「無題」 (十一)

2013-05-01 15:13:12 | 小説「無題」 (十一) ― (十五)



          「無題」


          (十一)


 猛暑だった夏は、掛けられたタオルケットさえも暑苦しさから目

が覚めたものだが、今では、夜寒によって目が覚めて、開け放して

いたガラス窓を閉め、クローゼットから掛け布団を取り出して、虫

の音に誘われて再び幻夢の世界へと舞い戻っていく。寝る間も惜し

んで働いていた頃には、眠ることがこんなにも健やかさを回復する

ものとは思ってもいなかった。秋眠もまた暁を覚えず、である。

 娘の己然が通う学校では「早寝早起き朝ごはん」を推進していて、

私はそれにはまったく首肯したので、まずは夜の消灯時間を9時に

決めた。そもそも子どもが夜更けまで起きていて発育が損なわれな

いわけがない。己然もそれはあっさり受け入れたが、ただ、ゲーム

を止めることだけは抗ったので、一日1時間までということを受け

入れさせた。やがて、以前の様に私が朝食を用意してから起しに行

かなくても起き出して、三人揃ってテーブルに着いた。学校での給

食はご飯だったりパンだったりするので、献立表を見ながら朝食は

それとは重ならないように毎日変えた。子どもが深夜になっても起

きているのは、何のことはない親の堕落した生活が彼らを引きずり

込んでいるからに過ぎなかった。己然と妻を送り出してから片付け

を済まして掃除機をかけて、それから散歩に出るのが私の日課にな

っている。

 かつては、地域の生活必需を一手に賄い、夕時には人集りで思い

通りに歩けないほどの活況だった駅前のアーケード街を、今では朝

晩の通勤人がただ通り抜ける時間帯以外は、他人の会話がやまびこ

のようにこだますほどに森閑としているシャッター通りを、私は、

時間を気にしながら駅へと急ぐ通勤人の流れに逆らって、ついこの

前までは私も彼らと同じように睡眠不足を補うために首尾よく電車

の座席に身を預けることだけを願いながら夢遊病者のように歩いて

いたことを、万感の想いと多少の優越感を感じながら閑歩した。す

ると、どうしたわけか想い出のファイルに閉じ込めていたある記憶

がするりと抜け出して頭に浮かんできた。

「働いて、働いて、働いて、それで死んでいくんだ。はっはっはぁ

ー」

それは、公共浴場で出会ったおじいさんのことばだった。私は、そ

れまでの優越感が急に冷めて、それどころか焦りさえ感じ始めた。

「こんなことをしていていいのか?」

 もはや、頭は視線が拾う世間の映像を記憶せずにもっぱら行く末

の不安観に没頭してしまい、だからといって何か術が見つかるわけ

でもなく、それにも飽きてしまいアーケードの中程まで差し掛かっ

た時、「『無料!』店舗貸します」と、大きく書かれた貼紙が目に

入った。そこは商店街の事務所でまだ閉まっていたがその窓一面に

貼られていた。私は、思うところがあってしばらくその前に立ち止ま

ってそれを記憶に留めた。


                                  (つづく)


「無題」 (十一)―②

2013-05-01 15:12:18 | 小説「無題」 (十一) ― (十五)
   


