Blogout

音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

素晴らしき日曜日(黒澤明 監督作品)

2009年08月31日 19時26分28秒 | MOVIE
 「酔いどれ天使」の前作にあたる1947年の作品。これも敗戦直後の風俗が舞台になっている-当時の-現代劇という点では、「酔いどれ天使」「野良犬」「醜聞」といった一連の作品と同じだが、これまた趣は全く異なる。ストーリーらしきものはほとんどなく、貧乏な生活をかこっているカップルが、唯一会える日曜日のデートを様々なエピソードを通じて綴っているものだ。カップルの持っているお金は35円、今でいったら2000円くらいだろうか、貧乏故に気持ちも暗くなりがちな男(沼崎勲)と健気な明るさで男を励ます女(中北千枝子)が、貧乏であるが故に様々な苦境に遭遇しつつも、ふたりして希望を取り戻す夜を迎えるというものだ。

 劇中では、後年のニッセイのおばちゃん中北千枝子がとてもチャーミングだ。後年のイメージとは大分違って、この頃はずいぶんとふっくらとしているが、あの独特のメリハリのある口調はこの時期からのもので(同一人物なんだから当たり前か)、屈託のない明るさと誠実な人柄を感じさせる役柄を爽やかに好演していた。あんまり美人でもないが、それがかえってリアルだったりもする。こういうキャラクターである故に、アパートやラストの泣き崩れたり、観客に向かって涙ながら訴えるシーンの切実さが生きてくる訳だ。とにかくとても魅力的で、この映画のかなり部分を彼女のチャーミングさが支えていると思った(アパートのシーンなど如実に表れる貞操観念などが特にそうだが、我々が既に忘れかけている「慎ましい日本女性らしさ」のなんとも魅力的なことか、それに比べ男は今も昔も意外と情けない-笑)。

 あと、随所に登場する敗戦直後の風景も既視感を誘うような懐かしさがあっていい。上野や有楽町、あと日比谷とおぼしき街をこの若いカップルが闊歩したり、雨の中を駆け抜けていくシーンなどとても印象的だ。あと有名な最後のシーンだが、今の視点から見ると、あの「都会のファンタジー」は、自分にはいささか直球過ぎた感がなくもないが、中北千枝子の名演技もあって、やはり印象深いものがあるのは確かだ、おそらく一度みてネタを知ってしまえば、次はかなり楽しめるのではないか?(数分間にまとめた「未完成」のアダプテイションもいい)。
 という訳で、演出などまだまだ戦前臭さというか、ひなびたところがないではないが、全体としては「愛すべき小品」といったところで、観終わった後、なんだかとても爽やかな気分にさせてくれた映画である。
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民主圧勝、政権交代へ

2009年08月30日 23時32分52秒 | others
 私は現在こそ自民党支持の保守的な人間だが、結党時の民主党についてはけっこうなファンであった。ただし、あれだけマスコミの応援を受けながら、ついぞ政権をとれる気配がなく、ひたすら運営が迷走し続け、無様なアクシデントが何度も続いた挙げ句、例のメール事件の時あたりをピークにして、「もう、こんな稚拙な連中に政権などまかせられるかぃ」と、最終的に見限ってしまったのであった。なので、今回の結果は多少はニヤリとするところあるものの、前述のメール事件の時とか、近いところでは西松献金の時みたいな、日頃自民を責め立てている時のご立派な筋論とは全く裏腹な対応をみていると、「どーせグデグデになって信用落とすのが関の山じゃねーの?」ってな、期待するだけ無駄的な諦め感の方が強い。

 とはいえ、どこかの某元総理ではないが、かの政党は政権とるために選挙前にずいぶんとおいしいことを沢山並べていったのだから、これをいったいどんなマジックで実現するのか?。また、今後すぐに目白押しの政治日程をさしあたってどう切り抜けるのか?。これまで予算をどう処理するのか?。ネックであろう外交、防衛、憲法問題が顕在化したら?。ついでに、かつての社会党なみに反対のため反対をしてきた民主に対する、あからさまな自民党の報復も始まること必定で(笑)、これらもろもろひっくるめて、今後一体どう政権運営をしていくのだろう?。

 いずれにしても今回の結果は、「世論が民主を支持した」というより、明らかに「自民政治の閉塞状況を打破したい」という民意なのだろうと思うから、民主が例のグデグデをさらけ出したりすれば、なにしろこの国の「振れやすい民意」はすぐ変わるハズで、政権とったはいいが、いきなりあぶない綱渡りを強いられることになる訳だ。そのあたりけだし見物....などといっては失礼だが、まぁお手並み拝見といったところである。まぁ、個人的にはこれが政界再編成につながってくれたりすれば....と希望したりしているのだけれど。

 それにしても、安部政権以来の(福田総理時は除く-笑)、椿事件の再現の如きマスコミのネガティブ・キャンペーンは実にひどかった。あれが適正な報道だというのなら、どうか次の総理に対しても、漢字の読み間違いだの、夜どこで飯食ってそれがいくらだのといった次元の些末な問題や、言葉尻をあげつらってブレたブレたとうれしそうに取り上げていた、愚劣なテレビのワイドショーだのなんだので、是非とも大々的にとりあげていただきたいものである。建前にせよ、なんにせよ公正中立を謳い、不平等を糾弾するマスコミならば、そうするのが筋というもんだろう。
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醜聞(黒澤明 監督作品)

