「ラジオ体操と共同幻想」②

2013-10-24 04:37:43 | 「ラジオ体操と共同幻想」
   

      「ラジオ体操と共同幻想」②


 話しは逸れてしまいましたが、ラジオ体操に話を戻すしますと、

これまで述べたようにマスゲームにしろスポーツゲームの応援にし

ろ、動作を揃えたり声を合わしたりすることの一応の理由はありま

す。ところが、それではラジオ体操はいったい何のためにみんな一

緒に揃ってやらなければならないのだろうか?私は何もラジオ体操

そのものを否定してるのではありません。もちろん、曲に合わせて

体操するわけですから同じ動きになるのは当然の成り行きですが、

自分の健康づくりのために行うのであれば、何もわざわざ集ってや

らなくても、それぞれが自分の家でラジオを聴きながら勝手にやれ

ばいいではないか。ただ、大勢の人が一か所に集い揃って個人的な

体操を行う理由がわからないと言ってるのです。よしや、体操する

ことよりもみんな集まって一緒に行うことの方に意味があるならば、

つまり、集まらなくてもできるのに集まってするのは、社会的連帯

を求める人間の動物的本能によるものであるなら、その集りには人

間社会の原点のようなものがあるのではないか。人々は様々な共通

の目的の下に集ります。信仰を共にする者たちの集りから政治的心

情を同じくする者たちの集り、果てにはその目的が霧散してしまっ

て集まることが目的になった集りまで数限りなくあることでしょう。

それを、私のようにいちいち追究してみても詮ないことだと言われ

ればそれまでですが、要するに参加しなければ済む話で、ただ、そ

れら様々な集りは、実は、集って共感を確かめ合うことの方がその

目的なんかよりも優先するのではないか。例えば、自分の家でひと

りでラジオ体操をしていると、多分つまらなくなって投げ出してし

まう。それは何もラジオ体操だけではなく、広島カープが好きだか

らと言ってひとりテレビの前で歓声を上げても人との繋がりは生ま

れない。そうだ、繋がりだ!われわれが集まるのは人との繋がりを

を求めているからだ。人と繋がっていないと本能的に不安になり、

本来のラジオ体操をするという目的を「手段にして」、人との繋が

りを求めているのだ。つまり、本能的な不安を解消するために、み

んなで一緒にラジオ体操をするだとか、広島カープを応援するだと

かの目的は手段に転換され、集まることこそが目的になる。ところ

が、間もなく曲が流れ誰もが一斉に「腕を前から上にあげて大きく

背伸びの運動」を始め出すとそれぞれは体操の世界に入っていく。

みんなが集まっているにもかかわらず、ひとりでも出来る体操が始

まる。しかし、体操はすでに目的ではないのだ。会場には喪失した

目的が虚しく宙に浮く。それは、電車の中で見知らぬ乗客たちが醸

す無関心ともちがう。乗客たちにとって電車に乗ることは目的では

ないので移動手段にいちいち関心など払ってられない。ところが、

ラジオ体操に集まる人々は周りの動きに無関心では居られない。

しかし、みんなが揃って体操をするのは、将軍様に見てもらうため

でもバッターボックスに入る梵選手の応援のためでもなく自分自身

のためである。体操に集中すればするほど集団で行うことの虚しさ

を感じる。個人が求めることとそれを受け止められない集団の感受

的な喪失感が漂う。その喪失感とは、今のわが国が置かれている

状況「テーマを失った社会」そのものではないだろうか。

                                  (つづく)




 


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