         「無題」


          (十一)―②


 長く通勤電車の雑踏の中で本を読む習慣が身についてしまい、い

ざ、家の静けさの中でひとりページを開くと生活から離れることが

できずに「思想」に集中することができなかった。そうなんだ、私

は「思想」以外のものを読む気がしないのだ。学生の頃に、友人か

ら進められて推理小説も読んではみたが、まったく興味が沸かなく

て苦しみながら読んだ記憶がある。それ以来、見栄と嫉妬ばかりの

浮世話や現実から逃れてファンタジーの世界へ誘うお伽話や、「一

杯のかけそば」のような胡散臭い人情話に耐え得るほどにはまだ人

生を諦めてはいないつもりだ。私は、一冊の本、また一行の言葉で

さえも人の生き方を変えさせたり、または社会を転換させたりする

力を秘めていると信じているし、世界は変えることができると思っ

ている。石が転げ落ちて行くだけの物語よりも、意志が重力に逆ら

って昇っていく物語が読みたい。しかし、最近の読み物からは、自

己が拠って立つ大地を揺り動かされるほどの危なさを感じた覚えが

ない。躰を壊して入院した病院のデイルームの書棚に村上春樹の「

ノルウェイの森」が置いてあって、退屈凌ぎに読んでみたが、凌ぐ

ことはできなかった。これが人気のある小説なのかとがっかりした。

かつて富島健夫という作家が居たが、週刊誌に連載されていた彼の

官能小説とよく似ていると思った。登場する女はみんな主人公とセ

ックスするためだけに現れて、そもそも何を言いたいのか、また、

どんなドラマがあったかさえも今となってはまったく覚えていない

が、(そんなのあったっけ?) ただ、幕なしにセックスばかりしてい

る主人公と、作中で、看護婦の靴音が「カッカッ」と描写されてい

て、しかし、入院している私には、彼女らはラバーソールの看護靴

を履いているので靴音は決して「カッカッ」とは聴こえてこないは

ずだと看護婦の馬脚を見てしまい、「嘘っぱちだ」と分ってからは

そのことばかりが気になって、白けてしまった。確かに、ビートル

ズの曲から着想を得ただけに音楽的とも言えなくもないが、ただ、

ビートルズの名曲「ノルウェイの森」は「ラバーソウル(Rubber So-

ul)」のLPの中に入っていたが、村上春樹の小説「ノルウェイの森」

に登場する看護婦はラバーソール( Rubber Sole) を履いていなか

った。

                                 (つづく) 


「無題」 (十一)―③

2013-05-01 15:11:01 | 小説「無題」 (十一) ― (十五)



