(二十六)

2012-07-11 05:22:33 | ゆーさんの「パソ街!」(二十六)―(三十
                   (二十六)


 
「娘の恋愛に親は顔を出さんとこうや」

わたしは元妻に、ミコとバロックがどうするかは優れて二人だけの

問題だから、我々は邪魔をせずにヒヤヒヤしながら見てようと言っ

たが、彼女は、人には見えないものが見えると自負する特別な人た

ちに特有の高慢さから容喙(ようかい)せずには居れないようだった。

「ほんだらどうするんや?」

「バロックにミコのことが好きになるように念を送るわ」

わたしは笑ってしまった。そんなことなら勝手にすればいい。人は

好きになったからといってプライドまで捨てて従うわけではない。

何らかの力を手にしたと信じる人々は、その力に頼ることが反対の

結果をもたらすことだってあるなどとは終ぞ思わないようだ。彼ら

は現象の不思議ばかりに気を取られて人間の不思議には気付かない。

 サッチャンが帰る日、ミコは早朝から山菜を取りに山へ入った。

わたしはサッチャンと一緒に朝食を取りながら話の相手をした。

「退屈だったでしょ、都会と違って田舎は何もないから」

「そんなことないですよ。あのー、こんなこと言っちゃ何なんです

けど、何も無いってありがたいことだなーって思いましたね」

「それはすごい!こんな処でいいなら何時いらっしゃてもいいです

よ」

「ありがとうございます。突然押しかけてほんとにご迷惑をおかけ

しました」

「とんでもない、迷惑をかけたのはこっちの方ですよ。無理やり歌

わせたりして」

「そんなの全然、すっごく楽しかったです」

「その後は東京の方へ戻られるんですか?」

「ええ、仕事も入ってますし」

「頑張って下さい、応援してますから」

「ありがとうございます。でも、実は、どうしようか迷ってます」

「えっ、何を?」

「歌うこと」

「そうなんですか」

彼女が突然心情を吐いたので驚いた。わたしは何て応えていいのか

迷ってしまって黙った。すると彼女が、

「もう限界なんでしょうね、きっと」

「そんな・・・」

「だって、何をやっても上手くいかないし・・・」

「あのー、アスリートっているでしょ」

「ええ、スポーツ選手」

「そう、彼らだっていつも記録を更新できるわけじゃないでしょ」

「ええ」

「あなたが今言ったように限界に苦しむ時がくる」

「はい」

「一体どうすれば限界を超えることができるかって自問するうちに、

何故そうしなければならないのかって。つまり、速く走ったり高く

飛んだりすることを望んでんのは本当の自分なんか、観衆ではな

いんか、つまり社会なんや」

「わかります」

「社会の期待に応えるために肉体を改造しそのために苦しい練習に

励む。もちろんそれは自らの意志から行っているんやけど、意志そ

のものが社会の反映に他ならない。そこで、果たして自分は自分自

身を変えてまで、速く走れることだけの能力を極めることを望んで

いるのかって葛藤する」

「むつかしいとこですね」

「すると、大衆の関心を嗅ぎつけた資本家が現れてこう言うんや、

『百メートルを十秒までに走ることができたら一億円上げるぞ』っ

て。それに釣られてアスリートが集まり見世物が始まる。つまり、

こう言えませんか、社会の期待に応えようとする自分が自分自身

を見失わせるって」

「あっ!そうかもしれません。実際いまの自分はどうすればいいの

かまったく解らなくなってしまって」

「我々の野心は社会に向かって命がけの飛躍を試みるが、ところが、

我々自身は泥濘(ぬかるみ)の中でそれを凝視してるんやないかな。

自分を取り戻すということは泥濘の中の自分に還ることかもしれん」

「自分を見失ったまま社会に留まるなってことですよね?」

「芸能人にとっては辛いことかもしれんけど、すこし社会から距離

を置くことしかできないんじゃないかな。そして自分が本当に歌い

たいと思うなら、社会なんかに媚びずに自分の歌を聴いてくれる人

に唄うことが自分を取り戻す回り道なんやないかな」

「えっ、回り道?」

「そう、急がば回れの回り道!」

「近道じゃなくて?」

「人はすぐに近道を選ぼうとするが近道はあかん、すぐに潰れる」

「回り道か・・・。きっとアートも同じことを思っているんだわ」

