「二元論」(4)

2021-02-28 05:35:03 | 「二元論」

          「二元論」


           (4)


 ハイデガーの存在論について私が理解したことを難解な哲学用

語を使わずにわかり易く述べようと思います。

 そもそも「なぜ世界は《ある》のか?」と問うのは理性を進化

させた人間だけで、その他の生き物たちは世界の中で自らの本能

に従って迷わずに生きています。そこでハイデガーは、まず「な

ぜ世界は《ある》のか?」と問う人間とは何であるか?を問いま

す。何故なら、人間とは何であるかが分っていないと、その人間

が求める真理には的中しないかもしれないからだ。たとえば、か

つては神の存在を誰もが信じて疑わなかったが、いまでは多くの

人がそれは非科学的であると思っている。つまり、時代とともに

人間がどう考えるかによって世界への認識は移り変わる。だとす

れば、「なぜ世界は《ある》のあるか?」の回答は、それを問う

人間の自問自答にすぎないことになる。つまり、「人間とは何か

?」を問うことは「世界とは何か?」を問うことにほかならない

のだ。さて、その人間にとって決定的なできごとと言えば「死」

であり、そして人間はそれを認識しています。やがて、または突

然に、自分自身が消滅することを受け入れられない現実が「世界

とは何であるのか?」と問うことの始まりに違いありません。「

死」は人間に世界とは無常であることを宣告します。だとすれば、

われわれは限られた存在であり、限られた存在とは限られた「時

間」だと言い換えることができます。ハイデガーの主著「存在と

時間」の時間とは限られた時間しか存在し得ない人間のことです。

そもそも、存在も時間も限られているから認識できるのですが、

つまり「存在と時間」を小難しい哲学言語を排して口語に言い換

えると「世界と私」ということになります。では、限られた存在

であり限られた時間しか生きられない人間が、無限で永遠の世界

の中から「世界とは何であるか?」を問うたとしても世界全体を

外の視点から認識することはできない。そこでハイデガーは、世

界の中からでしか世界を認識できない人間を「世界=内=存在」

と呼びます。「世界=内=存在」とは世界の中で現われてやがて

世界の中で消えていく人間のことです。

                         (つづく)


