(五十一)

2012-07-11 09:36:22 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(五十一
                  (五十一)



 バロックの居無くなった広場は、ストレスを発散する為に深夜まで

人が盛ることが無くなり、治安を守る人々は一応に胸を撫で下ろし

た様だが、私はそんな風には思わない。人は社会で暮らす限りス

トレスを感じずに生きる事など出来ない。それはCO2の問題に似

ていて、ストレスの発散は此処で押さえ込んだとしても他所で噴出

すだけだ。ただ、此処の治安を気に掛ける人々のストレスは間違い

なく減ったに違いない。

 バロックからのメールは何度か届いたが、彼の居場所は落ち着

か無かった。地方から東京へ出て来る者は、西から来る者は東京

から東の地理に疎く、東京を越えてさらに東に行くことに抵抗が

あり、同じように東から来る者も東京を越えて西へ行こうとしな

い。それは東京という目的地を通り過ぎて東京から離れることに

不安を覚えるからではないか?もちろんそんなことを調べたわけ

ではないがそんな気がする。バロックは関西の人間なので、西へ

行ったものと思っていたら、彼は果敢にも地理に疎い「みちのく

に」への奥の細道をなぞっていた。

 バロックが居なくなったからといって、広場のパフォーマーが

居なくなった訳ではなかった。いや、かえってバロックを真似た

シンガーたちの熾烈な競争が始まっていた。それでも若いシンガ

ーたちが幾ら上手く真似ても、確かにソツなく演っているが、フ

ァミレスの蝋細工で出来たサンプルのように、臭いがしなくて物

足りなかった。彼等の声は大量生産されたように一様で、自分の

声に対するコダワリが無く女性的で、バロックの濁った声のよう

な個性的な者は居なかった。その中でも人気を集めていた、いつ

も尾崎豊を唄う若者が私の路上画廊に来て言った、

「アートさん、サッチャンがここへ来るらしいですよ。」

「何時?」

「明日!」

「えっ、ほんと!」

 忘れていたがサッチャンの「エコロジーラブ」はCMソングに

使われるほどヒットしていた。彼女は我々と違って悪行に手を染

めなかったが故に、路上から天上への蜘蛛の糸を伝って昇りきっ

たのだ。私はテレビの「お笑い」歌番組をほとんど見ないが、そ

れでも彼女をテレビで何度か見たことがある。ただ、彼女の成功

は余りにもデジタルな展開だったので感慨も何も無かった。

 コタカ、我々は尾崎豊の彼を「コ」タカと呼んでいた。それは

、彼が書くユタカの「ユ」の字が「コ」にしか見えなかったから

。「コタカ」の説明では、テレビの歌番組で、彼女がデビュー前に

歌っていた路上でヒット曲「エコロジーラブ」を歌うところを収録

するらしい。私は驚いて、バロックにメールをした。するとバロッ

クは、

「知ってる。」

「えっ!知ってたの?」

バロックはサッチャンがここに来る事を、「旅を栖(すみか)とす

る」前から知っていたのだ。

                                (つづく)

(五十二)

2012-07-11 09:35:02 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(五十一
                  (五十二)