「あのね、サッチャン、彼がね『アート』って呼ばんとってくれっ

て、むしろカタカナの『ガカ』の方がええって。カタカナで」

「えっ!カタカナで?」

「そう、カタカナで」

「何ですかそれ?」

「そう言うたんや。面白い男やろ」

「そうなんですか?じゃあ、私も名前を変えてみようかしら?」

その時、ミコが背負いカゴいっぱいに山菜や草花を積んで帰って来

た。そして、

「サッチャン、サッチャン!これ持って帰る?」

そう言って背負いカゴをテーブルに置いた。わたしは呆れて、

「あほっ、そんなん要るわけないやろ。東京へ帰れば何ぼでもあん

ねんから」

するとサッチャンは、

「わっ!すごいきれい!ええっ、持って帰ります。せっかく取って

来てくださったんですから」

 サッチャンが帰る時が迫った。バロックが車を運転して駅まで送

ることになったが、サッチャンは橋が崩落したルートを選んだ。

「何か山歩きが好きになったみたい」

「この背負いカゴはどうするんや?」

「背負って帰る」

サッチャンはミコが作ったその背負いカゴが気に入ったらしく、そ

のまま持って帰りたいと言い出した。ミコは承知して中の山菜や草

花を新聞紙で包んでカゴの中に戻した。彼女が来る時に着ていたミ

シュラン坊やのコートはたかだか一週間ほどで長物になったためミ

コに上げると言った。そうでもしなければ、背負いカゴを背負って

張り裂んばかりに詰め込まれたボストンバッグを持って、その上に

長物のミシュラン坊やのコートを着て、いくら好きと言っても山道

を歩くことはできなかった。バロックがそのバッグを取り、サッチ

ャンが垢抜けたファッションに身を包んで山菜の入った田舎臭い背

負いカゴを背負って名残を惜しんでいると、ガカが前庭に続く道を

駆け上がって来た。そして、

「サッチャン!おれも駅まで見送るよ」

ただそれだけ言ったガカの表情は強張っていた。見送る我々はい

ったい何があったのか知らされていなかったが、ガカとバロックが

サッチャンを駅まで見送ることに何の違和感も持たなかった。彼ら

は再びユニットを結成してみんなに見送られながら、まるでステー

ジを終えたシンガーのように何度も振り返りながら手を振って路傍

に色とりどりの花々が咲く花道を下って行った。

「なんか三人とももう戻って来えへんみたいやな」

と、元妻がぽつんと漏らした。ミコを窺おうとしたが彼女の姿はな

かった。

 昼を過ぎた頃、バロックだけが戻って来た。元妻の予感は簡単に

外れた。驚いた元妻は、「何で帰って来たん?」と、あての外れた

思い込みを口から滑らした。しかし、バロックは沈着に、

「何でって?」

と逆に聞き返した。元妻は「ちょっと!ごめん」とか言って便所へ

駆け込んだ。わたしは冷静さを装って、

「ガカはどうしたん?」

と聞くと、バロックが、

「サッチャンと一緒に行った」

これには驚いた。そういうことだったのか。すぐにミコがコーヒー

を用意して現れた。わたしはミコに、

「ガカがサッチャンと一緒に行ったんやて」

と言うと、

「知ってた。バロックから聞いて」

バロックの話によると、ガカはサッチャンへの想いを募らせていた

らしい。それをなじみのあの温泉で二人だけで酒を酌み交わしてい

る時に打ち明けられた。ただ、ガカは、バロックがサッチャンをど

う思っているのか確かめたかったのだ。するとミコが口を挟んだ、

「それで、あんた何て言うたん」

するとバロックは、

「また言わすんか。もう何回も言うたやろ」

「もっかい(もう一回)言うて」

「おれにはミコがおる」

「それから」

「それだけや」

「違うやろっ、最後まで言いや!」

「わかった、わかった。ほんだら言うわ。おれはミコのことが好き

やねん。ミコの病気が治るまでずーっといっしょにおるつもりや」

ミコはテーブルに肘を立て頭を手で支えて、向かい合うバロックの

目を、目を潤ませながらずーっと見ていた。いつの間にか元妻も戻

ってきて、わたしは元妻の方を見ながら、

「あほらし。やってられんわ」

と言うと、元妻は涙を指で拭いながら何度も頷(うなづ)いていた。

案外、元妻の送った「念」がバロックに届いたのかもしれない。

                          
                                 (つづく)

