「常ならざること」④

2011-10-31 10:23:09 | 従って、本来の「ブログ」

                  「常ならざること」

                     ④

 

 だからと言って、藤原紀香と陣内智則は最初から合わなかったの

かと言えば、もちろんそんなことはなかったと思う。彼らは本能的

には充分惹かれ合っていたと思う。ただ、生き方がまったく違って

いた。一方は社会がなければ生きられなかったし、また一方は自分

を失っては生きていけなかった。それじゃあ、いくら本能に還って

も、理性によって別れることになるなら結果は同じではないかと言

うかもしれないが、ただ、彼等はマス・メディアという極めて社会

性の強い特殊な檻の中に閉じ込められて、本能に従って生きること

などできなかった。多分、パンツを履いた途端に理性を取り戻して

ファンの顔が浮かんで来たんじゃないかな。それは藤原紀香の世界

であって彼はその偽善に耐えられなかった。

 


                                   (つづく)

 

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 「常ならざること」③

2011-10-30 16:02:51 | 従って、本来の「ブログ」

                  「常ならざること」③


 精神は本能と理性から生成されるとすれば、それは明かに個人に

属する観念だと言える。本能とは個人からしか生まれないのだから。

つまり、社会がいかに個人に対して統一された精神を強要しても本

能は個々に異なっているのだから一様な社会精神などというものは

生まれてこない。愛社精神や愛国精神を強いるのは精神の個性を無

視した乱暴なやり方である。「愛さなければならない」とは理性が

本能に強いる言葉であるが、理性に強いられてもわれわれの本能は

勃起しない。それは本能を捨てて理性的に恋愛をするようなもので

ある。つまり、偽りの愛を強いることになる。理性が作った秩序の

破綻を精神で弥縫(びほう)することなどできないのだ。

 たとえば、芸能人やタレントという人気を当てにする人々は自ら

の思いを捨てて大衆の期待に応変に演じようとする。そうしなけれ

ば「売れない」からだが、やがて、個人的な思いと社会性との葛藤

に苦しむ。もちろん、それは芸能人に限らず政治家だって企業経営

者だって同じことだが、ただ、売り物が自分の個性であることにお

いて際立っている。だから、彼らは人気を得るために自分の感情を

圧し殺しても社会に受け入れられようとする。しかし、そもそも個

々の生き方が在って社会の合意が生まれるのであって、社会に合わ

せて自分自身を作るのは倒錯している。自分の生き方は自分自身の

中からしか見つからないのだ。社会の中で自分の生き方をいくら探

しても見つからない。そこで先人に倣って生きようとするが、先人

に倣っても自分自身を喪失していては表象を追うばかりで精神は根

付かない。こうして彼らは迷いながら社会に合わせて自分自身を応

変させ、遂には人格が破綻して人格障害へと陥る。

 女優の藤原紀香と芸人の陣内智則が結婚を発表した時には驚いた。

藤原紀香という女優は社会依存の強い女性で、一方の陣内智則は尾

崎豊に憬れて芸能界に入った男性である。尾崎豊と言えば社会の束

縛を嫌い本能のままに自由に生きようとした。自分自身を生きるこ

とが目的であり社会とはそのための手段に過ぎなかった。しかし、

藤原紀香といえば群衆に囲まれてみんなの注目を一身に浴びていな

いと一刻も耐えられないほどの自己顕示の強い人のように思えた。

(違っていたらゴメンナサイ) その対極に居る二人が上手く行くわけ

がないと思っていたが、それは陣内智則が彼女の自意識に嫌気がさ

すと思ったからで、だって尾崎豊に憬れてんだよ、しかし、巷間で

はそうは伝えられていないようだ。ただ、離婚の原因は彼の行動に

あったというのを聞いて、やはり私の思いは間違いではなかったと

思った。普通、そんな状況で男は他の女に手を出したりはしない。

まして相手の女性だって彼が何者であるか充分承知している筈であ

る。彼の方から動いたことに注意すると、彼は彼女の今後のために

ワザと自分を悪者にしてその原因を用意したのではないだろうか?

彼女は社会を遠ざけて今さら二人の世界に戻ることなどできなかっ

た。すでに彼女の中で社会から注目されることが目的化してしまい

彼女自身もその手段にすぎなかった。すると、個人的な生活でさえ

社会を意識するようになり、やがて、精神の拠り所を社会に求め、

社会への精神的な依存から抜けられなくなり、遂には、社会的自我

が個人的自我に取って代わり、社会の中でしか生きられなくなって

しまった。つまり、彼女は好きな男と寝るよりも大衆と寝る方を選んだ。

                                 

                                   (つづく)
  

 

  