 次の日の朝は、昨日の暑さがコンクリートに留まって、夜にな

っても回収されないまま翌日に繰り越され、寝ていても嫌な寝汗

に悩まされて、睡眠が満たされないまま目覚めた。陽が昇る前か

ら残された熱で、今日一日の暑さとの戦いを早々に諦めて、どこ

かへ逃げ出したい気持ちだった。ただ、テレビの画面には新緑の

梢が涼しげにそよ風に揺れていたが、それが余計にむかついて、

見ている者を暑くした。

 サッチャンがやって来る広場は、いつもは暑さを避けて閑散と

しているが、今日は彼女のファンやそうでもない人々が集まり、

陽が昇るにつれて小さくなる日陰に佇みながら、午後から始まる

彼女のライブを汗を流して待っていた。彼女が立つであろうステ

ージには、彼女が在籍する例の学校の生徒達によって複雑な機材

が据えられていた。私は普段と違うその様子を見て、今日は出た

くなかったが、サッチャンにバロックのことを伝えなければいけ

ないと思って仕方なく画廊を開いた。正午を越えた太陽は人々の

脳天を垂直に炙った(あぶった)が、広場にはさらに人が溢れ、

ついには駅のコンコースまでも人で埋まり、通行の妨げになると

駅員がマイクで叫んでいた。ただ、この無為に佇む人々はするこ

とが無いので、何時もは関わろうとしない私の絵にも関心を向け

て、そのうちの何人かは買ってくれた。誰もが待ちくたびれて、

このまま何も始まらなければ脳天を炙られた人々が何を仕出かす

か分からないと思い始めた頃、一台のマイクロバスが進入して来

て、窓から窺える彼女の姿に、沸騰したファン達がその熱を喚声

に換えて一斉に発したので、辺りの温度はさらに上がった。ついに

、思わせ振りにサッチャンがドアを開けて現れたが、彼女は幾らも

歩き出さないうちにファンに取り囲まれてしまった。世間の注目を

受けるという事はこんなにも物事が前に進まないことなのかと呆れ

てしまったが、すこし経ってあの生徒達に護られながら駆けって、

かつてスターへの一歩を記した駅前広場への凱旋を果たした。彼女

は白のTシャツにジーンズというシンプルな格好で、ほとんど化粧

をしていないのか、それともそういう化粧をしているのかのどちら

かだった。あんなに拘っていた髪は後ろで束ねてオフを強調してい

た。彼女はさっそく私を見つけ、辺りを見回しながら、

「バロックは何処にいるの?」

と聞いてきた。私は正直に彼が東京を出て行ったことを告げた。

すると、彼女は急に悲しそうな顔をして、

「そんなっ!」

と言って泣き出した。彼女は、今日の事を随分前からバロックに

伝えて、バロックのギターで歌うということでこの企画に応じた

らしい。彼女はすぐに番組のスタッフに駆け寄って怒りを露にし

た。私はどんな経緯があったのか知らないが、涙を気にもせずに

男のスタッフに抗議する彼女を見て、随分強く為ったと思った。

 彼女はそれでも決められたスケジュールを無難に熟(こな)し

た。演奏はもちろん彼女に付いているバンドが演った。ヒット曲

「エコロジーラブ」を歌った後は集まった人々の力強い拍手がビ

ルの谷間にこだました。ただ、バロックのギターであの頃の様に

歌うことは無かった。サッチャンは自分のライブが終わった後も、

そこに居た路上ミュージシャンをステージに呼んでカメラに収録

させた。私の絵も随分撮られた。

「アート、絶対にテレビに流すからね。」

彼女はそう言い残して、再びファンの中に飛び込んでいった。そ

れは例えが悪いが豚小屋に餌を放り投げた時のように、集られ

てサインをしていた時、突然、大粒の雨が沸騰した人々の脳天

に落ちてきて、間違いなく「ジュッ」という音がして、すぐに、

さっきまでの晴れ間が嘘のような大雨になった。思いがけず脳天

を冷まされた人々は我を取り戻したかのように、激しさを増す雨

の中を四方八方へと走り去って、サッチャンだけは雨の中をゆっ

くりと歩いて、私に手を振ってからバスに乗った。

 その日の夜には彼女に教えたK帯が鳴り、バロックが居な

くなった顛末を教えた。彼女は私の話を言葉少なく聞いていた

。その日の雨は止むこと無くいつまでも降り続いた。

                                    (つづく)

(五十三)

2012-07-11 09:33:23 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(五十一
                  (五十三)



