「二元論」(8)のつづきの続きの・・・

2021-10-24 13:56:18 | 「二元論」

    「二元論」


     (8)のつづきの続きの・・・つづき


 古代ギリシャの思索家ヘラクレイトスが説いた「万物は一つであ

る」(ヘンパンタ)という思想は、たとえば私という実存はやがて

命を終えれば亡骸となって土に帰り、いずれその粒子は草木となて

よみがえり花を咲かせて種を残し、ふたたび土に帰ることを永遠に

繰り返す「同じものの永遠なる回帰の思想」(ニーチェ)にほかなら

ない。それは仏教用語の「身土不二」に近いかもしれないが、つま

り時間を無視すれば、私とは今はたまたま人間として存在するが、

私を構成する粒子はかつては、そしていずれは、土であり、水であ

り、花であり、そしてそれらはこの世界を永遠に回帰する「世界=

内=存在」の一部である。だとすれば、この〈世界〉が人為によっ

て汚染されて自然循環が妨げられ再生が滞れば、いずれわれわれの

生存にも少なからぬ影響が及ぶ。これまでは〈規模〉の「小ささ」

から無視することができた環境負荷に対しても「我々はつねに自分

自身に問わなければならない。もしみんながそうしたら、どんなこ

とになるだろうと。」(J.P.サルトル)つまり、科学技術とは「み

んながそうすれば」大量消費によって排出される厖大なゴミの循環

再生が間に合わなくなって生成としての環境破壊を引き起こす。そ

の原因は、人間が作り変えた自然は「万物は一つ」(ヘン・パンタ)

に回帰し再生されないことからもたらされる。 

 そもそも、初期のハイデガーは〈存在了解〉の下で「現存在(人間)

が存在を規定する」と考えて「おそらくは〈存在=生成〉という存

在概念を構成し、自然を生きて生成するものと見るような自然観を

復権することによって明らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッ

パの人間中心主義的文化を覆そうと企てていたのである。」(木田元

『ハイデガーの思想』) ところが、「人間中心主義的文化の転覆を人

間が主導権をとっておこなうという」自己撞着に気付いて〈思索の転

回(ケ―レ)〉を余儀なくされ、主著である「存在と時間」は執筆の途

中で断念せざるを得なくなった。その〈思索の転回(ケ―レ)〉とは、

「存在が人間を規定する」のか、或は「人間が存在を規定する」のか

という二元論的選択だが、もちろん近代社会は「人間が存在を規定す

る」という考えの下に人間が主体となって〈存在=現前性=被制作性〉

という存在概念に従って、自然を制作のための単なる資料・材料と見

做し科学技術によって世界を作り変えてきた。しかし、人間が作り変

えた世界とは再生されない〈非生成〉の世界であり、たとえば廃車に

なった自動車が、生命体が新しく生れ変るように、循環再生によって

新車に生まれ変わることはない。近代社会を維持し続けていくためには

限られた自然を資料・材料にして無限に製品を制作し続けなければなら

ないが、それは「いずれ」ゆきづまることは明らかである。だからと言

って、「いずれ」ゆきづまる人間中心主義的文化を人間によって覆そう

という企てるのは確かに自己撞着かもしれない。それは存在を規定しよ

うとする自己と、存在に規定される自己の分裂した立場の違いから生じ

る矛盾である。〈思索の転回(ケ―レ)〉の後のハイデガーは、「この形

而上学の時代、存在忘却の時代に、我々に何がなしうるのか」(同書)と

問われれば、「失われた存在を追想しつつ待つことだけ、と考えていた

ようである。」ところが、いまや地球温暖化といった近代社会が引き起

こすさまざまな環境問題が噴出して、ハイデガーが「もう一度自然を生

きて生成するものと見るような自然観を復権」させるために覆そうと企

てた人間中心主義的文化が見直されようとしている。驚くべきことに1

00年の時を経てハイデガーの存在論が〈現前化〉しようとしているの

だ。つまり、環境破壊によって世界は「存在が人間を規定する」という

存在概念への大きな時代の転換を余儀なくされ、「自然を生きて生成す

るものと見るような自然観を復権する」ことが求められている。そこで

は、人間とは〈世界=内=存在〉であり、そして「万物は一つである」

(ヘン・パンタ)という考え方、つまり、〈万物〉を「本質存在」と「事

実存在」に二元化して思惟する形而上学的思考、それは永遠不変の〈真

理〉を追究する科学的思考にほかならないが、しかし、「万物は一つで

ある」とすれば、存在概念を二元化して自然を単なる資料・材料として

見做して生成変化しない非生成を大量に作り出す科学技術は、変遷流転

する生成の世界とはそぐわない。

                          (つづく)