2009年08月30日 18時43分17秒 | MOVIE
 先日観た「羅生門」の前作に当たる1950年の作品。こちらの松竹で製作されている。出演陣は三船、志村に加え、小沢栄太郎、左卜全、千石規子といったところで、まぁ、いつも布陣といってもいいような感じだが、今ひとりの主演格として山口淑子が出てくるのは松竹らしいところなのかもしれない。物語は次の時代劇の「羅生門」とも刑事物の「野良犬」ともかなり趣が違っていて、いわゆる「マスコミの暴力」がトリガーとなってこの物語がはじまる。大筋としては、旅先で出会った若い画家とオペラ歌手がたまさか同じ旅館にいたことから、カストリ雑誌によってゴシップ記事を書かれスキャンダルに....、やがてそれはカストリ雑誌を相手どった告訴にまで発展するが、当の画家が雇った弁護士は、人間的な弱さから被告側とも通じてしまう....といった、今に観てもかなりモダンなストーリーになっている。

 ともあれ、本編における「マスコミの暴力」はそれほど強烈なテーマになっていない。特に後半は志村喬扮するしょーもない弁護士の行状に振り回される主人公らが醸し出す人間くさいドラマが主眼になっているが、基本的にはそれほど深刻でも、醜悪でも、悲劇的な訳でもなく、主人公達もどっちつがずでうろうろしているようなところがあり、黒澤作品らしいドラマトゥルギーを期待していたこちらとしては、妙に淡々としているところが気にかからないでもなかった。
 また、後半はこの時代の映画としてはめずらしい裁判所が舞台となるが、主人公達の敗訴が決まりかけたところで、意外な展開となるあたりは、明らかにフランク・キャプラ風なバタ臭さがあって、意外なおもしろさを見せる。バタ臭さといえば、映画に登場するアイテムもバイク、画家、オペラ歌手、クリスマス・ツリー、クリスマス・パーティー、ほたるの光、星....などなど明らかに当時に日本映画らしからぬ舞台道具が揃っていて、この映画のバタ臭さを倍加していた。

 という訳で、一見したただけだが、個人的にはイマイチといったところか。昭和20年代中盤の風俗を観れるのは楽しいし興味深いのだが(昭和25年の日本でクリスマスという風俗があれほど普及していたのはちと驚き)、マスコミの暴力に対する怒りもきっかけに過ぎないし、弁護士を含む主人公達の行動がどうも終始ドラマ的に煮えくらない感じがして、今一歩盛り上がりに欠けるような気がするのだ。松竹の制作だから、アメリカ風で都会的なヒューマニズム作品を撮ろうとしたが、思いの外、黒澤的な苦味が出てしまい、そのあたりをうまく収束させることができず、ドラマとしてはちとメリハリがないものになってしまった....といったところかもしれない。
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デヴィッド・ヘイゼルタイン・トリオ/不思議の国のアリス

2009年08月29日 16時21分25秒 | JAZZ-Piano Trio
 ヴィーナス・レーベルでデビッド・ヘイゼルタイン・トリオはかなりの数のアルバムを出しているが、この作品は確か2004年にリリースされた3作目である。第1作は2年ほど前に取り上げた、ビル・エヴァンス縁の曲を演奏した「ワルツ・フォー・デビー」だったが、今回はそれと同じベースにジョージ・ムラーツ、ドラムスがビリー・ドラモンドというリズム隊を従えたフォーマットによる、やはりエヴァンス絡みの曲を演奏集だから、ほぼあれの続編といってもいいと思う(ちなみに2作目の「パール」はワン・フォー・オールのメンツからピアノ・トリオだけ抽出したような作品だった)。
 演奏スタイルは、ほぼ「ワルツ・フォー・デビー」と同様で、ビル・エヴァンスのような印象派風な色彩、耽美的なムードはないけれど、往年のエヴァンス・トリオ的なベースをフィーチャーしたインタープレイも随所に取り入れたオーソドックスな演奏である。なにしろ、相方がムラーツとドラモンドだからしてリズムは安定感抜群、そこにヘイゼルタインのフレージング、リズムの切れ、ブルース的な香りなどなど、ジャズ的感興には事欠かないプレイがのるから、全体は非常に聴きやすい仕上がりになっている。いずれにしてもヴィーナス・レーベルらしい「日本人が好む最大公約数的ジャズ」趣味がよく出た作品だ。

