Willow's Island

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私はシャルリー・・・・・ではない

2015年01月17日 21時31分56秒 | 時事

 言論をテロ、暴力によって封じようとすることは、許されない。シャルリー・エブド社を襲った連中は、これからどんな目にあっても同情の余地は無い。フランスやアメリカ等の国民が表現の自由を守るために「私はシャルリー!」と声を上げたことも、よく理解できる。ここで臆してしまっては、テロに屈したことになるからだ。確かに、それはあってはならない。
 しかし、それと同時に「表現の自由」というのはどこまで拡大解釈できるものなのだろうか、という思いもある。イスラム教徒は、テロなど絶対にしようとしない人達が大半だろうと思う。そういった人達でも、シャルリーの風刺画を見て非常に不快な思いをした可能性は十分にある。自分たちが信じているものを踏みにじられた、とさえ思うかもしれない。
 ある表現を世に大々的に出すことによって、不快な思いをする人々が多数存在する、ということが分かっているのであれば、なぜそこまで発表することにこだわるのだろうか? 特に宗教については、慎重に取り扱うべき、ということが分からないのだろうか。どうも素直に「私はシャルリー」と言えない理由が、そこにある。
 この件については「ヤフー!コメント」に珍しく良いコメントが載っていたので、以下に引用する。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/cm/main?d=20150115-00010000-fsight-int
 結果オーライだとは思うが、今回日本政府がデモに深入りしなかったのは正解である。テロリストの行為にはこれっぽっちの同情の余地もないが、地球上で1/4以上の人間が進行する宗教の開祖を侮辱する権利が、「表現の自由」の名のもとで正当化されるとは思わない。「表現の自由」を守るべく、欧州の指導者が団結したといえば聞こえはいいが、欧州域外のイスラム教徒からすれば、自分達の信ずるところを侮辱する自由を保護するために、欧州の指導者が団結したとしか思えないだろう。そんな欧州の内輪の集まりにクビを突っ込みイスラム教徒の恨みを買うなど、日本にとって百害あって一利なしである。