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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

DEVO / Q:Are we not men? A:We are Devo

2006年02月18日 21時39分33秒 | ROCK-POP
 懐かしいアルバム。多分20年振り以上に聴いたことになると思います。これが発表されたのは70年代終盤頃だったと思いますが、当時のロック・シーンにはパンク/ニュー・ウェイブというムーブメントが吹き荒れていて、とにかく60年代後半以降のニュー・ロックを全て否定することで、新しいロックの創造するってな、集団的なダダイズムのようなことになっていました。今からすれば想像しにくいことですが、70年代ロックと共に生きてきたような人間は、こうやって生まれてきた新しいロックを拒否するか、そこから何かを見いだして新しい同時代ロックとして聴いていくか、ひとつの大きな岐路みたいな状況になっていたんですね。

 ディーヴォのこのデビュウ作は、当時のニュー・ウェイブ・シーンを象徴する作品として、かなりもてはやされたものでした。パンク・ブームがあっという間に終わり、その次にニュー・ウェイブが「パンクにテクノ風味をまぶしたようなロック」だとすると、このアルバムの音楽はまさにそういう特徴を兼ね備えているだけでなく、「おまえたちは人間?、いやディーボ」あと「退化」などという、今ではお寒くなりなりそうなキャッチが、当時がやたらとカッコ良かったし、当時のアングラに席巻していたニュー・ウェイブ的音楽の最大公約数的なところをすくいとって、ある種のポピュラリティをもった音楽をつくっていたというのもきっと良かったんだと思います。
 かくいう私もニュー・ウェイブに開眼したのは、イギリスだとXTCとウルトラヴォックス、アメリカだとこのディーボとトーキング・ヘッズあたりということになるんだと思いますが、ディーボの場合、実はこのデビュウ作の前に「ノー・ニューヨーク」というコンピレーションにアングラ時代の曲が収録されていたダダイズム的ムードたっぷりのサウンドが強烈だったもので、このアルバムにもその方向を期待した訳ですが、前述の通りかなりポップな音だったのが意外だったりもしました。当時はレコード会社に強要されたかなとか思いましたけど、2枚目以降は更にこの傾向が加速したような記憶がありますから、本当はそういうバンドだったんでしょう。

 ともあれ四半世紀ぶりに聴くこのアルバムですが、実に「まっとうなロック」に聴こえるのが不思議です。当時はキワモノすれすれのトリッキーな音というイメージでしたけど、ブライアン・イーノがやったと思われるアブストラクトなSEとかテクノ風な感覚や「ひきつったような」と称されたヴォーカルなども、実は確かなテクニックに裏打ちされたよく練られたアンサンブルとアレンジをベースにした「良質なギターポップ」の上物としてのっかっているだけだったのが、今聴くとよく分かます。
 という訳でこのアルバム、長い風雪に耐えたおかげて、アナーキックなところやエキセントリックなところはキレイっぱり時代の洗い流されてしまい、核心の音楽部分だけが残ったというところでしょうか。
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JOHN MCLAUGHLIN / Electric Guitarist

2006年02月18日 18時53分17秒 | JAZZ-Fusion
 シャクティとのコラボレーションが続いたマクラフリンが再びエレクトリック・ギターで、マハビシュヌ流のジャズ・ロック/フュージョンに舞い戻った78年の作品。「エレクトリック・ギタリスト」というタイトルは、カッコ良いのか、ダサいのかよくわからないが、マクラフリンの気負いのようなものだけは伝わってくる。また、ソロ名義ということで、参加するメンツは曲毎に豪華な布陣をしいていて、後年の「ブロミス」ほどではないけれど、やはりこのアルバムである種総決算的な音楽を目論んでいたことは確かだと思う。こういうアルバムなので、収録曲をメモっておくことにしたい。

1.New York On My Mind
 ビリー・コブハム、ジェリー・グッドマンに加え、スチュアート・ゴールデンバーグが参加し、新旧マハビシュヌの合体のような布陣による作品....となると、ハイ・テンションなソロの応酬をバリバリしていくようなもの期待してしまうのだが、聴こえてくるのは、78年という時期を反映したかのような、割とAOR風にリラックスしたミディアム・テンポの曲である。ヴァイオリンとギターのユニゾンによるテーマや中間部で披露される各人のソロなどマハビシュヌ以外の何者ではないのだが、ちょっと渋かったかな。

2.Friendship
 こちらはサンタナ・バンドと後期マハビシュヌ・バンドとの合体で演奏される、一連のコラポレーションの延長というか、その結論みたい作品。ふたりが共演すると、妙に説教臭く辛気くさいムードになりがちだったりするだが、ここでは当時のサンタナ・バンドを仕切っていたトム・コスターががんばったのか、音楽的背景を考えなくてもふたりのギタリストの共演作として素直に楽しめるのがいい。

3.Every Tear From Every Eye
 このアルバムでは一番、ニューヨーク・フュージョンっぽいというか、その後のマクラフリンの動向を予告するような作品。これもミディアム・テンポで割りと渋目に進んでいくのだが、ここではやはりデビッド・サンボーンが参加が大きく、彼に触発されたのか、静かだが冷たく燃えるようなマクラフリンのソロを展開していく。

4.Do You Hear The Voices You Left Behind?
 旧B面に移って、最初の曲はチック・コリア、スタンリー・クラーク、チャック・ディジョネットという一際豪華な布陣による作品。早いサンバ風なリズムなのはコリアの参加を意識してのことか?。ともあれこのトロピカルなリズムにのって前半からマクラフリンがソロを全開し、デジョネットも鋭敏に反応、中盤以降に登場するコリアはRTF風なエレピで応酬、後半では各人のソロをフィーチャーした4バース・チェンジが聴き物。

5.Are You The One? Are You The One?
 トニー・ウィリアム、ジャック・ブルースとのトリオ、つまり初期のライフタイムを再現したメンツで演奏される。ここでもかつてのような壮絶さというより、ジャム的にリラックスした感じで旧友の再会を楽しんでいるという感じ。マクラフリンもマイルス時代の頃のようなアブストラクトなフレーズを繰り出している。

6.Phenomenon: Compulsion
 編成がどんどん小さくなっていってこちらはビリー・コブハムとのデュオ。意外にもこれがアルバム中では一番ハイテンションな作品で、マハビシュヌというのはいわばマクラフリンとコブハムがジェネレーターになって、あの壮絶さを生み出していたことがよくわかる作品とでもいったらいいか。

7.My Foolish Heart
 最後はソロでビル・エヴァンスで有名なスタンダード作品を演奏している。今聴けば、これもマクラフリンらしい演奏なのだが、当時としてはこういうジョー・パスやジム・ホールを思わせたりもする、コンザバティブな演奏を彼がやったのはかなり意外だったのではないか。

