「あほリズム」 (391)~(394)

2018-03-31 07:18:19 | アフォリズム(箴言)ではありません

         「あほリズム」

          (391)

 図らずも「森友・加計学園疑惑」から垣間見える安倍総理の人と

形は、かくも如何わしい阿諛迎合の輩とも公私を弁えずに親交して

いたことからも窺い知ることができる。それにしても、なぜナショ

ナリストたちはかくも単純なのか?

 

           (392)

 「成長の限界」に達した世界では、誰もが閉塞した社会の変化を

求めて強権政治が支持されている。大国のリーダーたちを並べてみ

てもトランプ大統領、習近平主席、プーチン大統領など、彼らを独

裁者呼ばわりするのは誤りだろうか?

 

            (393)

世界が同じ方向に流れていることを認識しなければならない。それ

は「戦前レジーム」への回帰である。

 

            (394)

どれほど有能な政治家が現れても頂上(サミット)よりも高く登るこ

とはできない。安請け合いをする政治家にあらぬ希望を託さないこ

と。過去の反省から、託した希望は絶望となって戻って来るのだか

ら。

 

 


「依存と自立」②

2018-03-25 19:09:05 | 従って、本来の「ブログ」

         「依存と自立」②


 話は横道に逸れましたが、始めにも記したようにすべての生命体

は外部(自然環境)に「依存」して生命を維持しています。外部に「

依存」せずに生きることは到底できません。たとえば、「依存症」

という症状が認められていますが、物質依存症であるアルコール依

存症や薬物依存症、或は行為・過程依存症であるギャンブル依存症

やゲーム依存症など、もっと広く捉えれば趣味に没頭することから

ワ―カホリック、生き甲斐などもそうかもしれませんが、そのよう

な外部との関係依存から抜け出せないことまでも数え上げれば、生

きることとはまさに「依存」することに他ならないのです。もっと

も分りやすいのは恋愛かもしれません。愛して已まない異性への感

情的な「依存」を拒まれたら生きていることさえ嫌になります。「

依存」から脱け出すことは大袈裟に言えば生きることを諦めるほど

の決意が求められるのかもかもしれません。つまり、生きることと

は何かに「依存」することなのです。だとすれば、「依存」は本能

的な欲求なのかもしれません。ではいったい「自立」とは何でしょ

うか?上にも書いたように「依存」には常習性のある嗜癖や好まし

からざる関係依存のように「依存」が過ぎれば生きることを妨げる

ことさえあります。「自立」はそのような好ましからざる依存から

脱け出すための理性的な判断ではないでしょうか?

 ここでもう一度横道へ戻ると、「森友問題」で公文書改ざんに関

わったと思われる財務省近畿財務局の職員はあろうことか自殺して

しまいました。彼が改ざんにどこまで関与していたのか不明ですが

、ただ彼が自分で勝手にやったことではないことだけは確かだと思

います。組織に「依存」せざるをえない公務員にとって、上司から

の不当な指示に従うべきか、或は「自立」した判断によってキッパ

リ「汚い仕事」を拒むべきか、しかし拒めば組織への「依存」を失

うことは確実で、終身雇用の下でそう簡単に辞めることができない

となれば選択肢は限られる。たとえば、アメリカのトランプ政権の

下で、自分の信条を曲げないブレーンの多くが「自立」した考えを

貫いていとも簡単に辞任するのを見れば、それは図らずもトランプ

大統領のガバナンス能力を有権者に垣間見せてくれる明解さがある

が、一方、役所組織の関係依存に縛られて「自立」できない日本の

タコツボ社会の在り方に何かやりきれなさを感じる。そしてそれが

責任の所在すら曖昧で、誰かがお偉いお方のお心を「忖度」した結

果だとしたら、確かにそれはどこの国も真似できない日本独自の文

化であることに間違いない。

                       (つづく)


