「あほリズム」(459)

2018-11-28 07:53:10 | アフォリズム(箴言)ではありません

          「あほリズム」

 

           (459)

 

(457)再掲載

芸術と真理との関係は、芸術と科学的認識との関係、ないしは

美と真理との関係としてとらえられなくてはならない。

(ハイデッガー「ニーチェⅠ」)

 では、「真理とは幻想なり」(ニーチェ)だとすれば、

「科学的認識もまた幻想なり」ということになる。

では「科学的認識とは幻想なり」とはどういうことなのか?

我々はまさに科学的認識を基にして近代科学文明社会を築いて

来たし、これからも科学的認識は我々の思考の根幹であり、そ

れに代わる方法があるとは思えない。では「科学的認識は幻想

なり」とすれば、つまり生成としての世界にとって科学文明と

は何れ消滅する徒花に過ぎないのか?「芸術と真理の離間」と

は「生成と科学の離間」に他ならない。


「あほリズム」(457)

2018-11-26 18:36:43 | アフォリズム(箴言)ではありません

           「あほリズム」

 

            (457)

 

 芸術と真理との関係は、芸術と科学的認識との関係、

ないしは美と真理との関係としてとらえられなくてはな

らない。(ハイデッガー「ニーチェⅠ」)

 では、「真理とは幻想なり」(ニーチェ)だとすれば、

「科学的認識もまた幻想なり」ということになる。

 

 

 


「あほリズム」 (454)

2018-11-19 07:48:56 | アフォリズム(箴言)ではありません

           「あほリズム」

 

            (454)

 芸術は、ニーチェの精神に即して芸術家の側からとらえると、創

作活動であり、これは美に関係づけられている。これに対応して、

認識の関係対象は真理である。したがって、今問題になっている芸

術と真理との――驚愕をひき起こす――関係は、芸術と科学的認識

との関係、ないしは美と真理との関係としてとらえられなくてはな

らない。(ハイデッガー「ニーチェⅠ」)

 

             (455)

 

 「世界は生成であり、力への意志である」とすれば、我々が「信

じる」科学文明でさえも、永遠不変の盤石な真理の上に構築されて

いるわけではない、つまり近代科学文明社会は決して永遠不変では

ない。

 

             (456)

 

 それは、かつて神の名の下に「真なる世界」を創造し、神の世界

を信じて疑わなかった人々が、科学技術の福音を耳にして真理が疑

われ始めるとたちまち信仰に躓いたように、いずれ「科学的認識」

もまた見捨てられる日が来るに違いない。


「同じものの永遠なる回帰の思想」⑦-2

2018-11-10 23:26:23 | 従って、本来の「ブログ」

      「同じものの永遠なる回帰の思想」⑦-2 

       ハイデッガー著「ニーチェ」ⅠⅡを読んで

 