 タイトル曲や「星に願いを」は上品でエレガントな曲で、アルバム中でももっともエヴァンス・トリオ的な作品になっているが、これがヘイゼルタインらしいのかといえばちょっと躊躇するところもないでもない。また耳タコの「枯葉」はいきなりベース・ソロに始まる絡め手のアレンジ。さしあたって「ビューティフル・ラブ」「愛は海より深し」「テンダリー」3曲あたりが、演奏のテンションといいアルバム・コンセプトからいっても聴き応えある作品のような気がした。また、ピアノ・ソロで演奏される「ダニー・ボーイ」の抒情もなかなかである。
 それにしてもデビッド・ヘイゼルタインという人、音楽のシチュエーションや製作サイドの狙いや要求に応じて、とても的確、かつ過不足のないプレイをする人である。従ってこういう「日本発洋楽ジャズ」にはまさにぴったりの人選だとは思うのだが、極上のBGMたり得るが、スタンダローンなジャズとして聴くには、今ひとつ「決め手に欠く」ような気がしないでもない。器用さをセールスポイントにするのではなく、たまには「いきりたったヘイゼルタイン」が聴ける、例えばライブ盤を企画してみるというのも悪くないのではないか。
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連合艦隊司令長官 山本五十六(丸山誠治 監督作品)

2009年08月28日 23時51分21秒 | MOVIE
 東宝8.15シリーズの第2作。第1作はいうまでもなく「日本のいちばん長い日」である。この「8.15シリーズ」というのは何本あるのか、いつまで続いたのかイマイチはっきりしないのだが、とにかくこの映画は公開当時、けっこうな話題になっていたような気がする。公開当時の私はまだ小学校の3年生くらいだったはずだが、主に円谷特撮が注目されたのだったにせよ、少年マガジンとかに大きく取り上げられていたように記憶しているし、その他いわゆる超大作っぽい派手な話題が、当時子供だった私にもあれこれ聞こえてきたのだろう。映画そのものを観た訳ではないのだが。白い軍服を着た三船敏朗の凛々しい姿はよく覚えている。ひょっとすると第二次大戦中に「山本五十六」という名の名将がいたこともこの映画で知ったのかもしれない。

 さてこの作品、シリーズとはいうものの、要するに「毎年夏に公開される東宝の第二次世界戦をテーマとした映画」という程度の関連で、モノクロでドキュメンタリー・タッチのシリアスが横溢した第1作の「日本のいちばん長い日」に比べると、仲代達也のナレーションに佐藤勝の音楽は共通しているから、多少は共通する雰囲気がないでもないが、こちらはカラーのワイド画面で綴れる、スペクタクルな特撮を交えつつ、山本五十六の人となりを主体とした劇映画といった風情で、雰囲気も性格もかなり異なる仕上がりとなっている。監督の丸山誠治は、寡聞にして私は初めて耳にした。フィルモグラフィーを調べてみると、この手の戦争映画以外ではホームドラマ系の作品が多いようで、私はほとんどみたことのない作品ばかりであるが、そういう経歴を反映しているのか、この作品も全体に声を荒立てたり、いきりたつような演出が全くなく、終始落ち着いたムードで、淡々として....と形容したいようなムードで進行する。このあたりをどう見るかは人それぞれだろうが、わたし的には真珠湾作戦の成功の高揚感にせよ、ミッドウェーの悲劇的敗北にしても、もう少しメリハリのあるドラマチックな演出をして欲しかったと思わないでもなかった。

 主演は三船敏朗で、はっきりいってしまえば、この人にための映画のようなもんだろう。前述のように白の軍服を着て軍や会議を指揮する様は非常に凛々しく、本物の山本五十六の姿を覆い尽くしてしまうほど印象が強烈だ。ただ、先に書いたようにあまりに性格が温厚すぎて、パッショネイトなところがあまりないので、三船のキャラが不発に終わっているところがないでもない。その他、キャスト的には東宝オールスターであり、おなじみの面々がづらりと登場するのは楽しい。あと、女学生くらい年頃の役で若き日の酒井和歌子が観られたのはうしかった。なにしろこの時の彼女は星由里子を引き継ぐ東宝青春スターになりかけていた頃だったハズで(若大将のヒロインも彼女にバトンタッチされるのはこの頃だったハズ)、そのキュートさはなかなかであった。
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FFXI <赤魔道士のリハビリ>

2009年08月27日 20時38分47秒 | GAME
 先月の終わりくらいのからくり士のスキル上げがカンストした後、からくり士の聖地(?)カンパニエで、ちまちまとメリポを稼ぐつもりでいましたが、なんとカンパニエが激変!。ユニオンという新しいルールが導入され、カンパニエ終了後、戦利品が抽選でもらえるようになったせいだと思われますが、タイマンでポイントと戦利品を稼ごうという強者たちがにわかに集結して、以前は閑古鳥が鳴いていたはずのカンパニエが、今ではどのエリアも大混雑です。しかも我れ先にとばかりに、砦のはるか前方まで出ていってモンスターを殲滅してしまうので、今まで通り砦でぼんやり待っていても、敵の来襲がないまま終了....みたいなパターンが多くなり、どうもこれまでのようには稼げなくなってしまったような気がしまう。

 そこで、これまた一念発起ということになるのかな?。赤に復帰して、メリポ稼ぎを始めることにしました。なにしろ。からくり士をメリポでフルに強化したいとすると、格闘に8段で21、カテゴリー1の魔法戦スキルと白兵戦スキルに5段で計30、カテゴリー2で黒衣チェンジ腹話術に各1段、微調整3段、最適化5段で40に割り振るとすると総計91ポイントが必要になり(ついでにいえば、戦ナ黒青の振ってない分を合わせると、それにプラス34くらい必要になりますか)、小一時間やって良くて3000ポイント程度になってしまったカンパニエでは、ちと途方もない期間が必要になってしまうことになり、こうなったら久しぶりにメリポパーティーても入れてもらって一気に稼いでしまおうというもくろみです。