(二十七)

2012-07-11 05:20:30 | ゆーさんの「パソ街!」(二十六)―(三十
                (二十七)

 


 わたしたちは野山の雑草を食べてくれるので番(つが)いのヒツジ

を夜以外はほとんど休耕地に放していたが、その牝ヒツジが初めて

の出産を迎えようとしていた。羊小屋には駆け付けて来たあやちゃ

んもお母さんに後ろから包まれながら、脇目もふらずに神妙な面持

ちで呻き苦しむ牝ヒツジを眺めていた。やがて膜に包まれた羊水が

現れ、その中に小さな前足が見え、すぐに鼻先が出てくると、あや

ちゃんは突然大きな声で「がんばれ!」と叫んだ。牝ヒツジはゆっ

くり立ち上がって、踏んばっては休みを繰り返しながら最後はトコ

ロテンのように呆気なく産み落とすと、みんなが歓声を上げて母ヒ

ツジを労わった。そして、誰もが安堵してその場を離れ一息ついて

いると、わが子を愛でる母ヒツジの仕草を何時までも見ていたあや

ちゃんが、「あっ!もう一匹産まれる」と叫んだ。再びみんなが駆

け寄ると母ヒツジのお尻からは二匹目の子供が顔をのぞかせていた。

「よしっ、この子はあやちゃんが見付けたんやからあやちゃんに育

ててもらおう」

わたしがそう言うと、あやちゃんは手を叩いて歓んだ。そして、お

母さんに、

「なあ、ママ、名前、何てしようか?」

お母さんは、

「文香が自分で考えたらええねん」

すると、あやちゃんはしばらく考えて、

「なあ、おじさん、この子のお父さんとお母さんの名前は何ていう

の?」

実は、わたしは何れ食肉として引き取って貰う時のために想いを留

める名前は付けなかった。そのことでミコとも言い争ったこともあ

った。するとミコが咄嗟に、

「シロとクマ!」

と言った。何でもそれは「アルプスの少女ハイジ」に出てくる山羊

の名前だと後から知った。それを聞いたあやちゃんはすぐに、

「そしたらこの子、ユキちゃんにする」

そう言った。それからは「限界集落の少女あやちゃん」は目が覚め

るとユキちゃんがいるヒツジ小屋へ必ず見にやって来て様子を窺い、

しばらくすると朝ごはんを食べるために涙を流さんばかりに別れを

惜しんで、戻ってく来ると、その後は一日中ユキちゃんをつき従えて

野山を駆け回った。 アンパンマンの歌を唄いながら。

  あやちゃんのお父さんとサッチャンが去って、前後して東京から

CS(化学物質過敏症)を発症した男性の家族がやって来た。奥さん

と八才の男の子と三才の女の子の四人家族だ。お父さんは機械いじ

りが好きで希望していた自動車製造会社で働いていたが、塗装の仕

事へ回されてからすぐに身体に変調を来たした。朝、起きると頭痛

や目まいがして会社の門の前まで来て引き返して、それからは一度

も門をくぐることはなかった。まだ、三十代でバロックよりも若かった

がここへ来たときはずい分老けて見えた。CS発症者の御多分に漏

れず化学物質の被曝から逃れるために転居を繰り返した心労が若

さを奪ってしまったに違いなかった。彼は自らを「文明から迫害された

男」と名乗った。上背があってガッチリした体躯に相応しくない繊細な

顔立ちをしていた。彼が家族を引き連れてここへ越して来たのには理

由があった。彼が言うには、最近の研究でCSを発症する原因の一つ

に遺伝子の可能性も否定できなくなったというのだ。つまり、彼は自分

の子供たちが同じ苦しみに遭わないようにするために家族で移り住む

ことを決めたのだ。それは、それまで楽観的に考えていたわたし達に

とっても衝撃的なニュースだった。さっそく元妻に伝えると何も答えず

に黙り込んで虚空に目をやった。

  早速、PCに「化学物質過敏症 遺伝」と打ち込んで検索すると、

上位にその論文名が現れたのでクリックした。それは「化学物質

