「(菅)話放題」⑧

2010-07-31 01:08:30 | 「(菅)話放題」
                 「世界飽和」

 バブル経済の崩壊は、そのアワで隠されていた不正や犯罪をも洗

い出した。大手都市銀行までが不正に手を「濡らして」アワを掴も

うとして、巨額の不良債権を抱え込んでアワと消えた。ところがそ

んな金融恐慌の最中にあっても、名の知られた経済評論家たちは日

本の実態経済の底堅さを強調し直ぐに回復すると断言し、「全治三

年」とまで予測する者までいた。この国が道を迷ったすればまさに

あのバブル崩壊後に、再び「日は昇る」と信じ込み財政支出による

巨額の景気刺激策を官民挙って待ち望み、それに応えるように政府

は赤字国債による公共事業を日本全国津々浦々山々町々に至るまで

バラ撒いて、その結果、カラオケ大会にしか使われないオペラハウ

スや、獣たちの為にケモノ道を舗装してやったり、人の居ない限界

集落にまで立派な集会ホールを造ってきたからだ。金融破綻を認め

ながらも実態経済は堅調であるからとの理由から後戻りすることな

く崩れ落ちたバブル街道を進み続けた。それはまるで、思わぬ大金

を手にした者がギャンブルにのめり込み、調子に乗って賭け金を増

やした挙句にスッテンテンになって熱くなり、子供の貯金に手を付

けて後戻りが出来ず、遂には高利貸しにまで証文を預け、その返済

を子供に負わせても眼が覚めず泥沼へと堕ちていく破綻者のようだ

った。

 素人の意見だが、実体経済が堅調であるなら人は易々と金融投資

には向かわないだろう。理想を求めて現実を投機するにはそれなり

の契機があるはずだ。人が投資に傾く時は経済成長が停滞したから

だ。金融バブルとは、実は、実体経済の飽和から発生するのではな

いだろうか。そうだとすれば、金融不安が起る時はすでに実体経済も

内部から朽ち始めているのだ。そうだとすれば金融政策をいくら弄(い

じ)くっても実体経済は回復しないだろう。アメリカ発の世界を巻き込ん

だ金融破綻は、嘗ての日本のように金融対策に追われているが、しか

し実態経済そのものが行き詰っているのだ。それでも経済を動かそ

うとするなら貯め込んだ富を放棄するしかない。つまり、破産か戦

争だ。現在のアメリカの金融緩和や景気刺激策を聴くと、これまで

の日本経済と同じ道を辿っているように思えてならない。辛うじて

新興国の経済発展によって凌いではいるが、何れそれらの国々も思

っていたよりも早く行き詰り、だって彼等が自慢する豊かさは既に

先進国では飽いてしまった豊かさなのだ、そこから何か新しい発見

や成長が生まれてくるとは到底思えない。やがて溜息を吐くように、

日本を含む先進国の金融不安から、再び世界経済が危機に襲われる

ことだろう。

 以上は、小説の時代背景を簡単に描く心算で記したのですが、段

々と熱を帯びてきて本来の小説を忘れてしまい、それでも削除する

に忍びないので、ブログ(ウェブ上の記録)としては残すのもありか

なと思ってそうします。

 ただ、マクロの視点から経済危機や金融不安を齎す根本的な原因

とは何だろうと考えていると「飽和」という言葉がぴったりなのか

なと思っています。甕(かめ)の縁(ふち)までなみなみと貯められた

水は、更に注いでも溢れるばかりで容量は変わりません。だからと

いって注がなければ水は腐敗する。「飽和」とはある限界に達して

それ以上は変化しない状況を言うのであれば、今まさに世界は「飽

和」の時代を迎えているのかなと思います。つまり、経済危機(腐っ

た水)を薄めようと金融緩和や財政支出といった新しい水をいくら

注いでも何も変わらないでしょう。経済危機と財政支出のイタチゴ

ッコでやがて財政破綻するのではないだろうか。敢えて言うなら、

もう、この近代という甕そのものを諦めなければならないのではな

いかと思っています。それが出来るのは甕の底に沈んで腐りかけ

た水ではなく、甕から溢れ落ちた水ではないでしょうか。

 ただ、そう思っていてもなかなか近代を棄てる勇気が持てません。

近代を棄ててもより明るい時代が保障されているならいいのですが、

まったくそんなことはありません。荒野での自由を選ぶか、やっぱり

空調の効いたエサのある檻の中を選ぶのか、ブレまくって全く決断

が着きません。

世の中を捨てて捨て得ぬ心地して都離れぬわが身なりけり  西行
                                  

                                  (菅)⑧


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「あほリズム」27~32

2010-07-29 06:41:44 | アフォリズム(箴言)ではありません
          
          「あほリズム」



           (27)


 過去などない、ただ記憶があるだけだ。



           (28)

 蜩(ひぐらし)が泣いている。彼は何の為に生きているか?