 とりあえず、先週末あたりからレベルシンクだの、外人さんのパーティーだのに選り好みせず(笑)に、どんどん参加していますが、高レベルもしくはメリポ・パーティーではたぶんもっとも忙しいジョブのひとつである赤魔道士の立ち回りを思い出しながらやっているという感じ。なにしろ2年振り、相手はおなじみのインプ、コリブリ、マム、プークなどですが、こちらはけっこうアタフタしちゃってます。それにしても今の前衛さんは凄い、翡翠廟前だろうが、タンジャナであろうが、回避の高いシフマムなどどんどん殲滅しちゃいますからね。逆にモンスのポップが間に合わないこともしばしば....というのが凄いです(あれみちゃうと自分がもってる戦士とかもう絶対出せません-笑)。

 先日はタンジャナでチェーン100オーバーなんていうのを久しぶり体験しましたが、昔のように全員青筋たててギラギラしながらやるというのではなく(自分は久々だから必死ですけどね-笑)、楽々とつなげてしまっているという感じ。それにしても、今の高レベルパーティーは回復が赤ひとりとかいう前衛の頭でっかちな編成が多いなぁ。4人にヘイスト回して、弱体、回復、寝かせとか、けっこう疲れますね。以前は必ずいた白さんとかほとんど遭遇してないの時の流れを感じさせます。まぁ、その分、稼げるからいいんですけどね....。という訳で、現在からくり士のメリポ強化74/91くらい、一日3,4ポイントづつくらいのぺースかな。やっぱこれはじめると早いですね。
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早坂文雄/七人の侍、羅生門

2009年08月26日 23時50分52秒 | サウンドトラック
 ずいぶん前-たぶん10年くらい前-に購入してきたものであるが、このアルバムがスコア盤だったことに初めて気がついた。ひょっとすると、今回、初めて聴いたのかもしれない。指揮は早坂の弟子筋にあたる佐藤勝、オケはシネ・ハーモニック・オーケストラというスタジオ・オケ、コーラスは東京混声合唱団で1974年に収録されている。74年だから当然アナログ期で、初出は当然アナログ盤だろう。けっこう昔のアルバムな訳だ。映画音楽のスコア盤というジャンルは、日本だと80年代以降の伊福部先生のものが草分けくらいに思っていたのだが、日本でもこの時代からあったというのはけっこう驚きである。なにしろ、チャールズ・ゲルハルトがナショナル・フィルを指揮したコルンゴルトのスコア盤の登場が70年代前半だったはずだから、「さすが黒澤作品は格が違ったと」いったところだろうか。

 さて、内容だが「七人の侍」と「羅生門」がそれぞれ二十数分程度の組曲で収録されている(おそらくアナログ盤では旧ABに割り振られていたのだろう)。前者はかろうじてサウンド・トラックが残っているためサントラ部分のみがCDでも聴けるが、後者は現在ではフィルムしか現存していないのだろう、CDではセリフも入ったフィルム起しの音源しかないため、これの存在は非常に貴重である。
 で、実際に聴いてみると、とにかくオリジナルとの雰囲気のあまりの違いに驚く。オリジナルのナローだが、おどろおどろしい迫力に満ちたやたらと太い音に比べると、こちらは透明感あふれる繊細さに満ちた音楽になっており、その音の質感、雰囲気の違いは腰を抜かすほどだ。「七人の侍」冒頭の音楽など映画だとエスニックな太鼓が単に暴力的にドンドンとなっているだけみたいに聴こえるが、実は様々な楽器が重なり形成された非常に複雑なサウンドだったことが分るし、「菊千代のマンボ」はこれで聴くと、本当はマンボだったことが良く分かるといった具合だ。
 「羅生門」に至っては、その雅やかな雰囲気とボレロのヴァリエーションなど、大げさにいえばこれでもって、ようやく自立的音楽的としての全容が明らかになってのではないか....といえるくらいに、このクリアなサウンドのおかげで、早坂の作った音楽的意味(ついでにいえば、意外にも西洋的でモダンなオーケストレーションであったことも)がよく分かるものになっている。

 まぁ、こうした「録音方法の進歩により高音質化→ディテールの明確化→聴こえてくる音楽の様相が一変して驚愕」といったプロセスは伊福部先生のゴジラなどでも既に経験しているけれど、この落差はそれ以上に大きい。ひょっとすると録音に当たって、佐藤勝が補筆しているというような可能性もあるかもしれない。そういえば随所に佐藤勝らしいドライな音響やモダンさを強調したようなところがないでもないし。
 という訳で、1974年といえばもう35年も前の録音ではあるものの、劣悪なオリジナル音源(黒澤映画のサントラは特に音が悪いと思う)に比べれば、きちんとしたステレオ録音で演奏が残されているだけでも貴重である。比べれば、きちんとしたステレオ録音で演奏が残されているだけでも貴重である。
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BlogOut in 勝浦