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「常ならざること」②

2011-10-29 20:33:21 | 従って、本来の「ブログ」

               「常ならざること」②


 精神とは、本能から生まれる情熱と理性がもたらす正義によって

生成されるとすれば、われわれは明らかに本能の退化による情熱の

欠如によって精神を衰えさせている。何も精神などを持ち出さなく

ても卑近な例を上げれば、若者の恋愛に於いてさえも欠けているの

は情熱である。つまり、本能である。今や彼等は理性によって恋愛

対象を選ぶが、そもそも恋愛とは本能的な結び付きなのだ。理性に

従って結ばれても愛が芽生えるとは限らない。むしろ、理性が情熱

を封じ込め二人の世界は失われ、やがて社会の中で二人の絆を確か

めようとして社会との関係を求めようとする。そしてこう言うのだ、

「私は社会が認めた人しか愛せない」と。しかし、それは倒錯した

精神だ。本能による愛とは如何なる条件も求めない。われわれは恋

愛でさえ情熱によらない社会的な、従って理性が仕切る恋愛を求め

ている。しかし、情熱のない恋愛は愛を生まない。何故なら、われわ

れの本能は打算(理性)を嫌うからだ。つまり、われわれは本来の恋

愛を避けて、恋愛を社会的な手段として利用しようとしているだけな

のだ。かつては、そんなものを恋愛とは言わなかった。理性が後悔す

るかもしれないような恋愛を愛とは呼ばなかったのだ。                                 

 

                                   (つづく)


 

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 「常ならざること」

2011-10-29 13:21:15 | 従って、本来の「ブログ」

          「常ならざること」

 

 人間は誰しも程度の差こそあれ精神病に罹っている、と精神病の

医師は看做すらしいが、たとえば、神経質な娘の行動を叱ってすぐ

に暴力に訴える父親とそれを咎めもせず見て見ぬ振りをして平静を

装う母親、のように誰しも人の常ならざる言動には眼は向くが、こ

と自分のことに関しては省みようとはしない。もちろん、自身の全

てを客観を頼って矯正して、その結果、自分自身が失われて「自分

は価値のない人間だ」と言って自殺する者もまた別の意味で精神を

病んでいると言われる。それでは、そもそも健全な精神とは果たし

てどのようなものをいうのか。これこそが健全な精神であると精神

衛生局なりの掲示板に掲げられ、国民が挙(こぞ)ってそれに倣うよ

うな事態さえもまた異常な姿に受け止められるとすれば、精神って

いったい何?って言いたくなる。

 近代文明は常なる自然を破壊して機械文明をもたらした。常なら

ざる言動をする人を精神異常者と呼ぶならば、常ならざる世界を望

んだ人々によって築かれたこの文明を、精神を病んだ文明と言って

も差支えないのではないだろうか。だから、われわれがいくら自然

な精神状態を取り戻したとしても、それこそが病んだ精神と捉えら

れてしまう。つまり、われわれの精神が病んでいるのではなく、社

会そのものが病んでいるのだ。


                                  (つづく)


 

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「われわれは近代に飽いたのだ」

2011-10-28 23:06:17 | 従って、本来の「ブログ」

 
            「われわれは近代に飽いてしまったのだ」


 原発を全停止した場合に電力供給不足が起こると言われるが、私

はそうはならならないと思っている。電力不足が起こるのは日本経

済が今のまま横ばいで推移するか若しくは急成長する場合であるが、

そのどちらも難しいと思っているからだ。今や株価はダウ平均で九

千円を行ったり来たりしていて、戦後、日本経済が九千円を超えた

時代は1970年代の初めだった。そこ頃、日本経済は高度成長の

端緒にあって連日のように史上最高値を付けていた。しかし、最早

再び株価が史上最高値を付けるようなことは起こらないだろう。そ

れは数値だけのことを言っているのではない。経済そのものが右肩

上がりになることはないと思っている。もちろん、株価だけで推測

することは乱暴なことは承知しているが、1970年頃の電力消費

量は大体現在の半分程度に過ぎなかった。原発推進派の人々は今の

経済を維持されることを前提にしているが、それはどうも怪しい。

何故なら円高によって製造業は国外へ流出し、国内経済は少子化が

加速して消費が落ち込み、恐らく、GDPは半減と言わないまでも

これまでのような成長は難しいに違いない。つまり、経済が落ち込

んで電力消費量そのものが減少するのだ。

 私は、製造業の海外移転は致し方なしと思っている。国内で利益

が生まれなくなったのは、実はすでにそれらは国内では斜陽化して

いるからなのだ。さらに、少子化も経済的には問題かもしれないが、

そもそもこの小さな島嶼国に一億二千万人の人口は多過ぎると思っ

ている。ちょうど半分の六千万人くらいが適正ではないか。もちろ

ん、それらは経済にとっては大きなマイナスではあるが、分母の減

少が多少はそれを補ってくれるだろう。70年頃の暮らしは今と比

べてみればもちろん見劣りはするが、しかし、そんなに貧しいとい

うほどの暮らしではなかった。それどころか、貧富の格差も今ほど

ではなく地域には人の繋がりがあり社会との縁を実感することがで

きたし、競争社会ではあったが経済が全てではなかった。それを「

安定化する」というなら、われわれのこれまでは常に驚異的である

ことが望まれ不安定な時代だったのだ。

 私は、たとえ経済が落ち込んで原発が無用の長物になったとして

も、この国の人々は決して不幸にはならないし、それどころか、今

の消費社会とは違う自然回帰によってもたらされる新しい文化や生

き方が生み出されてくるものと確信している。 実はもう、われわ

れは近代という遊びに飽いてしまったのだ。


 

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