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SHARP W-ZERO3 (PDA+PHS)

2006年02月17日 23時50分53秒 | PC+AUDIO
という訳でW-ZERO3である。購入するきっかけはこうだ。早い話が携帯をW32Sに替えたことで、回線速度や性能も上がり携帯電話でもって、インターネットにアクセスすることが非常に現実味を帯びたことで、それまでのClieとAirH"を使ったインターネット・アクセスが一気に貧相なものになってしまったということなのである。たかだかGoogleのトップページを表示させるのにどうしてああも時間もかかるのか、その差は歴然だった。どこかの言い回しをすれば、モバイル端末としての携帯電話の優位性は、もはや「確定的に明らか」という感じになっていたのだった。

 そんな訳で「もうAirH"止めるかなぁ」と、思うともなく思っていた時、ふと見かけたのが、職場でとなりに座っているこの方面に詳しい同僚が使っていたこのキカイだった。カードを指して通信とかいう無骨な形ではなく、PHS電話を大きくしてPDA化し、ディスプレイはVGA、入力デバイスとしてキーボードがスライドして現れるというスタイルは、「おっ、なるほど、今はこういうもんがあるのか」という感じだった。実際にネットに接続してもらったところ、表示速度もそれなりに早い...というか、今使っているAirH"の回線速度なのか、ClieのCPUの問題なのかわからないが、あらためて現状の「ほとんど使い物にならない遅さ」を痛感することになったである。
 自宅に帰って、いろいろ調べてみると、結局、こういうスマートフォンというのは、欧米はともかく日本では「走り」な代物であるらしく、現状選択肢としてはこれしかないことが分かった。アイデアは良いが常にデザインがイマイチなシャープ製、OSが使いにくいことでは定評のあるWinCE系と、私的にはいろいろ逡巡する要素はあったものの、ともあれ選択肢は「止めるかコレか?」ということを後ろ盾にして、昨日に購入してきたという訳だ。

 そんな訳で、昨夜からあれこれといじくっている。残念ながら使い勝手は余り良くない....というか、私みたいな人間、一応、ネットで飯を食っているような人間が使っても、けっこう扱いが難しいのはちと閉口した(オレが馬鹿なだけか-笑)。いくつかのユーティリティーやアプリ、カスタマイズを加えて、大分使いやすくはなったが、デフォルトでは何をやるにしても、手間がかかりすぎで、やけにストレスが溜まるという感じである。
 とはいえ、インターネットにVGAのディスプレイでアクセスできるPDAとしては、けっこう優秀かもしれない。携帯のように限定的な形ではなく、この大きさで、かつそこそこの速度でインターネットアクセスできるというはいい。電車の中で自分のブログが眺めつつ、適当に編集するなどということが、普通にできたりする訳だ。これはやはり凄いことだと思う。という訳でしばらく、これを使いこなしてみることにしたい。
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SONY Clie PEG-NX80V (PDA) + AH-H403C(PHS Card)

2006年02月16日 23時13分13秒 | PC+AUDIO
 PDAという機械は、これまでPalmrを数台、初代Mobile Gea、そしてこのClieと思い返すと、けっこういろいろ買っているが、どれをとっても痒いところに手が届かないというか、あまりにマニアックだったり、性能に限界がありまくりだったりして、満足とはほど遠いものばかりだった。おそらくPDAの本来の目的はもっと違ったのだろうが、近年のPDAの目指すところはほぼ「モバイルノートより小さい携帯パソコン」という位置付けに落ち着いてきていて、のっかるOSやハードもほぼその通り流れのってヴァージョン・アップを重ねていっているのが現状だと思う。

 PDAは、サイズの物理的制約→入力デバイスが極端に貧弱+大きなバッテリーを積めないので→入力効率が悪い+駆動時間が短い→駆動時間を伸ばすため本来であればハードディスクであるべき記憶媒体が、多くの場合メモりに代用される→OSやアプリケーションは小さなサイズを要求されるので機能が貧弱....といった様々な制約があるので、よほどの発想の転換とか、技術革新でもない限り、これらを一挙に解決するようなPDAは出にくいのだろうと思う。たまにネット上で大絶賛されたりした機種でも、実際、使ってみると、マニアックな楽しみはあっても、個人的には満足にはほど遠いのが実情だ。しかも、近年は携帯電話という、まさしく携帯と呼ぶに相応しい端末がPDAの守備範囲とクロスする形で爆発的に普及してきたので、片手で操作しにくいPDAはサイズ的にも、中途半端なものなってきて、存在意義みたいなものが一気に薄くなってもいるのではないだろうか。

 こんな状況下では、結局PDAの残された道は、携帯より大きな情報量が表示できるディスプレイ+少なくとも携帯よりは入力しやすいデバイスで、よりパソコンに近づいた機能を実現するしか残された道はないのではないか。調度2年前の今頃に購入したクリエは、そんな意味で製品のコンセプトがぴったりとその方向にフォーカスしていて、私は久々に購入意欲を刺激されたPDAだった。二つ折りのデザインにキーボードをドッキングさせるというのはいかにもソニーらしいコンセプトだったし、「なんかとか出来る」とかいう次元ではなく、インターネット接続が前提になったアプリケーション構成は、「おぉ、これだこれだ」と言う感じがしたものだ。実際に使ってみると、実は不満続出だったりしたのだが、こうしてまがりなりも、この2年間使い続けたところを見ると、それなりの使い勝手があったということなのだろう....

....などと書きつつ、実はこの機種今日で使い収めとなった。何故かといえば、本日、ほとんど衝動的にシャープのW-Zero3というスマートフォンを購入してきたしまったからなのである(続く)。
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R.シュトラウス管弦楽作品集/カラヤン&BPO

2006年02月15日 23時25分26秒 | クラシック(一般)
このところ「ドンファン」を楽しく聴けているので、調子にのってオークションで出ていたのを落札してしまったCDが先ほど届きました。カラヤンとベルリンによる5枚組のR.シュトラウス集です。録音は80年代でカラヤンの晩年にあたり、CD+デジタル録音という新メディアにカラヤンが果敢に挑んでいた時期と記憶しています。 このボックスセットはその時5枚ほど出たR.シュラウスのアルバムをまとめたものですが、オークションで購入した価格は2500円で、これはおそらく当時の一枚分より安いですから、けっこう得した気分です。オークションはたまに掘り出し物に出会うのが楽しいですが、僕にとってはこういうのがまさにそれ(笑)。