 美しさは対象に在るのでは無く、それを美しいと思う人の意識

に在る、と言うのは私の卓見だと自負していたら既にニーチェが

書物に残していた。かつて性欲について、こんなにも人口が増え

れば、やがて人から性欲が失われていくだろう、と書いたら、後

日あるブログに同じような記述があって愕然とした。ネットの進

歩で様々な意見が記述され、記述が被って丸で盗作をした様な後

味の悪い思いをする事がある。世に溢れる全ての記述を確かめる

事などできる訳が無いし、私は極めて怠読家で、人からも私の認

識が著名な書物からの引用だと指摘されることもままあるが、そ

んなこと気にしてたら「何も書けねえ!」ってことで、先人の数

多の名著に敬意を払いつつ、「美くしさはそれを美しいと思う人

の意識に在る」を拡げて考えてみたい、多分誰かが書いているだ

ろうけど。

 そこで、美しさとは、それを美しいと思う人の意識に在るとす

れば、様々な「もの」の価値とは、その「もの」に在るのでは無

く、それを価値が在ると思う人の認識に在るということに為る。

つまり、「もの」に価値を与えているのは人なのだ。ただ、我々

は社会生活を営んでいるので、様々な価値感を共有しているわけ

だが、だからと言って社会的な価値感を全ての人が認めている訳

では無い。つまり、「もの」に対する価値感は人それぞれ違うの

だ。

 そこで、今まさに生きる意味を見失って死を決意した人が居る

とする。彼は自らの人生を生きる意味が無いと認識したのだ。さ

てそれでは「生きる意味」とは何だろうか?「もの」の価値が「

もの」に在るのでは無く、それを価値が在ると思う人の認識に在

るとすれば、「生きる意味」は、生きること自体に在るのでは無

く、生きる意味を見出した人の認識に在ることになる。つまり、

我々はただ生きているだけでは「生きる意味」など見出せないの

だ。しかし、「生きる意味」が無いからと言って死を選ぶ理由に

はならない、何故なら、始めから生きることには意味などないか

らだ。それでは彼は、「生きる意味」をどうすれば得ることが出

来るのだろう。富士山の美しさは富士山に在るのでは無く、それ

を美しいと思う人の意識に在るとすれば、彼は「生きる意味」を

生きることに求めずに、生きることを忘れさせてくれる「もの」

に求めるべきだ。つまり、彼がこれこそ私の「生きる意味」だと

言える「もの」を見出せば、もはや「生きる意味」すら意味を失

くすだろう。何故なら、美とか価値とか、意味などは、対象に在

るのでは無く、我々の意識の中に在るからだ。

                                (つづく)

(五十四)

2012-07-11 09:32:16 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(五十一
                  (五十四)



 サッチャン凱旋騒動の後の大雨は、路上に並べた水墨画を水

に流して水泡に帰してしまった。私は慌てて片付けようとしたが、

焼け石に水、覆水盆に帰らず、路上に大雨だった。私は苦労して

描いた絵を全て失った為、しばらくは路上画廊を開く事が出来な

かった。もう一度写真を見ながら作品を作っていたが、出鱈目な

描写の東京タワーが気になり、実際の東京タワーが見える高層ビ

ルを探しながら、写真に撮ったりスケッチしたりして、作品を作

ることにも手を焼いていた。そうやって幾日も路上画廊を休んで

いると、ある日、テレビの「お笑い」歌番組でサッチャンが出て

いた。私は作品作りに集中してすっかり放送日を忘れていたのだ

。慌ててテレビに噛り付きサッチャンと司会者の遣り取りを固唾

を呑んで聞いていた。お笑い芸人の司会者は、彼女をネタに笑い

を取ろうとすぐに話しを落として、サッチャンの人と為りを伝えよう

などとは端から思っていなかった。こういうのって彼女の歌を聴き

たいファンにとってウザく無いのかな?サッチャンは名前をからか

われて生い立ちを笑いものにされていた。

「路上ライブをやってました。」

「えっ!路上生活してたの?」

「違いますっ!路上ライブです。」

「ほらっ、路上『ライフ』って言ってるじゃん。」

(笑い声)

