「間違って生まれてきた君へ」 (一)

2018-03-14 23:38:31 | 間違って生れてきた僕

         「間違って生まれてきた君へ」

 

               (一)


 「ぼくはたぶん間違ってこの世界に生まれてきたんだ」と、確か

君はわたしに言いましたね。君は、檻に押し込められる家畜にも

、またそれらを搾取する飼育係にもはなりたくないので、きっと間

違って生まれてきたに違いない、と言いましたよね。そして、それ

でもいつかは世界が変わるという望みを持って留まるか、そうで

なければさっさと諦めて立ち去った方がいい、と言う君の考えが

愚かだとは思いません。それどころか君の言うことは理性的だと

さえ思っています。ただ、理性はわれわれの存在までも保証しな

い。何故なら、われわれは理性によって生まれ来たわけではない

からです。だとすれば、理性に生存を委ねることは過ちではない

だろうか?

 君は、ロマン・ロランの著書「ジャン・クリストフ」の言葉を引いて、

「わたくしがなにをし、どこへ行こうとも、終わりはつねに同じではな

いでしょうか、最後はどうしたってあそこにあるのではないでしょうか

?」と言いましたが、確かに結果だけを見ればそうかもしれません。

しかし、生きることは結果ではないのです。ロマン・ロランは、さらに

そのあとに自らの神の言葉として、「死にに行け、死すべきであるお

まえたち!苦しみに行け、苦しむべきであるおまえたち!人は幸福

ならんがために生きているのではない」と言い切り、そしてこう続け

ます。「わたしの掟を実現するためにこそ生きているのだ!苦しめ。

死ね。しかしおまえがあるべきものであれ、――『人間』であれ。」と。

 私が言うのも何ですが、今まさに君が苦しんでいることは人間であ

ることの苦悩ではないでしょうか?そして、その苦悩の中から君自身

の生き方を見つけ出さんことを祈って已みません。いいですか、もう

一度繰り返します、「人間は幸福にならんがために生きているのでは

ない」のです。何故なら、幸福という幻想もまた死とともに終わってし

まうからです。幸福だけを望むのなら、君の言うように、多分生まれ

て来なかった方が少なくとも苦しまずに済んだかもしれませんが、し

かしすべての生きものは幸不幸を問わずに生まれて来ます。だとす

れば、生きることことこそが最大の目的であって、如何なる社会的な

不幸であってもそれを打ち消すものではありません。もしも幸不幸が

経済的、或いは社会的な原因によってもたらされるとすれば、仮に、

君がそんな社会との関係を断ったとしても、生きることの歓びそのも

のは決して失われたりしないでしょう。つまり、君は君自身で生きるこ

との歓びを生み出すことが出来るのです。そもそも生きることとは苦難

を克服することだとすれば、たまたま幸福に与った者はただ偶然に恵

まれただけで、それだけで果たして意義のある生き方といえるのでしょ

うか?それに比して、君が「偶然的な」不幸を乗り越えて生きていくこと

の方がどれほどよく生きたことになるのではないでしょうか。君が君自

身の苦悩を乗り越えて、生きることの歓びを得られんことを願って已み

ません。


「間違って生まれてきた僕」 (1)

2018-03-14 23:35:36 | 間違って生れてきた僕

          「間違って生まれてきた僕」

 

               (1)

