「二元論」 (10)

2021-05-31 07:31:01 | 「二元論」

            「二元論」

 

             (10)

 

 そもそもハイデガーは思想的転回(ケ―レ)の前には大きな文化的

転換を企てていた、と木田元は言う。それは、「『時間と存在』の

章において彼が企てていたのは、現存在(人間)を本来性へ立ちかえ

らせることによって存在了解の転回をはかり、――可能か否かは別

にして――彼なりの考えで『物象化の廃棄された』世界構造、存在

の根源的な意味にもとづく新たな世界構造を獲得すること、つまり

は、壮大な文化の転換ないし歴史の転回をはかろうということだっ

たのではあるまいか。」そして「その新たな世界構造は、生きた自

然というものと密接に連関しているように思われる。」(木田元『ハ

イデガー』岩波現代文庫・学術67) それは、形而上学的思惟によっ

てもたらされた固定化した科学主義文明の転換であり、そして人口の

限界に達した人間中心主義(ヒューマニズム)文化の転回にほかならない。

 

*「物象化」・・・人と人との関係が物と物との関係として現れる

こと。カール・マルクスが『資本論』で使った概念。(Wikipedia)

 

                        (つづく)

 


「二元論」新(9)

2021-05-29 13:42:52 | 「二元論」

            「二元論」

 

             新(9)

 

 ハイデガーによれば、「形而学(meta-physics)」とは古代ギリ

シャで生まれ、その後西欧社会だけにしか拡がらなかった学問であ

って、だから「西洋哲学」という言葉は同語反復であるとまで言う

のですが、つまり、それ以外の哲学と呼ばれるものは形而のこと

はすべて神話に委ねて、あくまでも「形而(physical)」の学問で

しかなく「形而学」とは呼べないと言うのです。では、いったい

「形而学」とは何かと言えば、それら形而の存在全般を存在た

らしめている《存在》とは何かを問う学問で、古代ギリシャの哲学

者アリストテレスの言葉から「第一哲学」と呼ばれ、そもそも形而

学はプラトンとアリストテレスから始まった。ところで「存在と

は何か」と問えば、当然のことながら「存在」は「事実としての存

在」と「本質としての存在」に二分化される。そして、遷り変わる

事実存在よりも不変である本質存在こそが真理であるということに

なる。この形而上学的思考がもたらす「事実存在」と「本質存在」

の二分化こそが様々な二元論の根源に違いない。人間における「事

実存在」とは「肉体」であり、「本質存在」とは「精神」である。

ハイデガーもまた思想的「転回(ケ―レ)」を迫られた《存在了解》

について、ここで改めて《存在了解》について記述するのも今更の

感は否めないが、そもそも人間は了解しないままこの世界に投げ込

まれ(被企投性)、成長と共に理性が発達するとやがて意識(本質存

在)は目の前の世界(事実存在)を離れて(脱自態)、《存在》の視点

から世界全体を了解して受け入れようとする(存在了解)。そして初

期のハイデガーは、「現存在が了解するときにのみ、存在はある」

と言い、《存在》とは現存在、つまり人間が存在しなければ取り上

げられることのない概念であって、《存在》は唯一の了解者である

人間の思い(企投)に委ねられる。わかり易く言えば、世界の外から

世界を思い描くことができる人間だけが世界を構成することができ

ると考えた。しかし、一方で世界に依存して実存している取り残さ

れた「事実存在」としての人間にとって、世界が人間を規定するこ

とに疑いの余地はなく、それまでの《存在了解》の考え方を改めざ

るを得なくなって、「存在と時間」の上巻を発刊した後に思想的「

転回(ケ―レ)」に迫られて下巻の著述を断念するにいたった。後期

のハイデガーは、「存在が了解のうちにあるという可能性は、現存

在の事実的実存を前提にし、現存在の事実的実存は自然の事実的現

存を前提にしている」(『論理学の形而上学的基礎――ライプニッ

ツから出発して――』199頁『全集26巻』) と言い、つまり、

「人間が世界の外から世界を思い描くことができるのは、人間がこ

の世界に実存しているからで、さらに人間が実存できるのは自然が

あるからだ」と、今のわれわれが聴けば何の変哲もない当たり前の

ことを弁明にしている。

 転回(ケ―レ)後のハイデガーは、二元論をもたらす形而学的思

惟から離れて、プラトン、アリストテレス、そして彼らの先駆者で

あるソクラテスよりも以前の思想家たち、彼らは一様に「フォアゾ

クラティカー」と呼ばれているが、アナクシマンドロス、ヘラクレ

イトス、パルメニデスなどといった「存在とは何か」を問う形而

学以前の思想家に傾倒するようになる。それは、間違いなくニーチ

ェの影響からである。

                         (つづく)