「二元論」(3)のまとめ

2021-02-26 02:02:53 | 「二元論」

          「二元論」

           (3)のまとめ


 哲学者ハイデガーの研究者として知られる故木田元氏(1928

年~2014年)によると、ハイデガーは自著「存在と時間」の上

巻を刊行した後に思想的転回(ケ―レ)を余儀なくされて予定されて

いた下巻の刊行を取り止めた。私はそれまでニーチェのアフォリズ

ムを暇つぶし程度に読んでいたが、しかしハイデガーにはあまり良

い印象を持っていなかったことから、それはもちろん彼がナチスの

支持者であったからで、ところが、木田氏が著した「ハイデガーの

思想」を読んでハイデガーによる「ニーチェ」の講義が書籍化され

ていることを知って、また木田氏があまりにも絶賛するので取り寄

せて読んだ。実際、これはすごかった。あのニーチェが一足飛びで

駆った抽象概念の足跡を丁寧に解説しながら辿ってニーチェについ

てこれほどまでにも判り易く書かれた本はなかった。そして、あの

難解なハイデガーの言語を見事に和訳してみせた細谷貞雄氏をはじ

めとする翻訳家の人々を称えない訳にはいかない。ただ、なるほど

これほどまでもニーチェ思想の影響を受けた者だからこそナチスの

過激思想に加担することにもさしたる疑いを抱かなかったのかもし

れない。その木田元氏の「ハイデガーの思想」によると、ハイデガ

ーの思想的転回(ケ―レ)の原因は《存在》そのものの捉え方(存在了

解)を改めざるを得なかったからだと言うのだ。

 木田元氏は著書「ハイデガーの思想」(岩波新書268)の中で

ハイデガーが思想的転回を余儀なくされた経緯を推察して書いて

いますが、そこでは、「ハイデガーは人間を本来性に立ちかえら

せ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、あそらくは〈存在

=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生きて生成する

ものとして見るような自然観を復権することによって、明らかにゆ

きづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義文化をくつがえ

そうと企てていたのである。」これだけ読むとりっぱな文明批判で

自然に帰れと言ってるとしか思えないですが、いくつか補足すると

、科学技術は「自然は制作のための単なる〈材料・質料〉」と看做

し、「〈存在=現前性=被制作性〉というアリストテレス以来の伝

統的存在概念は、ハイデガーの考えでは、非本来的な時間性を場と

しておこなわれる存在了解に由来する。」つまり、われわれが自然

と向き合う時に、われわれは本来的な時間性の場である「自然=内

=存在」として存在するのか、それとも「自然は制作のための単な

る〈材料・質料〉」としか扱われないとすれば、われわれは非本来

的な時間性を場とする自然の外へ一歩踏み出すことになる。

 そもそも一般に「何であるか?」を問うということは「問われて

いるもの」「問いただされていることがら」そして「問いかけられ

るもの」の三つの要素からなる。ここで「《存在》とは何であるか

?」と問う場合、「問われているもの」は《存在》で、「問いただ

されていることがら」は《存在》の意味であり、「問いかけられる

もの」は人間にほかならない。ところで、「何であるか?」を問う

者は当然その意味を理解できる能力のある存在でなければならない

。だとすれば「何であるか?」と問う者の理解能力に問うことの意

味は規定される。だとすれば、「《存在》とは何であるか?」を問

うことは、『人間にとっての』「《存在》とは何であるか?」』を

問うことにほかならない。つまり、その意味がどうであれ、人間の

理解能力によって《存在》の意味は変わることになる。そこで、ま

ずハイデガーは、「存在とは何か?」を問う「人間とは何か?」を

現象学的に分析しようとする。彼は、「現存在(人間)が存在を了解

する時にのみ、存在はある」と言い、木田元は「前期のハイデガー

は〈現存在が存在了解を規定する〉と考えていた、と言ってよいか

もしれない。」(木田元「ハイデガーの思想」)と述べている。とこ

ろで、〈人間が存在了解を規定する〉とすれば、当然人間が人間の

ために世界を作り変えることは許されることになる。

 ところで、私もこれまで幾度か使いましたが、ハイデガーは人間

という言葉を避けて「現存在(Dasein)」と言い換えます。それは、お

そらく生きている人間はいまは「存在している」が、いずれ死ん

で存在しなくなるからだと思います。そもそもハイデガーは、現象学

的存在論として「存在と時間」を書き始めましたが、上に述べたよう

に、まず、その準備として「問いかけられている」現存在とは「何で

あるか?」を確認するために「現存在の準備的な基礎分析」及び「現

存在と時間性」を発表したあと、それだけで優に1000ページはあ

るが、続刊が予定されていた本論である存在論は出版されずに終わっ

た。そのため「存在と時間」は当時隆興してきた実存論と誤解された

が、彼は存在論だと主張している。

 では、「存在とは何であるか?」を思惟する現存在とは何である

かといえば、現存在を規定する絶対的な現象は「死」であり、「死」

は現存在の存在の限界を意味します。自らが限られた存在でしかな

いことを認識した現存在は現前の俗事に流されるだけの「頽落」し

た生活を改めて存在することの本来性、つまり「先駆的覚悟性」(ハ

イデガー) に目覚め、それは「死」がもたらす限られた《時間性》(テ

ンポラリテ―ト)によって現存在を本来性へと覚醒させる。こうして、

現存在の存在は限られた「時間」を場とする《時間性》(テンポラリテ

―ト)へと還元される。つまり、「テンポラリテ―ト」とはあくまでも

現存在に関わる概念にほかならない。

                        (つづく)


「二元論」(3)のつづきの続きの追稿

2021-02-24 06:01:46 | 「二元論」

         「二元論」

 

          (3)のつづきの続きの追稿

 