こんな会話がいつまでも続いて、笑いを繋ぐ為に仕方なく彼女の

歌が流された。今や世の中は生活の厳しさが深刻になって笑って

などいられないが、失われた笑いはテレビの中で溢れていた。本

来、芸人は世間の常識を笑いものにしたが、今や、世間の常識で

人の非常識を笑いものにする。芸人も人格者になったもんだ。そ

こまでやるなら、いっそ「お笑い」ニュース番組でもやればいい

と思っていたら、ワイドショーではお笑い芸人がコメンテーター

になっていた。すでに、お笑い芸人が世間に常識を説いていた。

まもなくお笑い芸人が大臣に為る日も遠くないだろうと思ってい

たら、番組ではあるが芸人が総理大臣に為って政治家を非難して

いた。私は政治が暮らしを良くするなどとは努々考えていないが

、政治が暮らしを悪くすることはあるだろう。お笑い芸人が「選

ばれて」政治を担う事に何の文句も無い。民主主義とはそう云う

もんだ。政治家が芸人よりも優れているなどと全く思っていない

。ただ、お笑い芸人が力の無い者をバカにして笑いを取るのは、

あまりにも芸が無い。今、テレビで行われていることを学校へ移

せば、そのまま「いじめ」問題になるだろう。せめて芸人くらい

は力の在る者に媚びず、力の在る者の勘違いを笑いものにしてし

て貰いたいものだ。

 テレビでは、サッチャンの収録された凱旋ライブが流されて、

ヒット曲「エコロジーラブ」を歌うアップの顔はいつの間にか彼

女は化粧をしていたので驚いた。間奏になると其処に居たパフォ

ーマー達が映し出されてその中に一瞬だけ私が映っていた。予想

していた通りに、収録された殆んどはカットされて申し訳程度の

放映しかされなかった。私は安堵して、と言うのも話題になって

も売る絵など無かった、VTRが終わりCMになったのでホッと

してベットに寝転んだ。少し物足りない気持ちがあったが、世の

中とはそうしたものだ。CMが終わりもう彼女が出ないものと思

っていたら、司会者が、

「サッチャン、何か最後に言いたい事があるそうですが?」

「はいっ!」

すると、サッチャンは手に持った紙を広げてテレビの画面に掲げ

た。それは私の描いた絵だった。私は驚いてベットを降りて再び

テレビに噛り付いた。

「私の友達が其処で絵を描いてまーす。良かったら見に行ってく

ださい。」

すると、絵心のある司会者がその絵を取って見ながら、

「なに、これっ!墨で描いてんの?」

「はいっ!」

「高層ビルを・・・?ふーん。」

「ほら東京タワー。」

サッチャンは絵の中の赤くなったところを指して説明した。

「確かに変わってる、けど面白いね。これっ!」

[でしょ!」

サッチャンは続けて、

「いつでも居ますから良かったら買って上げてください!千円

でーす。」

「エ―ッ!」

ずーっと休んでる私にとっては、寝耳に水だった。

                               (つづく)  

(五十五)

2012-07-11 09:31:24 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(五十一
                  (五十五)



