「あほリズム」 (312)―(313)

2013-05-30 05:19:08 | アフォリズム(箴言)ではありません



           「あほリズム」


            (312)


 中国人にとって、国家とは歴史のことである。

近代などというのは所詮何れ歴史に埋もれて忘れ去られる一つの時

代でしかない。国民などといってもたかだか百年足らずで入れ替わる。

しかし我々の歴史は、未開人が文字も知らず弓矢で獣を追い回してい

た時代から、つまり、領土などいう観念が生まれる前から営々と築いて

いたのだ。「領土」などという観念は文明社会を築いた我々だけが主張

できたのだ。世界は我らの先人によってもたらされたのだ。つまり、

界とはそもそも我々のものだったのだ。いや、少なくともアジアは我々の

領土だったのだ。我々の遥か後からやって来て、たかだか二千七百年

前に、山ばかりの島嶼に住み着いて、我々の文化を奪いながら先人へ

の礼儀さえも心得ぬ野蛮人が、我々の領土を侵すというなら追い払うこと

に何の問題があるだろうか。



             (313)
 


  中国よ、もっと思っていることを言えばいい。

 つまり、尖閣、沖縄などと言わず 、「そもそも日本列島さえも我々

 の領土であって、日本人の領土ではないのだ」  と。





「あほリズム」 (309)―(311)

2013-05-28 04:01:23 | アフォリズム(箴言)ではありません






            「あほリズム」


             (309)



 経済がグローバル化し、情報がグローバル化した。たぶん、次は

政治のグローバル化だろう。



              (310)


 TPP参加は単に経済の自由化だけをもたらすものではなく、

参加国の政治さえも自由化せざるを得なくなる。つまり、規制

の撤廃を求められる。



              (311)


 いずれ、アメリカ政府はわが国の銃規制を個人の自由を侵害する

不銃な規制であり非関税障壁であると真面目に抗議してくるかもしれない。



               (312)