 さて、カラヤンのデジタル・メディアに対する意欲は異常に高く、従来から得意としているレパートリーのほとんどをデジタルで再録音するんじゃないかという勢いで怒濤の如く新録音を続けた訳ですが、このR.シュトラウス・シリーズはその佳境の頃に発売されたのでした。音楽誌等の評判も大方は良く、中には「これまでで最高の演奏」という評価をする向きもあったりして、レギュラープライスのアルバムなど手が出なかった私は、次々に出るアルバムを尻目に、「きっと素晴らしい演奏なんだろうなぁ」と指をくわえていたのをよく覚えています。
 ただ、カラヤン晩年のデジタル録音シリーズというのは、ワーグナーやチャイコフスキー、そしてシュトラウスのワルツ集などを実際に聴いてみると、リズムの推進力が大分後退し、かつての誇った壮麗美みたいなものも大分枯れた感じになっていて、期待して購入したはいいが、一聴してがっくりみたいな経験もありましたから、このアルバムもかつてほどには期待はしていないところもあったのですが....。ともあれ、今夜は「ドン・ファン」を聴いてみることにしましょう。

 まず、冒頭のほとばしるようなオーケスレーションですが、これは案の定、大分枯れています。フィルハーモニアやベルリンの演奏では唖然とするような鮮やかさでここを駆け抜けるように演奏している訳ですが、ここではかつての挑みかかるような勢いがなくなって、噛んでふくめるような演奏になっています。これはこれで味わいというものかもしれませんが、やはりカラヤンだと思うとちと寂しいです。そのかわりといってはなんですが、第二主題はとても素晴らしい。70年代のもはやSF的な壮麗さはないとしても、実に老獪な語り口でR.シュラウスが苦手な私でも、陶酔できそうな気分にさせられます。このあたりは、ワーグナー集で「タンホイザー」はつまらなかったけれど、「トリスタンとイゾルデ」の味わい深く感じたのと同じようなパターンかもしれません。なので、いさかダレ気味なムードになりやすい展開部の静かな部分など、老いたカラヤンであるが、その語り口の至芸で聴かせるという感じ。妙なたとえですが、いにしえの落語の大家の語り口を聴いているような、「安心して翻弄される楽しみ」みたいなところがあるといえるかもしれません。

 あと、録音ですが、デジタル録音といってもカラヤン流儀のものなので、特にハイファイな訳でもありません。重厚さという点では以前のアナログの方が雰囲気があったりします。また、かつてのように神経質な録音ではなく、割と録りっぱなしというか、あまりいじくらずそのままマスタリングしたような感触なのですが、それでも細部の見通しが良いというのは確かにデジタル録音の恩恵なのかもしれませんね。
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R.シュトラウス 交響詩「ドン・ファン」 聴き比べ [3]

2006年02月15日 01時10分02秒 | クラシック(一般)
 「ドン・ファン」聴き比べの3日目は、ショルティ、マゼール、ブロムシュテットの3種です。収録は前2者は70年代、後者は88年ですから、演奏内容は後述するとしても、とにかくどれも録音が優秀なのがやはり大きいです。R.シュトラウスのような「オーケストラが絢爛に聴こえてなんぼ?」みたいな楽曲の場合、なんだかんだといっても、録音はひとつの大きな要素たりえますかから、その点今日の三種はどれも大いに聴き映えがします。

○ショルティ&シカゴSO(`73)
 オケは同じシカゴだし、ハンガリー系の指揮者というのも共通ということで、ライナーとシカゴ響の演奏を更にモダンにリファインしたような演奏。全盛期のショルティらしくシカゴ響を極限までドライブさせ、鋭角的なリズムでぐいぐいと進むストレートな趣が強く、かつまた曖昧さとは無縁の白か黒か的なデジタル指向で押しまくった演奏といえます。ただし、第2主題を始めとしたロマンティック部分では、ややスリムではあるものの、ワーグナー風の壮麗な音楽としてきっちり表現していますから、これはこれでR.シュトラウス的な見識に富んだ演奏とはいえるでしょう。
 それにしても太鼓のドロドロや低弦のえぐるような質感はいかにも、70年代のショルティ....否、デッカの音で、このハイファイ感は現在聴いても非常に痛快です。楽器に近接した大量のマイクを使い、まるでオケのど真ん中で聴いているような、こうした録音は、CDの普及とともにより自然なホールトーンを取り入れたワンポイント的な音にとって代わられるようになる訳ですから、私のようなオジさんには懐かしいハイファイ音ともいえますし、今聴いてもなかなか凄い音ではあると思います。

○マゼール&クリーブランドO(`79)
 セルの死後、クリーブランドの常任に収まった当時の録音。この時期のマゼールはかつのようなエキセントリックなところが影を潜めて、次代の巨匠を目指して音楽の風格を会得中みたいなところがありましたけど、この演奏もまさにそういう代物です。クリーブランドの機動性とストイックな美感をそこそこ生かしつつ、適度なドライブ感と大管弦楽を見事にさばくコントロールされた美しさみたいなところで勝負したという演奏だと思います。また、アレグロでほとばしるような部分とロマンティックな部分のバランスも破綻がなくて、良くも悪しくも「R.シュトラウスはこう振ればいいんでしょ」的な秀才の演奏でもあります。
 録音もそこそこホールトーンを取り入れたウェルバランスで、デッカ的エグいハイファイ感のないけっこう自然な音。とにかく全てに渡って過不足のない演奏というべきで、おもしろみ味ないですが、R.シュトラウスの世界を万全に伝えているとは思います。マゼールは近年バイエルンとまとめてR.シュトラウスを再録していますが、そこではどんな演奏をしているんでしょうかね。興味あるところです。

○ブロムシュテット&サンフランシスコSO(`88)
 ブロムシュテットという指揮者の演奏はほとんど知らなくて、実は「どうしてこんなCD持ってのかしらん」という感じなのですが、聴いてみるとある意味地味なくらいゆったりとしたオーソドックスな演奏で、メータの頃は同じデッカでブリリアントなサウンドを炸裂させていたサンフランシスコ響が、妙にしっとりとしてイギリスのオケみたいなくすんだ響きを出しているもの意外です。ところが、これが意外にも説得力あるんだなぁ。ブロムシュテットって北欧出身で、ドレスデンの常任で名を上げ、サンフランシスコに転出したって経歴ですから、そのあたりバックグラウンドが効いているのかもしれませんが、とにかく虚飾を排した音楽的なR.シュトラウスという感じであり、ひょっとするとこういうのが正解なのかもと思ったりさせる演奏です。
 録音はデッカですから、基本的には例の弾力的なハイファイ調なのですが、さすがに90年代近くになってくると、大分ナチュラル指向が強まっていて、時代の流れを感じさせます。しかし、この演奏を70年代にショルティ録ったのと同じセッティングで録音したら、一体どう聴こえるんでしょうねぇ?。
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伊福部昭の芸術5 協奏風交響曲 協奏風狂詩曲/大友,広上&日本PSO