問題市民研究会」というホームページに翻訳されて掲載されてい

た。われわれはそんな会があることもそんな研究がされていたこ

とも実は知らなかった。何故かと言えば、CSを忘れて生活するこ

とだけを望んでいたからだ。

 その研究は、カナダの研究者によって行われ、CS発症者と健常

者の間に遺伝子レベルでの相違があるかを調べた結果、簡単に言う

と、汚染物質の解毒を担う重要な酵素に遺伝子的相違があることが

初めてわかった。それはまだ研究段階で総て解明されたわけではな

いが、活性的な遺伝子から生まれた酵素によって代謝された化学物

質は有毒な副生物を生成し、早い代謝によって有毒物質の蓄積が進

みやがて僅かの被曝にも過敏に反応するようになる。しかし、CS

は遺伝子そのものの欠陥によって起こる症状ではなく、むしろ、遺

伝子が正常に働くことが禍(わざわい)して有毒物質の蓄積を早めて

しまう皮肉な結果をもたらすのだ。それはまるで堕落した社会では

正しいことの方が疎(うと)まれてしまうのと似ている。果たして、

被害の原因は正常な遺伝子によって敏感に反応する我々CS患者の

方にあるのだろうか、それとも、経済優先のために化学物質の拡散

を黙認してきた鈍感な社会の方にあるのだろうか?

 CSはいわゆる花粉症のようなアレルギー症ではないがそのメカ

ニズムは似ていて、わたしはCSはいずれ第二の花粉症になる日が

来るのではないかと危惧している、否、もしかすると、早くそうな

って誰もが化学物質がもたらす恐怖に気付くようにならないだろ

うかと思っているのかもしれない。

  わたしはその論文をコピーして、ダイニングでテレビを観ている

元妻の顔の前に突き出した。そして、

「遺伝せえへんて言うたやないか!」

と椅子に腰を掛けてコーヒーを飲んでいる元妻に迫った。すると、

元妻はそれを一瞥しただけでテーブルの上に放り投げた。そして、

「せやかて病院の先生が言うたんやもん」

「いつ?」

「大阪に居る時やから七、八年前かな」

「あほっ、大昔やないか!」

「これ、何て書いたーんのん?」

「読めや」

「あかん、むづかしすぎて読めへん」

わたしはここでした説明をさらに簡単にして、

「要するに遺伝するかもしれへんて書いたんねん」

「ほんと?」

「言うてもまだ研究段階やからな」

その時、裏の畑へ夕飯の野菜を取りに行ったミコが背戸から野菜を

抱えて戻ってきた。そして、野菜をテーブルの上に置くのとほぼ同

時にそのコピーに目をやって、

「何やこれ?」

元妻は慌ててそれを奪ってテーブルの下に隠した。わたしはどんな

ことでも隠したりしたくなかったので、

「ミコに見してやれよ」

すると元妻はしぶしぶそのコピーをテーブルの上に戻した。そして、

「まだ研究段階やねんて、CSが遺伝するかどうかは」

ミコは母親の言葉を耳だけで聞いて、そのコピーに目を通して、

「ああ、これ前にPCで見たわ」

そう言って役に立たない新聞チラシのようにテーブルに戻しながら、

「うううっ、コピー紙、きつっ!」

そう言って背戸を通って家の外へ出ていった。

 わたしは、彼女はすっかりCS(化学物質過敏症)のことなどは忘

れて暮らしているものだとばかり思っていたので、彼女が不安から

自分の症状をPC(こっちはパソコン)で確かめている姿を想像して、

彼女の悩みに寄り添ってやれなかった自分が、親としての責任を果

してこなかったように思えてきて情けなかった。

 


                                    (つづく)

(二十八)

2012-07-11 05:19:46 | ゆーさんの「パソ街!」(二十六)―(三十
                 (二十八)


