「明けない夜」(十)―⑩ 

2017-08-23 08:51:16 | 「明けない夜」10⑩~⑩―10

        「明けない夜」  

        (十)―⑩ 

 

 あまりにも痛ましい話にどう応じていいのか分からず黙って聞いてい

たが、彼女がビールを飲み終えるとわたしは立ち上がって、

「もう一本飲みますか?」

と、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出して差し出すと、彼女は「ありが

とう」と言って二本目の缶ビールのプルタブを開けた。そして一口流し

込むと、

「誰かに追い駆けられる夢って見たことあります?」

と聞いた。私は、

「あ、子供のころに何度か見たことがある。おれ、実は走るのが遅くっ

て運動会とか苦手でさ、どうすれば速く走れるのか悩んでいた時に、い

くら足を動かしても全然前に進まない夢をみたことがある」

「へえー、あるんだ。わたしね、足が悪くなってからいつも誰かに追い

駆けられる夢を見るの。それで必死に逃げようとするんだけれどまった

く足が動かないの」

「それで」

「んーん、ただそれだけなんだけど、焦っているうちに目が覚めて気が

つけば体中が汗びっしょりになってる」

「ふーん」

「不自由な身体って言うでしょ、目が覚めた時にわたし体の自由を失っ

たんだと実感した。自由っていうのは思い通りに動けることなんだと思

った」

「なるほど」

「でも、街を歩くと他人の同情的な視線に耐えられなくなって出歩けな

くなってしまった」

「辛かったでしょうね」

「それで人目の少ない夜に出歩いていると、昼と夜の生活が逆転してし

まって、するとどんどん社会から取り残されて、いったい自分は何のた

めに生きてるのか、生きてる意味がわからなくなった」

「・・・」

「それから三年くらい部屋に引き籠って死ぬことばかり考えていた」

「でも死ななかった」

「ええ、死ねなかった」

「あなたは強い人ですね」

「えっ、強い?」

「ええ、そんなに辛い目に遭っても死ななかった。つまり自分に負けな

かった」

「自分に負けなかった?」

「だっていま生きる意味がわからなくなったって言ったじゃないですか。

生きる意味がわからなくても死ななかった」

「でもそれって強いのかしら」

「命が自分の思い通りになるなら、たぶん人間なんてとっくの昔に絶滅

しているよ。何のために生きているのかわかって生きている者なんて誰

も居ないんだから」

「じゃあ、みんな何のために生きているのかわからずに生きているの?」

「あなたがこうして生きていることに意味があって、何かのために生まれて

来たわけじゃない」


                      (更新優先で、つづく)


「明けない夜」 (十)―⑩―2

2017-08-23 08:47:56 | 「明けない夜」10⑩~⑩―10

               「明けない夜」

               (十)―⑩―2

 