「依存と自立」

2018-03-23 15:51:16 | 従って、本来の「ブログ」

        「依存と自立」

 「自立」という言葉を辞書で引くと「①他への従属から離れて独

り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること」

(デジタル大辞泉)とある。しかし生命活動を維持するためにエネ

ルギーを外部に依存するすべての生命体にとっては当然「自立」に

も限界がある。もしも生存環境が失われてしまえば「自立」するこ

とはもちろん、生きていくことすら出来なくなる。地球内生命は地

球環境に依存して生きているのだ。つまり「完全自立」は成り立た

ない。仮に「自立」という言葉が「他への従属から離れて独り立ち

することだと」すれば、しかし社会の中で生きている限り、社会へ

の従属から離れて独り立ちして生きることなど到底出来ない。我々

は社会に依存して生きているのだ。「社会的自立」という言葉があ

るが、社会の中にあっても社会的役割を担って経済的自立をするこ

とだとすれば、そもそも経済活動は相互の依存関係から生れるので

、「社会的依存」によって「社会的自立」がもたらされる限り、そ

れも厳密には「自立」とは言い難い。つまり「自立」とは言葉とは

裏腹にその実態は様々な依存関係の上でしか成り立たない。自給自

足の生活でもしない限り「自立」して生きることなどできないのだ

 さて、ニュースは連日のように「森友問題」を取り上げ、「忖度

」という言葉を頻繁に耳にするが、「忖度」という言葉を辞書で引

くと「他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮

すること。」(デジタル大辞泉)とある。「おしはかる」は「推し測

る」で「推測する」ことで、相手のことを推測するだけなら何も問

題はないが、更に「おしはかって相手に配慮すること」となると、

その配慮が特定の便宜や利益を供与することにまで到るなら「忖度

」の域を超えた不正行為である。不正疑惑を「忖度」などと曖昧な

言葉でごまかすのは誤りである。そもそもわが国は三権分立を掲げ

てはいるが、しかしその実態は行政権は内閣に属し、行政のトップ

に国会議員が充てられる議院内閣制で、その下で行政が内閣に依存

せざるを得ないことは明白である。まして人事権までも内閣に握ら

れてしまえば自立した行政など行える筈がない。そして終身雇用に

縛られた公務員は内閣への依存と公平中立を重んじる行政との葛藤

に苦しみ、遂には自らの意志を曲げて権力者の意向を「忖度」する

。そもそも為政者は特定の組織や団体への共感や好意をあからさま

にしてはならない。常に政治権力者は権力に群がって利権に与ろう

と企む阿諛者から身を遠ざけなければならない。仮に利用されたに

しろ、危うきに近寄ったことは否めない。「加計問題」にしろ余り

にも知己に政治的便宜を図っている。そもそも不正疑惑の発端は安

倍総理の軽薄な言動から生れたのであり、自分はまったく与り知ら

ないという弁明はあたらないし、まして行政権を預かる内閣の総理

大臣たる安倍総理のその責任は免れない。

                      (つづく)かな?

 


 「間違って生まれてきた君へ」 (一)

2018-03-14 23:38:31 | 間違って生れてきた僕

         「間違って生まれてきた君へ」

 

               (一)


 「ぼくはたぶん間違ってこの世界に生まれてきたんだ」と、確か

君はわたしに言いましたね。君は、檻に押し込められる家畜にも

、またそれらを搾取する飼育係にもはなりたくないので、きっと間

違って生まれてきたに違いない、と言いましたよね。そして、それ

でもいつかは世界が変わるという望みを持って留まるか、そうで

なければさっさと諦めて立ち去った方がいい、と言う君の考えが

愚かだとは思いません。それどころか君の言うことは理性的だと

さえ思っています。ただ、理性はわれわれの存在までも保証しな

い。何故なら、われわれは理性によって生まれ来たわけではない

からです。だとすれば、理性に生存を委ねることは過ちではない

だろうか?

