「ラジオ体操と共同幻想」⑤
いずれの先進国もこれまでのように経済成長することが出来ずに、
それはグローバリズムの下で新興国に生産を奪われたからだが、社
会は停滞を余儀なくされ、一方で少子高齢化が進んで財政負担が増
えそのしわ寄せが若者へ及んでいる構図は、なにもわが国だけの事
情ではない。一方を厚くすれば他方は薄くなるゼロサム社会の下で
は、既得権益に与る者は保障された権利を死守するために構造改革
を拒む。ゼロサム社会を打破するにはアザー(other)がもたらされ
なければならないが、資本主義経済は本来このアザーを受容するた
めの制度だったはずだが、既得権を巡る対立が尖鋭化し硬直化した
社会からはアザーは生まれず、社会は勝ち組と負け組に別れて奪い
合いに明け暮れる。この闘争は本来共産主義社会のものだったが。
これまで、いずれの国家も近代化をテーマに、つまり経済的繁栄を
テーマに国家を導いてきたが、そもそもテーマとは今を追い求める
ことではないのだが、停滞した社会からは将来が見えなくなってそ
のテーマが消え、取り残された社会格差が不公平感を生み社会不安
をもたらす。人々の孤独に忍び込んだ不安はテーマを失くした社会と
の繋がりが絶たれ不満を生む。社会不安がもたらす混乱を怖れる
国家は「愛国心」を国民に押し付けて治安を図ろうとする。それは、何
も某人民共和国や某民主主義人民共和国だけのことではない。おお
よそ社会と呼ばれる集りの中では個人と集団の目的と手段は絶えず
入れ替わり、例えば、われわれが働くのは会社のためではなく、同じ
ようにこの国で生きるのは国のためではない。ところが、国家の存亡
を訴えると忽ち「国のため」というテーマが生まれる。自らのテーマを
持たない国民は「国家」というテーマにつき従う。それは「会社のた
めに死ぬまで働け」と強いるブラック企業と何ら変わりない。ただ、ブ
ラック企業なら辞めれば済む話しだがブラック国家で生きる国民はそ
うもいかない。不思議に思うのは、ブラック国家を受け入れる人々の
多くが以外にもブラック企業を非難していることだ。自分自身にとって
は国のために死ぬことも会社のために死ぬことも同じ死に変わりない
のに。
(つづく)
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