生物学を勉強していると、例えば顕微鏡でゾウリムシなどの原生生物

を観察していると、次第に彼らと自分の違いが分からなくなってくる。

もちろん構造そのものは比ぶべくもないが、ただ存在することの違いに

、つまり我々だけが何か特別な存在だとは思えなくなってくる。もしも

彼らが意味のない存在だとすれば、構造がどれほど複雑に進化したとし

ても存在の意義が新たに生まれてくるとは思えなかった。

「意味などないですよ、生きることに」

私は自分に言い聞かせるように吐き捨てた。

「虫なんかと一緒にしないでよ」

「じゃあ一体何が違うんですか?」

「だって、・・・」

「生命体を構成する物質なんてまったく同じなんだよ。そしてタンパク

質を作るアミノ酸は炭素、酸素、窒素、水素がほとんどで、それらの物

質のどこを探しても心や精神といった形而上の根源は存在しない。つま

り生存の意味なんてイリュージョンですよ」

「じゃあ私の悩みも妄想だと言うの?」

「ええそうです、そもそもモノに心なんてありませんよ」

「でも、モノと生きものは違うじゃない」

「ええ、違います。でも、何故物質が結合して命が芽生えるのかは解

っていません」

 わたしは確とした思いがあって経済学部に進んだ訳ではなかったが、

身近に国際政治学部を出た先輩が就職できずに生活のため仕方なく新聞

配達をして糊口を凌いでいるのを見て、就職に有利な学部を選ぼうと考

え直して本来は目的であるはずの学問を経済の手段に貶めた。その結果

は明白で関心のない授業について行こうとも思わなくなり、遂には出席

することさえ苦痛になっていたが、たまたま出席した授業でマルクス経

済学を知りそして夢中になった。やがて「資本論」を読んでいるうちに

資本主義経済の剰余価値を産む仕組みが生命体が細胞分裂して増殖する

仕組みと似ていることに気付いて、資本主義経済を知るために生物学部

へ転部した。そして様々な生物を眺めているうちに「なぜ彼らは動ける

のか?」という単純な疑問が頭に浮かんだ。生物を自ら動くことのでき

る様々な物質の結合体と定義すれば、もちろん植物さえもゆっくりでは

あるが動いているのだが、それらが自ら動くことの出来ない物質が結合

して生成されるとすれば、そこには一体如何なる秘密が隠れているのか

知りたかった。生命体を形成する物質は共有結合した分子で、分子は原

子からなり原子は電荷を持った素粒子からなっていて、それらの電荷は

引力や斥力として他者に作用して結合や反発をもたらす。つまり、物質

を構成する原子はただ存在するのではなく電荷を帯びて動いていた。

そして結合を繰り返しながら長い変遷を経て有機結合した分子はその

エネルギーを運動に転化させた。それを生命体と呼べるかどうかは別

にして、まず初めに存在があってやがてそれらが動き出して、そして運

動の選択が様々な「思い」を残したのだ。つまり、運動は精神に先行す

るのだ。

 そのあと、わたしは世界を知るには素粒子しかないと思って物理学部

への転部を考えたが、信頼する先生から、「君は前に進まないで横に転

がってばかりだな」と言われて諦めた。

                       (つづく)

 

 


「明けない夜」(十)―⑩―3

2017-08-23 08:46:43 | 「明けない夜」10⑩~⑩―10

          「明けない夜」

          (十)―⑩―3

 

 しばらく沈黙したあとで彼女は、

「命はモノと違うと言うならそもそも心とか精神の根源がモノに無くた

っていい訳でしょ?」

と言った。わたしは、

「ええ」

としか答えられなかった。唯物論は存在について語ることが出来ても、

心や精神についてはその術がなかった。そして人間、わけても社会的人

間にとってはむしろ心や精神の方が重要なのだ。

「確かにそうかもしれません。だとすれば心や精神といったものは生命

の誕生によってもたらされたということになる」

わたしは考えて言った言葉があまりにもありきたりだったのですぐに後

悔した。心や精神といったもの、簡単に言ってしまえば「良いと悪い」

は、物質の結合によって芽生えた生命がその命を存続させるために進化

を余儀なくされ、更なる結合と排斥を繰り返えして存続を維持するため

にもたらされた記憶がもたらす一種の感覚のようなものでしかないと思

えた。そしてその根源を遡れば素粒子が持つ電荷の性質に辿り着いた。

エネルギーとしての素粒子は絶えず運動をしながら他者との結合と排斥

を繰り返して安定した原子へ転化し、原子もまた同じシステムで分子を

作る。たとえば、集団に身を委ねて生存する個体は集団の存続こそが自

己の生存を左右する限り、集団つまり社会から何らかの恩恵を受けて安

定した生活を得ている個人にとって、社会つまり国家に対して自らの生

活を不安定化させるようなことがらを排斥しようとするのは至極当然で

、我々が右翼思想だとか国家主義だとかという政治思想とは、簡単に言

ってしまえば自己を守るための手段に過ぎず、国家から受ける恩恵の差

が思想の濃淡の差となっているだけで、欲望を充たすための手段に過ぎ

なかった思想がやがて目的へと転化して精神を生む。つまり、心とか精神

とは我々が生存していくための手段であって、手段が目的へと転化して生

存を凌駕するのは倒錯ではないか。何故なら、存在は心とか精神に先行す

るからだ。


                        (つづく)

 


「明けない夜」 (十)―⑩-4

2017-08-23 08:45:37 | 「明けない夜」10⑩~⑩―10

       「明けない夜」

       (十)―⑩-4

 

