「間違って生まれてきた君へ」
(一)
「ぼくはたぶん間違ってこの世界に生まれてきたんだ」と、確か
君はわたしに言いましたね。君は、檻に押し込められる家畜にも
、またそれらを搾取する飼育係にもはなりたくないので、きっと間
違って生まれてきたに違いない、と言いましたよね。そして、それ
でもいつかは世界が変わるという望みを持って留まるか、そうで
なければさっさと諦めて立ち去った方がいい、と言う君の考えが
愚かだとは思いません。それどころか君の言うことは理性的だと
さえ思っています。ただ、理性はわれわれの存在までも保証しな
い。何故なら、われわれは理性によって生まれ来たわけではない
からです。だとすれば、理性に生存を委ねることは過ちではない
だろうか?
君は、ロマン・ロランの著書「ジャン・クリストフ」の言葉を引いて、
「わたくしがなにをし、どこへ行こうとも、終わりはつねに同じではな
いでしょうか、最後はどうしたってあそこにあるのではないでしょうか
?」と言いましたが、確かに結果だけを見ればそうかもしれません。
しかし、生きることは結果ではないのです。ロマン・ロランは、さらに
そのあとに自らの神の言葉として、「死にに行け、死すべきであるお
まえたち!苦しみに行け、苦しむべきであるおまえたち!人は幸福
ならんがために生きているのではない」と言い切り、そしてこう続け
ます。「わたしの掟を実現するためにこそ生きているのだ!苦しめ。
死ね。しかしおまえがあるべきものであれ、――『人間』であれ。」と。
私が言うのも何ですが、今まさに君が苦しんでいることは人間であ
ることの苦悩ではないでしょうか?そして、その苦悩の中から君自身
の生き方を見つけ出さんことを祈って已みません。いいですか、もう
一度繰り返します、「人間は幸福にならんがために生きているのでは
ない」のです。何故なら、幸福という幻想もまた死とともに終わってし
まうからです。幸福だけを望むのなら、君の言うように、多分生まれ
て来なかった方が少なくとも苦しまずに済んだかもしれませんが、し
かしすべての生きものは幸不幸を問わずに生まれて来ます。だとす
れば、生きることことこそが最大の目的であって、如何なる社会的な
不幸であってもそれを打ち消すものではありません。もしも幸不幸が
経済的、或いは社会的な原因によってもたらされるとすれば、仮に、
君がそんな社会との関係を断ったとしても、生きることの歓びそのも
のは決して失われたりしないでしょう。つまり、君は君自身で生きるこ
との歓びを生み出すことが出来るのです。そもそも生きることとは苦難
を克服することだとすれば、たまたま幸福に与った者はただ偶然に恵
まれただけで、それだけで果たして意義のある生き方といえるのでしょ
うか?それに比して、君が「偶然的な」不幸を乗り越えて生きていくこと
の方がどれほどよく生きたことになるのではないでしょうか。君が君自
身の苦悩を乗り越えて、生きることの歓びを得られんことを願って已み
ません。