「アタラクシア」改稿

2010-03-06 00:10:22 | 赤裸の心
        「アタラクシア」改稿

 


 フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソー(1712~78)

は「人々の間における不平等の起源と基礎に関する論文」の第二部

の冒頭に以下の記述を残している。

「ある土地に囲いをして『これはおれのものだ』と宣言することを

思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最

初の者が、政治社会〔国家〕の真の創立者であった。杭を引き抜き

あるいは溝を埋めながら、『こんないかさま師の言うことなんか聞

かないように気をつけろ。果実は万人のものであり、土地はだれの

ものでもないことを忘れるなら、それこそ君たちの身の破滅だぞ!』

とその同胞たちにむかって叫んだ者がかりにあったとしたら、その

人は、いかに多くの犯罪と戦争と殺人とを、またいかに多くの悲惨

と恐怖とを人類に免(まぬが)れさせてやれたことであろう?」

(岩波文庫「人間不平等起源論」本田喜代治・平岡昇訳)

 ルソーは晩年その著作によって迫害され不遇のうちに一生を終え

たが、彼の思想は後の人々を啓蒙して市民革命が起こり民主主義の

実現に大きな影響を与えた。更に、近代社会はその根本に於いて彼

の人権思想が色濃く反映され、今では彼が迫害を逃れて孤独な散歩

者として夢想した道はジャン・ジャック・ルソー通りと名付けられ

ている。私は、近代を見直すに当たってはルソーから始めるべきだ

と思って上の本を読んだ。ただ告白すれば、時間が無くて彼の全て

の本を読んでいないので恐る々々言うのだが、我々はルソーの思想

を克服せずに西欧の近代社会を真似たことがそもそもの間違いだっ

たのではないだろうか?つまり、我々は社会を語る前にまず人間そ

のものを知るべきなのだ。同じ著作の中でルソーは、未開のカライ

ブ(カリブ)人と文明人を比較して、文明人を、

「世の中の人々が自分をどう見ているかということを相当に重んじ、

自分自身よりもむしろ他人の立証に基づいて幸福になり、自分に満

足することのできるような種類の人間」だと言い、「社会に生きる

人は常に自分の外にあり、他人の意見のなかでしか生きられない。

そしていわばただ他人の判断だけから、彼は自分の存在の感情を引

き出しているのである」

 さらに、ちょっと文脈がおかしいが、

「このような傾向から、あんなに立派な道徳論がいくつもあるにも

かかわらず、どうして善悪に対するこれほどの無関心が生まれてく

るか、また、どうして、あらゆるものが外観だけのものになってし

まったために、名誉も、友情も、美徳も、そしてしばしば悪徳まで

もついにはそれを誇りとする秘訣を見いだすようになり、それらす

べてが人工的で演技的になってしまったのか、要するに、あんなに

多くの哲学や人間愛や礼節や、崇高な格言のさ中にいながら、どう

してわれわれは何であるかという問いを始終他人にむかって問いつ

づけ、しかも、けっしてそれをわれわれ自身にむかっては問おうと

しないで、われわれは偽瞞的で軽薄な外面、つまり徳なき名誉、知

恵なき理性、幸福なき快楽だけをもつことになったのか」

と批判したが、何と!これは将に我々の社会のことではないか。栄

盛の至りには国の異なりを問わず等しく枯衰の末路を辿る運命なの

か。

 私は、常々日本人から社会を奪えば日本人は消滅するだろうと信

じて疑わないが、つまり孤独な日本人など存在しない、否、喩え居

たとしてもそれは社会から逸(はぐ)れただけに過ぎない。我々は

社会に生まれ、社会の為に生き、社会を惜しんで死んでいく。我々

の成功とは社会的成功を言い、我々の正義とは社会正義であり、我

々の真実とは社会的真実だけである。我々にとって社会こそが生き

る目的である。しかし、果たしてそうだろうか?人間は自らを生き

ることこそが目的であって社会とはその為の手段に過ぎないのでは

ないだろうか?ジャン・ジャック・ルソーは、社会的な身分や生い

立ちと言った素性を生む以前の、人々が助け合うということがその

場限りのことであった、従って義務や責任などが生まれる暇のない

時代の自然人にまで遡(さかのぼ)って、如何にして社会が形成さ

れたかを記述している。彼は人間を個人として捉えその本質を「非」

社会性に求めた。つまり、社会とは個人を補う為のものではないか。

それでは自然人とはいったい何の為に生きていたのか?彼は「自然

がもしわれわれを健康であるように運命づけたのなら、私はほとん

どこう断言してもいい、思索の状態は自然に反する状態であり、瞑

想する人間は堕落した動物であると」まで言っている。つまり、意

識や感情に「道徳」とか「愛」とか言葉をつけて思索する様になっ

たのは即ち人間が堕落したからである。人間が堕落した動物か進化

した動物かはまあ同じようなことだが、ただ思索とは社会的な行為

なのだ。そしてその社会的な思索によって得られる結果は当然の如

く社会的な結論に帰着する。だから「何の為に生きるか?」という

懐疑こそが社会的な瞑想なのだ。何故なら自然人は存在することに

懐疑など抱かない。コギト(cogito ergo sum)は堕落した人間の

瞑想である。

 社会こそが生きる目的である我々日本人もまた、自分が人間か蛙

(かわず)か知らないまま一生を終え「自分とは何か?」などと問

わない。我々が哲学と信じる儒教などは所詮処世訓に過ぎない。そ

れは我々が在るがままに生きる自然人を経ずに先ず国が存在したか

らだ。「この土地に囲いをして『これはおれのものだ』と宣言する

ことを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つ

けた最初の者」によってこの国が創られた。ところが、この国には

残念なことに、杭を引き抜きあるいは溝を埋めながら、「こんない

かさま師の言うことなんか聞かないように気をつけろ。果実は万人

のものであり、土地はだれのものでもないことを忘れるなら、それ

こそ君たちの身の破滅だぞ!」とその同胞たちにむかって叫ぶ者は

現れなかった。その結果、自分自身を知る前に社会を知り、孤独を

怖れて社会が絶対となった。ただ、日本にもルソーに比する思想家

が存在したが「おめでたい」人々はすでに聞く耳を持たなかった。

つまり、我々の歴史はルソーの言う堕落した動物から始まってしま

ったのだ。

 そして今や我々の精神のミッションにはニュートラルが存在せず、

常に力の強い方にオートマチックにシフトチェンジする自動制動装

置まで付いている。我々は孤独を怖れるあまり易々と社会に阿(お

もね)って、そしてそれが更に自分自身を見失う原因となってしま

った。そもそも意思のある生物は孤独な存在である、否、孤独こそ

が意思を生むのだ。寧ろ社会との連帯を求めるから孤独に耐えられ

ないのだ。自分自身と共に在れば孤独ほど他人に邪魔されずに自由

で幸福な時間はない。自分を自身以外の一切から切り離し、自らの

存在そのものを快く楽しむ。エピクロスの言う「アタラクシア(平

静な心)」こそが孤独の快楽である。悟りを求める、従って瞑想す

る「禅」とは違う。自らの手によって感覚をニュートラルにチェン

ジして、自分自身を感覚する楽しみ「アタラクシア」を取り戻そう。

と言うのはルソー曰く、自分自身との一体感は自然人にとっては当

たり前のことだからだ。すると孤独の不安が薄れ自分だけの世界が

広がり、社会が遠くに去っても自分自身を見失うことがなく、やが

て「井の中」だけが世の中ではないと気付くのではないだろうか。

                                (おわり)

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