすれば、われわれの眼が持つ視力とは外的環境を認

識するための謂わば装置であって、目の前のコップを見た時にコッ

プの分子構造までも見通せる精密な能力など無用であるし、また、

遥か彼方からコップを見分ける必要もない。つまり、われわれに備

わった器官とは外的脅威から自身を守るために進化したセンサーで

しかなく、表象だけしか捉えられないそれらの器官が統合されて判

断する認識が世界の細部や全体を見通せるとは思わない。それどこ

ろか、それらから導き出される判断でさえも、他者が善意から差し出

した手にもまず何か魂胆が隠されているのではないかと猜疑するほ

ど防衛本能に支配され、また思考においても本能に歪められている。

たぶん、われわれの理性とは自分自身を守るための本能から生まれ

た能力であって本能なき理性など、つまり「純粋理性」などというものは

ありえない。たとえば、世界が「赤い椅子に座る女」の絵であるとすれば、

われわれの狡知にだけは長けた認識や思考は、目の前の絵を素直に

観ようとせずに、あろうことか「めしべ」と読んでしまう。


                                やっと(おわり)


「めしべ」⑩

2013-03-07 02:32:51 | 赤裸の心



        「めしべ」⑩


 一時、小林秀雄に惹かれて、それでも難しいので途中で本を閉じ

たり思い出しては手に取ったりしていると、彼の著書の中にしばし

ばフランスの哲学者ベルグソンの名前が出てきたので、岩波文庫の

ベルグソンの「創造的進化」を買って読もうとした。「読もうとし

た」と記したのは読み切れなかったからで、小林秀雄が難しいと言

っている者が、後から知ったことだが、その小林秀雄でさえもベル

グソンの評論を途中で執筆を断念したほど緻密で、わたしにとって

はあまりにも「日暮れて道遠し」の感から途中で投げ出してしまっ

た。そのベルグソンの著書「創造的進化」の中で唯一記憶に残って

いるのは、生命が眼を持つに到った記述で、ベルグソンは、太陽光

線に侵された生命体の一部の細胞がシミに変化して、そのシミが眼

になったという謂わば仮説で、それだけが何故かわたしの記憶に残

っている。

 われわれのあらゆる器官は環境からの刺激とその反応から生成し

進化したとすれば、たとえば、眼の持つ能力とは太陽光線が地上に

届く際の特徴に限定されていると言わざるを得ないのではないか。こ

うしてわれわれのあらゆる器官が環境に適応するために備わったと

すれば、つまり、われわれは世界内存在として世界の外を窺がう能

力など持ち合わせていないことになる。自動車をいくら改造しても空

を飛ぶことはできないように。

                     

                           まだ、(つづく)みたい



 


「めしべ」⑨

2013-03-06 04:54:52 | 赤裸の心



       「めしべ」⑨


 しかし、われわれの理性にとって「未知」を捉えられないまま生

きることは割れたコップと同じで無意味である。理性はこう言うの

だ、「生きることには意味がある」と。そこで、理性は「未知」の

世界を仮想によって措定して認識しようとする。こうして、神が作

られ科学が生まれた。つまり、われわれは我々の認識から生まれた

措定の世界を生きているだけではないか。ビッグバーン理論によっ

て宇宙の成り立ちを説明されても、目の前のコップのように何の関

心ももたらさない。認識は決してわれわれに存在の意味を教えては

くれない。ピカソはわれわれの認識を信じなかった。理性は生きる

ための手段であっても生命を生むことはできない。絵画を始め芸術

とは萌え出る生命に対する驚喜が生む生命へのオマージュである。

つまり、理性は芸術など生まない。ピカソは人物をひたすらオブジ

ェとして描いた。彼の関心は人間にあったが、それは不可解な存在

としての人間だった。そして、その不可解さこそが生命の根源であ

ると信じていた。ピカソの怪しい人物画は、われわれの認識を嘲笑

っているかのようで捉えどころがない。彼の絵を観る者は認識を逆

行して生命の根源へ戻された感覚に自失してしまう。ところが、し

ばらく眺めていると、絵の中の人物が存在感を増しそれとは反対に

わたしの存在の方が怪しく思えてくる。そして、はからずもわたし

に「めしべ」と読まれた絵の中の人物はわたしにこう告げた、

「わたしはあなただ」

と。

                もう何も出て来ないので(おわり)かも、


「めしべ」⑧

2013-03-05 13:40:25 | 赤裸の心



               「めしべ」⑧


 たとえば、わたしの目の前にあるものを「コップ」と認識した時、

つまり、わたしが「コップ」という言葉からイメージするものと目

の前のものが一致した時、日常生活の中でわたしは途端にコップへ

の関心を失ってしまう。わたしはコップの用途も知っているし何故

ここに在るのかも解っている。だから、ことさら目の前のコップに

関心が沸かない。コップはすでにわたしによって意味付けされてい

るからだ。多分、コップはわたしの目を盗んでビンに変わったりは

しないだろう。コップはわたしの認識に捉えられて逃げ出すことは

できない。われわれが「何であるか?」と意味を問うのは「未知」

なものに対する本能的な恐怖から逃れるために理性による認識によ

って「既知」に捉え直すためである。ところが、わたしの認識がコ

ップを捉えたようには捉えることができないもの、たとえば「なぜ

世界は存在するのか」とか「なぜ世界は斯くあるのか」とか、それ

どころか「なぜ私は生まれてきたのか」とか、それなのに「なぜ死

ぬのか」とか、依然としてわれわれの認識によってしても「既知」

へと変換し得ずに止揚できないさまざまな「未知」のことがらにつ

いて、われわれはコップを認識したようには捉えることができない。

謂わば、それらは依然として「既知」外である。


                               (つづく)



「めしべ」⑦

2013-03-03 05:08:37 | 赤裸の心



        「めしべ」⑦


 もはや人物とは言えない程デフォルメされた物体の絵は、それで

もただ乱暴に描写されただけではなく、その絵には観る者の認識を

誘う不思議な生命感を漂わせ単なる物体とは思えない緊張があった。

しばらくその絵を眺めていると、やがてわたしの理性の方が怪しく

なって来て、ものを見てそれを認識するということが極めて表象だ

けに頼った理解でしかないことを改めて知った。われわれは奇跡的

な世界に在っても百科事典に書かれた説明を読んで世界を知ったつ

もりでいる。しかし、目の前にあるコップがどれほど驚くべき過程

を経て地球上に、否、宇宙に存在しているのかなどと言うのは見過

ごしてしまう。たとえば誰も、一個のコップが宇宙空間に存在する

ことの不思議について考えたことなどないだろう。すでにわれわれ

は宇宙もコップも自分の認識の中で繋がっていると思っている。し

かし、ピカソの絵を観ていると、われわれのその認識こそが怪しく

なってくる。

                      酔ってしまったので(つづく)