 サッチャンの有り難い宣伝のお蔭で生活は一変した。まず、コ

タカ(尾崎豊のバッタモン)から電話があり、「休んでいる場合

じゃないですよ!」と言われて、仕方なく描き終えた十数枚の絵

を持って駅前広場へ出掛けたが、画廊を開く間もなく全てが売れ

てしまった。私は一夜にして売れっ子画家になっていた。とは言

っても、早朝に牛乳配達の仕事がある為、一日に描ける絵は五枚

がいいとこだった。アトリエ代わりに使ってるバロックの部屋へ

戻ってひたすら絵を描いて、出来た絵を広場に持っていったが、

地べたに並べるまでも無く数分で売れてしまい、もう露店を出す

必要が無くなった。やがて広場からは画廊が無くなり、私は「幻

の画家」と言われて、ついには私の絵を手に入れることが出来れ

ば幸せになれるとまで云われるようになった。

コタカ(尾崎豊のバッタモン)は値段を高くするべきだと言っ

たが、サッチャンがテレビで「千円で―す。」と言ったので、し

ばらくは変えるわけにはいかなかった。ところが、コタカは、

「だけどアートの絵、ネットのオークションで売られてるよ。」

「えっ!」

私はすぐにパソコンを開いて驚いた。私の絵が入札を重ねて一万

円を超える値段を付けていた。サッチャンの放送があってから出

品されたに違いなかった。私は絵を買って行った人を思い浮かべ

た。彼等は私の絵が高く売れると読んで買っていたのだ。決して

私の絵を認めて買って行ったのではなかった。もちろん、そんな

ことは解っていたが、それまでは全く売れなかったんだから、そ

れでも、まさか投機に利用されているとは思わなかった。

 私は、サッチャンがテレビで広めてくれたことがきっかけにな

って、多少なりとも私の絵が評価されたと、思い違いをしていた

ことに言いようの無い寂しさを覚えた。絵を買い求める人の為に

と思い、あえて金額の駆け引きを避けていたが、そのことが絵の

評価とは別の価値を生み、それが買われていたのだ。私は絵を描

く気にもなれず、アパートとは反対の河川敷へ向かって歩いた。

 私は自分の絵が社会から認められたとは思っていなかった。た

だ、知り合いがテレビで取り上げて一時的な話題に為ったけれど

、正当に評価されたとは思っていない。絵を買った者が絵の価値

を認めていれば、すかさずネットで売り飛ばすことなどしないだ

ろう。私の絵は、絵の評価とは違う価値によって求められている

のだ。これは、絵を描く者にとっては深刻な事態だ。画家は、何

の為に絵を描くのかと云えば人に見せる為だ。そして、その絵を

観た人が共感してくれることが絵を描く者にとっての第一義で、

やせ我慢で言えば、売れる売れないは二の次のことだ。ただ、売

れなければ人に観てもらうことも叶わないので、売れることを願

うが、観た人が価値を認めないにもかかわらず、投機的な価値で

買われていくことに、その絵を描いた本人としては納得がいかな

かった。そこで、私は自らで、自分の絵をオークションに出品し

ようと思った。だが、自分の絵がどれ程の価値があるのか解らな

かったので、開始価格を人がオークションに出して付けていた一

万円から始めた。

 「価値」とは「もの」に在るのでは無く、「価値」を認める人

や社会の判断で決まる。お金でさえ社会が認めなければ価値を失

う。離れ小島に一人で暮らす者にとっては、お金など何の価値も

無い。お金は社会性がなければ「価値」が無い。例えば、法を犯

して盗んだお金は社会が認めないから、手に入れた時からお金と

しての「価値」は無い、厳密に言えば犯罪者はただの紙切れを盗

んでいるのだ。私の絵もまた社会が認めない限りただの紙切れな

のだ。その紙切れに描かれた私の絵を認めるということは、私の

絵を通して私に共感し、「価値」を共有することなのだ。こうし

て、ただの紙切れに描かれた絵は「価値」を認められる。つまり

、社会的「価値」とは相対的であり、「価値」を認めるという事

は投機なのだ。昨今の経済危機は、我々が「新しい価値」を作り

出せないことで、社会は「価値」の停滞に苛立ち、安易な自由化

に抜け道を見つけたが、行き止まりだったのだ。サブプライムロ

ーンは、持続的な住宅価格の上昇という、砂上の前提の上に築か

れたマイホームで、投資先に窮したアメリカの金融界が仕組んだ

無限連鎖のマルチ商法なのだ。

 オークションに出品した私の絵は、しばらく入札が無かった。

私は素性を隠していたので真贋を疑われたのだろう。私は新し

い試みをしているという自負はあったが、果たして、その絵は、

プライムバリューとして認められるのか、それとも、サブプライム

となって破綻するのだろうか?

                               (つづく)