「あほリズム」(109)

2010-12-30 03:54:33 | アフォリズム(箴言)ではありません
             


          「あほリズム」

           (109)


 以前ポートリー(養鶏場)でアルバイトをしている時、誤ってケ

ージの扉を閉め忘れても鶏たちはすぐには逃げ出そうとはせずに、

もちろん檻から逃げ出せたとしても厳重な鶏舎から脱出することは

叶わないのだが、押し込められた狭い檻の中でまるで当惑している

ように頻りと頭を傾いで外の世界を眺めていた。すでに彼女等(卵

を取る為全部メス)は檻の外の世界を見失ってしまったのだ。

 さて、こんなことを言うと非難を免れられないのだが、秋葉原事

件や数多の無差別殺傷事件を犯した青年たち、さらには同級生から

の集団による迫害に苦しんで自ら命を絶つ少年少女たち、或は年間

三万人を超える自殺者たちは、逃げ場のない狭い「檻」社会の中で

必死で檻の外へ逃げ出そうと足掻いたのではないだろうか。我々は

短絡的に彼等の異常を非難するが、自ら生きることの困難から逃れ

る為にたとえ扉が開いていても狭い檻の中に留まり、檻から逃げ出

そうとする者たちを嘲笑うことでしか僅かばかりの自尊心を保てな

いのだ。果たして、檻から逃げ出そうと必死で足掻いた彼等が異常

なのか、否、開け放たれた扉の前で頭を傾げながら新しい世界へ飛

び立とうとしない我々の方が異常だということはないだろうか。

 12月17日の朝、中高生らが乗るバスに包丁を持って乱入し多

数の未成年者に危害を与えた事件の容疑者(27)は「人生を終わ

りにしたかった」と供述した。(asahi.comより抜粋)

http://www.asahi.com/national/update/1229/TKY201012290338.html



              (番外)


 「あほリズム」を一年の煩悩の数(108)で年内は収めるつも

りでしたが、煩悩だらけの自分にはやはり無理でした。

 私の煩悩に付き合って下さった皆様の新年の幸福を願っています。

どうぞ、良いお年をお迎え下さい。





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「あほリズム」(101)~(108)

2010-12-26 04:16:52 | アフォリズム(箴言)ではありません
          「あほリズム」


           (101)


 さすがにユークリッドも「非」ユークリッド幾何学までは考え及

ばなかっただろう。しかし「非」ユークリッド幾何学はユークリッ

ドの定義なしには生まれなかった。つまり、「誤り」などと言うの

は実は存在しないのだ。ただ、その時代の「実情にそぐわない」

だけのことなのだ。



            (102)


 我々が追い求める「真理」というものは、我々の認識によって導

き出された因果律に過ぎない。つまり、我々の認識を超えた「真

理」は見逃され僅かばかりの認識できるものだけを「真理」として

認めてきた。だから、人間が人間の「真理」を語るように、サルに

はサルの、鳥には鳥の、それぞれの「真理」が存在する。



           (103)


 我々の認識が正しいかどうか確認する為に「誤謬」は存在する。

だから「真理」は「誤謬」を避けて得られない。つまり、「真理」は

「誤謬」を誤謬と認識することから生まれる。


           (104)


 我々は「誤謬」を怖れて「行為」を躊躇ってはならない。何故な

ら、「誤謬」のないところに「真理」は存在しないからだ。そして

「真理」であるか「誤謬」であるかは我々の「行為」から始まる。



           (105)


 ところで、我々は「改革」について語ることには熱心だが、自ら

「行為」することに何と冷心であるか。認識が齎されない議論ばか

りしていては「誤謬」も、従って「真理」も得られないだろう。我

々は誰もがこの国の現状を憂いて訴えて批判して絶望して語り尽く

すことで満足して、結果何一つ変えようとはせずに死んでいくのだ。

これを私は我々の「語る、死す」と呼ぶ。



           (106)

 
 「行動」そのものは「真理」も「誤謬」も確定し得ない。ただ、

我々の旧い認識だけが老婆心の先回りする。「行動」を怖れるな!

動く物達よ!何故なら「行動」することからでしか新しい認識は

生まれてこないのだから。




            (107)


 序列や名分といった形式を重んじる儒教道徳に縛られた減点主義

(リゴリズム)の社会で、若者はいったいどんな希望を持てばいいの

だろうか?空調の効いた広い檻の中で美食に満たされて出来る限り

動かずに生きていたいと願うのだろうか?果たしてそれが自由を手

に入れた「動く生き物」の相応しい姿なのだろうか?



             (108)



 我々は「自由」を思想として捉えているが、本来「自由」とは自

らの意思で「動く」ことが由来であるならば、我々の暮らしは様々

な自動機械に取り囲まれて、手段である筈の道具が我々の生活の目

的となって、思想の自由とは裏腹に自らの意思で動くことを失くし

た何と「反」自由な生活をしていることだろうか。そして、動くこ

とを厭う者が自らの自由意思に従って行動することが出来るだろう

か。つまり、我々は「行動できない自由」主義者なのだ。果たして

行動できない自由までも自由と言えるのだろうか。

 おおっ!それこそは家畜に与えられた自由ではないか!




