「世界内存在」

2022-08-14 07:05:53 | 「ハイデガーへの回帰」

ハイデガーは、人間を「世界内存在」と呼んだが、「世界内存在」とは、

たとえば金魚鉢(globe )の中の金魚は、金魚鉢の外にも世界が広がっている

ことを知ったとしても、金魚鉢を飛び出して外の世界で生きて行くことは

できない。つまり金魚鉢の中の金魚はもちろん人間が手を加えなければなら

ないが、存在のすべてを金魚鉢に依存する

「金魚鉢ー内ー存在」ということになる。同様に、我々人間もまた地球

globe)を飛び出して宇宙へ出て行こうとするが、しかし生存を地球環境に

依存する人間は、宇宙を地球化することによって成し遂げようとする。

しかし、いかに宇宙を地球化したとしても、人間とは「地球環境ー内ー

存在」であることに何ら変わりはない。つまり、ただ金魚鉢を大きくしただ

のことである。

 同じ「世界ー内ー存在」であっても人間と金魚とでは世界との関わ

り方はまったく異なる。金魚の活動はすべて自然に還元される「自然

ー内ー活動」であるが、ところが、人間は高度な製作技術を獲得して、

自然を資料・材料にして人間中心主義の世界を新たに構築しようとする。

しかし、人間の手によって作られた製品は自然循環から取り残されて再生

されることはない。そればかりか、それらの技術から発生する膨大な量の地

球温暖化物質やそもそも自然界にはそんざいしないプラスチックゴミは、生

成の世界を破壊する。しかし、生成としての世界は、たとえば生物が泄した

糞尿は無数の微生物によって分解され、再び生物が摂取する養分へと生まれ

変わり、永劫回帰の循環を終わることなく繰り返す。しかし、われわれが作

る製品は非生成であって生成循環へ回帰しない。

つまり、我々が人間中心主義人間の下で作り出す製品は再び生成循環へ

回帰することはない。われわれが作るモノは生成には

そぐわないのだ。こうして、魚鉢の中に排泄された金魚の糞尿は、微生物に

よる分解が始まる前に金魚鉢全体が微生物の増殖に侵され再び金魚の養分

に回帰することはない。科学技術から作られた製品は永劫回帰する生成の世

界を妨げる。

                           (つづく)


「真理とは幻想である」(6)

2020-11-20 08:08:44 | 「ハイデガーへの回帰」

                  「真理とは幻想である」


               (6)


 われわれの理性が存在の《真理》を掌握することができないとす

れば、その結果、理性がわれわれに「生きることは意味がない」と

囁いたとしても、それほどあやまった判断だとは思えない。ただ、

それはあくまでも理性的判断であって、しかし、われわれは理性に

よって命を得たわけではない。そもそもわれわれが生れて来ること

に理性はいっさい関与していない。だから理性はわれわれの生死に

口を挟む権利はない。つまり理性とは生きるための手段でしかない

。ところが、目的を見失った者は手段にすがり、そして手段が目的

化する。世界とは無常に遷り変る生成であり、われわれが為し得る

ことはただ命を繋ぐことだけだと理性がささやくとき、われわれは

無限のニヒリズムに陥る。しかし、理性が追い求める「真理とは幻

想である」とすれば、われわれは生死を合理的判断に委ねるべきで

はない。生きて在るものとはそもそも不合理な存在なのだ。

                        (おわり)


「真理とは幻想である」(5)のつづき

2020-11-18 07:18:15 | 「ハイデガーへの回帰」

         「真理とは幻想である」


            (5)のつづき

 
「存在とは何であるか?」の答えが「真理とは幻想である」とすれ

ば、《真理》は理性によって規定されるのであるから、それは理性

の限界にほかならない。理性の限界とは、科学的実証が可能な事実

存在《仮象》については認識できても、そもそも存在者の「存在と

は何であるか?」という本質存在《真理》には的中できない。ニー

チェは、理性による形而上学的思惟はニヒリズムに陥ると言い、そ

して「芸術はニヒリズムに対する卓越した反対運動である」、或は

「芸術は真理よりも多くの価値がある」と説き、芸術、つまり創作

への陶酔こそがニヒリズムから遁れる唯一の方法であると語る。と

ころで、理性によって規定される《真理》の定義とは絶対不変の堅

固な表象であるとすれば、無常に遷り変る生成の世界を読み解くこ

とはできない。つまり、もはや理性はわれわれの存在目的を思考す

るための手段としては無価値でしかない。

                         (つづく)

 


「真理とは幻想である」(5)

2020-11-15 13:01:21 | 「ハイデガーへの回帰」

        「真理とは幻想である」

 

            (5)


 ニーチェは、西欧形而上学(metaphysica メタフィジカ)とは、ま

ず、「存在とは何であるか?」という理性による問いかけから、プ

ラトン=アリストテレスによって、存在が本質存在と事実存在に二

分され、事実存在とは遷り変る仮象の世界でしかなく、本質存在こ

そが永遠不変の真の世界であると考え、プラトンはそれをイデアの

世界と呼び、またキリスト教世界観の下では永遠不変の神の世界と

して説かれた。しかし「もしも世界が不断に変遷する無常なもので

あるとすれば」、永遠不変の真理としてのイデアも神も、いや、そ

れどころか永遠不変の真理を追い求める理性そのものさえも本質存

在を問う能力を持ち合わせていないことになる。われわれの理性は

本質存在よりもむしろ事実存在としての「仮象の真理」を解き明か

すことに適っている。事実存在としての世界は理性、つまり科学的

認識能力によって凡その世界観を構築することができたが、果たし

てそれら事実存在としての存在者の存在意義とは「何であるか?」

の答えは見当たらない。なぜなら、「真理とは幻想である」からな

のだ。

ところで「存在とは何であるか?」の答えが「真理とは幻想である」

とすれば、《真理》は理性によって規定されるのであるから、それ

は理性の限界にほかならない。理性の限界とは、科学的実証が可能

な事実存在《仮象》について認識できても、そもそも存在者の「存

在とは何であるか?」という本質存在《真理》には的中できない。

ニーチェは、理性による形而上学的思惟はニヒリズムに陥ると言い、

そして「芸術はニヒリズムに対する卓越した反対運動である」、或

は「芸術は真理よりも多くの価値がある」と説き、芸術、つまり創

作への陶酔こそがニヒリズムから遁れる唯一の方法であると語る。

ところで、理性によって規定される《真理》の定義とは絶対不変の

堅固な表象であるとすれば、無常に遷り変る生成の世界を読み解く

ことはできない。つまり、もはや理性はわれわれの存在目的を思考

するための手段としては無価値でしかない。

                         (つづく)

 


「真理とは幻想である」(4)

2020-10-18 12:13:48 | 「ハイデガーへの回帰」

         「真理とは幻想である」

 

             (4)


 世界とは不断に変遷する生成であり、永遠不変の固定化した「真

理とは幻想である」とすれば、真理に基づく固定化した科学技術は

生成としての世界にそぐわない。その対立とは「生成 対 非生成」

であり、「非生成」とはもちろん、われわれの科学技術が作り出し

た、自然循環サイクルに還元できない「固定化」した人工の物質の

ことである。いまでは専ら「サスティナブル(sustainable)持続可能

な」という言葉を良く耳にするが、科学技術の拡散が生成としての

世界の持続可能性を狭めている事は言を俟たない。もしも、「真理

とは幻想である」とすれば、われわれは真理に基づく科学技術社会

の下で、「持続『不』可能な(unsustainable)」一時的でしかない

想の時代を生きていることになる。

                        (つづく)