 「ただ生きているだけさ。」

 私が悩んでいる。私は何の為に生きているか?

 「何の為に生きているのかと悩みながら、ただ生きているだけさ。」


(蜩は「泣き声コンテスト」昆虫部門できっとベスト10には入るな)


           (29)

 私自身とは私の視線が反射されて捉えた私である。


           (30)

 私は生命を得る前から私であった覚えがない。

 従って、生命を失くした後も私である筈がない。 


           (31)

 我々の視力は判断能力に応じて機能する。つまり、

 見る必要のないものは見えない。ところが、

 我々の懐疑は判断能力を無視して探究する。つまり、

 何故見えないかと。


           (32)

 我々は「動く」物である。

 「動く」物とは「今ここ」に止まらず、

 「何時かどこか」へと「動く」物である。 


           (33)

 人間以外の生き物は自分の「死」を認識していないというが、

 ところが、彼等は危機を察知すると素早く逃げる。

 つまり、身に迫る危機は予感しているのだ。

 その予感とは我々が認識する「死」とそれほど違っているだ

 ろうか?ただ、我々のように認識しないだけではないのか?

 私はと言えば、自分の「死」どころか未だ「生」すら認識で

 きずにいるというのに。
 

「(菅)話放題」⑦

2010-07-14 17:15:11 | 「(菅)話放題」
               「リゴリズム」(厳粛主義)

 少し前のことですが、アイドルグループのメンバーとしてテレビ

に登場し、その容姿から若者の人気者となりマスコミに引張りダコ

で活躍していた少女が、弟が犯罪を起こしたことから一転、彼の姉

であるという理由から彼女はマスメディアから締め出された。もち

ろんマスメディアも視聴者からの厳しい批判を受けてのことだろう

が、果たして成人した弟の犯した罪の責任の一端が彼女にあるだろ

うか?仮にあるとすれば彼女は一体どういう責任があったのか?そ

こには、本人にはどうする事も出来ない出身や家柄や生い立ちまで

遡って序列化し、個人の責任を一族や関係者にまで迫る、支那を由

来とする「家」を重んじる道徳の影響が色濃く反映している。

 以下に紹介するのは、丸山眞男(著)「日本の思想」(岩波新書C

39)からの引用です。この前の項では「近代日本の機軸としての

『国体』の創出」と題して、皇室を精神的機軸とする「国体」が如

何なる理由から創られたかを語っています。

(傍点打てないので省略しました)

 
      「『国体』における臣民の無限責任」

 「国体」という名でよばれた非宗教的宗教がどのように魔術的な

力をふるったかという痛切な感覚は、純粋な戦後の世代にはもはや

ないし、またその「魔術」にすっぽりはまってその中で「思想の自

由」を享受していた古い世代にももともとない。しかしその魔術は

けっして「思想問題」という象徴的な名称が日本の朝野を震撼した

昭和以後に、いわんや日本ファシズムが狂暴化して以後に、突如と

して地下から呼び出されたのではなかった。日本のリベラリズムあ

るいは「大正デモクラシー」の波が思想界に最高潮に達した時代に

おいても、それは「限界状況」において直ちにおそるべき呪縛力を

露わしたのである。

 かつて東大で教鞭をとっていたE・レーデラーは、その著書『日

本=ヨーロッパ』(E・Lederer,Japan-Europa,1929)のなかで在日

中に見聞してショックを受けた二つの事件を語っている。一つは大

正十二年末に起った難波大助の摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)である。

彼がショックを受けたのは、この熱狂主義者の行為そのものよりも、

むしろ「その後に来るもの」であった。内閣は総辞職し、警視総監

から道すじの警固に当った警官にいたる一連の「責任者」(とうてい

その凶行を防止し得る位置にいなかったことを著者は強調している)