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「インターネットと国家」

2010-12-08 13:25:26 | 「パラダイムシフト」
  

  

           「インターネットと国家」


 インターネットが広く社会に普及して所謂「ネット社会」が生ま

れ、単に情報だけでなく商品の流通や人々の交流をも変えようとし

ている。言われていた様に我々の生活はより便利に拡がった。スー

パーへ買い物に行かなくてもお気に入りの商品が届き、本屋に行か

なくても新刊書が読むことが出来る。更には気の合わない隣人と仕

方なく付き合わなくてもチャットで知り合った他人との交流が退屈

を紛らわしてくれる。

 しかし、生活がいくら変わったとしても、所詮「ネット社会」に

持ち込まれる情報はこれまでの情報でしかなかった。独り善がりのブ

ログ小説(これは自分の書いた物です)や親ばか子育てブログ、独善

的なネット右翼のブログ、更には猫可愛がり動画など、「あっ!」

エロ動画サイトを忘れとった、何れもこれまでの社会が抱えていた

「閉塞」がただ「ネット社会」に引っ越して来ただけのことではな

かったか。もちろん、共感によって慰められることが無意味だとは

言わないが、果たして「IT革命」とはこの程度のことを言うのか、

と落胆していたら、内部告発者による国家機密の暴露を掲載するサ

イト「ウィキリーク」が現れた。創設者のジュリアン・アサンジ氏

は「世界の全ての地域で政府や企業によって行われている非倫理的

な行為を暴露したいと考えている人たちを支援していきたい」(ウィ

キペディア「ウィキリーク」より一部抜粋)と語り、権力者が隠さな

ければならない情報を次々と暴露した。そもそも民主主義社会の主

権者とは国民であって一部の政治家ではない。主権者たる国民は政

治家が如何なる公の情報を隠蔽しているかを知る権利がある。「国

家」という組織が一部の実行者の情報機密によって保られていると

すれば、やがて「国家」は「ネット社会」によって崩壊させられる

だろう。彼が主張する「市民社会」とは国家主義からの決別なのだ。

「ネット社会」は一方で世界のグローバル化を推し進め、他方では

市民の自立を目覚めさせ人々は世界市民であると同時に自己を主張

し始めた。そして最早そこには「国家」の影が存在しない。「国家」

というものが権力によって営まれるとすれば、何れ世界は中心とな

る権力のない多様な市民社会がインターネットによって繋がりなが

らそれぞれの地域に根ざした民主政治が営まれるかもしれない。

 かつて、グーテンベルグによる印刷技術の発達が情報社会を変革

し、その結果、一部の聖職者だけが独占していた聖書が一般に広ま

り、聖職者たちが神の名を騙って行った不正を暴いたマルティン・

ルターの「宗教改革」のように、ジュリアン・アサンジ氏はインタ

ーネットによって国家の隠蔽を暴く、謂わば現代のマルチン・ルタ

ーではないだろうか。そしていつの日かそれを「国家革命」と呼ぶ

日が来るかもしれない。


                                 (おわり)


      




          「あほリズム」(再掲載)



          (100)



 ポスト近代とは、「脱」国家主義である。





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「ラテン語化する日本語」

2010-12-03 01:40:01 | 赤裸の心
        「ラテン語化する日本語」


 晩御飯を食べながら流行(はやり)のクイズ番組を見ていたら、

こちらはインテリ芸能人が珍解答を求められずに難読漢字に答え

る番組で、つられて答えているうちに、ふと、そもそも言語が難

解であっていいのだろうかと疑問に思った。それでなくとも日本

語は話し言葉でさえも煩雑な敬語や謙譲語を使い分けなくてはな

らなくて、相手の立場を慮(おもんぱか)って自分の意思や情報が

正しく伝わらないことが間々ある。我々の言語は意味以外の事ま

で伝えなくてはならないからだ。更に、書き言葉は同じ意味を表

しているのにも関わらず幾つもの漢字が存在する。文化としての

言語を措くとして、果たして機能としての日本語は方今(ほうこん)

のネットワーク社会に適応した言語だと言えるだろうか。26文

字だけの簡素なアルファベットの国際化の流れに抗(あらが)うこ

とが出来るだろうか。英語の国際化の流れは数多(あまた)の民族

言語を絶滅へと追い遣ったが、難解な漢字の読み書きを衒学(げん

がく)的な教養文化として残すべきだと主張するなら、何(いず)れ

我々の言語もラテン語のように大衆社会から見捨てられる日が、否

、国際社会から見捨てられる日がそう遠くない日に来るに違いない。

                                   Q.E.D.

 報道によると、29年ぶりに常用漢字に新たに196字が加えら

れて合わせて『2136』字になりました。

                         (おわり)

*Q.E.D. ・・・ラテン語の Quod Erat Demonstrandum
         「かく示された」が略されてできた頭字語。
          証明や論証の末尾におかれ、議論が終わっ
           たことを示す。(「ウィキペディア」より)


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