           「無題」

         
            (十一)―③


 神社の鳥居を潜って境内に入り、手水舎で清めてから参道を通っ

て拝殿で礼拝し、それから、脇道を抜けて鬱そうと茂る鎮守の森に

入って設えた馴染のベンチに腰を下ろし、ズボンのポケットから読み

かけのキルケゴールを取り出して開いた。神社の境内でキルケゴー

ルを読むというのも罰当たりかもしれないが、すでに彼の「死に至る

病」も途中で苦痛を感じ始めていた。それは、終始「単独者」としての

絶望と「キリスト者」として信仰に対する苦悩ばかりが語られていてと

ても面白い本とは言えなかった。何度も集中が途切れて放り投げた

が、ただ、退屈の末に巻末の解説を読んでしまったことから途中で

止めるわけにはいかなくなった。つまり、彼の生い立ちの方がよほど

本文よりは面白い、じゃない興味をそそられた。

 まず、セーレン・キルケゴールのキルケゴール(Kierkegaard)と

いう名前にはデンマーク語で「教会の庭(英語:church garden)」

(ウィキペディア「キェルケゴール」次も同じ ) という意味があり、

「セーレン・キルケゴールの父ミカエルは ( デンマークの) 西ユトラ

ンド半島のセディングという荒野で教会の一部を借りて住んでいた

貧しい農民だった。」セーレン・キルケゴールは、父ミカエルと二

人目の妻との間に七番目の末っ子として生まれた。そのとき父はす

でに56歳、母は45歳の年寄子だった。彼にとってその父の存在

は生涯に亘って大きな影響を及ぼした。

 その名前の由来のように、彼の父ミカエルはキリスト教の篤信家

であったが、その恵まれない境遇から神を呪ったという。その後、

コペンハーゲンに出て住込店員から身を起こし、毛織物商として成

功を収め莫大な資産を築いた時、それは神への裏切りから手に入れ

た成功で、何れ神による審判が下されるものと信じて疑わなかった。

更に、彼の妻は、先妻が子を残さずに亡くなった後に女中から後妻

となり、結婚前にはすでに主人の子を孕んでいた。それは、キリス

ト教の敬虔な信者であるミカエルにとっては到底許されないことで

あった。彼は終生その罪の意識に苛まれ、「41歳の時に突然事業

から身を退き、以後は読書と宗教生活に沈潜し、専らの関心を子供

たちの教育に集中した。それは厳格でまた真剣そのものであった。

中でも宗教教育が父に重要な意味をおびた。とりわけ末子のセーレ

ンに対しては特別に厳しく、気違いじみた宗教教育をほどこした。」

(橋本淳「生涯と思想ーキルケゴール小伝」現代思想4.1977 

vol.5-4)父は、わが子セーレンに神の怒りを宥めるための犠牲

として神への服従を厳しく押し付けた。後に、セーレンは「私はひ

とりの老人によって恐ろしく厳しいキリスト教へと教育された・・」

と語っている。思うに、父ミカエルを生涯苦しめた罪の意識とは、

先妻の死に関して何らかの故意的な行為があったからではないだろ

うか?そうでなければかくも神の制裁を怖れるものだろうか。

 さて、その子セーレン・キルケゴールは、「私はまだ一度も子ど

もであったことがなかった」と書くほど、父から受けた洗脳によっ

て幼い頃からキリスト者として厳しい信仰を意識した憂欝な幼少

期を過ごした。彼が外に出て遊びたいと言っても父は許さず、そ

の代りに、わが子の手を取って居間の中を歩き回り、空想の中に

連れ出して言葉の描写によってわが子の願い通りに町の散歩に連れ

出し、知り合いの人にあいさつを交わしたり、或いは、通りを車が

ガラガラと音を立てて通り過ぎる様子や、店頭に並ぶ菓子や果物を

まるでそこに居るように語り聴かせて息子を決して飽きさせなかっ

た。そして、この「居間での散歩」が息子の鋭い想像力を養った。

 やがて、父が怖れていた罪への報いは、家族の度重なる死となっ

て現れた。七人居た子らは次々と早逝し、その母も亡くなり、わず

か三年足らずの間に四人が次々に居なくなり、二女も三女も33歳

で死に、それはイエス・キリストが磔にされて死んだ年齢で、神の制

裁によって自分の子どもたちはイエスよりも長く生きることが許さ

れないのだと信じた。そして、最後には父と長男と末子のセーレン

の三人だけが残された。遂に、父は自らが犯した「罪過の告白と呪

われた家族の秘密、そして厳格な宗教教育の意味、更には神の怒り

の下にある罪の家族の一員としてセーレンもまた近い日に早逝する

ことを打ち明けたのだろう。」(橋本淳「生涯と思想」) 彼もまた33歳

までに死ぬものと覚悟を決め、やがて34歳の誕生日を迎えた時に

はそれが信じられず、教会に自分の生年月日を確認しに行ったほ

どである。更に彼は、父が死んですぐ後に「いまなお生きる者の

手記より」というおかしな題のアンデルセンについての文章を残し

ているが、何れも神による裁きが下されるものと固く信じていたか

らである。父が犯した罪によって神の裁きが家族に下されることを、

父から告白されたセーレンは後にこう書き残している。

「そのとき大地震が、恐るべき変革がおこって、とつぜん私はあら

ゆる現象をまったく新しい法則に従って解釈しなければならなくさ

れた。私の父が長生きしているのは、神の祝福ではなくてむしろ神

の呪いであったことを、私は予感した。私たち家族のものが精神的

にすぐれているのは、ただおたがいにせめぎ合うためばかりに与え

られたものであったことを、私は予感した。私の父が私たちの誰よ

りも長生きしなければならない不幸な人であり、父自身のあらゆる

希望の墓の上の十字架であるのを私が知ったとき、死のしじまが私

のまわりに加わりゆくのが感じられた。負い目は家族全体のになう

ものとなるにちがいない。神の罪は全家族の上にふりかかるにちが

いない・・・」

 これは、キルケゴールの「大地震」として知られているが、「す

ぐれているのは、ただおたがいがせめぎ合うためばかりに与えられ

たものである」とすれば、優れた能力はただいがみ合うためにあり、

また、長生きすることさえも幸福をもたらさない、否、それどころか

長生きすることが苦痛以外の何ものでもない。啓示のような閃きは

彼に逆説をもたらした。そして、「キリスト教は、愛と救いの宗教で

はなく、苦悩と刑罰の宗教としか見えなかった」(桝田啓三郎「解説」)

彼は、自分自身に負わされた宿命から逃れるように一時は放蕩に

溺れ、何たって金持ちだから、父の死後はそれも悔い改めて終生

「キリスト者」としての生き方を模索する。

 そして、彼の人生にとって最大の出来事は、婚約者レギーネ・オ

ルセンとの婚約破棄だった。「キルケゴールは17歳のレギーネに

求婚し、彼女はそれを受諾するのだが、その約一年後、彼は一方的

に婚約を破棄している。この婚約破棄の理由については、研究の早

い段階から重要な問題の一端を担っており(キェルケゴール自身、

『この秘密を知るものは、私の全思想の鍵を得るものである』とい

う台詞を自身の日記に綴っている)」(ウィキペディア「キェルケ

ゴール」) それは、彼が背負わされた宿命とそれがもたらす憂愁

がなければ決して起こり得ない逡巡であった。果たして、33歳ま

でに死ぬと信じている27歳の男が確かに金はあるかもしれない

が、17歳の娘と結婚して彼女を幸せにすることができるだろうか?

