「あほリズム」
(319)
小学生の頃、夏休みになると毎朝学校でラジオ体操に参加させら
れた。みんなは手帳にハンコが貯まっていくのを喜んでいたが、私
は、みんなが一緒に揃って行う「ラジオ体操」の主旨がよくわから
なかった。そもそも、体操とは身体を動かす前の準備運動で、それ
ぞれが普段あまり使わない身体の一部に故意に負荷をかけて異状が
ないかどうかを確認する運動であるなら、勝れて個人的な行いであ
るにも係わらず、みんなと動作を揃える必要がいったいどこにある
のだろうか?仮に、体操中に足首の異状を認識して、そういえば確
か昨日段差に足を取られて捻ったことを思い出して、足首を何度も
ほぐしていると、最前列の壇上で監視する先生から指を差されて大
きな声で「そこーっ!」などと怒鳴られたりすると、はて、この体
操は一体誰のために行っているのだろうかと思わざるを得なかった。
それ以来、私はワザとみんなの動きに逆らって、右から始める体操
を左から始めたり、みんなが前に屈むときは後ろに反ったりしてい
ると、指導教師が飛んできて、「みんなに合わせろ!」と怒鳴るの
で、
「ぼく、ギッチョなんです」
と答えると、次の日からは体操免除の特権をいただいた。 ハンナ
・アレントは、「『自由』という言葉によって連想されるあらゆる
特殊な自由の中で、歴史的に最も古くまた基本的なものは運動の自
由です。」と言いました。つまり、「ラジオ体操」は、極めて個人
的な柔軟体操であるにも係わらず、個人の基本的な「運動の自由」
さえも、みんなと一緒に行うことによって奪われてしまうのです。
(つづく)