2006年02月14日 23時46分53秒 | クラシック(20世紀~)
 第5巻は「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」(独奏:館野泉、指揮大友直人)と「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」(独奏:徳永二男、指揮広上淳一)というふたつの大規模な協奏曲的な作品が収録されています。後者については先生の傑作のひとつですから、かなり有名な作品といえますが、前者については近年スコアが発掘されて蘇演された、いわば「戦時下における先生の幻の大作」といったところでしょうか。

 「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」は全三楽章で、総演奏時間が40分近い大作です。「協奏風交響曲」とあるように、ピアノ協奏曲的な作品であると同時に、先生にとって未開のジャンルである交響曲に初めて挑んだ作品ともいえ、特に両端楽章は重量感といいスケールといい、いかにも構えの大きな大作という風情が漂っています。また、バルトーク風に打楽器の如くピアノを使っているところや、ある種メカニックな雰囲気が濃厚なリズムをモチーフを使っているあたり、先生らしくないともいえますが(実はこのあたりは感覚はその後、映画音楽で再現されることになる訳ですが)、これが作られた1941年という、ある種時代の雰囲気の反映なのかもしれません。
 ちなみに第二楽章については、いつも先生のペースで押し切った、鄙びた郷愁を誘うムードと峻厳な自然風景が交錯する非常に味わい深い音楽。中間部で弦のトレモロにオーボエがのって歌われる部分は、先生らしい北国の寂寥感に満ちた音の風景で、けだし絶品です。

 ところで、この作品を聴いて、ファンなら誰でも驚くのは、随所に「シンフォニア・タプカーラ」、「リトミカオスティナート」といったお馴染みの楽曲で使われたモチーフが登場する点でしょう。第1楽章の第一主題は「リトミカオスティナート」ですし、第二主題は「シンフォニア・タプカーラ」とほぼ同一です。また、途中「倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク」の前奏部分や「ゴジラのテーマ」のやはり前奏にあたる部分なども登場するのです。このあたりの事情はライナーに詳しいですが、この作品のスコアは戦争で焼けたことになっており、先生自身はもうすっかり「喪われた作品」として認識していたことから、ここで使ったモチーフは、その後他の作品で流用されることになった訳ですが、お馴染みのモチーフのヴァリエーションとして聴いても、これらの作品のどこが先生にとって流用する価値があったのか....などと考えてみても、この作品は非常に興味深いものがあります。

 モチーフの流用といえば、1948年の「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」には「ゴジラのテーマ」の主要主題がほとんどそのまま現れれますが、これにはさすがにぎょっとします。もちろんここでもオリジナルはこちらであり、「ゴジラ」のテーマとして流用されたに過ぎない訳ですけど、まさか「ゴジラ」という映画とともその音楽が歴史の1ページに名を残すことになるなど、さすがに先生も「ゴジラ」このモチーフを流用した時点では予想だにしていなかったと思いますので、途中に「ゴジラ」が登場するということで、心血注いだ「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」が有名になったしまったというのは、やはり先生としては複雑な想いがあったに違いありません。ちなみにここで聴ける音楽は、前記「協奏風交響曲」や「交響譚詩」のような西洋的なところはあまりなく、ある意味「日本狂詩曲」の世界を高度に洗練させたような、まさに日本的としかいいようがない世界になっています。
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R.シュトラウス 交響詩「ドン・ファン」 聴き比べ [2]

2006年02月13日 23時44分19秒 | クラシック(一般)
 R.シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」聴き比べの2日目は殻カラヤン3種を聴いてみました。カラヤンのR.シュトラウスといえば、ご存じのとおり「十八番中の十八番」ですから、再録も非常に多く、昨夜からいろいろ探してみたところ、我が家にも40,50,70年代の演奏が出てきましたので、これ幸いと先ほどから聴いているところです。


○ヘルベルト・フォン・カラヤン&アムステルダムCO(`43)
 カラヤン最初期のレコーディングのひとつ。カラヤンは28年の初ステージの時からこの曲を振っているらしく、既に堂々たる構えの演奏になっています。カラヤンがこれを録音した頃はといえば、R.シュトラウスは現代音楽というほどではないにしても、かなりモダンな代物と認識されていたはずですが、そのせいなのかどうか、ある種ワーグナーの亜流として作品を解釈しているようにも思えます。つまり、とてもワーグナーっぽく聴こえる演奏と私には聴こえました。
 まぁ、この時期の彼の作品は元々ワーグナー色が強いですから、別に作品を曲げている訳ではありませんが、同時のこの曲にはR.シュトラウス流の不協和音もけっこう使った刺激的なオーケスレーションだとか、細かい音を高速で動かしてモダンな色彩を出すところなども多々あります。この演奏ではそうしたモダンな動きのところは割と一気に流してしまい、「マイスタージンガー」を思わせる壮麗な明るさや、ウィーン風に甘美なところを前面に出しているという感じでしょうか。ちなみに第1主題を始めとするアレグロの部分で、挑みかかるように前進して行く様は(実はテンポはそれほど早くないのですが)、後年の落ち着き払ったカラヤンとは別人のような若さを感じさせて、なかなか新鮮に響きます。

○ヘルベルト・v・カラヤン&フィルハーモニアO(`54)
 なにしろメンゲルベルクの頃のアムスの重厚な音を聴いた直後なので、この精細だがどこか冷たくあっさりしているオーケストラの音を聴くとあまりに違いに驚きます。フィルハーモニア管弦楽団は、EMIのハウスオーケストラとして、精鋭を集めてレコーディング・セッション用に集められた訳ですが、その成り立ちが表すように、とにもかくにもプロに徹したドライでハードボイルドなオーケストラ・サウンドが特徴で、こういう曲だと一種凄みすら感じるほどです。まぁ、録音がこの時期のEMI特有の質感になっている相乗効果も無視できませんが....。
 演奏はアムスとのそれとは対照的に、R.シュトラウスのモダンなオーケスレーションを克明に再現しているのが特徴で、ワーグナー風、ウィーン風なところはけっこうあっさりと演奏しているように感じました。アムスとの演奏でのこの部分は現在聴くとやや古めかしくて、まるでハリウッド映画のサントラにみたいに聴こえかねにいところもありましたから、バランスとしてはこれくらいで調度いいような気もしますが....、いや、やっぱりちょいと薄味か(笑)。
 という訳で、この演奏、フィルハーモニアのスーパーテクニック集団ぶりはと併せ、カラヤンの「ドン・ファン」の盤歴史上、もっともザッハリッヒな演奏ということになるんでしょか。ある意味でジョージ・セルとクリーブランドとの演奏に近いものも感じます。

