(二十六)
「娘の恋愛に親は顔を出さんとこうや」
わたしは元妻に、ミコとバロックがどうするかは優れて二人だけの
問題だから、我々は邪魔をせずにヒヤヒヤしながら見てようと言っ
たが、彼女は、人には見えないものが見えると自負する特別な人た
ちに特有の高慢さから容喙(ようかい)せずには居れないようだった。
「ほんだらどうするんや?」
「バロックにミコのことが好きになるように念を送るわ」
わたしは笑ってしまった。そんなことなら勝手にすればいい。人は
好きになったからといってプライドまで捨てて従うわけではない。
何らかの力を手にしたと信じる人々は、その力に頼ることが反対の
結果をもたらすことだってあるなどとは終ぞ思わないようだ。彼ら
は現象の不思議ばかりに気を取られて人間の不思議には気付かない。
サッチャンが帰る日、ミコは早朝から山菜を取りに山へ入った。
わたしはサッチャンと一緒に朝食を取りながら話の相手をした。
「退屈だったでしょ、都会と違って田舎は何もないから」
「そんなことないですよ。あのー、こんなこと言っちゃ何なんです
けど、何も無いってありがたいことだなーって思いましたね」
「それはすごい!こんな処でいいなら何時いらっしゃてもいいです
よ」
「ありがとうございます。突然押しかけてほんとにご迷惑をおかけ
しました」
「とんでもない、迷惑をかけたのはこっちの方ですよ。無理やり歌
わせたりして」
「そんなの全然、すっごく楽しかったです」
「その後は東京の方へ戻られるんですか?」
「ええ、仕事も入ってますし」
「頑張って下さい、応援してますから」
「ありがとうございます。でも、実は、どうしようか迷ってます」
「えっ、何を?」
「歌うこと」
「そうなんですか」
彼女が突然心情を吐いたので驚いた。わたしは何て応えていいのか
迷ってしまって黙った。すると彼女が、
「もう限界なんでしょうね、きっと」
「そんな・・・」
「だって、何をやっても上手くいかないし・・・」
「あのー、アスリートっているでしょ」
「ええ、スポーツ選手」
「そう、彼らだっていつも記録を更新できるわけじゃないでしょ」
「ええ」
「あなたが今言ったように限界に苦しむ時がくる」
「はい」
「一体どうすれば限界を超えることができるかって自問するうちに、
何故そうしなければならないのかって。つまり、速く走ったり高く
飛んだりすることを望んでんのは本当の自分なんか、観衆ではな
いんか、つまり社会なんや」
「わかります」
「社会の期待に応えるために肉体を改造しそのために苦しい練習に
励む。もちろんそれは自らの意志から行っているんやけど、意志そ
のものが社会の反映に他ならない。そこで、果たして自分は自分自
身を変えてまで、速く走れることだけの能力を極めることを望んで
いるのかって葛藤する」
「むつかしいとこですね」
「すると、大衆の関心を嗅ぎつけた資本家が現れてこう言うんや、
『百メートルを十秒までに走ることができたら一億円上げるぞ』っ
て。それに釣られてアスリートが集まり見世物が始まる。つまり、
こう言えませんか、社会の期待に応えようとする自分が自分自身
を見失わせるって」
「あっ!そうかもしれません。実際いまの自分はどうすればいいの
かまったく解らなくなってしまって」
「我々の野心は社会に向かって命がけの飛躍を試みるが、ところが、
我々自身は泥濘(ぬかるみ)の中でそれを凝視してるんやないかな。
自分を取り戻すということは泥濘の中の自分に還ることかもしれん」
「自分を見失ったまま社会に留まるなってことですよね?」
「芸能人にとっては辛いことかもしれんけど、すこし社会から距離
を置くことしかできないんじゃないかな。そして自分が本当に歌い
たいと思うなら、社会なんかに媚びずに自分の歌を聴いてくれる人
に唄うことが自分を取り戻す回り道なんやないかな」
「えっ、回り道?」
「そう、急がば回れの回り道!」
「近道じゃなくて?」
「人はすぐに近道を選ぼうとするが近道はあかん、すぐに潰れる」
「回り道か・・・。きっとアートも同じことを思っているんだわ」