 夏はすべての子供たちのためにある。古代ギリシャの賢人たちは、

萌え出ずる生き物たちの不思議に「何だこりゃ?」と素直に驚いた。

やがて、「何だこりゃ?」に飽いた大人たちは物知り顔でその仕組

みを説くが、子供たちが本当に知りたいことはそんなことじゃないん

だ。地球は自転しながら太陽の周りを回っていて地軸の傾きが四

季をもたらす、なんて全然答えになってないって思ったはずなのに、

どうして大人になると忘れてしまうんだろう。たとえば虫は何で六本

も足があって飛ぶこともできるのかとか、勉強すれば勉強するほど

みんなと同じように考えるようになるのはどうしてだろうかとか。子

供たちは世界の中で驚き、大人たちはそれを外から眺めるだけ。

だから、大人たちはツマンナイのだ。

 もう子供でもなく、かと言って大人とも言えないミコも、口には

出さないが自分の生き方に悩んでいるに違いなかった。しかし、生

き方に悩むことこそが子供心を失いかけていることには気付かない。

 ところが、この夏は一気に三人も子供たちが増えて、その子供た

ちが気軽に聞ける相手ということでまずミコが選ばれたようだ。ミ

コは足元にまで纏(まと)わり付かれて窘(たし)なめながらも満更で

もない破顔を見せた。ただ、こと自然の中ではミコに敵う小供など

いなかった。植物の名前や生き物の習性、果てはその獲り方から食

べ方までミコに教わるまで彼らの知らなかったことばかりだった。 

 ミコは、夜が明けぬ前から起き出して身支度をしてから鶏舎に向

かい、目蓋を落として微睡む鶏たちを起こして回って鶏鳴を促し、

鶏舎を開いて庭に追い遣り、産み落とされたばかりの卵を集めるこ

とから一日が始まる。白々と夜が明け始める頃になると、ミコを慕

う子供たちが眠い目を擦りながら現れて彼女の仕事を手伝い始めた。

とはいっても、面白半分から追い立てるばかりで、時には思いもよ

らぬ反撃に遭いべそを掻いていた。それが終わると牛舎に行って、

かつては十頭余りの肉牛を飼育するために使われていた牛舎には、

乳の出が悪くなった二頭の乳牛を譲り受けて飼っていたが、それで

も十分に家族の需要を賄えるほどで、朝の搾乳はミコの仕事だった。

さすがに子供たちは怖さ半分で近寄ろうとせず、傍らでミコの搾乳

を眺めていた。そして、身軽になった牛たちを木陰のある野原に放

った。朝の仕事を一通り終えると、いよいよ子供たちが待っていた

虫取りに、彼らを引き連れて蝉時雨の山に入って行った。そして、

樹液に群がる昆虫や土の中からようよう這い出して羽化したしたば

かりの蝉を素手で捕まえてみせた。そんな時でもあやちゃんは子羊

のユキちゃんの首に繋いだ紐を放さず連れて行った。

 影が短くなる頃には、子供らはもっぱら水遊びを楽しんだ。プー

ルに入ることのできなかった子供たちはミコに見守られながら清流

のせせらぎでそれまでの鬱憤を晴らすかのように大きな歓声を上げ

た。それに飽いたら魚釣り、山登り、午睡、ハイキング、花摘み、

洞穴の探検、山菜取り、木登り、バードウオッチング、編み籠など、

どれもミコが率先して教えた。そして、長い長い夏を終える頃には、

ミコを先頭に顔を真っ黒にした三人の子ども達と一匹の子羊が列を

作って畔道や山道に甲高い声を響かせて静かな山々の生き物たちを

驚かせた。世界はミコと三人の子ども達と一匹の子羊のために存在した。

 

                                    (つづく)

(二十九)

2012-07-11 05:19:04 | ゆーさんの「パソ街!」(二十六)―(三十
               (二十九)


