「明けない夜」 (1)

2017-08-23 22:05:28 | 「明けない夜」1~6
         「明けない夜」
 
           (1)
 
 
「ずっと容子の匂いを嗅いでいたい」
 
寛(ひろし)は、その匂いだけが残こされたベッドで、容子に囁いた
 
言葉を思い出しながら胎児のように丸まって彼女の追憶に浸ってい
 
た。容子と別れれてほぼ一月が経った。今となっては追憶の中でし
 
か彼女に会えなかったが、それでも彼女の居ない今を忘れさせてく
 
れた。
 
 寛は、容子と大学のゼミで出会った。彼はそれまで専攻を変更し
 
たりして留年を繰り返したので彼女より年は2コ上だったが、彼女
 
は二人姉妹の次女で現実的で、傍目にも二人の年の差はまったく感
 
じられなかったし、それどころか口論になればいつも寛の方が鼻白
 
んでしまい、彼女の鼻を明かすことができなかった。やがて就活の
 
時期を迎えると、就職氷河期と言われて久しい時代だったが、それ
 
でも容子はあっさり大手スーパーの採用内定を得たが、いったい自
 
分が何をしたいのかさえ定まらない寛は、仕方なく卒業後の生活の
 
糧を得るためと、何よりも容子を安心させてこれからもずっと一緒
 
に居たいという思いから、進まぬ気持ちを無理やり就職という進路
 
へ追いやったが、まるでその思いを見透かしているかのようにこと
 
ごとく面接で落とされた。それは進路の選択というより迷路の選択
 
だった。そして、
 
「何だ、社会とはそういうことで成り立っているのか」
 
と、つまり組織に従属しない者は社会で生きていけないことを改め
 
て知らされた。もちろん、これまでにも書店でのアルバイトや深夜
 
のコンビニでのレジ係、また、いわゆる「マックジョブ」と呼ばれ
 
る仕事も経験してきたが、それらは地方出身の彼が東京で糊口を凌
 
ぐためのもので自らの本分ではなかった。つまり、彼の家庭は彼が
 
学生としての本分を修めさせるために援助できるほどの経済的余裕
 
はなかった。
 
 迷路から抜け出せないまま四回生になって、卒論に追われてそれ
 
に没頭しているうちに、ところで彼の卒論のテーマは「マルクス『
 
資本論』への生物学的批判」というものだったが、それは、そもそ
 
も彼は経済学部専攻で入学したのだったが、マルクスが云うところ
 
の余剰価値は労働者の搾取によってたらされるという考えに生物学
 
的視点から違和感を覚え、つまり、すべての生命体は増殖、即ち剰
 
余価値を生むために生存しているではないか。そして、資本の生産
 
過程が細胞の分裂増殖過程と類似していることに着目して、逡巡の
 
末に生物学部に専攻を変えて再入学し直して、とくに生命体を形成
 
する細胞が分裂増殖するしくみを解明しなければ資本主義の本質は
 
見えてこないと思ったからで、たとえば、細胞はやがて成体を形成
 
すると増殖を制御して安定するのだが、ところが資本主義は生産さ
 
れた剰余価値を資本に蓄積して制御なき増殖を繰り返す。それは生
 
物学的に見れば明らかに偏った姿であって、制御できない細胞の増
 
殖とは細胞のガン化であり、成体を志向できない資本主義はやがて
 
破たんするにちがいないと思ったからだ。ただ彼は、自分の研究課
 
題がいまや全盛の万能細胞の研究からかけ離れていることから教授
 
陣に疎んじられ、再び文学部へ再転部して容子と知り合った。
 
 そうだ、容子との関係を説明するつもりだったが話が逸れてしま
 
った。いずれ機会をつくって寛の考えを詳しく述べたいと思うが、
 
こんなふうにして寛は卒論に取り組んでいる間は容子のことは最小
 
化してタスクバーの片隅に追いやった。一方、容子は社会心理学の
 
ゼミも掛け持ちして、分けても消費者心理に興味を持ち、もちろん
 
それは就職に有利になると思ったからで、希望していた大手スーパ
 
ーに履歴書とともに学習の成果をレポートにして提出すると、すぐ
 
に担当者から直接デンワが掛ってきて称賛され、間もなく内定をも
 
らった。もっとも、それらは先進国であるアメリカの研究論文を翻
 