「二元論」 (8)のつづきの続きの・・・

2021-10-08 07:30:29 | 「二元論」

    「二元論」


     (8)のつづきの続きの・・・


 「万物は一つである」という思想は、たとえば私という実存はやが

て命を終えれば亡骸となって土に帰り、いずれその粒子は草木となっ

てよみがえり花を咲かせて種を残し、ふたたび土に帰ることを永遠に

繰り返す「同じものの永遠なる回帰の思想」(ニーチェ)にほかならな

い。それは仏教用語の「身土不二」に近いかもしれないが、つまり時

間を無視すれば、私とは今はたまたま人間として存在するが、かつて

は、そしていずれは、土であり、草木であり、花であり、そしてそれ

らは同じ世界を永遠に回帰する「世界=内=存在」の一部である。つ

まり、この〈世界〉が人為によって汚染されて自然循環が変異すれば

、いずれわれわれの生存にも少なからぬ影響が及ぶ。これまでは〈規

模〉の「小ささ」から無視することができた環境負荷に対しても「我

々はつねに自分自身に問わなければならない。もしみんながそうした

ら、どんなことになるだろうと。」(J.P.サルトル)

 後期のハイデガーは、「この形而上学の時代、存在忘却の時代に、

我々に何がなしうるのか」(木田元『ハイデガーの思想』)と問われれ

ば、「失われた存在を追想しつつ待つことだけ、」(同書)と考えてい

たようである。ハイデガーは「人間中心主義的文化の転覆を人間が主

導権をとっておこなうという」自己撞着によって〈転回〉を余儀なく

されたが、それは「存在が人間を規定する」のか、或は「人間が存在

を規定する」のかという二元論だが、もちろん近代社会は「人間が存

在を規定する」という存在論の下に〈存在=現前性=被制作性〉とい

う存在概念によって自然を制作のための単なる資料・材料と見做して

科学技術によって世界を作り変えてきたが、しかし、人間中心主義的

文化がもたらした環境破壊によって「待つことだけ」(同書) しかでき

なかったハイデガーの思想が今まさに100年の時を経て甦ろうとし

ている。つまり、環境破壊によって、世界は「存在が人間を規定する」

という存在概念への〈転回〉を余儀なくされ、人間とは〈世界=内=

存在〉であり、そして「万物は一つである」という「反」形而上学的

世界観へと回帰せざるを得ない。

                            (つづく)