 新しく越して来た家族は「恵木」さんと言った。三つ残っている

空き家の中からわたしが用意した家ではなく、あの橋が陥落した川

の上流の傍らにひっそりと建つ一番古い家を選んだ。

「いいですか?」

と、恵木さんのお父さんはわたしがあてがった家を選ばなかったこ

とを申し訳なさそうに言った。わたしは、

「でも、掃除も何もしてないですよ」

と言うと、

「あっ、そんなことは自分らでやりますから」

事実、玄関までの小径は背丈を超える雑草が生い茂って隠れてしま

うほどだった。ただ、古くから居るお婆が言うには、かつてその家

はこの集落の村長の息子が暮らしていたらしい。確かに支えている

柱や棟木は立派なものだったが、しかし、床板や廊下のあちこちが

朽ち剥がれていた。それでも、彼はこれまでも転居の度に汚染され

た家の内装の壁紙やリノリウムを剥がして天然資材にリフォームし

てきたので、

「実は、やってみたかったんですよ、こういう古民家」

わたしは好きにして構わないと言うと彼は喜んだ。そして、出来上

がるまでの間、わたしが用意した家に住むことになった。

 夏も終わろうという頃になってようやく家族四人が寝泊まりする

ことのできる一部の部屋のリフォームが終わった。囲炉裏のあった

板の間はダイニングルームに生まれ変わりテーブル椅子が置かれて

あった。主に台所廻りがリフォームされて、上流で分けられて流れ

込む川の水がキッチンと浴室に使われた。それとは別に飲み水は前

から使われていた湧水を竹樋を新しく繋ないで引いていた。化学物

質過敏症(CS)の発症者にとってもっとも厄介なのが暖房だった。

まず、石油ストーブは大概の発症者がそのニオイに反応して使えな

かった。また、薪ストーブでさえも一部の発症者にとってはその煙

がダメな場合がある。実は、化学物質過敏症はどんな物質に反応す

るかはそれぞれによって異なり、そのことが発症者同志の連帯を妨

げている。症状に個人差があって同じ環境を共有することができな

いので孤立化し気持ちを落ち込ませてしまうのだ。幸いにも恵木さ

んは薪ストーブには反応しなかったが、ただ、それさえも本当のこと

は判らない。後々になって症状が出て、その原因が薪が燃えるとき

に出る煙なのか、或いはストーブそのものなのか、それともストーブ

で暖められた部屋の中の化学物質なのか、その原因を突き止める

ことは中々面倒なことなのだ。

「お蔭で、ここへ来てからだいぶん気が楽になりましたよ」

 恵木さん家族が新しい家に移った日の夜、みんなで彼の家に集ま

って遅くまで語り明かした。はしゃぎ回っていた子ども達も新しく

できた部屋で仲良く転がって寝ていた。あやちゃんは子羊のユキち

ゃんも座敷に上げようとしたが、恵木さんのお父さんに、

「ユキちゃんはダメッ!」

そう言われて、ユキちゃんだけは土間に置かれた。あやちゃんは途

方に暮れてお母さんに縋ったが、お母さんにも説得されて泣く泣く紐

を手放した。ユキちゃんは何度か惜別の声を上げたが、やがて諦め

ていつの間にか土間に転がって、羊の数をかぞえ始めた。

  画家の「ガカ」はサッチャンと連れ添って行った後、一週間ほど

して戻って着た。バロックによれば、べつに別れたわけではなく連

絡を取り合っているらしい。ただ、サッチャンは、夏の間は地方の

野外イベントの予定が詰まっていて、彼によれば、この時期にステ

ージに立つことのできないシンガーは歌だけで食うていくことが出

来ない者だ、と言った。そして、落魄(おちぶ)れてもヒット曲を持

つ歌手なら地方へ行けば最低でも五年は声が掛るだろうと言った。

こうしてサッチャンはここ二、三年は旅から旅の巡業を熟(こな)し

ながら再起をうかがっていた。ただ、それはまるで、寂寞(じゃくま

く)たる宇宙の中を星明りだけを頼りに流離(さすら)う宇宙飛行士の

ようで「突然、絶望に目覚めてどうしようもない」時があると、彼女ら

しい言葉でわたしに打ち明けた。恐らく、彼女はもう一度バロックと

一緒に出直したかったんだろうが、ところが、バロックは「ある事情

があって」、もうその気はないと言った。そして、その「ある事情」を

それ以上語らなかった。

 一方、ガカは、サッチャンとのことは一切口にしなかったが、

「ゆーさん、これだけ人が集まったんだから、これからどうしてい

くのか話し合った方がいいんじゃない?」

確かに、これまでのようにわたしとバロックだけで決められること

ではなかった。そこで、恵木さんの家では迷惑だから、わたしの家