訳した文献からのパクリがほとんどで、他人の引用文を自分の言葉
 
で繋いだだけのレポートだった。そして、卒論さえもそのレポート
 
を拡大して焼き増しただけの使い回しでひと月も費やさずに書き終
 
えて提出した。進路も決まって後は学生生活最後の青春を思いっ切
 
り楽しみたいと思っている容子にとって、いつまで経っても迷路か
 
ら抜け出せずに、昨日認めた文章を今日は否定する思索に耽る夜々
 
を送る寛が次第に頼りなく思えてきた。じっさい寛は容子の何でも
 
ない買い物の誘いさえも断った。暗闇に慣れた寛の眼に容子の居る
 
光あふれる世界は眩しすぎて、自分を失いたくなかった。
 
「いまは女の時代だから」
 
寛のことばを容子は黙って聴いた。
 
「就職にしたって女性はいずれ辞めてくれるから採り易いんだよ」
 
「そうかもしれないね」
 
容子は、寛のことばを聴いてやることが彼の慰めになると思った。
 
しかし、傷つけないように気遣い、自分の思いを打ち明けられない
 
相手から気持ちは冷めていった。たぶん、思っていることを言って
 
口論したほうが後腐れがなかったかもしれない。
 
「ずっと容子の匂いを嗅いでいたい」
 
ベッドで寛が容子にそう囁くと、容子は、
 
「じゃあ、眼をつぶって」
 
寛が言われた通りそうすると、容子は寛の鼻を舐めた。
 
「何、これ?」
 
「わたしの匂いするでしょ」
 
「うっ、臭い!」
 
 その日を最後に容子はもう寛の部屋に来ることはなかった。
 
寛が書き直して卒論を提出したのは年が改まった期限ぎりぎりだっ
 
た。
 
 就職できない寛を落ち込ませたのは、容子への思い以上に、親父
 
と離婚してから女手ひとつで大学まで行かせてくれた母を安堵させ
 
ることが出来ないことだった。それまでにも母に勧められて地元の
 
会社の入社ガイダンスにも眼を通したが、容子の居る東京を離れて
 
母と一緒に暮らす決心がつかなかった。容子の居る華やかな東京は
 
母の居る肩身の狭い地元ととは比べものにならなかった。夢の中で、
 
足を滑らせて断崖に落ちた自分を崖上から容子と母親が手を伸ばし
 
て叫んでいたが、ところがいくら踏ん張っても足元が滑って、まる
 
で蟻地獄に落ちた蟻のようにもがけばもがくほど彼女らの手から遠
 
退き、ついには奈落の底へと転がり落ちたところで眼が覚めた。汗
 
まみれだった。
 
 卒業して働き始めるとすぐに新人研修があって、東京を離れるこ
 
とになるのでこれまでのように会うことはできなくなるという容子
 
の言葉どおりメールだけで会えなくなった。そして、そのメールも
 
これまでの他愛もないやり取りとは違って関われない研修の報告の
 
ようなものばかりで、ただ「がんばって」とか「いいね」とか他人
 
事のような返事しか返せなかった。
 
 一方で、寛自身も好き勝手な生活を送る免罪符だった学生証を返
 
納して、いつまでも遊んでいるわけにもいかないので、派遣会社に
 
登録して働き始めると、派遣先の職場で仕事を教えてくれる男が同
 
じ大学を同期入学した顔見知りだったことに嫌気が差してすぐに辞
 
め、しばらくは短期のアルバイトで食い繋いでいたが、いろいろ考
 
えた挙句、出来るだけ他人と関わらずにそれなりに暮らしていける
 
仕事、当座の生活を凌ぐための非正規だったが警備会社の警備員
 
として働き始めた。すると二人を繋ぐ共通の話題はいよいよ無くなり
 
メールさえも途絶えがちになった。警備会社の仕事はイベント会場の
 
警備から道路工事の交通誘導員まで現場は様々だったが、ただジッ
 
と立って行き交う人々を眺めているだけで退屈さが紛れた。ちょうど
 
動物園の飼育員のような眼差しで人間を監視した。人々は彼の制服
 
を見てその社会的な存在を理解したが、彼はその社会的な存在に隠
 
れて私的な好奇心から彼らの振る舞いを覗った。すると他人を監視す
 
る者の自由さえ感じることができた。それは秩序を強いられた人々が
 
奪われた自由なのかもしれないと思った。支配される者が奪われた自
 
由は支配する者の手に入る。自由を奪われることを搾取されるという
 
