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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

ウィントン・マルサリス/ブラック・コーズ

2009年11月30日 21時01分44秒 | JAZZ
 ウィントン・マルサリスが85年に発表した第3作。本作ではウイントン・マルサリス、 ケニー・カークランド、ブランフォード・マルサリス、ジェフ・ワッツに加え、ベースがレイ・ドラモンドからチャーネット・モフェットに替わり、一曲のみロン・カーターが参加する形で収録されている。ちなみに本作は、2管を擁した第一期マルサリス・バンドの最終作でもあり、収録された7曲はいずれも新主流派~新伝承派の完成型として、素晴らしい充実した演奏を展開しており、ラストに相応しい完成度を感じさせる作品ともなっている。ちなみに、ケニー・カークランドとブランフォード・マルサリスは、このバンドの後、スティングのバンドに加入するが、これなど、1985年というミュージシャンがジャンルを越境する現象が常態化してきた時期を象徴する出来事だったと思う。

 さて、本作が先に書いたとおり、どの曲も非常に充実しており、アルバム全体の完成度が極めて高い。前作の「シンク・オブ・ワン」もなかなかの仕上がりだったが、ジャズ的感興、あるいは聴き応えという点で、ジャズこちらの方が一段上を行くと思う。1曲目の「Black Codes」はかなりエキセントリックな非ジャズ的なテーマで始まるあたりはいかにもウィントン・マルサリスという感じなのだが、前作まであったような「とってつけたような」ところがなく、曲のダイナミズムを拡大していくために、有機的に曲に配置されているのがいい。4ビートへとリズムチェンジするプロセスも実に自然だ。要するにこなれてきているのである。2曲目の「For Wee Folks」は新主流派的な色合いを感じさせるミディアム・テンポの作品だが、適度に思索的でムードの中、多彩なインプロヴィゼーションが展開されていく。その完成度はなかなかだが、ジャズ的なリラクゼーションを忘れていないのもいい。ラクに聴ける....そういう点もジャズには大切だ。「Delfeayo's Dilemma」はよくスウィングしたダイナミックでスポーティーな4ビート作品で、妙にこねくり回さずストレートに演奏しているところがいい。こういう曲ではバンドメンが非常に優秀なのが如実に表れているとも思う。たぶん、アルバム中のハイライトとなる一曲だ。

 4曲目の「Phryzzinian Man」は「For Wee Folks」と同様、新主流派的な色合いを持った作品。5曲目の「Aural Oasis」はバラード的作品で、アーシーでけだるい感じが印象的だが、こういう曲だからこそロン・カーターが呼ばれたのだろう。確かに彼のベースの重量感や粘りはこの曲にある都会的倦怠感のようなものに、いまひとつリアリティをあたえていると思う。6曲目の「Chambers Of Tain」は「Delfeayo's Dilemma」と並んで、このアルバムのハイライトだろう。演奏は黄金時代のマイルス・クインテットがデジタル録音で甦ったような趣だが、ソロの合間に背後にイントロのモチーフを循環させるアレンジは、フュージョン以降のモダンさであるし、ブランフォードのソロが4ビートに転じた後の、スリリングな展開は素晴らしいの一語につきる。ラストの「Blues」は、このアルバム唯一のルーツ系の音楽で、トランペットとベースのデュオで演奏されている。こういう音楽は苦手だが、いささか長目のアルバム、クロージング・ナンバーとして聴くなら悪くない。
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ビル・チャーラップ・プレイズ・G.ガーシュウィン

2009年11月30日 00時31分00秒 | JAZZ-Piano Trio
 こちらはブルーノートでビル・チャーラップ名義、つまれピターワシントンとケニー・ワシントンと組んだレギュラー・トリオによる作品である。先日、書いた「チャーラップの盤歴」のとこからも分かるとおり、時期的にはニューヨーク・トリオ名義の「ビギン・ザ・ビギン」「星のきざはし」と同じ頃の製作ということになるし、母親であるサンディ・スチュアートと組んだアルバムもこの年だから、チャーラップにとって2005年はかなり多作だったということになる。このアルバムだが、内容的にはタイトルからも分かるとおり、ガーシュウィン集である。前作がバーンスタイン、その前がカーマイケルだから、こちらのレーベルでの作曲家シリーズは既に三作目ということになるが、今回はカーマイケル集の時の同じように何人かのゲストを迎えて、フォーマット的にはピアノ・トリオに限定しない、ヴァラエティに富んだ内容になっている。

レギュラーのピアノ・トリオだけの演奏は、1曲目「フー・ケアズ」、3曲目「ライザ」、7曲目「アイ・ワズ・ソー・ヤング....」、そしてラスト「スーン」の4曲のみ(しかもどれも3分程度と短い)。残り6曲はフィル・ウッズ(as)、フランク・ウェス(ts)、スライド・ハンプトン(tb)、ニコラス・ペイトン(tp)を加えた、オーソドックスなコンボスタイルの演奏だから、本作のメインはどう考えてもこっちの演奏である。
 2曲目の「サムバディ・ラヴズ・ミー」は、いきなり四管でテーマが演奏されるから、一瞬ぎょっとするが、四管でやるのはほぼテーマの部分だけ、あとはピアノ・トリオ+ソロのスタイル演奏されていくから、それほどゴテゴテ、ギラギラしている訳ではない。基本、非常に趣味のいいスタティックで洒落たジャズである。さすがチャーラップのセンスを感じさせる。「ハウ・ロング・ハズ・ジス・ビーン・ゴーイング・オン」はニューヨーク・トリオの方でもやっている曲で、ここではフランク・ウェスの渋いテナーをフィーチャーしているが、スロー・バラード風な解釈は基本同じような感じだが、さすがにテナー・サックスでこうじっくりと歌われると、そのムーディーさも格別という感じだ。