へ行って飲み直そう、否、話し合おうということになった。そして、

ユキちゃんの面倒を見るあやちゃんと、そのあやちゃんの面倒を見

なければならないお母さんは自分の家に戻り、恵木さんの二人の子

どもとお母さんを残して、われわれは恵木さんの家を後にした。

  ダイニングテーブルに、わたしは何時もの席に腰を下ろした。そ

の向かいにはバロック、右端にガカと左端に恵木さんが座った。ミ

コは朝が早いのでそのまま自分の部屋に上がってしまった。その代

りに元妻が残って我々の世話を焼いてくれた。まずは初めに地酒で

乾杯をして、それから、わたしが口を開いた。

「ええー、わたしは、この集落をCS発症者が安心して暮らせる唯

一の地にしようと思っています」

すると、みんなが拍手した。

「しかし、そうするにはきっと社会との軋轢を避けることは出来な

いでしょう。社会で暮らす人々から見れば我々がしようとしている

ことはきっと理解できないかもしれませんが、わたしは、この近代

文明はゴミをまき散らす循環性のない、だから永続性のない欠陥文

明だと思っています。しかし、改善は可能だと思っています。一方、

我々自身もそれぞれの症状が異なっていてどんな環境なら許容でき

るかがまちまちで一つに集約することが難しいのが現状です。しか

し、それでも基本理念は、如何なるCS発症者であってもここでは

被曝を怖れず安心して暮らせる集落を目指そうと思ってます」

再び、拍手が起こった。

「そこで、これから具体的な問題について話し合っていこうと思っ

てますが、まず、それを支える経済ですが・・・」

すると突然、バロックがわたしの話を遮って、

「ゆーさん、こんなこと言うて悪いけど、話が硬すぎるわ。酒飲ん

でんねんし、もっと気楽に話してもらわんと寝てしまうで!」

そのときに一番大きな拍手が起こった。わたしはテーブルのコップ

を取って一気に喉へ流し込んだ。

 つぎの朝、わたしはミコに「いつまで寝てんのん!」と起こされ

るまで、自分が寝てることさえ気付かなかった。そして、すぐに二

日酔いの頭は昨夜話し合ったことを確かめようと記憶を巻き戻して

みたが、これまでに何度も繰り返してきた自己嫌悪、つまり、覚え

ていなのかそれとも忘れてしまったのかと考え込んでいると、ミコ

がドアをノックしただけでいきなり入ってきて、

「はい、これ!」

「なんや、これ?」

「お母ちゃんが渡しといてって」

「ん?」

その紙には、昨夜話し合ったことの内容が書き残されていた。

 ① 近代文明は欠陥文明である。― 全員了解

  〇 その欠陥を循環性のあるシステムに改善する

    ●ゴミ(有害物質)を生まない生活システム 

 ② CS発症者が安心して暮らせる集落を作る ― 〃
    
  〇 如何なるCS発症者であってもここでは被曝を怖れずに
     安心して暮らせる集落を目指す ― 〃

  〇 経済・・・農業を中心に活動する ― 〃
   
    ● 無農薬、・・(全員一致)
    ● 自然農法・・・機械化の是非(異論有)
    ● 6次産業化・・生産、加工、販売(ITの活用)
    ● 付加価値性・・みんなで考えること
    ● その他  ・・移住者を増やす 水流発電機の販売 

  〇 社会・・・化学(有害)物質を発生させるものは使わない

    ● 交通・・・化石燃料を動力にする車両の乗り入れを
            認めない ― (異論有)
            「バイオエタノール」―有害排気Ⅹ
    ● エネルギー・・・化石燃料は認めない
       
      暖房 ― 薪ストーブ(間伐材の利用)
           ゴミのリサイクル(メタンガス利用)検討する
      電気 ― 水流発電機の性能向上と普及
           太陽光発電 ― 平地がない(不可能)
           風力発電 ― 金がない(不可能)
             
    ● 化学物質の侵入を防ぐ・・・進入路に看板を設置する

      人による侵入 ― 喫煙者、及び香水、化粧品を付
               着させた者の来訪を認めない
               (異論有)
      車両の侵入 ― 陥落した橋を繋がない(異論有)
              道路の舗装を剥がしてしまう(異論有)
              猫背山方面からの車両の侵入を防ぐ
                     |
                  「バリゲート設置」