 先生、先日はお忙しいのに登校するよう説得するためにわざわざ

家にまで来ていただいてありがとうございます。またその後、心の

こもったメールまで送ってくださって、僕も何とかして先生の期待

に応えなければと思っています。その時にも話したように、別に勉

強が嫌だから行きたくないとかではないのです。先生は社会に出て

から困ると言いましたが、実はそんな先のことなどどうだっていい

です。どう言えばいいのか、社会のことなんてまったく関心があり

ませんし、それどころか煩わしささえ感じます。と言うのも、独り

で居ても寂しくはありませんが、人と一緒に居ると何か話さなけれ

ばと落着かなくてついには孤独さえ感じることがあります。たとえ

ば、野球にまったく興味のない者に無理やりバットの振り方を教え

てバッターボックスに立たせてもきっとうまくいかないでしょう。

関心のない世界で競わされて苦しむくらいなら、あっさりあきらめ

て人生をショートカットした方が楽じゃないかと思う時があります

。ただ世界は野球だけではないから自分の道は自分で探すしかない

と思っています。こんなことを告白するのは先生だけで、もちろん

親にも言いません。実は、毎日いったい自分は何のために生まれて

来たのかということばかり考えています。もしも神が存在するとい

うなら、実際には存在しなくたって、それでもまったくかまいませ

んが、しかし、人間が理性によって生きていく限りはまず自分とは

何であるかを理性的に知らなければ本能、つまり感情にゆだねるこ

とになってしまいます。しかし感情は相対的な好き嫌いでしか判断

できませんから、会ったことのない個人を憎んだりはできないから

、人はいつも物事を考えた末に最後の選択を感情に放り投げてそれ

までの理性による判断を台無しにしてしまいます。つまり先生のよ

うに最後には「考えても答えは見つからない」とあきらめてしまい

ます。こうしてわれわれはこれまで理性による思考を感情による決

断にゆだねてどれほど誤まってきたことでしょうか。しかし僕はあ

きらめたくありません。自分とは何であるかを独りでいる時も社会

の中にあっても確信できる自分自身を見つけ出さない限り一歩も前

には進めないと思っています。

 たとえば「愛国心」という言葉がありますが、そもそも国家とは

国民の感情の対象である機関でしょうか?理性的な決断が求められ

る国政を愛国心、つまり感情にゆだねてもいいのでしょうか。愛国

心の下で国家を語る人たちは理性的な判断を下す以前にすでに結論

が前提されています。彼らの理性的な視線は愛国心というレンズを

通って歪められます。つまり感情を守るために理性が利用されてい

るのです。そもそも政治が伝統文化とともに語られることに驚きを

禁じ得ません。こうして我々の理性的思考は感情的な前提とあきらめ

による決断によって縛られているのです。


「間違って生まれてきた君へ」 (二)

2018-03-14 23:30:48 | 間違って生れてきた僕

     「間違って生まれてきた君へ」

 

          (二)

 
 まさか君から返信メールが届くなんて思ってもいなかったので正

直驚きました。ところで、私が訪問したことが君に変なプレッシャ

ーを与えたとすればどうか気にしないでください。私は君に登校を

促すために訪ねたわけではありません。ただ君が毎日どうして過ご

しているのか知らなければならなかったので、担任の私には多少の

責務がありますので、君の意志を確認しなければならなかったので

す。今日では、そもそも私は学校教育だけがすべてだとは思ってい

ませんので、それどころかIT社会の発達によっていずれ教室での

授業という制度も無くなるかもしれないとさえ思っています。実際

、君はすでにアメリカのオンライン授業を受講しているのには驚き

ました。それらは何れも英語による大学生向けの講義にもかかわら

ず中学2年の君は何とか理解することはできると言いましたよね。

仮に解らないことがあても検索すればすぐに関連サイトに繋がるの

で補習することもできるからもう教師なんか要らないし、何よりも

他人から教わることよりも自ら学ぶことの喜びに勝るものはないと

も。不登校の君の自堕落な生活を想像していた私は、PCで勉学に

励む君の姿に見事に裏切られました。たぶん学校なんて要らなくな

るでしょう。

 ところで、君は社会のことなんてまったく関心がないと言いなが

ら、こと政治には一方ならぬ関心があるようですね。しかし、そも

そも政治というのは社会活動の最たるものでしょ?何れにしろ、私

としては君が社会に対して関心を持つということを歓迎します。


「間違って生まれてきた僕」 (2)

2018-03-14 23:27:32 | 間違って生れてきた僕

     「間違って生まれてきた僕」

 

           (2)