なら、自由もまた資本主義の「商品」なのだ。否、人は自由を手に入れ
 
るために生産するのだ。労働者の搾取によってもたらされる剰余価値
 
とは資本家が自由を手に入れるための手段に過ぎない。つまり、労働
 
者が搾取されているのは自由なのだ。資本家は奪った自由によって選
 
択の自由を得るが、労働者は自由を提供するしかない「しかない」選択
 
しか残されていない。つまり、お金が保証するのは社会的自由なのだ。
 
これまでそんな風にして社会を見たことがなかった彼は、結構この仕事
 
が気に入った。もちろん搾取されてはいるが、大概のことは自分の裁量
 
に委ねられて、社会的自由を奪われずに報酬に与ることができた。
 
 しばらくして容子のケイタイは繋がらなくなった。
 
                           (つづく)
 
 
 パソコン買いました、また小説書きます。ケケロ
 

「明けない夜」(2)

2017-08-23 22:03:42 | 「明けない夜」1~6
          「明けない夜」
 
             (2)
 
 
 
 記憶というのは匂いのようなものかもしれない。寛の部屋から容
 
子の匂いが薄れるとともに彼女への想いも次第に薄れていった。と
 
ころがある日、部屋にあるはずのケイタイを捜していると、ベッド
 
の下から白いTシャツが出てきた。それは以前に、容子が就職する
 
はずの大手スーパーの店舗で買ってきたパック寿司を一緒に食べ
 
ようとしていた時に、彼女が添えられている醤油の袋を切り裂こうと
 
して醤油が飛び散って汚したTシャツだった。容子は「切り口」と書い
 
てある袋を彼に見せて、彼女が切れて文句を言った時のことを思い
 
出した。容子はまるでスーパーの責任者のように憤慨し、遂には日
 
本企業のモノ造りへの意識が著しく劣化しているのでないかと彼に
 
訴えた。寛は、
 
「それは使命感がないからだよ」
 
と言うと、容子は、
 
「使命感?」
 
「だって非正規社員は言われたことをするだけで、おかしいと思っ
 
ても黙ってるさ」
 
「使命感がないから?」
 
「って言うか、聴いてもらえないから」
 
「なんで聴かないの?」
 
「多分めんどくさいんだよ、決めたことを見直すのが」
 
「そんなのおかしい」
 
「だって非正規社員なんてもう機械と一緒なんだから」
 
「寛もバイトでそんな経験したことがある?」
 
これまで非正規社員として数々のバイトをしてきた寛が、
 
「何度もある」
 
と答えて、
 
「それどころか、余計なことを言うなと叱られたこともあった」
 
と言った。そして、かつて日本製の品質の高さをもたらしたのが安定
 
した雇用に支えられた作業者の使命感から生まれたとすれば、不安
 
定な雇用の下で使命感を持たない作業者の姿勢が品質に反映され
 
ないはずがない、と言うと、容子はTシャツに飛び散った醤油を拭き
 
取る手を止めて黙ってしまった。
 
 それは一年前の思い出だった。今になって、就職が決まって夢を
 
膨らませている容子に焦りから冷水を浴びせるようなことを言ったこ
 
とが恥ずかしくなった。寛はケイタイを捜すことなど忘れて、そのTシ
 
ャツを鼻に近づけて微かに残った彼女の匂いを嗅ぐと、消えていた記
 
憶が鮮やかに甦ってきた。
 
 すぐに、自分のTシャツを渡して着替えるように言うと、容子はその
 
場で醤油の飛び散ったTシャツを躊躇わずに脱いで下着だけになった。
 
そしてすこし頭を傾げて寛を斜めから覗った。寛は容子の眼を見て近
 
づき彼女の肌に触れた。そして、ふたりはそれだけは決して機械が為
 
し得ない生産的な行為に耽った。テーブルの上のパック寿司は蓋が開
 
いたままで手も付けられずに、食べようとした時にはすでに乾ききって
 
いた。
 
 思い出に浸る寛は、容子の匂いがするTシャツに顔を埋めた。
 
 
                       (つづく)
 

「明けない夜」 (3)

2017-08-23 22:02:22 | 「明けない夜」1~6
           「明けない夜」
 
            (3)
 