 ここまで目を通して何だか気分が落ち込んでしまった。これでは

近代前の生活に戻るだけではないか。子どもの頃に夢見た未来

社会とは大違いだ。近代文明の灯が一つまた一つと消えていく気

がした。恐らく、近代の克服とはこうした喪失感に耐えることから始

めなければならないのだろうが、物質文明の価値観を転換させる

にはこの世界が崩壊でもしない限り容易なことではないのかもしれ

ないと思いながら、窓から見える山々を縋るように眺めた。

                                 (つづく)

(三十)

2012-07-11 05:18:14 | ゆーさんの「パソ街!」(二十六)―(三十
                  (三十)


「お父ちゃんらは夢を失くすだけかもしれへんけど、うちらは現実

を失いかけてんねんで」

わたしが遅い朝食を取りながらぼやくと、ミコが嘲笑うように言い

返した。まったくミコの言う通りだ。生存が脅かされてる環境の下

でいったいどんな夢が見れるというのだ。それにしてもわれわれは

何だって夢がなくては生きて行けないほど弱々しくなってしまった

んだろうか。

「ええーい!夢なんか信じるな、神もイデオロギーもみんな幻想や

ったやないか、」

「なんか言うた?お父ちゃん」

「あっ、いいや、独りごと」

 恵木さんが子どもと一緒に越して来るにあたって、最も苦労させ

られたのは学校をどうするかという問題だった。もちろんこの集落

の学校はすべて廃校になっていたので、市役所は隣村の新しく建て

替えられた小学校への入学を薦めたが、CS発症者の恵木さんはそ

の学校に近付いただけで呼吸困難になってしまった。所謂、シック

スクールといわれる建物で有害物質の巣窟だった。こんなふうに、

子供の将来を考えてわざわざ化学物質を避けて移り住んでも、地方

の人々の近代化に対する疑いのない期待に接すると、その「周回遅

れの力走」に驚かせれることがある。ここでは旧態依然とした序列

依存から抜け出せず、不羈独立の気概を語る者など誰も、田舎った。

 「子どもらが学校で発症でもしたら何のためにここへ移って来た

のかわかなくなってしまう」

恵木さんのお父さんの不安は至極もっともだった。市役所には臭い

がきついといった苦情が幾つか寄せられているらしいが、しかし、

具体的な症状などといったものは未だ報告を受けていないので、今

の段階で出来たばかりの校舎を壊してまた建て替えることはできな

いこと、そして、もしも今後明らかに校舎が原因だと断定できた時

点で検討することになるかもしれない、とはぐらかした。つまり、

なってもいない病気のために対策はできないというのだ。恵木さん

は、発症してからでは遅いことを文献まで携えて切々と訴えたが、

日本語が通じなかった。

 わたしは住民の方を見ないで親方の方ばかり見ている市では埒が

明かないと、もと村役場だった支所へ元村長だった支所長を訪ねて

我々の想いを訴えた。すると、村長は「人が来てくれるなら何だっ

て聞く」と言うので、わたしは、近々二組の生活体験を希望する家

族を受け入れる予定であること、それだけではなく、化学物質過敏

症(CS)の潜在患者は全国におよそ70万人くらい居て然も今も増

え続けていること、その中の1%でもここに移り住むようになれば、

特に若年齢者の発症者が多いので家族も含めて大体2万人は軽く超

えるだろう、そして、もしもCSが花粉症のようにその被害が全国

的に拡大することにでもなれば、化学物質の被曝を逃れる為にきっ

と多くのCS患者が押し寄せて来て、いずれは十万人を越えるかも

しれないことなど、餅の絵を描いてみせると元村長は身を乗り出し

て聞いていた。そこで、あの温泉の傍にある廃校になった小学校の

校舎を是非使わせて欲しいと言うと「そんなことはわけない」と言

い、「子供の予算はすぐに付くから」と言って三人の子供たちのた

めに教員の要請もしてみようと言ってくれた。そして、これまで人

口減少に悩まされてきた過疎地の村長としての苦しみを吐露して、

あなたが来てくれたお蔭であの集落は初めて人が増えた。もしも何

か困ったことがあれば出来る限りのことはするので何でも言って欲

しいというので、そこでわたしは、CSが起こる原因を詳しく説明

して、発症者が化学物質に曝されずに安心して暮らしていくために

「どうか、何もしないで静かに見守って頂きたい」とお願いした。


                                   (つづく)