○ヘルベルト・フォン・カラヤン&ベルリンPO(`73)
 こちらはカラヤンとベルリンと最も良好な関係にあった70年代のまさに全盛期の録音。カラヤンとしても決定版を期しての録音を狙ったものと思われ、ベルリン・フィルの機動性と重量感を万全に生かしR.シュトラウスのオーケストレーションを完璧に再現、カラヤン流のエレガントで歌い回し、壮麗なスケール感も存分に開陳した、「この曲にこれ以上何を望むのか」的なほとんど究極の演奏といえます。
 この時期になれば、かつてモダンだったR.シュトラウスのオーケスレーションもほぼ当たり前のものになっていますし、ことさらモダンだ、ウィーン風だとかいういわずとも、この作品自体、R.シュトラウスの作ったロマン派音楽の傑作として、スタンダローンな評価も確定したでしょうから、こういう演奏が現れるというのはカラヤン自身の円熟というもありますが、やはり時代の流れというもの大きかったんでしょうね。
 老婆心ながら、この演奏は最初に聴くべきではありません。私はこの曲をジョージ・セルの演奏で知り、あれこれ聴いたあげくにこの演奏を聴きましたから、この演奏は正直申してやや腰の重い、ファットな演奏という気がしないでもないですが(演奏時間も17分と最長)、良くも悪しくも「ドン・ファン」をこの演奏で馴染んでしまうと、他の演奏はおしなべてそっけなく、つまらないものに感じてしまうであろうことはほぼ確実ですから....。
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CHICK COREA / The Leprechaun

2006年02月13日 00時08分11秒 | JAZZ-Fusion
 RTFの「浪漫の騎士」と同年に発表されたソロ名義の作品です。この年のチックは非常に多作で、ソロ名義としては他に2枚組の大作「マイ・スパニッシュ・ハート」、ついでにジャレットやハンコックと共演したライブも出していますから、まさに四面楚歌の活躍振りといったところだったのでしょう。音楽面ではRTFのバンドとしてやるべきことにそろそろ限界を感じ、ソロに新たな活路を見いだしたというところだったのかもしれません。

 アルバム冒頭は、シンセ多重による「インプス・ウェルカム」という曲。チックは楽器オタクみたいなところがあって、新しい楽器が出るとそれにインスパイアされて、それ向きな楽曲をつくるみたいなところなきにしもあらずでしたけど(80年代はヤマハのDXにどっぷりでした、この時期だとミニ・ムーグやアープ・オデュッセイといったところでしょうか)、この曲も飛び道具で遊んでみた1曲というところなんでしょう。

 ただし、それ以降の曲はドラムスにスティーブ・ガッド、ベースがアンソニー・ジャクソン(もしくはエディ・ゴメス)というピアノ・トリオをベースに、ゲイル・モランのヴォーカルとチック自らのシンセを随所にフィーチャーした、割とアコスティック色が強い音楽になっています。誤解を恐れずにいえば、RTFの第2作「ライト・アズ・ア・フェザー」あたりでいったん棚上げしていた音楽を再び発展させたとみることも可能で、2曲目「レノーレ」で、ゆったりとしたサウンドにのって、スペイシーなシンセ・ソロが登場したり、3曲目の「夢想」,4曲目「世界を見つめて」で、女性ヴォーカルが現れるあたりは、RTF初期の浮遊感を思い起こさせずにはいられません(エレピがアコピに替わったということはありますけど....)。

 一方、5曲目の「夜の精」では同時期のRTFと共通する複雑なキメや変拍子を多用したゴリゴリ感の強いハードな作品ですし、6曲目「ソフト・アンド・ジェントル」にはバルトーク風なストリングスが聴こえてきたりもします。また「ピキシランド・ラグ」もどちらかといえばバルトークや新古典派を思わせるシニカルなユーモアを感じさせる作品で、前記のRTFの延長線では語れない要素も散見するのも事実。アルバムのコンセプトとしては、そこまでに鏤められた音楽的ファクターをオーラスの大作「妖精の夢」で、一気に全て統合してしまおうと意図しているようですが、どうもこれまで提示された音楽にヴァリエーションがありすぎて、まとめあぐねているような印象もあります。

 そんな訳で、このアルバム、少しばかりとっ散らかってまとまりがないと感じてしまいました。部分的にはきれいだったり、カッコ良かったりする訳ですが、いかんせん、このアルバムでメインに出したいであろう「妖精」という幻想的なコンセプトには収まりきらなかったという気がするんですが、どうでしょう?。
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R.シュトラウス 交響詩「ドン・ファン」 聴き比べ [1]

2006年02月12日 23時11分25秒 | クラシック(一般)
 後期ロマンの爛熟した音楽というは、大抵好きになれるものなのですが、リヒャルト・シュトラウスだけはどうも苦手です。その昔、クラシックの名曲を歴史順に聴いていた時、R.シュトラウスの有名な交響詩は、なにやらロマンチックで豪華な音の絵巻みたいなもんだろうと期待して、早く順番が来るのを楽しみにしていたもんです。ところが実際に聴いてみると、あまりピンとこなかった。「ロマンチックで豪華な音の絵巻」といえば、確かにその通りだった訳ですが、音楽に陰りがないというか、聴いても聴いても心底音楽で訴えたいものが見あたらない、あえていえば外面的な音楽に聴こえてしまったんですね。

 まぁ、さすがに最近は「R.シュトラウスの音楽って、そういうもんなんだろ」みたいに、ある程度割り切って接することができるようになりましたけど、苦手意識は相変わらずで、固めて聴くのは数年に一度ってところでしょうか....。前振りが長くなりましたけど、そんな私が何を考えたか、久々にR.シュトラウスをあれこれ聴いています。今回は「ドン・ファン」の演奏をあれこれ聞き比べているところですが、これが意外にも楽しい。

 さて、この「ドン・ファン」ですが、割と明快なソナタ形式、曲調もメリハリがあり、演奏時間も15分程度と、この時期の交響詩としてはコンパクトな部類ですから、R.シュトラウスが苦手な私としては、「ティル」あたりと並んで聴きやすく感じる曲ではあります。で、手許を調べでみると、ライナー、ドラティ、セル、カラヤン、ショルティ、マゼール、ブロムシュテット、未聴分としてはケンペとジンマンのボックス・セットがありました。苦手な割にけっこうありますが、これも「今は苦手でも、いつか絶対に楽しんで聴けるハズ」という、いつも病気が出て、時折買い込んできた成果でしょう(笑)。ともあれ、今日聴いたのその中から3種類の演奏を聴いてみました。どれも大昔の演奏。