の系列が懲戒免官となっただけではない。犯人の父はただちに衆議

院議員の職を辞し、門前に竹矢来を張って一歩も戸外に出ず、郷里

の全村はあげて正月の祝を廃して「喪」に入り、大助の卒業した小

学校の校長ならびに彼のクラスを担当した訓導も、こうした不逞の

徒をかつて教育した責を負って職を辞したのである。このような茫

として果てしない責任の負い方、それをむしろ当然とする無形の社

会的圧力は、このドイツ人教授の眼には全く異様な光景として映っ

たようである。もう一つ、彼があげているのが(おそらく大震災の

時のことであろう)、「御真影」を燃えさかる炎の中から取り出そ

うとして多くの学校長が命を失ったことである。「進歩的なサーク

ルからはこのように危険な御真影は学校から遠ざけた方がよいとい

う提議が起った。校長を焼死させるよりはむしろ写真を焼いた方が

よいというようなことは全く問題にならなかった」とレーデラーは

誌してる。日本の天皇制はたしかにツァーリズムほど権力行使に無

慈悲ではなかったかもしれない。しかし西欧君主制はもとより、正

統教会と結合した帝政ロシアにおいても、社会的責任のこのような

あり方は到底考えられなかったであろう。どちらがましかというの

ではない。ここに伏在する問題は近代日本の「精神」にも「機構」

にもけっして無縁でなく、また例外的でもないというのである。

                         ー以上ー

 ウィキペディアで「虎ノ門事件」のその後を見ると「犯人難波大

助は大逆罪で死刑になり、父は蟄居して後何も口にせず餓死自殺し

た。難波の処刑後、皇太子は『家族の更生に配慮せよ』と側近に語

った。」とある。

 この国の責任のとり方は「茫として果てしない」ばかりでなく、

何時も力の弱い者に向けられる。もちろん個人の責任は個人が負わ

なければならないが、更に家族や会社や、況して学校までもが負わ

なければならないのだろうか?「あの時代は」と言うかもしれない

が、二つの事件とも「大正デモクラシー」のリベラリズムが最高潮

に達した時代に起ったことを丸山眞男は前段で指摘している。

 かつて大阪の漫才師人生幸朗は「まあ、皆さん聞いてください」

と始まる「ぼやき漫才」で、汚職が絶えない政治家をネタにして揶

揄い、相方の生方幸子が「怒って来はったらどうすんの?」とフル

と、政治家を真似て「謝ったら終いやないかい!」とボケて、無力

な庶民のやり場のない怒りをシニカルに笑い飛ばしてくれたが、と

ころが今や個人が改悛して自らの責任を取ろうとしても、非難の矛

先は親兄弟や勤め先まで及び、いくら本人が「謝っただけでは済ま

されない」リゴリズムの無限連鎖的責任論が高まっている。かつて

は、反論など許されなかった国民に「一億玉砕」を命じ、敗れると

一転、その責任を国民に負わせて「一億総懺悔」を強いたこの国の

全体主義は未だその呪縛力を失っていないのだ。苦情対応に悩む会

社では「誠意を感じてもらえる」謝り方を「マニュアル化して教え」

、いよいよ我々は礼儀の道を究めて聖人に到らんと励み、厳格な道

徳を「当然とする無形の社会的圧力」の下で、ドイツ人教授が見聞

した「異様な光景」が、我々にとっては至極当たり前の光景になら

ないように願うばかりで、「虎ノ門事件」や「御真影」の顛末を過

去の出来事と嗤えるほど、始めに紹介した少女が負わされた責任の

ように、人権が認められた社会で暮らしているわけではない。 

 ところでその少女、と言ってもう二十歳を越えている彼女は、小

学生の時に父親を事故で亡くしており、彼女の母親は飲食店を営み

ながら彼女ら4人の子供を育てたが、今年の初め、その母親は娘が

建ててくれた家の三階から飛び降りて自殺した。

                                   (完) 
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「(菅)話放題」⑥

2010-07-13 06:59:34 | 「(菅)話放題」


                「大江戸酷酔夢譚」


 かつて、東京メトロポリスで辺りを憚ることなく関西弁をひときわ大

きな声で発していた頃、新都庁舎の高層ビルが新宿副都心に完成し

てその豪華さから都民の非難の声が喧しく上がっていた。ちょうど

バブル崩壊後で都の財政も逼迫し、予算の見直しが避けられない状

況だったが、四期目の鈴木知事は東京再開発を断固として推し進

め、更に財政を悪化させた。何れの地方行政の借金もこの頃に膨ら

んだと思われる。人が住まない地域でも、建前は再び人が戻ってき

て活況を取り戻しても困らない為にと道路やコミュニティーホール

やふれあいセンターや公園や体育館といったものが、本音は景気を

支える為の公共工事が返済の見込みのない借金をしてまで造られた。

そんな財政再建が叫ばれる中、登場した青島幸雄東京都知事は予定

されていた世界都市博覧会を公約通り中止させ、その実行力に頼も

しさを感じたのは私だけではなかった。その後は行財政改革に取り

組むものと期待していたが、都職員の人員削減や給与削減は一向に

行われなかった。私は若さの至りで先の事など考えずに遊び呆けて

いたので、青島知事がどんな公約をしていたのか知らなかったし今

となっては知りたいとも思わないが、確か(確かでない)、公務員改

革も高い優先順位で挙げていた筈だった。しかし革(悪)まった財政

