「あほリズム」(754)(755)

2020-09-28 00:53:57 | アフォリズム(箴言)ではありません

          「あほリズム」

 

           (754)

 

 人は幸せになるために生きているのではない。もしも、それが間

違いなら、不幸な者はさっさと死んでしまった方がいいことになる。

しかし、生きることはそれ自体が目的であって決して何かのための

手段なんかじゃない。何故なら、人は幸不幸に関係なく、つまり目

的とは無関係にいずれ死ぬが、だからと言って、死ぬために生きて

いるのではないのだから。

 

            (755)

 

 幸不幸などというのは「世間」的な感情に過ぎない。

しかし、「実存は〈感情〉に先行する。」

 

 


「竹内結子の死を悼む」

2020-09-27 22:37:48 | 従って、本来の「ブログ」

          「竹内結子の死を悼む」

 

 いつも他人の幸福そうな姿を目にした時には、他人は見た目だけ

で幸せかどうかなんて分らない、と妬みを慰めるために自分に言い

聞かせたりしたが、しかし、私の中では竹内結子だけは「絶対に幸

せに違いない」と思わせるほどの明るい美貌の女優だった。凡そ自

殺とは無縁の人とばかり思っていた彼女はいったいどんな苦しみを

抱えていたのか。年齢にしても、まだまだ新しい可能性が残されて

いたはずなのに、あまりにも呆気ない終わり方に残念な思いが消え

去らない。こころよりご冥福をお祈りします。


「私想」

2020-09-24 07:36:29 | 従って、本来の「ブログ」

            「私想」

 

 仮に、世界は「ビッグバーン」によって誕生したとすれば、もち

ろん想像でしかないが、その現象を思い描けるのは人間の理性だけ

である。そして「宇宙〈存在〉誕生」の秘密を解き明かし世界を客

観的に把促した理性は、謂わば〈存在〉を超えた能力を手にしたと

言える。今や我々はベッドの上に寝転びながら、その能力を駆使し

て時空を超えた世界に思いを巡らす。やがて、曲がりなりにも「存

在とは何であるか」を了解した人間の理性は、目の前の世界(日常)

を思い通りに作り変えようとする。作り変えることができる能力を

持っているということはスゴイことで、そもそもその創作の能力な

しに創造力は生れない。昔のギリシャの哲学者は、人間は二足歩行

できたことによって前足(手)を使えるようになって理性に目覚めた、

と言ったが、われわれの理性にとって、世界とは作られたもの、作

り変えるべきもの〈存在=現前性=被制作性〉という存在概念によ

って構成され、そしてその存在概念の下では自然とは単なるそのた

めの材料にすぎない。かつて、生きることのほとんどを〈本能〉に

委ね、木一本切ることさえも罪の意識から憚った二足歩行の動物は、

理性を獲得すると躊躇うことなく自然を作り変え始めた。 

  理性によって世界とは作られたもの、作り変えられるべきもの

とされ、社会環境が作り変えられると、その環境に適合した生き方

が求められる。それまで生存のすべてを〈本能〉に従っていた人間

は、社会に適合するために、つまり〈理性〉に促されて自分自身を

も作り変えなければならなくなった。こうしてわれわれの〈理性〉

はわれわれ自身にも変化〈進化〉を求めてくる。今の自分を超えて

更に「進化」したいという志向は、〈理性〉による社会適合への強

い欲求からもたらされる。生物が〈本能〉によって自然環境に適合

していくことを〈生物進化〉と呼ぶなら、われわれ社会人が〈理性〉

によって〈社会環境〉に適合していくことを、すでに「社会進化」

という言葉は別の意味で使われているので、ここでは〈社会「的」

進化〉と呼ぶことにする。〈社会的進化〉をもたらすのは一にわれ

われの〈理性〉であり、理性は技術能力を進化させることによって

社会を進化させる。そして、IT化社会の「社会進化」についてい

けない者は古い社会に取り残されるしかないように、そこでは〈社

会的淘汰〉が繰り広げられる。しかし、それはあくまでも〈社会的

進化〉であって、決して〈生物進化〉と同じではない。それどころ

か、〈社会的進化〉が〈生物進化〉を妨げている場合も少なくない。

たとえば、視力の低下をメガネの制作技術の進化によって見えるよ

うになることは〈社会的進化〉の優れた成果に違いないが、しかし、

それによって本来の視力が回復せずに劣化するとすれば、〈技術進

化〉、つまり〈社会的進化〉が本来の〈生物進化〉を阻んでいるこ

とになる。こうしてわれわれは、〈社会的進化〉によって本来備わ

るべき生存能力を退化させているのかもしれない。

                         (おわり)


「あほリズム」(752)

2020-09-21 11:03:19 | アフォリズム(箴言)ではありません

        「あほリズム」

 

         (752)

 

「存在=現前性=被制作性」という存在概念によって構成される近代

社会はまさに〈理性〉に基づいているが、しかし世界とは本来「存在

=生成=自然」という存在概念によって構成されるとすれば、それは

〈本能〉に基づいて構成される。

 人間の〈理性〉に基づく社会が人間中心主義(ヒューマニズム)であ

るとすれば、〈本能〉に基づく世界は、人間だけが〈本能〉をもって

いるわけではないので、人間が中心の世界ではない。

 ところで、もしも、世界とは〈生成〉であるとすれば、〈理性〉は

〈生成〉に与ることができないので、〈生成〉としての世界とは〈非

理性〉の世界である。ヒューマニズムとは〈理性〉に基づいて構成さ

れるとすれば、世界が〈生成〉としての本来性に目覚めた時、我々は

ヒューマニズムを失う。人間がヒューマニズムを失う時、とは〈本能〉

から派生する憎悪がもたらす〈戦争〉以外考えられない。

 それでも、尚〈戦争〉は回避しなければならないとすれば、愚直に

ヒューマニストであらねばならない。だから、〈理性〉に基づく戦争

放棄は今もそれほど間違っているとは思わない。なぜなら〈戦わない〉

というのは優れて〈理性〉的な判断であるからだ、戦争が〈非理性〉に

よるとするならば。