○ジョージ・セル&クリーブランド管弦楽団(`57)
 僕がこの曲を聴いた最初に聴いた演奏がこれです。セルが振ると第1主題のところなどまるでメンデルゾーンの「イタリア」みたいに聴こえます。第1主題から第2主題へ移行する場面で奏でられるソロ・ヴァイオリンの部分など、下手するといかにも古くさい陳腐な旋律になりがちですが、甘さを排したすっきりとした演奏で、ロマンティックな第二主題へスムースにバトンタッチしていくあたりのスポーティーな音楽の運びはさすがセルというべきでしょう。展開部のハイライトで登場する印象的なホルンの旋律や同じく展開部最後の幻想的な場面も同様、ともかく非常にすっきりとした演奏です。ちなみにCDは全体に音がぼやけ気味ですが、この際だからと試しに聴いてみたSACDの方は、リマスタリングの整音作業が成功しているのか、細部まで見通しの良い音質に劇的に変身していてびっくり。一体、どっちがマスターに近い音なんでしょうね?。

○アンタル・ドラティ&ミネアポリス交響楽団(`58)
 やや遅めのインテンポで堅実にまとめたごくごくまっとうかつ正統派の演奏。ただしオーケストラはクリーブランドやシカゴと比較すると、ややバラけたようなところがあって、展開部のゆったりした部分などやや間延びしてしまった感がなくもないです。しかしながら、くっきりとした音の輪郭、腰のある低音、オケを間近で聴くようなリアルな臨場感といった具合に、マーキュリーのレヴィング・プレゼンス独特のセンスで録られた音質のせいか、演奏が非常に色彩的で聴こえるのは大きなポイントでしょう。それにしてもこのレーベルの音を聴くといつもそう思うんですが、半世紀前にどうしてこんな鮮明な音で録れたんでしょうか。まるで昨日録音したといっても通用しそうな音質なのは驚き。そんな訳でコレ、録音美人の最たる演奏....などといった怒られるか(笑)。

○フリッツ・ライナー&シカゴ交響楽団(`54)
 ドラティほどではありませんが、ホールトーンが適度に取り入れたなかなかの優秀録音、なんといっても1954年でステレオ録音というのが奇蹟的です。演奏はとにかくドライブしています。ジャズ風にいえばスウィングしているとでもいったらいいか。また、オケのサウンドも弾力と馬力でシカゴ交響楽団の面目躍如といったところでしょうか。そういう演奏なので、主題提示の第2主題など、幻想的、旋律的な部分はそっちのけ、第1主題の勢いが失せないという風情で、さっさとすっ飛ばしているようなところもあります。とはいえ、この第2主題、展開部では腰を据えてきちんと歌っているので、まぁ、あくまでも解釈なのかもしれませんが....。再現部では提示部以上に猛烈にスウィングして一気呵成にコーダ雪崩れ込むという感じで、痛快この上ない演奏です。
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伊福部昭 ゴジラ伝説/井上誠

2006年02月12日 12時42分06秒 | サウンドトラック
 1984年に生オケによる「SF特撮映画音楽の夕べ」が開催されたのは、伊福部ファンにとっては80年代のひとつのハイライトだった訳ですが、結果的にこれの露払いのように現れた作品がこれだったといえるでしょう。当時、ニュー・ウェイブ系のバンドとして知る人ぞ知るという存在だったヒカシューのキーボード奏者が、シンセサイザーのオーバー・ダビングによるオーケストレーションでもって再現したゴジラ関連の音楽ばかり集めた作品だった訳ですが、井上自身が伊福部先生のほとんど殉教者のような愛情をもったファンだったことが幸いし、伊福部ファンにって、選曲、アレンジ、サウンドなどなど、「かゆいところに手がとどくようなアルバム」になっていたことが画期的でした。

 選曲はほぼ満点、「ゴジラ」の始まり「キング・コング対ゴジラ」3曲、「モスラ対ゴジラ」「地球最大の決戦」2曲、「怪獣大戦争」、「怪獣総進撃」等、おおそよ伊福部先生の作ったゴジラ関連のメインタイトルやマーチ系の名曲が網羅されていることに加え、「コング輸送作戦」、「黒部谷のテーマ」、「キングギドラ出現」といった通好みの作品も収録されいたことはファンにとっては感涙モノ....というか、はっきりしませんが、おそらくこれらの作品は「ゴジラ伝説」によって、改めてファンに伊福部作品の名曲として認知されたという気すらします。いずれにしても昭和40年代を前後数年くらいのスパンに制作され、それを観ながら少年時代を過ごした人達が記憶しているであろう曲を選び抜いた見事な選曲であり、これによりこのアルバムは成功はもう半分約束されていたようなものでした。
 加えて、これは井上の先生に対する愛情のなせる技だったと思いますが、とにもかくにも徹底的な原典重視の姿勢を貫いたことも、ファンに絶大に受けた原因となっていたと思います。先生の譜面にない音は極力を付け加えず、シンセのよるオケのシミュレートに徹するその潔い姿勢が、ほとんど誰が聴いても納得できる「伊福部音楽のシンセ化」という、簡単そうでいておそらく難しい壁をクリアに導いたのでしょう。
 もちろん、まったく先生の譜面に対して、何も付け加えていない訳ではありませんが、各種SEの付加にせよ、ベースとドラムをプラスしてロック風なリズムに解釈している場面にしているところでも、本末転倒にならない程度に抑制してあって、「主役はあくまでオリジナル・スコア」を堅持しているあたり、しつこいようですが、井上の先生に対する愛情としかいいようがないもので、そのあたりがまた共感を呼んだ訳です。

 ついでに書けば、ここで用いられてシンセはどちらかといえば、アナログ・シンセ主体で当時爆発的勢いで普及しかけていたデジタル・シンセにはあえて背を向けて(全く使っていない訳ではないですが)、ジュピター8等の重厚な音のするシンセをメインに使い、場合によっては当時陳腐化していたメロトロンも併せて使うなど、ここでも重厚な伊福部サウンドに忠誠を誓っているあたり井上のこだわりを感ぜずにはいらません。
 最後に前段の物言いとは矛盾するかもしれませんが、これを一聴し「ゴジラのテーマ」が「怪獣大戦争のテーマ」がロック・ビート風なドラムをともない、緻密なシンセ・オーケストレーションで聴こえてきた時、「いやぁ、ゴジラの音楽って今でも生きているんだな」は感動したものです。モノラルの貧弱な音質だったせいもありますが、既に「過去のモノ」となっていたこれらの音楽を、控えめながら現代に蘇生させてくれたこのアルバムに、今もって愛着を感じている人もけっこう多いのではないでしょうか。もちろん私もそのひとりでありますが。
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伊福部昭 モスラ対ゴジラ (Soundtrack)