 
 契約社員としての警備員の仕事はその日その月を凌ぐだけで精一
 
杯だったが、協働で作業しなければならない仕事よりはうんと気が
 
楽だった。とは言っても、例えば交通誘導員の仕事は逐一無線で相
 
方の指示に従わなければならないし、何よりも勝手に持ち場を離れ
 
るわけにはいかなかったので生理現象が催してきた時には困った。
 
仕方なく衆人の眼の届くところで用を足したこともある。主に野外
 
での任務がほとんどで、穏やかな日ばかりではなく、猛暑や酷寒の
 
日でも、そして雨が降ろうが槍が降ろうが旗を振らなければならか
 
った。つまり、人への気遣いから解放されたからといっても決して
 
楽な仕事とは言えなかった。始業前にラジオ体操が始まり朝礼が終
 
わって持ち場に着くと、その場を離れられない現実に拘束された自
 
由意思は思索へ遁れようとした。赤い旗を上げろとか白を下げろと
 
かの指示に体は無意識に反応しても、頭の中は作業とはまったく関
 
係のない想念で満たされた。仮に、それらすべての想念を文字化し
 
て記述できたとしても、たぶん仕事に関する一言の言葉も見当たら
 
なかっただろう。つまり、彼もまたその仕事に対して使命感を持て
 
なかった。
 
 「どうして自分はこんな境遇に陥ってしまったのか?」
 
と、寛は紅白の旗を上げ下げしながら考えた。それまでにも不採用
 
通知が届く度に自分の不甲斐なさに落ち込んだが、しかし彼ひとり
 
だけが就職できなかったわけではなかった。実際、希望する会社に
 
上手く就職できた者など自分の周りでも限られていたし、また、希
 
望する会社に就職したはずの先輩たちの話を聴いても将来の明るい
 
見通しを口にする者などいなかった。それどころか会社に馴染めず
 
既に辞めてしまった者さえいた。それらの情報に接して次第に自分
 
だけが著しく劣っているわけではないと自らを慰めた。やはり、長
 
引く経済成長の停滞によって社会に歪みが生じ、そのしわ寄せが「
 
ロスジェネ」を生み、さらにグローバル経済によって「失われた二
 
十年」へと継がれて今に至っているのだ。そして、多分それは一時
 
的な停滞だとは思えなかった。これまでの国家間格差がグローバル
 
化によって国境の壁が低くなったために国内格差へと移行し、どこ
 
の国でも貧富の格差が拡大している。これまで一人に一個のリンゴ
 
が分け与えられてきたとすれば、これからは一個のリンゴを二人で
 
、否もっと多くの人と分かち合わなければならなくなるだろう。だ
 
とすれば、われわれはこれまで望んでいた豊かさを見直すかそれと
 
も分かち合うべき豊かさを他人から奪い取るかしか残されていない
 
。彼は、奪い合うこと、つまり本来の目的を見失う競い合いからい
 
つも身を引いてしまうので、いま身を置く境遇を甘んじて受け入れ
 
るほかないと悟った。そして、これまで斯くあるべきと望んでいた
 
理想を見直して、いま在ることの中から喜びを見つけ出すしかない
 
と思った。 
                        (つづく)
 

「明けない夜」(4)

2017-08-23 22:00:38 | 「明けない夜」1~6
        「明けない夜」
 
          (4)
 
 
 