しばらくして彼女が言った、

「仮にモノの世界がそうだとしても私は人間なんだから人間として生き

たい」

わたしは、

「ええ尤もです」

と答えるしかなかった。すると彼女は、

「でもあなたの仰ったことが全く受け入れられない訳じゃない。それど

ころか何か救われたような気持ちがする」

その言葉は意外だった。果たして彼女にとって心とか精神が存在しない

物質への回帰が救いなのだろうか。わたしは、

「えっ、救われた?」

と聞き返した。そもそもすべての宗教はたとえ死んでも魂だけは滅ばな

いことが大前提であり、その魂の救済こそが宗教の最大の目的である。

もしも死と共に魂も消滅するとすれば宗教的救済は成り立たない。しか

し彼女は魂の消滅こそが救いだと言った。そして、

「私ね、どうしてこんなことになっちゃったんだろうってずっと悩んだ

わ。宗教の本なんかも読んだりしたけど、でも来世の救いなんていらな

い。もしも救いというものがあるなら元の体に戻してほしい」

そう言うと、テーブルの上の缶ビールを手に取ったがすでに空だったの

でそのままアルミ缶を握り潰した。そして、

「でも、あなたが言うように死んだらモノに帰るとしたら誰も死を避け

ることはできないんだから、なんて言ったらいいのかしら、つまり死の

下では誰もが平等ってことでしょ。つまり、どんなに苦しんで生きたと

しても何れは死が解放してくれる。だったらどんな辛いことだって受け

入れられるような気がするの。それなのに宗教は来世で救うという、終

わらせてくれない」

「だって魂は不滅だもん」

「さっきあなたは存在は精神に先行するって言ったでしょ。それを聞い

てハッと思ったの。どうして今までそんなことに気付かなかったのかし

ら」

「前にね時間を持て余して図書館に入ったことがあって、別に読みたい

本があった訳じゃなかったが、そして何気なくサルトルの本を手に取っ

たら、そこに『実存は本質に先行する』という一行があったんだ。その

時ぼくは今の君のようにそう思った」

「えっ、サルトル?」

「そうサルトル。フランスの有名な作家」

「ふーん」

「でもね、ハイデガーというドイツの哲学者はそれを聞いてそんなもの

はこれまでに何度も転換を繰り返してきたと嗤いながら言ったんだ」

「えっ、どういうこと?」

「つまり時代が変わればすぐに実存よりも本質が先行するって。そして

彼はそもそも哲学的問題を事実存在と本質存在に分けたとしても問題の

本質は何も変わらないと言った。つまり『何のために生きているか』と

考えた時にすでにその答えは本質存在に限定されてしまうと言うのです

。あなたはさっき人間として生きたいと言いましたよね」

「ええ」

「じゃあ人間としていったいどう生きたいと思ってます?」

「理性を失わずに生きることかしら」

「そうです!まさにハイデガーはわれわれの理性こそが事実そのものを

見失わせて本質へ向かわせると言うのです」

「あのー、本質って何んですか?」

「ああ、レーゾン・デートルって存在理由でよかったっけ、さっきあな

たは生きる意味がないと言いましたけれど簡単に言ってしまえばそうい

うことじゃないかな」

「生きる意味ってこと?」

「ええ、そもそも本能だけで生きる動物はそんなことを考えたりはしな

い。敢えて言うならただ生きるために生きている」

「なるほど」

「ところがわれわれの理性はただ生きるだけでは満足できなくなって存

在理由、つまりその本質を求めて遂には生きることを手段におとしめる

彼女はしばらくしてから、

「まあ、あなたの言うことが理解できないわけじゃないけど今の私には

ピンと来ないわ。だって理性を失くしてどうやって生きていけばいいの

、動物のように生きろと言うの?」

「いや、あくまでも理性は生きるための手段であって命を手段にしては

いけないと言っているんです、そもそも命は何かのために生まれてきた

わけじゃないんだから」

そう言うとわたしは手の中で温くなったわずかに残った缶ビールを喉に

流し込んだ。

                          (つづく)


「明けない夜」 (十)―⑩―4のつづき

2017-08-23 08:44:18 | 「明けない夜」10⑩~⑩―10

        「明けない夜」

        (十)―⑩―4のつづき


すると彼女は、

「でもそもそも生きることに意味がないと言うなら、だから死ぬという

ことがそんなに間違っているとは思わないんだけど」

「だって意味がないから死ぬということはつまりは生きることに意味を

求めているってことでしょ。ぼくはその認識が間違っていると言ってる

んですよ」

彼女はしばらく考えてから、

「何だかわけが分からなくなっちゃった。あなたは私が自殺するかもし

れないと思っているのかもしれないけれどもうそんな気はないわ。ただ

事故の後それまでと同じように生きていくのが辛くって、それで東京を

離れようと思ったの」

わたしはその言葉を聞いて少しほっとした。と言うのも彼女が缶ビール

を傾けた時にその袖口から覗いた手首には鮮やかな朱色のケロイド状の

傷跡があったからだ。それは明らかに自傷によるものだった。それを目

にしてからわたしはそのことが頭から離れなったがそのことに触れよう

とはしなかった。彼女は続けた、

「東京で暮らしているとね、回りの目ばかりが気になって気持ちが後退

りして心まで片輪になってしまう」

そう言うと彼女は、抑えきれなくなった感情の昂りを吐き出すように泪

を流しながら、

「いったい自分は何をすればいいのか分らなくなって、生きていても意

味がないと思って、もしそれがあなたの言うように理性の所為なら、理

性を棄てて東京で生きていくことなんて出来ないわよ」

まったく彼女の言うとおりだった。東京では、否、われわれの理性は、

そもそも目的であったはずの生きることを手段へと堕落させ目的を失っ

た存在は生きる意味を失う。そもそも文明社会とは人間が生きるための

手段であったはずだが、目的を見失った存在に取って代わって手段であ

った社会が目的化する。こうして東京では存在そのものが意味を失い社

会こそが意味を有する。


                          (つづく)