2009年08月25日 23時32分21秒 | others
 本日、仕事で午後から勝浦市に行ってきた。昨今、勝浦といえば逮捕された酒井法子の別荘がある町として有名だ。私はその手のゴシップ記事にはほとんど関心がないので、よく知らないが、かの別荘でこの夫婦は相当に奇矯な行動をとっていて、付近ではけっこう有名だったらしい。地元の人に聞くと、事件以来、この別荘を物見遊山で見に来る出歯亀は、後を絶えないとのことだ。最近、私がよく出没しているTwitterなど、現地ルポみたいな書き込みが一杯あったようだし、くだんの別荘はネット出歯亀共にも格好の狩猟ポイントになっているようだ....などと、この別荘を見に来た訳ではないのに、ひとしきり地元の担当の人とこの話で盛り上がってしまう私も存外出歯亀ということか(笑)。

 さて、この勝浦市、県内では海水浴などで夏はたいそう賑わう町なので、今日も駅前は観光客でさぞや盛況なことだろう....などと、なんとなく楽しみなような、でも鬱陶しいような気分で、勝浦駅で下車したのだが、豈(あに)図(はか)らんや、観光客だの、海水浴客などまばらもいいところ、実に閑散としたものだった。やはり、こういうところはお盆が終われば、夏も終わりということなのだろうか(そういえば20日には南房総市の白浜にもいったが、海岸通りはやはり閑散としたものだった)。今年は梅雨も明けたような明けないような、冷夏なようなそうでもないような、すっきりしない日々が続いたが、お盆が終わって、ここ数日ぐっと気温も下がり、エアコンなしでも平気なくらいだ。2009年の夏もそろそろ終わりである。
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野良犬(黒澤明 監督作品)

2009年08月24日 23時09分11秒 | MOVIE
 これは初めて観る作品。しばらく前に観た「酔いどれ天使」と先日の「羅生門」のだいたい真ん中くらいに位置する(醉いどれ天使→静かなる決闘→野良犬→醜聞→羅生門の順)1949年の作品である。当時は東宝争議から映画芸術協会設立の時期だったので、東宝ではない製作だが、新東宝で作られたせいか、主演の三船敏郎と志村喬の他、他のメンツも当時のレギュラーメンバーといえる布陣で作られているせいか、大映でつくられた「羅生門」のような京マチ子だとか森雅之といった意外な配役はなく、全体に「酔いどれ天使」などと同じくまっとうな「黒澤が作る東宝系な作品」というタッチである。

 ストーリーは終戦後の東京を舞台に、三船扮する若い刑事が真夏の暑い電車の中で拳銃をすられ、その後、その銃(コルト)によって引き起こされる強盗殺人が発生、責任を感じた刑事が、志村扮する老刑事とともに犯人をじわじわと追いつめる....というもので、三船の訳は同じアプレゲールでも「酔いどれ天使」とは全く対照的な聡明な若者という設定だが、映画そのものの雰囲気は、終戦後の風俗を克明に描写している点からして「酔いどれ天使」と非常に似通っている。
 また、この作品、いわゆる「刑事物」のはしりでもあるのだろう、リアルな捜査のプロセスや警察内での描写など、-いまからするといかにもいかにもだったりしないでもないが-その後の映画や手本となっているようなシーンが随所にあり、徐々に犯人に突き止めていくプロセスは、夏の暑い描写が妙にリアルなせいもあって緊迫感が漲り、実に見応えある作品であった。個人的には破滅的な「酔いどれ天使」より、こちらの方が好みかもしれない。

 印象的なシーンは、なんといっても前半の女スリを執拗に尾行するシーンと拳銃の売人を探してドヤ街を延々と彷徨うシーンだろう。この長いシーンで描かれたリアルな風俗描写は主人公の焦燥感とともに一緒に歩いているような生々しさがあって素晴らしく映像的な快感がある。途中出てくる野球場のシーン(後楽園?)では、川上哲治に青田昇といった当時のスター選手が登場するのはおもしろい。私の世代だと、川上は巨人の監督、青田は野球解説といったイメージだが、まだ彼らが現役としてやっていた頃の映像などをみると、「こんなに古い映画だったのか」と妙に感慨深くなったりもする。というわけで見応えがあった一本。さて、お次は何を観ようか?。
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J. McLAUGHLIN Trio/Live at The RFH

2009年08月23日 16時32分32秒 | JAZZ-Fusion
 マクラフリンに、カイ・エクハルトのベース、トリロク・グルトゥのパーカスというトリオによる1989年のライヴ盤。エクハルトもグルトゥ初めて聞く人だが名前からしてインド系のミュージシャンだろう。特にグルトゥはドラムスではなく、あえてパーカスとクレジットされているあたり、これまでやってきたシャクティを含む一連のアコースティック路線のトリオ版かと思わせるものがあるが、出てくる音楽は、確かにそういう部分がないでもないが、全体としては「普通のジャズ」もしくは「オーソドックスなフュージョン」に近い。何しろ1曲目はマイルスの「ブルー・イン・グリーン」をボサ・ノヴァ風に料理したパフォーマンスなのである。80年代を通じてマクラフリンは比較的大所帯のバンド編成による作品ばかりを残してきたが、どうも「これだ!」という作品を残せなかった憾みがあり、ここは心機一転「最小限の編成で、自らのギターの可能を追求する」みたいな方向に舵をきったのかもしれない。