「あのね、サッチャン、彼がね『アート』って呼ばんとってくれっ
て、むしろカタカナの『ガカ』の方がええって。カタカナで」
「えっ!カタカナで?」
「そう、カタカナで」
「何ですかそれ?」
「そう言うたんや。面白い男やろ」
「そうなんですか?じゃあ、私も名前を変えてみようかしら?」
その時、ミコが背負いカゴいっぱいに山菜や草花を積んで帰って来
た。そして、
「サッチャン、サッチャン!これ持って帰る?」
そう言って背負いカゴをテーブルに置いた。わたしは呆れて、
「あほっ、そんなん要るわけないやろ。東京へ帰れば何ぼでもあん
ねんから」
するとサッチャンは、
「わっ!すごいきれい!ええっ、持って帰ります。せっかく取って
来てくださったんですから」
サッチャンが帰る時が迫った。バロックが車を運転して駅まで送
ることになったが、サッチャンは橋が崩落したルートを選んだ。
「何か山歩きが好きになったみたい」
「この背負いカゴはどうするんや?」
「背負って帰る」
サッチャンはミコが作ったその背負いカゴが気に入ったらしく、そ
のまま持って帰りたいと言い出した。ミコは承知して中の山菜や草
花を新聞紙で包んでカゴの中に戻した。彼女が来る時に着ていたミ
シュラン坊やのコートはたかだか一週間ほどで長物になったためミ
コに上げると言った。そうでもしなければ、背負いカゴを背負って
張り裂んばかりに詰め込まれたボストンバッグを持って、その上に
長物のミシュラン坊やのコートを着て、いくら好きと言っても山道
を歩くことはできなかった。バロックがそのバッグを取り、サッチ
ャンが垢抜けたファッションに身を包んで山菜の入った田舎臭い背
負いカゴを背負って名残を惜しんでいると、ガカが前庭に続く道を
駆け上がって来た。そして、
「サッチャン!おれも駅まで見送るよ」
ただそれだけ言ったガカの表情は強張っていた。見送る我々はい
ったい何があったのか知らされていなかったが、ガカとバロックが
サッチャンを駅まで見送ることに何の違和感も持たなかった。彼ら
は再びユニットを結成してみんなに見送られながら、まるでステー
ジを終えたシンガーのように何度も振り返りながら手を振って路傍
に色とりどりの花々が咲く花道を下って行った。
「なんか三人とももう戻って来えへんみたいやな」
と、元妻がぽつんと漏らした。ミコを窺おうとしたが彼女の姿はな
かった。
昼を過ぎた頃、バロックだけが戻って来た。元妻の予感は簡単に
外れた。驚いた元妻は、「何で帰って来たん?」と、あての外れた
思い込みを口から滑らした。しかし、バロックは沈着に、
「何でって?」
と逆に聞き返した。元妻は「ちょっと!ごめん」とか言って便所へ
駆け込んだ。わたしは冷静さを装って、
「ガカはどうしたん?」
と聞くと、バロックが、
「サッチャンと一緒に行った」
これには驚いた。そういうことだったのか。すぐにミコがコーヒー
を用意して現れた。わたしはミコに、
「ガカがサッチャンと一緒に行ったんやて」
と言うと、
「知ってた。バロックから聞いて」
バロックの話によると、ガカはサッチャンへの想いを募らせていた
らしい。それをなじみのあの温泉で二人だけで酒を酌み交わしてい
る時に打ち明けられた。ただ、ガカは、バロックがサッチャンをど
う思っているのか確かめたかったのだ。するとミコが口を挟んだ、
「それで、あんた何て言うたん」
するとバロックは、
「また言わすんか。もう何回も言うたやろ」
「もっかい(もう一回)言うて」
「おれにはミコがおる」
「それから」
「それだけや」
「違うやろっ、最後まで言いや!」
「わかった、わかった。ほんだら言うわ。おれはミコのことが好き
やねん。ミコの病気が治るまでずーっといっしょにおるつもりや」
ミコはテーブルに肘を立て頭を手で支えて、向かい合うバロックの
目を、目を潤ませながらずーっと見ていた。いつの間にか元妻も戻
ってきて、わたしは元妻の方を見ながら、
「あほらし。やってられんわ」
と言うと、元妻は涙を指で拭いながら何度も頷(うなづ)いていた。
案外、元妻の送った「念」がバロックに届いたのかもしれない。
(つづく)