キルケゴールは彼女を愛するが故に婚約を破棄する。まるで、愛

しているが故に別れなければならないとでも言うように・・・。

                                   (つづく) 

「無題」 (十一)―④

2013-05-01 15:09:29 | 小説「無題」 (十一) ― (十五)



          「無題」


           (十一)―④


 競争の厳しい近代社会を生きる者には、信仰は「躓き」であるの

かもしれないが、しかし、信仰に身を捧げる者にとっては、俗世こ

そが「躓き」をもたらす。婚約を破棄して「キリスト者」として生

きることを決断したキルケゴールは迷わずに「単独者」として神と

向き合う。残された時間は僅かしかない。ついに、彼は、幼少の頃

から父によって洗脳された信仰から抜け出すことはできなかった。

「死に至る病」とは信仰を失った者の絶望のことである。俗世を生

きる我々は、「死に至る一生」であることすら忘れてその日を生き

ている。それは絶対的な「絶望」の中で、ただ目の前の相対的な希

望だけを追いかけているにすぎないではないか。我々はといえば、

社会によって洗脳された社会意識からついに抜け出すことができな

いのだ。しかし、いくら社会の中で社会人として生きたとしても、

我々の一生とは、「最後に彼は死んだ」ですべて片が付く。社会と

いう幻想がなければ、我々は一個の人間としてただ死ぬために生き

ているだけなのだ。我々は、社会という舟の中で肩を寄せ合って生

きているが、その舟が浮かんでいるのは絶望という大海ではないか。

たとえ舟の中が絶望を忘れさせてくれるとしても、いずれ我々は単

独者として絶望の海へと消えていく運命である。どれほど社会が絶

望を忘れてさせてくれるにしても、いずれ「最後に彼は死んだ」で

君はこの世から居なくなる。つまり、信仰を持たない我々の一生と

は、絶望の中に在って絶望から逃れるために自己自身を捨てた「死

に至る病」ではないのか?我々は、絶望から逃れて、社会の中で社

会人としてとして死ぬのか(自己自身であろうと欲しない)、それとも、

(単独者として)自分自身として死ぬのかが問われている。単独者と

して絶望を生きる者が神に導かれることに何の疚しさがあるだろう

か。

                         (つづく)


「無題」 (十一)―⑤

2013-05-01 15:08:31 | 小説「無題」 (十一) ― (十五)



         「無題」


         (十一)―⑤


 我々は、何処から来たのかも知らないし、更に、何処へ行くのか

も分らない。我々の理性とはたかだかこの金魚鉢の中のことしか理

解できない、その程度のものではないか。仮に、世界のことが何も

かも分ったとしても、それがいったい何だというのか。世界の在り様

が分ってもその意味が解らない。進化した(?) 我々の足下を何億

年前から変わらずに這い回るゴキブリと同じように恐れ戦きながら

生きていくしかないのだ。理性という手段を手入れたからといって、

すべての謎が解き明かされたわけではないし、理性は決して我々が

知りたいことに答えてくれた例がない。もしも、我々の理性が宇宙の

涯まで届いても、宇宙の涯は光速の6倍もの速さで我々の理性を置

き去りにしてしまう。その涯なき果てにいったい如何なる神秘が隠さ

れているのか、それを信仰と呼ぶなら、それは理性によって解き明か

されることはまずないに違いない。金魚鉢の中から生まれた理性に

よって金魚鉢の外の世界を知ることはできないのだ。我々の理性が

いつか土から人間を創り出すことでもできない限りは。それどころか、

かつて神の存在が合理性によって否定されたように、再び、我々の

科学も存在の不合理性によって否定されるかもしれない。何故なら、

科学は、もしかしたらあの辻の角で隠れて我々の行いを覗いている

かもしれない神でさえも否定することができないのだから。

                                   (つづく)