 収録曲では、2曲目の「Just Ideas/Jozy」はギター・シンセを使い、ミステリアスなムードを演出しつつ、妖しげに進行する作品で、その後のマクラフリン・ミュージックにはけっこうおなじみになるパターンである。3曲目の「Florianapolis」はアコギに持ち替えて、あえていえばシャクティ的な世界を展開している長尺作品だが、グルトゥのパーカスもドラムスのパターンに近いし、ベースはジャコ・スタイルだし、れるようなスピード感で演奏しているので、あれほど抹香臭い感じではない。後半4分ほどは火が出るようにホットな演奏である。4曲目の「Pasha's Love」の込み入ったリズムで処理されたテーマが印象的でこれまた後半はかなり激辛な盛り上がりをする。5曲目の「Mother Tongues」はギター・シンセ等も使い前半はジャム風な展開、後半は瞑想的になりギターとベースが繰り出すリフの上をパーカスのグルトゥが縦横に暴れる。ラストの「Blues for L.W.」は比較的オーソドックスで都会的なリラクゼーションを感じさせるプレイに始まり、その後とんでもない展開にもっていく。

 という訳で、いささかインプロがダレ気味なところはあるが、全体としてはなかなかおもしろい作品だ。やはり、この「おもしろさ」のキモは、パーカスのトリロク・グルトゥだろう。ドラムスっぽいプレイはいわずもがな、インド風に隙間を埋めていくパーカス、ラストの「Blues for L.W.」ではヴォイスまで使ってまさに暴れまくっている感じだ。この奇妙なハイテンション振りはやはりユニークとしかいいようがない。マクラフリンはこういう人見つけてくるが実にうまい。このトリオはこのあとベースをチェンジして、スタジオ録音も残すのだけれど、このパーカスならさもありなんである。はて、そちらはどんな内容なのだろう?。
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羅生門(黒澤明 監督作品)

2009年08月22日 23時01分39秒 | MOVIE
 なんだが「黒澤週間」みたいになってきたが(笑)、土曜の夜のリラックスタイムを利用して、さきほど「羅生門」を観てみた。こちらは確か3回目くらいだと思う。ご存じの通り、本作は1951年のヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞したことによって、黒澤の名前が世界に広まったいわば出世作である(ちなみに東宝ではなく、大映の作品である)。タイトルの「羅生門」は、当然芥川の短編小説から来ているが、「羅生門」は全体の額縁程度で、本編は同じく芥川「藪の中」を映画化したものである。

 この作品のおもしろさは、誰もがいうことだが、登場する3人の人物によって異なる視点から、同じ出来事を全く違うものとして回想するという点にある。平たくいえば、登場人物である3人は全て自らが「自分が殺した」旨を裁きの場で告白してしまうので、観ている方は、真相はどうだったのか混乱するという具合である。もっともこれはラストで最初の目撃者がラストで告白する内容で、一応真実らしきものが見えてくるので、原作のような文字通りの「藪の中」的な不条理感はない。

 ただし、その分こちらはほとんど異常なほどに映像的な興奮があり、森の木々から垣間見れる太陽光線だとか、盗賊のレイプ事件を引き起こすきっかけになる「風」の描写、そして問題の「夫をどうして殺したのか」の場面は、三つの真相が映像が語られる訳だけれど、これがどれも非常に緊張感の高い、人間ドラマとして説得力の高い場面になっているのが凄い(しかし、これは全て嘘なのだが)。そして、皮肉なことに最後で語られる真相らしきドラマが一番、醜悪で惨めなものだったりするのは、「人はみな都合いい嘘をつくものだ」という本編のテーマを逆に補強しているようで痛烈である。

 という訳で、この作品毎回おもしろく観ているのだが、物語の語り口でおもしろさを感じるには、ちと文学性が高すぎるような気もするし、かといって、「どん底」とかああいう文学物とも位相が違うしで、どうもイマイチ決定打に欠ける気がしてしまうような気がしないでもない。うーむ、きっとこちらの読みが足りないせいだろうな(笑)。「七人の侍」のように回を重ねるごとに愛着や理解が増していくこともあるので、これも次に観るときはもっと「分かる」かもしれないし....。とりあえず目が覚めるほどに修復されたとかいう評判のブルーレイ・ディスクでも購入して、もう一度観直してみようかな。

 ちなみに出演者では、三船はいつもの野獣のようなキャラクターだが、今回は主演というほどではないし、ちと狂言回しのようにみえなくもない、主演はむしろレイプされる妻の役を演じた京マチ子の方だろう。彼女が黒澤作品に出たのはこれが大映で制作された故のことだろうが、少女のように清純であり、魔女のように狡猾でもある、こんな2面的な魔性の女を好演してる(時にゾクっとくるほど美しい)。
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アイリッシュ/幻の女