 ところで、私もこれまで幾度か使いましたが、ハイデガーは人

間という言葉を避けて「現存在(Dasein)」と言い換えます。それ

は、おそらく生きている人間はいまは「存在している」が、

いずれ死んで存在しなくなるからだと思います。そもそもハイデ

ガーは、現象学的存在論として「存在と時間」を書き始めました

が、上に述べたように、まず、その準備として「問いかけられて

いる」現存在とは「何であるか?」を確認するために「現存在の

準備的な基礎分析」及び「現存在と時間性」を発表したあと、そ

れだけで優に1000ページはあるが、続刊が予定されていた本

論である存在論は出版されずに終わった。そのため「存在と時間」

は当時隆興してきた実存論と誤解されたが、彼は存在論だと主張

している。

 では、「存在とは何であるか?」を思惟する現存在とは何であ

るかといえば、現存在を規定する絶対的な現象は「死」であり、

「死」は現存在の存在の限界を意味します。自らが限られた存在

でしかないことを認識した現存在は現前の日常に流されるだけの

「頽落」した生活を改めて存在することの本来性、つまり「先駆

的覚悟性」(ハイデガー) に目覚め、それは「死」がもたらす限ら

れた《時間性》(テンポラリテ―ト)によって現存在を本来性へと

覚醒させる。つまり、「テンポラリテ―ト」とはあくまでも現存

在だけに関わる概念にほかならない。

         (4)にしろよ、と思いつつ、(つづく)


「二元論」 (3)のつづきの続き

2021-02-21 18:40:01 | 「二元論」

         「二元論」


          (3)のつづきの続き

 

 そもそも一般に「何であるか?」を問うということは「問われて

いるもの」「問いただされていることがら」そして「問いかけられ

るもの」の三つの要素からなる。ここで「《存在》とは何であるか

?」と問う場合、「問われているもの」は《存在》で、「問いただ

されていることがら」は《存在》の意味であり、「問いかけられる

もの」は人間にほかならない。ところで、「何であるか?」を問う

者は当然その答えの意味を理解できる者でなければならない。そう

でないと、問いかける人間の理解能力を超えた《存在》の意味は理

解され得ない。だとすれば「何であるか?」と問う者の理解能力に

問うことの意味は規定される。人間にとっての《存在》の意味は人

間の理解能力が受け入れられるものでなければ意味をなさない。も

しも、《存在の意味》がどれほど真実だとしても、人間がその意味

を理解する能力を持っていないとすれば「無意味」である。だとす

れば、「《存在》とは何であるか?」を問うことは、『人間にとっ

ての』「《存在》とは何であるか?」』を問うことにほかならない。

つまり、その答えがどうであれ人間が《存在》をどう理解するかに

よって《存在》の意味は変わることになる。ハイデガーは「現存在

(人間)が存在を了解する時にのみ、存在はある」と言い、木田元は「

前期のハイデガーは〈現存在(人間)が存在了解を規定する〉と考えて

いた、と言ってよいかもしれない。」(木田元「ハイデガーの思想」)

と述べている。ところで、〈人間が存在了解を規定する〉ということ

は、人間が世界を作り変えてもいいことになる。

                        (つづく)


「二元論」(3)のつづき

2021-02-14 10:22:44 | 「二元論」

         「二元論」


          (3)のつづき

 

 木田元氏は著書「ハイデガーの思想」(岩波新書268)の中で

ハイデガーが思想的転回(ケ―レ)を余儀なくされた経緯を推察して

書いていますが、それによると、「ハイデガーは人間を本来性に立

ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、あそらくは

〈存在=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生きて生

成するものとして見るような自然観を復権することによって、明ら

かにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義文化をく

つがえそうと企てていたのである。」これだけ読むとりっぱな文明

批判で自然に帰れと言ってるとしか思えないですが、いくつか補足

すると、科学技術は「自然は制作のための単なる〈材料・質料〉」

と看做し、「〈存在=現前性=被制作性〉というアリストテレス以

来の伝統的存在概念は、ハイデガーの考えでは、非本来的な時間性

を場としておこなわれる存在了解に由来する。」つまり、われわれ

が自然と向き合う時に、われわれは本来的な時間性の場である「自

然=内=存在」として存在するのか、それとも「自然は制作のため

の単なる〈材料・質料〉」としか見れないとすれば、われわれは非

本来的な時間性を場とする自然の外へ一歩踏み出すことになる。

 

*「時間性」(テンポラリテート)はハイデガー哲学にとっては中心と

なる重要な概念ですが、実はよく解ってないのでもう少し勉強してか

ら取り上げます。

                         (つづく)