 先生、実は、僕はIT化が進んだ社会ではみんなが一緒に机を並

べて勉強するという学校のシステムそのものが時代遅れではないか

と思っています。そもそも勉学とは独学こそが本来ではないでしょ

うか。いくら教えられても関心のないものは頭に入らないと思いま

す。もしも社会に出て知識不足を自覚すれば学習する機会はいくら

だってあります。それに、教育の現場で起こっている忌々しき問題は

すべて教育以外の事柄を無理やり教え込むことから派生しています

。つまり、学校でバットの振り方なんか教えるなと言いたい。そんなこ

とをするから間違ったバットの使い方をする生徒が現れるんだ。

 先生は、僕が政治に興味があると思われているようですが、実際

の政治に対してはまったく関心がありません。ただ学校じゃあ現代

社会にとって一番大事な近代史を詳しく教えないんだから自分で

学習するしかないでしょ。そして過去の政治を学んでいると今の政

治もまったく同じ理屈で同じ誤りを犯そうとしていることに気付きまし

た。先日、たまたま動画サイトを観ていて、NHK特集で以前に放送

された「日本人は何故戦争へと向かったのか」(4回シリーズ)とい

う番組の動画を見つけました。放送は東日本大震災前の2011年

の1月9日から震災4日前の3月6日までと放送直後に東日本大震

災が起こって悲惨な記憶が上書きされてしまったので多くの視聴者

も忘れてしまったかもしれませんが、放送中には当時は民主党政権

だったことを窺わせる前原外務大臣が在日韓国人から献金を受けた

問題で辞任したというニューステロップが流れたりして、きっと今

の安倍政権下のNHK官製放送では到底制作されないだろうと思え

るほど当時の最高首脳部への批判に終始しています。その中で、ほ

とんどの首脳たちが対米戦争は避けなければならないと考えながら

、しかし中国からの完全撤兵を求めるアメリカの条件は受け入れら

れないと悩みます。ある首脳は「あれだけ人を殺して金も使い、た

だ手ぶらで帰って来いと言うことはできない」と、国家予算の7割

余りを軍事費に費やし20万人もの戦死者をもたらした戦争から手

を引くわけにはいかないと語っています。歴史学者ジョン・ダワ―

は「人が死ねば死ぬほど兵は引けなくなります。リーダーは決して

死者を見捨てることが許されないからです。この『死者への負債』

はあらゆる時代に起きていることです。犠牲者に背を向けて『我々

は間違えた』とは言えないのです」と説明してます。こうして如何に

理性的な判断を行なっても感情的な動機によってあっさり覆されて

しまいます。その結果、中国どころかすべての占領地を失い、さらに

国家さえも占領されてしまいました。そして、それはまさにあらゆる時

代に起っています。たとえば原発の問題にしても、推進派の人々は

原発を廃止すれば設備は不良債権化して膨大な経済的損失をもた

らすと訴えますが、まさにそれは中国からの撤退と同じことで、過去

の「投資」に背を向けて「我々は間違えた」と言えないからで、とても

理性的な理由によるものとは思えません。つまり、我々は大義名分

のためなら真実さえも歪めてしまいます。しかし理性的な、或いは科

学的な判断は感情的な執着からも過去のしがらみからも、そして大義

や名分からも不羈でなければなりません。理性的判断を感情や欲望

が歪めてはならないと思います。 なお、動画「日本人は何故戦争へ

と向かったのか」(第1回放送分)のアドレスを以下に記します。

http://www.dailymotion.com/video/x1x0ms8_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%B8%E3%81%A8%E5%90%91%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E7%AC%AC1%E5%9B%9E-%E5%A4%96%E4%BA%A4%E6%95%97%E6%88%A6-%E5%AD%A4%E7%AB%8B%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93_news


「間違って生まれてきた君へ」(三)

2018-03-14 23:22:05 | 間違って生れてきた僕

         「間違って生まれてきた君へ」

 

                (三)

 返事が遅れてすみません。君が教えてくれた番組の動画「日本は

どうして戦争へと向かったのか」をさっそく観ました。確かに放送

を観た覚えはありましたがどうも忘れてしまったようです。

 さて、かつて誰もが理性ではアメリカと戦争すれば絶対に負ける

ものと知りながら、やむにやまれぬナントカ魂によってなし崩しに

戦争やむなしへと向かったわけですが、日本側の選択肢は、まず(a)