2009年08月21日 21時03分07秒 | Books
 以前にも書いたけれど、私は中学時代からひとかどのミステリー・ファン....いや、探偵小説ファンを気取っていた。高校時代ともなれば、探偵小説を読み漁るだけでなく、雑誌「幻影城」を定期購読したり、様々な評論を読んで読んでみたりと、今から思えばけっこう本格的なファンだったように思うが、やはり興味の中心は密室だの、アリバイ崩し、読者への挑戦....といった本格物にあって、サスペンス・ミステリ的なものにはほとんど感心がなかったし、あえて読んだとしても、自分的にはほとんど記憶に残らない作品ばかりだった。
 アイリッシュの「幻の女」はほとんど唯一、その例外といえる作品である。サスペンス・ミステリの古典ともいえる作品で、終戦直後にこれを読んだ乱歩が感激して「世界10傑に値する」とか激賞して、一躍知れ渡った作品だが、自分が読んだのはそういう理由によって、けっこう後、多分二十歳くらいの時だったように思う。当時の記憶はほとんどないが、トリックだのなんだのというより、独特の雰囲気と、死刑まであと何日というカウントダウンというせっぱ詰まったストーリー、そしてラストの大どんでん返しと....と、一気に読了し、「さすがにこれは名作だ」と膝を打ったことだけは覚えているのだが、それから約30年後の今日、ほとんど気まぐれこの本を読んでみた(よく自宅に残っていたよな)。

 さて、再読して感じたのは、冒頭の有名な書き出しに象徴されるように、この作品、ニューヨークの雰囲気がもうムンムンするように漂っていて、これがなんとも独特の雰囲気を醸し出している。作品のストーリーなどもさることながら、まずはこの雰囲気の中、かぼちゃ色の帽子をかぶった謎めいた女(この後「幻の女」ににる)に主人公が出会い、彼女とともにバー、食事、劇場、そして元のバーに戻るというエピソードが、様々な雑踏の描写ととも実にいい感じで描きだされている。私はニューヨークなど行ったこともないが、こういうストーリーはニューヨークであるが故のリアリティともいえそうで、実をいうと今回再読してこの部分にもっとも魅力を感じてしまった。
 ストーリー的には全く忘れていて、ほとんど初めて読むのとほとんど変わらないくらいだったが、主人公に変わって探偵役を務める親友、恋人が、やはりニューヨークを彷徨うように「幻の女」を探していくプロセスも、スリルとともにある種の詩情すら感じさせて読んでいて楽しかった。もっともラストは広げすぎた謎をちとまとめあぐねたようなところがないでもないし、「幻の女」の正体はそのままにしておいた方がよかったような気がしないでもないが....。いずれにしても、やはりこの小説、冒頭のエピソードがとにかく強烈に魅力的だ。
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佐藤勝/椿三十郎

2009年08月20日 23時54分07秒 | サウンドトラック
 「用心棒」のほぼ続編といっていい「椿三十郎」だが、「用心棒」とは舞台もストーリーもかなり趣が異なる。実はこの作品、上役の不正を暴こうと立ち上がった9人の若侍が主役で(加山雄三や田中邦衛はいるし)、三船扮する三十郎はそれに助太刀するという役回りではないか。ともあれ、9人の若侍と三十郎のやりとりがおもしろく、こういう部分は、もはやコメディタッチといってもいい仕上がりになっている。また、浮世離れした奥方と娘に対し、居心地が悪そうな三十郎とのやりとりも楽しい。ともあれ、アクションだとかサスペンスみたいなところは「用心棒」に比べ大分後退しているが、その分、こうした趣が華やかだし、活気もあって、なんだか、大昔の正月映画を観ている気にさせてくれる作品である。

 ともあれそういう明朗闊達な作品なせいだろう、音楽の方も「用心棒」ほどユニークさはないと思う。相変わらず、パーカスやブラスの印象的なワンショットやフレーズを散りばめて佐藤らしさはあるのだが、いかんせん若侍を表したと思われるメインタイトルの青春映画風な抒情を感じさせるテーマのイメージが強く、「用心棒」のような独特な乾いたユーモアだとか、シニカルさは今一歩といったところだろうか。ちなみに「用心棒」に登場した、ルンバみたいなリズムを使った三十郎のテーマは途中で多少ちらほら登場するものの、ほぼ完全な形で再現されるのは、ラストシーンである。メインテーマがしおらしく流れた後、一転してこのテーマが登場するあたりは、若侍を尻目に三十郎が後ろ姿でさっていく映画シーンにぴったりと合っていて、なかなかのカッコ良さ、痛快さがある。

 ちなみにサントラ全集に入っている「椿三十郎」のパートは、何故だか映画に使われていない、ドラムやベース、ギターなどが入ったコンポ・スタイルのポップス調のインストが収録されているのは何故だろう?。アメリカではこういうサントラを口当たりの良いインスト・ポップにして発売するようなことはしはしばあったようだけれど、これなどもそういう例なのだろうか。それにしても、いくら青春時代劇みたいな趣がある作品であったとしても、黒澤作品にこのポップなインスト作品はそぐわないと思う。全集にセレクションされたのは11分ほどだが、こんなの収録せずきちっとメインタイトルを入れて欲しかったと思うのは私だけだろうか。
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七人の侍(黒澤明 監督作品)