        自分を楽しむこと。

       付け加えるなら、たとえ苦しくても。

       つまり、苦しむ自分を楽しむこと。










「インターネットと儒教文化」

2013-05-27 06:35:33 | 「パラダイムシフト」



      「インターネットと儒教文化」


 丸山真男は、自身の著書「日本の思想」(岩波新書C39) の中

で、社会文化の組織形態を二つに分けて「ササラ型」と「タコツボ

型」と図式化し、先の原発事故でマスコミにも散々叩かれた「原子

力村」のような既得権益に群がり、しかし、組織がそれぞれ孤立し

てタコツボが並列している形態をタコツボ型とし、それに対して個

人は孤立していても共通の社会基盤の下に繋がっている形態をササ

ラ型と分類した。そして、日本社会はタコツボ型だと言っている。

 さて、情報技術の更なる発達によって高度化したネット社会の下

で、これまで組織、地域、国家といったカテゴリーの中だけで共有

されていた内輪だけの論理が好むと好まざるに係わらずそれらの壁

を簡単にすり抜けて情報化され誰もが知ることになり、タコツボ型

組織の論理が批判の的にされているが、しかし、そもそもインター

ネットとは個人主義を重んじる西洋文化のササラ型社会からもたら

された技術で、「寄らしむべし知らしめべからず」を旨とする儒教

文化の下で、情報は個人には与えず「黙って従え」と命じるタコツ

ボ型社会の下で新しい発想が生まれなかったのは宜(むべ)なるかな

である。われわれがネット上でもタコツボ的繋がりを求めるのに比べ

て、彼らは早くからパソコンをケイタイ電話のように外で持ち歩きたい

と願っていたのではないだろうか。つまり、インターネットとはタコツ

ボ型文化では無用のササラ型文化のツールであり、それは、丸山真

男が図式化した「ササラ型」そのものではないか。

 かつて、松下電工の社長だった松下幸之助氏は「コンピューター

はやらない」と言ったが、そもそも孤立した組織が並列しているタ

コツボ型の社会では、たとえ、それぞれの企業は独自の優れた技術

を持っていてもそれぞれの技術を晒して統一された規格を共有す

るなどということが困難に思われたからに違いない。そして、何よ

りも終身雇用を約束して忠義を求めるタコツボ組織にとって、IT

革命が果たした情報化社会は必要が認められなかっただけでなく

儒教文化と相容れない好ましからざる道具だった。わたしは、日本

のIT革命への対応が後手後手を踏んだのは縦社会のタコツボ型

社会と、それを転換させることを望まなかった電器産業界のカリス

マであり、晩年は企業家というよりもむしろヒエラルキーに守られ

た宗教家と言った方が相応しい松下幸之助氏の一言によって、それ

まで世界の電気機器の技術革新を先駆けてきた日本の電器産業界が

その時だけは足並みを揃えて二の足を踏み、更に優れた技術者たち

も自らの自立心を頼まずタコツボに留まり、ところが、存亡が危ぶ

まれ終身雇用が崩れるとあっさり新興国の誘いに寝返ってその技術

を投げ売り、遂には母国の電器産業を脅かしていることが笑い話に

しか聞こえない。パナソニックやシャープ、ソニーといったかつて

のこの国を代表する企業が、最先端の技術力を有しながらIT革命

をリードすることができなかったのは、縦社会のタコツボから抜け

出すことができなかったからではないだろうか。

 しかし、いくらこの国の伝統文化を守ろうとしても、情報だけで

なく経済までもグローバル化した世界の潮流は国境の堰を切って水

平を求めて押し寄せてくる。やがて、グローバリズムの波はナショ

ナリズムを呑み込んでしまうだろう。われわれが苦労して「修正し

た文化」を守ろうとしても、情報のグローバル化は労せずに検閲を

必要としない「無修正の文化」を送り届けてくるのだ。何もわたし

はこの国の伝統文化を蔑(なみ)するつもりはない。だからと言って

極端な原理主義への回帰を主張するナショナリストの意見には首肯

できない。文化とは伝統の上にしか築かれないというのは首肯して

も、伝統さえ守れば新しい文化が生まれるとは思えない。過去ばか

り見ていては未来は見えない。ただ、忘れてはならないのは、グロ

ーバリズムでさえも文明史の一つの通過点であるということだ。


                                   (おわり)




「無題」 (十六)―⑧

2013-05-25 06:42:37 | 小説「無題」 (十六) ― (二十)



       「無題」


       (十六)―⑧



「当たり前のことだけど、商売人は安全性よりも採算性を優先させま

すから」

わたしは話しに熱中してゆーさんの奥さんが置いて行った二本目の

缶ビールもいつの間にか空にしてしまっていた。すると、わたしの

向いのバロックの隣りに座っていた彼の奥さんが、

「それって原発と同 (おんな) じやね」

と言って、大皿に盛られた若芽の付いた筍を箸で取って口に運んだ。

わたしの説明はゆーさんにはもう一つ納得してもらえなかったが、

バロックは東京にしばらく居たこともあって、

「おもしろいかもしれへん」

と乗ってくれた。そして、実は、もう以前からネットによる販路も

伸び悩んでいて、というのもいくら無農薬といっても加工品じゃな

いので他との差別化が難しくすでに安売り競争が始まっていて、こ

れからどうやって販路を増やしていくか頭を悩ましているのでそう

いう話は有難いと言った。すると、ゆーさんが、

「問題は福島県産と言って買ってくれるかどうかやな」

実際、これまで買ってくれた顧客も原発事故によって発注が来なく

なっているという。わたしは、

「それで、実際どうなんですか?」

「何も問題ない。ただ、風評だけはどうすることもできん」

彼らはガイガーカウンターを取り寄せてひと梱包づつ測ってその記

録を同梱している。ゆーさんは、

「まあ、しばらくはどうすることもできん」

わたしは、懐かしい三五八(さごはち)漬けの大根を噛み締めながら、

彼らが作った野菜は味付けが薄くてもどれも素材そのものが旨く、

調味料の味しかしない料理に慣れた舌には驚きだったが、なんとか

彼らのために、そして故郷である福島のためにも力になりたいと思

った。

                         (つづく)


「無題」 (十六)―⑨

2013-05-16 02:28:01 | 小説「無題」 (十六) ― (二十)



        「無題」


        (十六)―⑨


 周囲を山々に囲まれた村は、燃え尽きて赤くなった日が山の端に

没し始めるとまたたく間に夕闇が訪れた。結局、わたしは缶ビール

を三本も飲んでしまい、みんなからは車を運転して帰ることをきつ

く咎められた。もしも、それに従わずに生家に帰っていれば、地元

の者でさえも余程のことがない限りは出控えるという闇夜の山道を、

道を誤ることにおいては人後に落ちないわたしは、たぶん、崖から

でも落ちて生家を通り越して生まれる前の世界に還っていたに違い

なかった。それでも、部屋を用意するからという暖かいもてなしにも、

彼らを煩わせたくないという思いから車の中で寝ると言って頑なに

拒むと、春だといってもまだ夜は冷えるのでとても眠れるわけがな

いからそんな遇(あしら)いはできないと譲らなかったが、バロックの

嫁さんが、それならと、近くに温泉旅館があるというので、そこに泊

まることで折り合いがついた。すると、バロックが「俺もひさびさに湯

に浸かりたい」と言い出し、「それじゃあワシも」とゆーさんまでもが

ついて来た。バロックの嫁さんが運転する車に三人が乗り込んで夕

闇から遁れるようにして着いた旅館には、きのう被災地からの帰り

の車で一緒だったガカとサッチャンが似合わぬ揃いのハッピを着て

待っていた。

                                  (つづく)