 道路工事につき合って交通規制をしていると、何もわざわざ道路
 
の真下に上下水道のヒューム管を埋設しなくたっていいのじゃない
 
かと思えてくる。あっ、「ヒューム管」とは土管のことで、何でも
 
オーストラリアのヒューム兄弟が円筒形の型枠を回転させ遠心力に
 
よって強度を高める製造方法を考案したことからそう呼ばれてて「
 
何だ人の名前だったのか」と思ったが、どうせ今埋め戻している道
 
路もまたすぐに掘り返すことになるだろうという思いが継ぎ接ぎだ
 
らけのアスファルトを見ていると予測できる。たぶん、土地の所有
 
権とかがあって埋設できるのは道路の下しか残されていないからだ
 
ろうが、それならもっと弄りやすい路側帯か歩道の下に敷けばい
 
いのにと思いながら、通行規制の停止線で止まっている先頭の車に
 
白旗を上げて発進を促すと、ドライバーはスマホに夢中でまったく
 
気付かない。スマホが出てから誰もが現実から遁れて架空の世界
 
へ逃げ込む。「ロマンチシズム」を現実逃避と訳するなら、ネット文
 
化とはロマンチシズムそのものだ。スマホは退屈な現実からワンタ
 
ッチで「ここ以外の何処かへ」誘ってくれる夢の装置なのだ。遂に人
 
間は「退屈」を克服したのだ、ただ、目の前の現実を犠牲にして。仕
 
方なく先頭の車に注意しようと車の運転席側へ近寄ると、後ろの車
 
がクラクションを鳴らした。運転手はすぐに気がついて車を急発進さ
 
せた。そして目の前に居る私に気付くと咄嗟にハンドルを切った。
 
すると進入を防ぐために並べてあるカラーコーンに接触して5本ほど
 
なぎ倒して、それでもスピードを落とさずに走り去った。幸いにもコー
 
ンは工事車線に飛び散ったので後続車の妨げにはならかった。すぐ
 
に無線で相方に連絡して止めさせようとしたが、
 
「ああ、今走って行ったわ」
 
間に合わなかった。相方は、
 
「そんなことより、監督が今日はもう終わりだってよ」
 
「えっ、何で?」
 
「そんなこといちいち教えてくれないさ」
 
「何かあったのかな?」
 
「そうに決まってるだろ。5時までの予定だったんだから」
 
「またですか」
 
2週間前から始まった工事はこれまでにも二度途中で中止になった
 
。一度は測量ミスが原因でもう一度は何か教えてくれなかった。相
 
方は多分事故に違いないと言った。どの作業者もその原因について
 
口を開かなかったから、隠そうとするのは事故以外考えられないと言
 
った。
 
「いいじゃねえか、日当分は出るんだから」
 
「まあそうですけど」
 
「じゃあ午前12時から全面規制解除して本日の作業終了。会社の
 
方には俺が連絡しておく、以上」
 
「はい、了解しました」
 
おそらく三十はすでに超えていると思われる相方は、この仕事に就
 
く前は自衛隊にいたらしい。朝礼の前に少し話すだけでそれ以上の
 
ことは知らなかったし、知りたくもなかった。駐車場の片隅で制服
 
から私服に着替えてると、相方は、
 
「一杯付き合わないか、奢るよ」
 
「いやあ、自転車なんで」
 
「いいじゃないか、自転車なら。車じゃないんだし」
 
そこから自分の部屋までは自転車で優に一時間は掛った。そ
 
れに、見知らぬ街並みを自転車で走ることは決して嫌いではな
 
かった。だから覚束ない意識でペダルを踏みたくはなかった。誘
 
いを断ると、
 
「なんだ、付き合いの悪い奴だな」
 
「すみません」
 
実際、他人と付き合うことが鬱陶しかった。それどころか毎日
 
のニュースでさえも見出しが目に入ってもまったく関心が湧か
 
なくって記事を読む気にならなかった。いつの間にか自分だけ
 
が置いてけぼりにされたような、社会を共有しているという実感
 
がまるでなかった。だったら、いまさら社会に従って自己変革を
 
迫られて自己喪失するよりも、自己本位に従って自己満足して
 
いる方がずっと健全だ、と思った。 
                      (つづく)
 

「明けない夜」 (5)

2017-08-23 21:59:07 | 「明けない夜」1~6
             「明けない夜」
 
               (5)
 