「あほリズム」(835)

2021-05-26 14:51:13 | 「二元論」

          「あほリズム」

 

           (835)

 

 前回の「あほリズム」(834)で、「除染土の県外の最終処分地は、

話し合うまでもなく、その恩恵に浴してきた東京以外にあり得ない。」

と記したら、さっそく小泉進郎環境大臣は、私見であると断わりなが

らも、「国会議事堂の敷地で使う考えもある」と語りました。

 なるほど、その政治パフォーマンスは見事だが、果たしてどこまで実

現する気があるのか、私は反対されることを見越してのアリバイ作りで

はないかと思っているが。

 


「あほリズム」(834)

2021-05-24 05:18:58 | アフォリズム(箴言)ではありません

         「あほリズム」

 

          (834)

 

 「東京電力」福島原子力発電所の事故による除染土の県外の最終

処分地は、話し合うまでもなく、その恩恵に浴してきた東京以外に

あり得ない。もしも東京が「電化生活」の豊かさだけを享受して事

故の賠償を金銭だけで済ませようとするならば、この国の社会正義

は著しく不公平化する。


「二元論」(9)のつづき

2021-05-24 05:05:26 | 「二元論」

             「二元論」

             (9)のつづき

 ハイデガーによれば、「形而上学(meta-physics)」とは古代ギリ

シャで生まれ、その後西欧社会だけにしか拡がらなかった学問で

あって、だから「西洋哲学」という言葉は同語反復であるとまで言

うのですが、つまり、それ以外の哲学と呼ばれるものは形而上のこ

とはすべて神話に委ねて、あくまでも「形而下(physical)」の学問で

しかなく「形而上学」とは呼べないと言うのです。では「形而上学」

とは何かと言えば、それら形而下の存在全般を存在たらしめている

《存在》とは何かを問う学問で、古代ギリシャの哲学者アリストテ

レスの言葉から「第一哲学」と呼ばれ、そもそも形而上学はプラト

ンとアリストテレスから始まった。ところで「存在とは何か」と問

えば、当然のことながら「存在」は「事実としての存在」と「本質

としての存在」に二分化される。そして、遷り変わる事実存在よりも

不変である本質存在こそが真理であるということになる。この形而上

学的思惟による「事実存在」と「本質存在」の二分化こそが様々な二

元論の根源に違いない。人間における「事実存在」とは「肉体」であ

り、「本質存在」とは「精神」である。ハイデガーもまた思想的「転

回(ケ―レ)」を迫られた《存在了解》について、ここで改めて《存在

了解》について記述するのも今更の感は否めないが、そもそも人間は

了解しないままこの世界に投げ込まれ(被企投性)、成長と共に理性が発

達するとやがて意識(本質存在)は目の前の世界(事実存在)を離れて(脱自

態)、《存在》の視点から世界全体を了解して受け入れようとする(存在

了解)。そして初期のハイデガーは「現存在が了解するときにのみ、存

在はある」と言い、《存在》とは現存在、つまり人間が存在しなければ

取り上げられることのない概念であって、《存在》は唯一の了解者であ

る人間の思い(企投)に委ねられる。わかり易く言えば、世界の外から世

界を眺めることができる「現存在(だけ)が《存在》を規定する」ことが

できると考えた。しかし、一方で世界に依存して生存している「事実存

在」としての人間にとって「存在が現存在(人間)を規定する」ことに疑

いの余地はなく、それまでの《存在了解》の考え方を改めざるを得なく

なって、「存在と時間」の上巻を発刊した後に思想的「転回(ケ―レ)」

に迫られて下巻の著述を断念した。後期のハイデガーは、「存在が了解

のうちにあるという可能性は、現存在の事実的実存を前提にし、現存在

の事実的実存は自然の事実的現存を前提にしている」(『論理学の形而上

学的基礎――ライプニッツから出発して――』199頁)『全集26巻』

つまり、「人間が世界の外から世界を認識することができるのは、人間

がこの世界に実存しているからで、そして人間が実存できるのは自然が

あるからだ」と言っている。

                       (つづく)