「二元論」(8)のつづきの続き

2021-10-06 05:15:03 | 「二元論」

    「二元論」


     (8)のつづきのつづき


 ヘラクレイトスが唱えた「万物は一つである」(ヘン・パンタ)とい

う思想は、それは〈存在〉を一元的に捉える存在概念だが、しかし、

〈存在〉を二元的に捉える形而上学(メタ・ピュシス)的思考とは根本

的に異なる。形而上学は存在を永遠不変の真理としての「本質存在」

と、生成変化する非真理としての「事実存在」に二元化して、「本質

存在」の「事実存在」に対する優位性は揺るがない。そして形而上学

的思考を受け継ぐ科学技術は、自然(ピュシス)を単なる資料・材料と見

做して人間中心主義(ヒューマニズム)的文化の下で、「人間にとっての

価値」でしかない製品と無価値のゴミに分別され、今やわれわれはわれ

われが作り変えた「非」自然が循環性を失って再生されずに滞って環境

を変化させている。〈存在〉を「真理」と「非真理」に二元化する形而

上学的思考は「万物は一つである」〈生成〉の一元的世界を否定して、

生成としての存在であるわれわれ自身を否定しようとしている。

                       (つづく)の続き


「二元論」 (18)のつづき

2021-10-03 11:21:48 | 「二元論」

     「二元論」


      (18)のつづき


 ソクラテス以前の思想家たち、いわゆる「フォアゾクラティカー」

(独:Vorsokratiker) はいったい〈存在〉をどのように考えていたのだ

ろうか。『ヘラクレイトスの言葉として伝えられる「ヘン・パンタ」

は、通常「万物は一つである」と訳されるが、ハイデガーはこれを「

一なるもの(存在)がすべてのものを存在者としてあらしめる」、つま

り〈存在〉という視点が設定されることによって、その視野のうちに

集め(レゲイン)られるすべてのものが〈存在者〉として、〈在るとされ

るあらゆるもの〉として見られることになる、という意味に解する。

〈存在〉とは〈一つに集める(レゲイン)働き〉であり、その意味で〈ロ

ゴス〉(レゲイン→ロゴス)だというのである。」(木田元『ハイデガーの

思想』) つまり、存在するあらゆるものはすべて〈存在〉という束にま

とめられて、それぞれが同じ一つのものから派生したと言うのだ。そし

て「万物は一つである」とすれば、〈存在〉を「本質存在」と「事実存

在」に二元化する〈形而上学〉は成り立たなくなる。それとは反対に宇

宙の始まりを説く「ビッグバン理論」はまさに「万物は一つである」を

科学的に証明してるように思える。私を構成する物質の一つが、はるか

彼方の宇宙の果ての星を構成する物質の一つとビッグバン以前には同じ

だったことに驚きを感じないわけにはいられない。そして、私と世界が

「同じ一つのもの」であるとすれば、世界と同じである私が、世界を別

の認識によって了解することなどできるはずはない。もしも、万物以外

に永遠不変の〈真理〉が存在するとすれば、「万物は一つである」の命

題は破たんすることになる。

                      とりあえず(つづく)        


「二元論」 (18)  

2021-09-29 00:40:39 | 「二元論」

      「二元論」


       (18)


 
 「存在とは何であるか?」と〈真理〉を問う〈形而上学〉(meta-

physis)は、直訳すれば「超ー自然」という意味ですが、それはソク

ラテスを師と仰ぐプラトンとアリストテレスから始まった。プラトン

は、そもそも〈真理〉とは永遠不変だとすれば、たとえば、いま私は

存在しているが、しかしいずれ死んで存在しなくなる謂わば〈仮象〉

の存在でしかない。だとすれば、「私は存在する」という事実は永遠

不変の〈真理〉であるとは言えない。私という存在の〈真理〉は事実

そのものにはなく、肉体が滅んだあとの〈精神〉こそが永遠不変の〈

真理〉であると考えた。つまり「事実としての存在」と「本質として

の存在」を区別して、「本質存在」こそが「真の存在」であると「イ

デア論」を説いた。こうして「事実存在」と「本質存在」を二元化す

る形而上学的思考は、のちの中世ヨーロッパでは現実の世界と神の世

界を二元化するキリスト教的世界観へと受け継がれ、近代では〈科学

的真理〉を追い求める理性へと継承される。ところが、ニーチェは「

(永遠不変の)真理とは幻想である」とプラトニズム(プラトンの思想)

を逆転させ、「存在とは(変遷流転する)生成である」と主張して、存

在を「事実存在」と「本質存在」に二元化する「形而上学的思考」を

否定した。存在を永遠不変の真理によって固定的に捉える形而上学的

思考は変遷流転する生成としての存在にそぐわないと考えた。

 「存在とは〈生成〉であり」「真理とは幻想である」とすれば、永

遠不変の〈真理〉を追い求める形而上学的思考は誤りだということに

なる。そして、形而上学的思考によってもたらされた永遠不変の科学

的真理は生成変化する存在(世界)に次第にそぐわなくなる。いま起こっ

ている環境問題は固定化した科学的真理が生成変化する世界を妨げてい

る。それでは、科学的分析を生む形而上学的思考以外に世界をどう捉え

ればいいのだろうか。ニーチェは、〈形而上学〉(meta-physis) が生まれ

る前の、つまりソクラテス以前の思想家たち「フォアゾクラティカー」

(独:Vorsokratiker) に関心を寄せる。それでは、「フォアゾクラティカー」

の思想とはいったいどういうものか。

                           (つづく)