 
 自転車で街の中を駆け抜ける爽快さは、街や通行人を置き去りに
 
して走り去る快感だ。それなら車やバイクの方がもっと速く走り去
 
ることができると言うかもしれないが、それらは自らの運動によっ
 
て車を走らせているのではないから実感が湧かないし、一瞬で通り
 
過ぎるために周りと間に感情の摩擦が生じない。摩擦のないものを
 
置き去りにすることはできない、ただ通過するだけだ。ドライバー
 
はドアを閉めた瞬間に周りから隔てられて世界を共有できなくなる
 
。たとえば、自転車を漕いで10キロ走った時の実感は、車で10
 
0キロ走ったとしても決して得られないだろう。諸々の感情は運動
 
からもたらされるのだ。運動と繋がっていないスピードに実感が追
 
い付かない。例えば、新幹線の駅のホームで通過する「のぞみ」を
 
見ても、「のぞみ」は一瞬で消え去って感情の取り付く「暇」がな
 
い。だから「のぞみ」を待つ人々は押し並べて言葉少なで、仮に個
 
人的な話でもしようものなら場違いに気付いて「空気を読んで」口
 
を噤む。すでに東京は到る所が所謂「近代社会」を象徴する都市化
 
が進んで、そして新幹線の駅のホームのようなよそよそしい場所ば
 
かりになってしまった。人々は動かなければならない「不自由」を
 
奪われてしまい、つまり感性を奪われて、所作をなくして理性に身
 
を委ねるしか術がなくなり、気分に従って道草を食ったり目的以外
 
のことに関心を寄せたりすることが無意味に思えてくる。すでにわ
 
れわれ自身も自動化された社会の中を流れる規格化された人格で個
 
性を矯められて画一化を迫られ、そして規格からハズレた者はハネ
 
られる。こうして、近代都市東京では「完璧で決定的な蟻塚のよう
 
な社会が奇跡的に到来しているのを目の当たりに」できる。(ポー
 
ル・ヴァレリー「精神の危機」より引用)
 
 その日暮らしの切り詰めた生活をしていると不安が先立つ。彼も
 
「何とかして貯蓄を残しておかないと」と思い、家賃の安い部屋に引
 
越すつもりでいた。だから自転車で走っていても途中の街の様子だ
 
ったり「空室あり」と貼紙されたアパートに目がいった。それどころか
 
、もしも失職して収入が途絶えた時のことまで想定して、かねてより
 
寝袋を買っておこうと思っていたので、時間があったのでホームセン
 
ターに立ち寄って、さんざん迷って一番高価なものを買った。実際、
 
家賃の振込が遅れて何度か督促されて、ホームレスになってしまう
 
不安を感じたこともあった。そんな時に、たとえば自分が女で、身を
 
任せることにさえ耐えれば何カ月分かの生活費を手にすることがで
 
きるとすれば、後々の後悔など犠牲にすることにそれほど迷わなか
 
っただろう。
 
 途中でラーメン屋が目に入って空腹を覚えたのでペダルを漕ぐの
 
を止めた。特別にラーメンが好きというわけではなかったが、何よ
 
りも早く食えるのでこの頃はラーメンばかり食っていた。東京はや
 
たらラーメン屋が増えたが、ただラーメンが美味しいからという理
 
由よりも気軽に「早く」食えることから人気があるのじゃないだろう
 
か。つまり麺類は日本に古くからある食べる者にとっての「ファスト
 
」フードなのだ。だからラーメンを並んでまでして食べたいとはまっ
 
たく思わなかった。もしも、味覚というものが口の中で咀嚼すること
 
から生まれるとすれば、たぶんラーメン好きの者は味覚オンチに違
 
いない。何しろ咀嚼などせずに一瞬で呑み込むのだから味なんて覚
 
えない、ただ通過させるだけだ。その店もかつては行列ができるほ
 
どの人気店だったが、最近では次々に現れる新しい店に客足を奪わ
 
れて落着いてしまった。昼時が過ぎて客も疎らになった店内に入って
 
カウンター席に座ると、応対してくれた店員に見覚えがあった。その男
 
の顔を見ながら「誰だったかな」と思い出そうとしていると、相手も同じ
 
ように自分の顔をじっと見て、
 
「高橋?」
 
と、寛の名前を言った。するとすぐに寛も、
 
「もしかして大島?」
 
と彼の名前を思い出した。彼とは経済学部の同期生で一時期よく話をし
 
たが、寛が転部してからは会わなくなり、留年してすっかり忘れてしまっ
 
た。ただ、彼の方は二年前に卒業してリクルーターが羨む大手商社に就
 
職したと人の口から聞いていた。だから寛は、
 
「何で、こんなとこに?」
 
と言ってしまった。彼は笑いながら「ああ」と言って、会社を辞め
 
てしまったことを打ち明けた。そして、
 
「簡単に言ってしまえばさ、世の中って搾取する者と搾取される者
 
がいるだけなんだ。もちろん何をするかもあるけどさ」
 
「じゃ、搾取する側になるためにラーメン屋を選んだのか?」
 
「って言うか、もうそういうのにうんざりして、独りでも食ってい
 
ける仕事を探してたんだ」
 
奥で腕を組んでいた店長と思しき中年の男が、
 
「おい、大島!余計なことばかり言ってねえでさっさと注文訊かね
 
えか」
 
と怒鳴った。彼は首を竦めて、いずれ独立して自分の店を始める
 
つもりだ、と小さな声で寛に言った。
                        (つづく)