「ザックジャパン対ヨルダン」

2013-03-27 01:18:58 | 「閑話放題」



      「ザックジャパン対ヨルダン」


 内弁慶のジャパンにとって、またしても最大の敵は相手国のピ

ッチコンディションだった。日本のパスサッカーは荒れたピッチの

上では思うようにコントロール出来ない。それはこれまでもアウェ

イでの戦いで何度も目にしてきたことだった。細かく繋いでいって

も最後にパスミスやパスカットから縦の反撃にやられてしまう。技

は生かされず力に圧倒される。日本の緻密なサッカーは日本の

整ったグランドでしか通用しない。アウェイでの戦いは自分たち

のプレイをさせてもらえないことは当たり前で、状況に応じて戦い

方を変えなければならないはずだが、「自分たちのサッカーをす

ること」が出来ないピッチコンディションにも拘らず、「自分たちの

サッカーをすること」に拘ったこれまで通りの展開でまたしても敗

れてしまった。





「春告鳥」

2013-03-12 02:53:19 | 従って、本来の「ブログ」



            「春告鳥」


 きのう、中国山地の山間でウグイスの覚束ない初音を

耳にしました。覚束ないながらも確かに「法華経」と聴き

取れました。

 テレビでは「3・11」の追悼番組が流されていました。



   ふり返って  祈る彼方から  春告鳥      ケケロ  

  



「あほリズム」 (296)

2013-03-10 03:22:16 | アフォリズム(箴言)ではありません



         「あほリズム」


          (296)


 車でマクドナルドの店の前を通り過ぎた時にふと思ったんだが、

古くはコカコーラだったり、今ではマクドナルドやセブンイレブン

だと思うが、いわゆるフランチャイズ化によって世界進出を企む米

国企業の戦略は、かつてキリスト教の教会が全世界に宣教師を派遣

した布教活動と似ていないだろうか。しかし、すでに宗教の時代は終

わり今や欲望の時代である。そこで一神教世界の絶対主義は信仰を

欲望、つまり経済に代えて世界を支配しようとしている。この国は、そ

の土地土地に根付いた多神教の下で、土地柄が違えば食文化も異

なる相対主義の世界観を育んできたが、多様な店が軒を並べる商店

街を破壊され、人々はマックバーガーを頬張りながら一神教から生ま

れた資本主義の絶対主義に洗脳されてしまった。もしかしたらそれは、

経済戦争に名を変えた宗教戦争が綿々と続いていたのかもしれない。

何だかマクドナルドやセブンイレブンの店舗がキリスト教の教会のよう

に見えてきた。



            (297)



   みんな「おなじ」で みんないいのか?      ケケロ










「めしべ」⑪

2013-03-08 11:02:27 | 赤裸の心



         「めしべ」⑪




 もしそうだとすれば、われわれの眼が持つ視力とは外的環境を認

識するための謂わば装置であって、目の前のコップを見た時にコッ

プの分子構造までも見通せる精密な能力など無用であるし、また、

遥か彼方からコップを見分ける必要もない。つまり、われわれに備

わった器官とは外的脅威から自身を守るために進化したセンサーで

しかなく、表象だけしか捉えられないそれらの器官が統合されて判

断する認識が世界の細部や全体を見通せるとは思わない。それどこ

ろか、それらから導き出される判断でさえも、他者が善意から差し出

した手にもまず何か魂胆が隠されているのではないかと猜疑するほ

ど防衛本能に支配され、また思考においても本能に歪められている。

たぶん、われわれの理性とは自分自身を守るための本能から生まれ

た能力であって本能なき理性など、つまり「純粋理性」などというものは

ありえない。たとえば、世界が「赤い椅子に座る女」の絵であるとすれば、

われわれの狡知にだけは長けた認識や思考は、目の前の絵を素直に

観ようとせずに、あろうことか「めしべ」と読んでしまう。


                                やっと(おわり)


「めしべ」⑩

2013-03-07 02:32:51 | 赤裸の心



        「めしべ」⑩


 一時、小林秀雄に惹かれて、それでも難しいので途中で本を閉じ

たり思い出しては手に取ったりしていると、彼の著書の中にしばし

ばフランスの哲学者ベルグソンの名前が出てきたので、岩波文庫の

ベルグソンの「創造的進化」を買って読もうとした。「読もうとし

た」と記したのは読み切れなかったからで、小林秀雄が難しいと言

っている者が、後から知ったことだが、その小林秀雄でさえもベル

グソンの評論を途中で執筆を断念したほど緻密で、わたしにとって

はあまりにも「日暮れて道遠し」の感から途中で投げ出してしまっ

た。そのベルグソンの著書「創造的進化」の中で唯一記憶に残って

いるのは、生命が眼を持つに到った記述で、ベルグソンは、太陽光

線に侵された生命体の一部の細胞がシミに変化して、そのシミが眼

になったという謂わば仮説で、それだけが何故かわたしの記憶に残

っている。

 われわれのあらゆる器官は環境からの刺激とその反応から生成し

進化したとすれば、たとえば、眼の持つ能力とは太陽光線が地上に

届く際の特徴に限定されていると言わざるを得ないのではないか。こ

うしてわれわれのあらゆる器官が環境に適応するために備わったと

すれば、つまり、われわれは世界内存在として世界の外を窺がう能

力など持ち合わせていないことになる。自動車をいくら改造しても空

を飛ぶことはできないように。

                     

                           まだ、(つづく)みたい