2006年02月12日 02時44分05秒 | サウンドトラック
 先生が作った特撮映画関係の音楽でもっとも好きなの作品のひとつががこれ。この作品はゴジラ映画としても最高傑作の部類ですが、昭和39年という先生の映画音楽の全盛期ということもあって、スケールの大きなオーケストレーション、魅力的な旋律の数々、縦横に張り巡らされたモチーフの完璧な配置などなど、まさに先生が映画という土俵でとった横綱相撲といった趣の作品であります。

 冒頭の「メインタイトル」は、いきなりピアノをひっかく音なども取り入れた衝撃的な音響によるショッキングなサウンドに始まり、すぐさまゴジラ出現のテーマををメインにしつつ、わずかに2分間にこの映画にちりばめられた印象的なモチーフを凝縮しています。なにしろこのメインタイトルがいいです。この映画で実は前半30分過ぎまでゴジラは全く登場しない訳ですが、その分、このメインタイトルでもってゴジラが暴れさせている訳で、音楽面でゴジラ映画として見事にバランスさせているあたり、さすがであります。
 映画の前半では「モスラ受難のテーマ」と僕が勝手に読んでいるモチーフと「聖なる泉」に連なるモチーフが印象に残ります。前者はモスラの卵が漂着する場面等に、後者はザ・ピーナッツが演じる小美人が登場する場面に使用される訳ですが、いずれもこの映画のヒューマンなタッチを盛り上げています。また「マハラ・モスラ」のテーマの変形である「モスラ去る」の哀愁に満ちたメロディーも忘れがたいものがあります。

 中盤ではなんといっても倉田浜干拓地でゴジラが土中から登場する名シーンで使用された「ゴジラ出現のテーマ」でしょう。このモチーフは第1作から現れているものですが、第1作ではまだ萌芽のように形があまり定まっておらず、前作の「キング・コング対ゴジラ」でようやくはっきりとした形をとった訳ですが、名実共にゴジラのテーマとなったのはやはりこの場面からでしょう。そういう訳でここからしばらくはこのテーマが音楽面でも支配的です。
 そして後半になると、このゴジラのテーマとモスラ関連のモチーフを縦横に組み合わせた圧巻の音楽となります。ことに有名な8分にも及ぶ「幼虫モスラ対ゴジラ」の音楽は、その気宇壮大なスケール感はもちろんですが、同時に表現される一種の悲愴感が素晴らしく。ワンアンドオンリーな伊福部ワールドをたっぷり堪能させてくれるのです。

 ちなみに作品は私の音楽的ルーツのひとつであります。私は5歳の時、この映画を愚兄に連れられて映画館でリアル・タイムで観ていますが、その時の印象はかなり強烈なものがあったにせよ、まさかそれが音楽的ルーツになっているとは思いもよりませんでした。同じ年に私はもうひとりの愚兄がビートルズに熱中していたおかげてビートルズという音楽的洗礼を受けたおかげてルーツはそれだとばかり思っていたのです。ところが80年代になって久しぶりにこの映画を観て、私はこれらの特撮映画に実は伊福部音楽を聴いていたことを知ったのでした。
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伊福部昭 SF特撮映画音楽の夕べ/汐澤&東京SO

2006年02月11日 19時03分47秒 | クラシック(20世紀~)
 1983年の「SF交響ファンタジー」の初演の記録です。『我々、伊福部ファンは耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、この日を一体何十年と待ったのであろうか。それがついに長年の夢が実現したのである。伊福部昭の特撮映画音楽をフル・オーケストラで聴けたのだ』当時の興奮はこのライナーの一文が全てを物語っています。先生の映画音楽をフル・オーケストラで聴きたいというのは、今なら十分に実現可能な企画ですが、当時は全くそうではなかったんですね。いくつかの特撮映画がオールナイトにかかり、異常なほど人気が高かったため、昼間にロードショー扱いでシリーズ的に上映される、何種類かのサントラの発売、井上誠のシンセによる伊福部作品集「ゴジラ伝説」の登場、そして「ゴジラ」の復活....という流れの中で、このコンサートは実現したのです。これはその時のライブ盤です。

 選曲は、先の「伊福部昭の芸術4」と全く同じで、おそらく演奏の質や解釈、音質といった意味でも「芸術」の方が、より普遍的な伊福部音楽に近づいた、格調高いある意味スタンダードな演奏といえますが、個人的にはなんといってもこのライブ盤の演奏がしっくりきます....というか、初めて聴いた時の衝撃が大きく、またその後、長いことこの演奏による「SF交響ファンタジー」に馴染んでしまったというべきかもしれませんが、とにかく個人的には「SF交響ファンタジー」といえば、このアルバムに尽きるという感じなんですね。
 演奏はひとくちにいって非常にエキサイティングなものです。「芸術」の演奏をスタンダードだとすれば、こちらは早いところfより早く、遅いところは悠々と歌うという振幅が大きなところに特徴があります。おそらくこれはこの曲を「伊福部音楽」というより、「特撮映画音楽」として解釈したことによるものと思われますが、第1番の後半、有名な「宇宙大戦争」と「怪獣総進撃」が交互に現れる部分をやや前のめりなリズム感でもって煽るように演奏しているあたりにそれがよく現れています。

 それにしても、第1番でいきなり「ゴジラ出現のテーマ」が鳴り出した時はまさに衝撃的でした。それまでの私はモノラルで収録されたお世辞にも良好とはいえないサントラで聴いていた訳で、当時はしりのデジタル録音でワイドレンジに収録されデモ的効果を眩惑された点はあったにせよ(ライブで、かつ2ch一発録りだったらしくスタッフもかなり気合いが入っていたようです)、全合奏のマッシブな迫力、各種打楽器の存在感ある意味違和感すら感じましたし、異常なほどの解像度で再現されたオケの細部を聴くにつけ、こんなに「こんなにも情報量があった音楽だったのか」と驚嘆したりもしました。第1番の中盤あたりに登場する「地球最大の決戦」の部分は、個人的に非常のノスタルジックな気分になるところですが、弦のトロモロ、ハープが絡んで華麗に展開するあたり、単にバーバリックなだけではない、この曲の別の側面を見たような思いがしたものです。ともあれ、こういうの発見や驚きが、第1番から第3番まで延々と続いた訳で、当時の興奮はまさに尋常ならざるものがありました。おそらく当時の伊福部ファンはみんなそうだったのだと思います。

 ともあれ、このレコードがそこそこのヒットを記録したおかげで、その後、オケによる先生の映画音楽をぼちぼちと制作されることになり、「ゴジラ対キングギドラ」では遂に先生が現場に復帰して、そのサントラも続々とCD化されるなど、先生の映画音楽を今日的音質で聴くことも珍しくなくなっていった訳ですが、それもこれも全てはこのアルバムが出発点だったということになるんでしょう。その意味でこれはやはり忘れられないアルバムであり音楽です。
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伊福部昭の芸術4 SF交響ファンタジー/広上&日本PSO