 ニーチェ=ハイデッガーの思想を簡単にまとめると、まず西欧形而上学

(Meta-physik)とは、存在者(-Physik)の存在を超えた(Meta-)本質を問

う学問であり、本質を問う形而上学的思考は、存在を事実存在と本質存在

に二分し(二世界論)、事実存在である世界は生成消滅を繰り返す不完全な

世界、つまり我々が臨在するこの世界であり、そして本質存在こそが永遠

不変の真実の世界で、それはプラトンの言う「イデア」の世界であり(プラ

トニズム)、その後はキリスト教世界観へと受け継がれた神の世界である。

ニーチェはそのプラトニズムを逆転させて「世界とは生成であり、力への

意志である。」と考えた。「真理」とは固定的で永遠不変であらねばなら

ないとすれば、生成変化する世界では「真らしきもの」に近付くことが出

来ても、真理そのものを掌握することはできない。たとえば笑顔で写って

いる人の一枚の写真を見て、その人が生涯に亘って(永遠不変に)幸福であ

るとは言えないように、固定化された真理が生成変化する世界を表象する

とは限らない。つまり、生成変化する世界の下では「真理とは幻想であり、

一種の誤謬(真理の逸失)に過ぎない」。そもそも変動する生成の世界の理

想が不動の固定化された理念であるとは思えない。つまり「世界とは生成

なり」とすれば、固定化した「真理とは幻想であり、一種の誤謬(真理の逸

失)に過ぎない」のであり、それは形而上学的思考の限界であり、真の世界

(プラト二ズム)の否定に他ならない。そして、真の世界の否定とは仮象の

世界の否定でもあり、つまり真の世界が消滅すれば当然それに従う仮象の

世界も意味を失うからで、こうして西欧形而上学的世界観(二世界論)は根

拠を失い、ニーチェは自らを最後の西欧形而上学者であると名乗って、つ

まり形而上学的思惟(理性)では本質(真理)を掌握することができないこと

を認識させた最後の西欧形而上学者である。

 真実の世界(イデア)の否定、或は神の世界(来世)の否定は当然ニヒリズ

ムに陥る。いや、われわれはニヒリズムからの救いを求めて「真実の世界」

を創造した。形而上学的思惟は、存在を本質存在、つまり「真実の世界」

と事実存在、つまり「仮象の世界」に二分したが、「真実の世界」が永遠

不変の固定化した世界であるなら、それは生成、つまり変遷流転する世界

とは相容れない。形而上学的思惟は、つまり固定化して捉えるしか術のな

い理性は、生成としての世界を掌握することが出来ない。我々は理性によ

って世界の真理を読み解こうとする限り、その結論は架空の世界を創造す

るか、或は絶望してニヒリズムに陥らざるを得ない。そこでニーチェは「

われわれは真理のために没落することがないようにするために芸術をもっ

ている」と言い、さらに「芸術はニヒリズムに対する卓越した反対運動で

ある」とまで語る。何故なら、「芸術は力への意志のもっとも透明でもっ

とも熟知の形態である」からで、そして「芸術は芸術家の側から把握され

なくてはならない」とも言う。繰り返しになるが以下にすべての命題を記

す。

一、芸術は力への意志のもっとも透明でもっとも熟知の形態である。

二、芸術は芸術家の側から把握されなくてはならない。

三、芸術とは、芸術家についての拡張された概念によると、あらゆる存在

  者の根本的生起である。すなわち、存在者は、存在するものであるか

  ぎり、自分を創造するもの、創造されたものである。

四、芸術はニヒリズムに対する卓越した反対運動である。

五、芸術は《真理》よりも多くの価値がある。

 ニーチェは、「芸術と真理の関係について、私はもっとも早い時期に、

重大な問題に気づいた。そして今でも、或る神聖な驚きを抱いてこの離間

の前に立っているのである」と記している。そこでハイデッガーは、「芸

術と真理の関係は驚きを惹起する離間の関係だと言う。どうしてなのか」

とその真意を探ろうとする。そのあとハイデッガーは優に100頁以上を

費やして真理と芸術の本質的な相違を連綿と説明するのだが、ここでは長

くなるので割愛します。

 存在者の存在が「力への意志」であるとすれば、「力への意志」とは自

分を超越しようとする意志であり、それは迫動する感情であり、そして昂

揚であり陶酔である。「力への意志」はただ意志するだけでは越えられな

いので、意志は「おのれ自身のより高い可能性を自分の前方に投企して自

分自身を前進させ、まだ達成されていないもの、これから達成されるべき

ものへ自分自身を志向させ」「より高いものの圏内へ行き向かう見通しの

ようなもの、一種の《遠近法的展望》(パースペクティブ)」を想定する。

それらは正に芸術には欠かせない手法、つまり「芸術は力への意志のもっ

とも透明でもっとも熟知の形態である」のだ。ただ、それは当然のことで

あるが「芸術は芸術家の側から把握されなくてはならない。」

 では、真理はどうか?存在者の存在が「力への意志」であるとすれば、

もちろん認識もまた「力への意志」に他ならないが、真なるものの本質と

しての「真理」はただ一つあるのみである。何故なら「二つの真理」とは

矛盾であるからだ。固定化され不変不動の「真理」は、変動する生成とし

ての存在からみれば「一種の仮象であるが、生の自己主張の必然的条件と

して正当性を帯びた仮象である。」これは正に「逆転したプラト二ズム」

に他ならない。そして、「生があくまで生の昂揚であるかぎり、《真理と

ともに生きる》ことは《不可能》である。《真理への意志》、すなわち固

定化された現象への意志は、《すでに頽廃への徴候》である。」

「今やわれわれは、ニーチェにとって、そして逆転されたプラト二ズムと

しての彼の哲学にとって、芸術と真理の関係がどうして離間であらざるを

えないのかも理解することができる。離間というものは、分裂する者同士

が相属の統一から、かつこの統一によって互いに背馳せざるをえなくなる

ところにのみ、存在する。相属の統一は、ひとつのリアリティ――すなわ

ちパースペクティブ的な現われ――によって与えられている。この現れに

は、現象と聖化としての映発とが属している。リアルなもの(生ける者)が

リアルでありうるためには、それは一方で特定の地平の内に自分を確立し

、したがって真理の現象のうちにとどまらなくてはならない。しかし、こ

のリアルなものがリアルであり続けうるためには、それは他方で同時に、

自分を超え出て聖化し、すなわち芸術が創造したものの映発のうちで自分

を昂揚させなくてはならず、したがって真理に立ち向かわなくてはならな

い。真理と芸術が等根源的にリアリティの本質に属しているゆえに、両者

は背馳し敵対し合うのである。」

                          (つづく)