は何も改(正)まらなかった。ただ東京ではペットボトルの再利用を

呼びかけてコンビ二の店頭で回収することが決まった。彼はゴミ問

題に熱心だったが、もし分別されていないと収集員が部屋までその

ゴミ袋を持ってきて説教した、ところが私の暮らしていた区では燃

えないゴミも全て燃やされていることを報道で知らされて、私は怒

りに燃えた。

 話しが逸れてしまったが、公務員改革が如何に困難なことである

か、行政に柵(しがらみ)のなかった青島幸雄でさえ、彼は学生の頃、

スタンダールの「赤と黒」の主人公ジュリアン・ソレルに憬れてい

たと何かの雑誌に載っていた、そんな彼でさえ無血無涙の権力を執

行することが出来なかった。しかし、民間は温情から躊躇っていた

ら従業員と共倒れしてしまう。我々は公務員を養ってやがて共倒れ

するのか、それとも無血無涙の公務員改革を断行するのか、決断を

しなければならない時が近づいているのではないだろうか。

 私はあの時、なぜ青島都知事が財政再建を、つまり、公務員改革

を地方に先駆けて断行できなかったのか、赤字削減の「東京モデル」

を示すことが出来なかったのか、何故なら、その後の地方自治は、

東京に習ってドミノ倒しのように土建政治屋と中央官僚が仕組んだ

補助金に誘われて、身の程知らずの公共事業に血道を上げ莫大な債

務を抱え込むことになったからで、今でもその理由を知りたいと思

っている。それほど彼の政治決断に期待していた。

                                     (完)

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「あほリズム」

2010-07-13 02:53:09 | アフォリズム(箴言)ではありません
             「あほリズム」


             (19)


 うまく生きたってどうせ死んじゃうんだよなあ。



             (20)

 うまく生きられなくたってどうせ死んじゃうんだから。


             (21)


                                                              (スペイン代表、優勝!イニエスタ選手決勝ゴール決める。)
                            
 コモエスタ セニョール イニエスタ 競り抜いた!

                   ・・・デルコランソン



 
 (スペイン代表、初めての優勝おめでとう!そして、決勝点を

  決めたイエニスタ、あのシュートは決して忘れられることは

  ないだろう。さらに、オーバーハウゼンの水族館「シー・ラ

  イフ」のパウロ君、100%の偉業達成おめでとう!多分、

  君は何のことだか解からないだろうが君の多幸を願ってます)


             (22)


 (以下は「メッシ奉公」記事の再掲載) 

 サッカーW杯南ア大会で、アルゼンチン代表のメッシ選手は自在

なボールコントロールで相手ディフェンスを翻弄しゴールに迫る鮮

やかさは、さすが去年のバロンドールに選ばれリーガ・エスパニョ

ーラの得点王だと納得したが、ただ南ア大会では執拗なマークに遭

い彼が放ったシュートは全て阻まれてしまった。それでもチームの

為に囮となってディフェンスを引き付け、味方選手のゴールをアシ

ストした。お陰でチームはベスト8まで勝ち進んだが、彼の献身的

な働きを「メッシ奉公」とは言わない。

(アカン!検索したら「メッシ奉公」で40万件近くあった。)



              (23)

 「成功という木」は「失敗という種」が成長した姿である。ただ、

その種を「失敗の種」と呼ぶか、或は「成功の種」と呼ぶかは

蒔く人次第である。


              (24)

 様々な認識は過去の記憶によって作られたものだ。しかし、「こ

れから」のことに関しては何も記憶されていないではないか。生物

は未来に対して等しく存在するのだ。だから未来を記憶で汚すのは

やめよう。未来を過去の認識で埋めてしまうのはやめよう。「これま

で」のように「これから」を思うのはやめよう。


                (25)

 我々は、火を使えるようになった頃と思っているほど遠く離れた

わけではない。肉体はもちろんのこと感性や理性や想像力といっ

たものはどちらが優れているのか恐らく判別できないだろう。ただ、

勇気や情熱や忍耐など所謂「精神」と呼ばれるものは、我々はめ

んどくさくなって手放してしまった。その代わり「狡猾さ」を手に入れ

た。

                (26)


 人里離れた山の中で道を見失った。やがて疲れが全身を支配して

洞に身を隠して休んでいると、何処からともなく獣が近付いて来た。

奴にとって私はただの肉塊だ。遠のく意識の中で奴の尖った口先の

牙が私の腹部の皮を破り一瞬の隙に腸(はらわた)を抉り出した。私

はもはや肉体ではない、引き千切られた肉塊だ。かつて私だった肉

塊は奴の肉体になり、更に多くの生き物が残された肉塊を分け合う。

そして微生物や細菌がコロニーを築き、美しい花を咲かせる樹木の

若葉が芽を出すかもしれない。しかし、私も生きる為に様々な生き

物を殺して食べてきたのだから文句は言うまい。全ての生き物にと

って生きるとは他の生き物を殺して食べることだから。