2006年02月11日 17時49分47秒 | クラシック(20世紀~)
 こちらは目下先生の作品ではレコード化、演奏会とも頻繁に演奏される知名度という点では最も高いものといえるでしょう。先生が50~60年代に残した膨大な東宝特撮映画の音楽を接続曲風に構成して、各々十数分程度の3つの組曲にしたものです。特に第1番は現在までおそらく10種類以上の演奏がCD化されているようで、もはや現代日本の人気オーケストラ・ピースといってもいいような作品になっているとすらいえるかもしれません。この曲が初演された83年の頃の先生の作品、特に映画音楽の評価の低さ、不遇さから思えば、隔世の感があります。

 もっとも、この曲に対する先生の想いは、おそらく複雑なものがあったであろうことは想像に難くありません。先生の創作の中心はあくまでも「シンフォニア・タプカーラ」 等の純音楽の分野であって、片手間といっては語弊があるものの、この種の音楽はやはり収入源としてやっていた面が大きかったはずです(とはいえ、先生なりに音楽として筋を通したエピソードには事欠きませんが)。
 そもそも映画音楽はその性格上、本来の創作であれば、当然自分が扱わないであろう感情や心理、風景やシチュエーションといったものが要求されます。先生のような音楽的自我が強固な音楽家の場合、こうした「音楽的枠」は非常に厳しいものがあったはずですが、意外にも先生はモチーフの再使用や自作からの流用なども含めて実に大らかに音楽を作っています。当時はよほどのことがなければ、サウンドトラックがレコード化などされなかった事情もあるかとは思いますが、やはり先生にとってこれらの音楽は「上映中のみに有効な映画のパーツ」というか、ある種「消耗品」として、ある種の割り切りの上で創作されたと思います。だからこそ、これらを他の伊福部作品と並べて、演奏会やアルバムとして公表にするには、抵抗感があったと思うんですね。

 そんな訳で、先生にとってはある種複雑な想いにかられる作品ではあるとしても、この作品はあまりに抗しがたい魅力に溢れています。私のように高度成長期にゴジラ映画をリアル・タイムで体験できた人間にとってはある種のノスタルジーという側面もあるでしょうが、こうして20余年に渡って、演奏され続けられているのは、もはや音楽そのもの魅力があったとしかいいようがありません。
 評論家風にいえば、先生の特撮映画の音楽というのは、伊福部音楽に内在する様々なダイナミズムを極端な形でデフォルメし、それを通俗化、単純化したものといえます。この作品が映画を離れてなおかつ魅力があるのだとすれば、どうもそのあたりに人気の秘密があるのではないかと、ここ10年くらい私は思っているのですが、これはいずれ詳しく書くこともあるでしょう。ともあれ、様々な先生の作品に接しつつも、気がつくとここに戻ってしまうという、私にとってはまさにバイブルのような作品がこれなのであります。
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伊福部昭の芸術3 舞踏音楽の世界/広上&日本PSO

2006年02月11日 12時27分49秒 | クラシック(20世紀~)
 第3巻は舞踏音楽の世界と題して、1948年の「サロメ」が収録されています。題材がオスカー・ワイルドの「サロメ」というお馴染みのものに加えて、その後、舞踏家貝谷八百子とのコラボレーションということで、何作かある先生のパレエ音楽の中でも(ちなみにこれは第3作目)突出して記憶に残る作品といえるでしょう。また、先生の諸作の中では、純音楽作品と馴染み深い映画音楽とのほぼ境界線にあるような作品上の性格もあり、近年にわかに評価を上げている作品のような気もいたします。私はこの曲については、それほど聴き込んでいる訳ではないので、自分用のメモということで主要な曲を拾っておきます。

 01「前奏曲」は勇壮ですが悲劇なムードに満ちたファンファーレ風な音楽、続く02「ヘロデ王宮殿内の広いテラス」は弦のトレモロにオーボエがデジャブを誘うような短い旋律を歌う短いものの先生らしいもの。03「サロメの召使、ユダヤ人、ナザレ人など 」は、東洋風にエキゾチックな旋律をメインにしたゆったりとした音楽で前半部分のしめやかなハイライトとなるんでしょうか。ちなみにこのムードは映画音楽でいえば、「ファロ島」とか「ムー帝国のテーマ」あたりと共通するものです。場面が替わって05「ヘロデ王と王妃ヘロディアス、及び廷臣たちの登場」は、「黒部谷のテーマ」と「海底軍艦竣工テーマ」の併せたようなファンファーレに始まりますが、バレエのドラマ的な要請だったんでしょう以降は心理劇風な音楽になります。06「サロメ登場」のは、先生の静の部分が良く出たハープと木管の絡みを中心に続く非常に美しい音楽。07「ヘロデは、もうサロメから目線を外さない}は「キンクコングの逆襲」でファンには忘れがたいあの陶酔的ともいえる旋律です。09「ヘロデ、サロメ、ヘロディアス」はいかにも先生らしい律動を感じさせる激しいアレグロ音楽です。

 11-17はRシュトラウスの音楽でも有名な「7つの踊り」の部分となります。「第1の踊り」と「第2の踊り」は、02と同様な弦のトレモロに木管がデジャブを誘う旋律を奏でる幻想的なもの。「第3の踊り」と「第4の踊り」は「ゴジラのテーマ」だとか「海底軍艦の挺身隊のテーマ」が今にも出てきそうなダイナミックに躍動して、先生の映画音楽が好きな私のような人間なら驚喜しそうな音楽です。「第5の踊り」は一旦静まって、エスニックでエキゾチックなテーマがワルツっぽいリズムを伴って優美に演奏されます。「第6の踊り」と「第7の踊り」は再びダイナミックな律動が支配する音楽で、後者はおそらくバレエのハイライトとなるべき場面でしょう。
 20-21は例のヨカナーンの首のシーンですが、これはファンにはお馴染みの「ラドン」の登場する音楽とほぼ同位置なのにぎょっとしたりしますが、全体は急緩の繰り返しでドラマ的なハイライトが形成されているようです。2回目の緩の部分は非常に美しい音楽でとても印象的です。そのまま続く、22-26は狂乱するサロメが殺されるまでの音楽で怒濤のような勢いで進んでいきます。オリジナルではここでダンサーが踊る場面が入れられてしたようですが、この改訂版では一気にエンディングで雪崩れ込んでいくのは、確かに音楽的には正解だと思います。

 フィルアップに収録された「兵士の序楽」は、その詳細について先生も余り語りたがらない、陸軍に委嘱されたらしい一種の国策音楽のようですが、内容的には「バラン」で初めて登場し、その後いくどとなく登場する伊福部マーチそのものですから、ファンには至福の8分間といえましょう。

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