2009年08月19日 23時06分42秒 | MOVIE
 昨夜に続いて「椿三十郎」のサントラのことでも書こうかと思ったが、なんとなく勢いにのって(?)、今夜は「七人の侍」を観てしまった。こちらは4,5回目くらいだろうか。一般的に黒澤作品では、この「七人の侍」をもって最高傑作と推する声も多いのだが、個人的な感想だと、10年以上前、最初にこれを観た時は、それほどの傑作とも思わなかった、おもしろさという点では圧倒的に「用心棒」の方が上だし、スペクタクルな娯楽時代劇という点では「隠し砦の三悪人」の方が上出来などと思ったりした訳だけど、こちらもさすが折り紙付きの名作だけのことはある。回数を重ねるに従って、どんどんと「この映画のとてつもなくよく出来た」ところが感じるようになってきた。おそらく、あと2,3回観たら、「私が一番好きな黒澤作品」になってしまうかもしれない....そんな予感がするほどだ。

 「七人の侍」は一種の群像劇だから、主役というか、分かりやすい軸となるような登場人物はそれほど鮮明ではないし、今の感覚で娯楽映画と呼ぶには、ものものしい冒頭のクレジットからして、ちとリアルに暗過ぎだし、ドラマの展開には常に悲劇がつきまとっているところなどが、きっと私には違和感を覚えたのだろうと思う(ついでにいえば、画像、音声が鮮明でなく、台詞など何をいってるのかよくわからないところが随所にあったのも災いしていた)。ただ、回数をかさねていくと、まさにそういうところが、逆に味わい深いところだということがよく分かる。例えば、7人の侍のそれぞれのキャラクターなど実に良く描き分けられていて、観る度に「さまざまな人間」が見えてくるし、この侍たちにかかわる農民たちのドラマなども、崇高さと醜悪さがないまぜになった実に人間くささが観れば観るほどに味わい深かったりするのだ。

 ともあれ、このむき出しの人間臭いドラマを見て映画を観ていて、私が何度も感じたのは、我々が生きている今の日本はあまりに洗練され、人間が本来もっている生活感だとか、時にむき出しになる情念、醜悪さといったものが、あまりに隠蔽されすぎてしまったのでないか。我々はここ数十年の間にそうした生活に徐々に飼い慣らされてしまい、なかなか気がつかないが(気がつかないフリをしているというべきか)、実はココは心地よい牢獄なのではないか....という点だ。柄にもないが、なんだかこんな大仰なことを感じさせた映画というのもあまりない。
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佐藤勝/用心棒

2009年08月18日 23時01分50秒 | サウンドトラック
 このお盆休み中に、「用心棒」と「椿三十郎」を観た。多分、どちらも7回目か、8回目である。私は黒澤明の作品はちと説教臭いところがあるのが災いしているのか、それほど入れ込んでいる訳ではないけれど、この2作品ばかりは、1年か2年に一度は必ず観たくなるし、その度とんでもなくおもしろい、そして新たな発見がある....というくらいに好きな作品である。どちらも、「映画作家としての黒澤」というよりは、むしろ「映画職人としてお仕事」みたいな作品であり、黒澤自身のメッセージだの信条だのからいささか離れて成立しているのが、私にとっては敷居が低いのかもしれない。某巨大匿名掲示板群にもその手の書き込みがあったけれど(※)、この2本などかろうじてそれに近い作品なのではないか。

 などと、このまま映画本編のことを書きそうになってしまうが、それについてはまたいずれ書くこともあるだろう。今夜の主題はサントラである。この2本のサントラは佐藤勝が担当しているのだが、どちらも早坂文夫の後を継いだ佐藤のおそらく彼の代表作といっていいだろう。彼の音楽は例えば伊福部先生のようなオーケストラをガンガン鳴らすタイプではなく、どちらかというと小編成のコンボのようなスタイルで(彼は万能なので、フルオーケストラでもジャズでも平気でやってしまうのだが)、全般にジャンル横断的なフットワークの軽さと妙に記憶に残る音響、そして苦みの効いた旋律....といったあたりに特徴があると思うのだけれど、この両作品にはしばらく前にとりあげた「美女と液体人間」のようなジャズ風味はないけれど、彼の美点をフルに発揮した傑作中の傑作という気がする。

 特に「用心棒」は傑作中の傑作だ。打楽器のドロドロ、チェンバロの切れ込み、ブラスと低弦の不穏な動きに導かれて始まるメインテーマのずる賢そうな調子良さはまさに「桑畑三十郎」そのものである。ついでに書けば、こうした響きは当時としては、かなりモダンなものだったのではないだろうか。馬目の清兵衛のテーマの剽軽さなどもそうだが、時にストラヴィンスキーの新古典派的な音響に近づきもするこの音楽は、少なくともチャンバラ劇としては相当に破格だった気がする。とりわけ、ラストの対決のシーンの緊張感など、音楽だけ聴いていても実に素晴らしい。ついでに書けば、それらとは対照的に百姓小平(土屋嘉男ね)とその女房ぬい(司葉子、もうどうしようもなく美しい)のところで流れる悲劇的なテーマも、全編荒涼とした音響に彩られた音楽の中にあって、その叙情性が光っている....。


※ とても良くできた脚本を入手したプロデューサーが/「一字一句変えずに撮れ!」と黒澤に厳命した作品を見てみたかった。/職人監督・雇われ監督に徹した作品みたいなの。/きっとすごいテクニックの集大成が見られたと思う。
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