 君は、ロマン・ロランの著書「ジャン・クリストフ」の言葉を引いて、

「わたくしがなにをし、どこへ行こうとも、終わりはつねに同じではな

いでしょうか、最後はどうしたってあそこにあるのではないでしょうか

?」と言いましたが、確かに結果だけを見ればそうかもしれません。

しかし、生きることは結果ではないのです。ロマン・ロランは、さらに

そのあとに自らの神の言葉として、「死にに行け、死すべきであるお

まえたち!苦しみに行け、苦しむべきであるおまえたち!人は幸福

ならんがために生きているのではない」と言い切り、そしてこう続け

ます。「わたしの掟を実現するためにこそ生きているのだ!苦しめ。

死ね。しかしおまえがあるべきものであれ、――『人間』であれ。」と。

 私が言うのも何ですが、今まさに君が苦しんでいることは人間であ

ることの苦悩ではないでしょうか?そして、その苦悩の中から君自身

の生き方を見つけ出さんことを祈って已みません。いいですか、もう

一度繰り返します、「人間は幸福にならんがために生きているのでは

ない」のです。何故なら、幸福という幻想もまた死とともに終わってし

まうからです。幸福だけを望むのなら、君の言うように、多分生まれ

て来なかった方が少なくとも苦しまずに済んだかもしれませんが、し

かしすべての生きものは幸不幸を問わずに生まれて来ます。だとす

れば、生きることことこそが最大の目的であって、如何なる社会的な

不幸であってもそれを打ち消すものではありません。もしも幸不幸が

経済的、或いは社会的な原因によってもたらされるとすれば、仮に、

君がそんな社会との関係を断ったとしても、生きることの歓びそのも

のは決して失われたりしないでしょう。つまり、君は君自身で生きるこ

との歓びを生み出すことが出来るのです。そもそも生きることとは苦難

を克服することだとすれば、たまたま幸福に与った者はただ偶然に恵

まれただけで、それだけで果たして意義のある生き方といえるのでしょ

うか?それに比して、君が「偶然的な」不幸を乗り越えて生きていくこと

の方がどれほどよく生きたことになるのではないでしょうか。君が君自

身の苦悩を乗り越えて、生きることの歓びを得られんことを願って已み

ません。


「間違って生まれてきた僕」 (1)

2018-03-14 23:35:36 | 間違って生れてきた僕

          「間違って生まれてきた僕」

 

               (1)

 先生、先日はお忙しいのに登校するよう説得するためにわざわざ

家にまで来ていただいてありがとうございます。またその後、心の

こもったメールまで送ってくださって、僕も何とかして先生の期待

に応えなければと思っています。その時にも話したように、別に勉

強が嫌だから行きたくないとかではないのです。先生は社会に出て

から困ると言いましたが、実はそんな先のことなどどうだっていい

です。どう言えばいいのか、社会のことなんてまったく関心があり

ませんし、それどころか煩わしささえ感じます。と言うのも、独り

で居ても寂しくはありませんが、人と一緒に居ると何か話さなけれ

ばと落着かなくてついには孤独さえ感じることがあります。たとえ

ば、野球にまったく興味のない者に無理やりバットの振り方を教え

てバッターボックスに立たせてもきっとうまくいかないでしょう。

関心のない世界で競わされて苦しむくらいなら、あっさりあきらめ

て人生をショートカットした方が楽じゃないかと思う時があります

。ただ世界は野球だけではないから自分の道は自分で探すしかない

と思っています。こんなことを告白するのは先生だけで、もちろん

親にも言いません。実は、毎日いったい自分は何のために生まれて

来たのかということばかり考えています。もしも神が存在するとい

うなら、実際には存在しなくたって、それでもまったくかまいませ

んが、しかし、人間が理性によって生きていく限りはまず自分とは

何であるかを理性的に知らなければ本能、つまり感情にゆだねるこ

とになってしまいます。しかし感情は相対的な好き嫌いでしか判断

できませんから、会ったことのない個人を憎んだりはできないから

、人はいつも物事を考えた末に最後の選択を感情に放り投げてそれ

までの理性による判断を台無しにしてしまいます。つまり先生のよ

うに最後には「考えても答えは見つからない」とあきらめてしまい

ます。こうしてわれわれはこれまで理性による思考を感情による決

断にゆだねてどれほど誤まってきたことでしょうか。しかし僕はあ

きらめたくありません。自分とは何であるかを独りでいる時も社会

の中にあっても確信できる自分自身を見つけ出さない限り一歩も前

には進めないと思っています。

 たとえば「愛国心」という言葉がありますが、そもそも国家とは

国民の感情の対象である機関でしょうか?理性的な決断が求められ

る国政を愛国心、つまり感情にゆだねてもいいのでしょうか。愛国

心の下で国家を語る人たちは理性的な判断を下す以前にすでに結論

が前提されています。彼らの理性的な視線は愛国心というレンズを

通って歪められます。つまり感情を守るために理性が利用されてい

るのです。そもそも政治が伝統文化とともに語られることに驚きを

禁じ得ません。こうして我々の理性的思考は感情的な前提とあきらめ

による決断によって縛られているのです。