アメリカの通告「支那及び仏印よりの全面撤兵」を呑む、か(b)通告

を拒否する、のどちらかで、(b)を選択すればアメリカの経済制裁は

まず避けられず、(b-1)アメリカとの戦争へと向かわざるを得なかっ

た、がその選択には(b-2)戦争に勝つ、という可能性はなかった。そ

の結果、(b-3)敗戦、によって(a)はもちろんのことすべての選択肢

を失った。つまり、(b-3)が予測されていたのであれば(b)の選択は

結果的には最悪の、(a-2)すべての占領地を失い国土を占領される、

を選択したことになり、国益の損失を最小限に食い止めるには(a)を

選択するほかなかった。しかし、戦費の増大によって国内経済は疲弊

し権力闘争に明け暮れる首脳たちは「神風に煽られたナントカ魂」に

呪縛されて大局を見失い理性的な判断をする余裕などなかった。そし

て、君が言ったように、まさにいま原発を再稼働させようとしている

政治家たちも経済最優先の呪いに縛られて「まったく同じ理屈で同じ

誤りを犯そうとしている」のかもしれません。

 実際、大震災による原発事故に見舞われた我々は、(a)原発を廃止

する、(b)原発を再稼働させる、のどちらかで意見を二分しています

。(a)は狭い国土のしかも地震大国での稼働には安全性が疑わしい。

一方(b)は経済性に優れ、温室効果ガスを排出しないので環境破壊し

ない。但し、それらは核廃棄物の処理コストやひとたび事故が起こ

った時の膨大な賠償と放射能による環境汚染は考慮されていません。

しかし現政権は新たな安全基準の下で躊躇うことなく(b)を選択しま

した。ただ、対米戦争の時と違って絶対に事故が起こるとまでは断

定できません。そこで、(b-2)絶対に事故を起こさないこと、を条件

で再稼働されようとしています。ところが、絶対安全を謳っていた

原発行政の下で発生した福島原発の事故では、電力会社は頻りに「

想定外の事態」と弁明しました。しかし「絶対安全」の下で「想定

外の事態」など起こり得ないはずです。実際、地震予知連によって

巨大地震は起こると予測されていましたし、それに伴う大津波も過

去の事例から「想定外の事態」ではなかったはずです。そして、そ

もそも事故とは想定外の事態によって起こるのです。つまり、彼ら

が謳う「絶対安全」とは「想定内での絶対安全」なのです。こうし

て「想定外の事態」を安全対象から外すなら(b-2)は成り立たなくな

ります。絶対安全は断定できないのです。つまり、(b)を選択して

も(b-2)は断定されず、(b-3)再び原発事故が起こる、可能性が残り

ます。そして再び「想定外の事態」が起これば間違いなく日本は国

際社会から敬遠され、(a-2)すべての可能性を失い仕方なく脱原発を

受け入れる、しか残されていません。しかし、それは(a)とは正反対

の結果です。(a)を選択すればいずれ(b)への可能性は残りますが、

(a-2)はもはや如何なる選択も残されていません。こと原発に関して

は一度の大事故が生存環境の消滅すらもたらします。我々は(a-2)

を避けるためには(a)を選択するほかないのです。再稼働やむなしと

言う人々は脱原発の人々が一に求めている安全性に対しては正面か

ら応じようとはせず、お題目のように唱えられてきた安全神話はすでに

崩壊してしまっているので、経済的側面から反論するばかりで議論が

まったくかみ合いません。こうして大局的な見地からの議論はされずに

国民の合意なしに再稼働されようとしています。そして、このような論点

をすり替えた反論、大局的な視点に対しては局面を、或はその逆を用

いて反論するのはまさにこの国の官僚や政治家たちが批判をかわす

ために常套的に用いる詭弁なのです。かつてこの国の指導者たちは

大局を見失い「犠牲者に背を向けて」占領地から撤退すること能わず

国土を焼失させてしまったが、再び我々は「未来の人々に背を向けて」

今さえ良ければいい経済最優先から撤退できずに、今度は放射能汚染

という「想定された事態」によって国土を消失させようとしている。それで

は、敗戦によって満蒙からの撤退を余儀なくされて生命線を失ったわが

国はその後果たして没落しただろうか?ただ、当然のことですが、生存

するための安全な未来は豊かな現実よりも優先されなければなりません。

つまり、実存は経済に先行するのです。