 6曲目の「霧の日」は9分の長尺演奏で、やはり四管でテーマが奏でられる。本作の中では次の「スワンダフル」と並ぶ有名曲だが、チャーラップらしい「遅い曲はより遅く」の傾向がよく出たアレンジだ。ソロはチャーラップを長いソロを筆頭に、ゲスト陣も順繰りにとっていくが、この遅いテンポとブルージーなムードがなんともいえない上質なムードを醸し出している。7曲目の「スワンダフル」はピアノでヴァースを演奏した後、いきなりアドリブに突入する意外なパターンで進行、この曲はこのトリオで同名アルバム(ヴィーナス)があるくらいだから、やや絡め手で再演したというところだろうか。アルバム中もっともインプロヴァイズした演奏だ。
 8曲目の「ベス,ユー・イズ・マイ・ウーマン・ナウ」はフィル・ウッズをフィーチャーしたワンホーン・カルテット・スタイル。これもかなり遅いムーディーな演奏で、フィル・ウッズは後半などさすがの貫禄をみせる。9曲目の「ナイス・ワーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イット」は、2曲目の「サムバディ・ラヴズ・ミー」と同様、スウィンギーで軽快な演奏で、ジャム風にソロを回していくのが楽しい。

 という訳で、チャーラップのピアノについては、ニューヨーク・トリオでもたっぷり聴けるし、こういうバックに回ったスタイルでの演奏も悪くない。ただ、まぁ、いかにも日本人向けに製作されたニューヨーク・トリオでの演奏に比べると、選曲にせよ、演奏にせよ、格段にハイブロウというか、渋い内容であるのは確かだ。なにしろ、ガーシュウィンといっても、例えば「サマー・タイム」、「アイ・ラブズ・ユー・ポーギー」といった有名どころは出てこないし、酸いも甘いもかみ分けた....みたいな、全く声を荒立てない落ち着き払った演奏は、じっくりと聴けばその良さはひとしおだが、さらっと聴いたのでは凡庸でありきたりなジャズに聴こえかねない....まぁ、そういうかなり通向きな音楽になっている。同じビル・チャーラップでも、彼に何を求めるかでここまで音楽が違ってしまうのは、音楽の妙というべきだろう。アメリカ人と日本人の考えるジャズというものが、微妙に違うことも改めて認識させられる。
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ジャック・ルーシェ/バッハ・トゥ・ザ・フィーチャー

2009年11月29日 16時04分19秒 | JAZZ-Piano Trio
 「デジタル・プレイ・バッハ」に続く、復活ルーシェの第2作。前作がデッカ時代の「プレイ・バッハ」の再演ばかりを収めていたのに比べると、今回は新レパートリーばかりで構成されているのが特徴だ。多分、前作の成功にルーシェ自身が大いに気をよくしていたのだろう、再演を潔しとせず、3楽章からなる協奏曲を3曲も収録し、かつ随所にコンテンポラリーなアレンジも盛り込んでいるところに、彼の本気を感じさせた。もっとも、発売当時「ちょいとやり過ぎなんじゃないの」みたいな意見は当然あっただろうし、かつてバッハをやりつくした後の「落ち穂拾い」みたいなところがなくもない、いささか地味な選曲ではあるが、個人的にはけっこう好きなアルバムである。内容をざっと見ていこう。

 冒頭に収録された「協奏曲ニ長調、BWV.1054」の第1楽章は、フュージョン風のシンコペした現代風のリズムで料理している。第3楽章ではジャズ・ワルツをベースにしながら、ファンクっぽい味付けがあり、とにかく新しいセンス(特にリズム面で)を導入してやろうという意欲が感じられる仕上がりになっている。「小フーガ」はロック風な8ビートで演奏されており、更にピアノは多重録音してかなり作り込んだアレンジになっている(さすがにこれはちと違和感を覚えたものだが)。8ビートといえば、続く「協奏曲ハ短調、BWV.1060」の第1楽章もその線でアレンジされていて、この上にピアノとベースがかなりモダンな感じで絡んでいるのがおもしろく(インタープレイといってもいい)、とても聴き応えがある。第2楽章はあまり旋律線は追わずに詩的なインプロを主体にしたジャジーな演奏で、いつもとは違った美しさがある。

 3つの大作である「協奏曲ヘ長調、BWV.1056」だが、これはアレンジ的には一番冒険している作品といえそうだ。第1楽章はもろにロック的なリズムを使いつつ、随所にひっかけを用意したり、途中ムーディーな4ビートにリズム・チェンジしたりとかなり、凝ったアレンジになっている。第2楽章はいつものルーシェ節だが、第3楽章は再びかなり凝ったリズム・アレンジとなる、途中、スウィンギーな4ビート、そしてピアノとベースの4バース・チェンジ、無伴奏ピアノ・ソロと、いろいろな聴き所が用意されているのが地味にうれしい。残り5曲はいずれも小品だが、個人的には「パストラーレ ハ短調、BWV.590」 と「メヌエット ト長調(アンナ・マクダレーナ・バッハの音楽帳 BWV.追加114より)」が従来のルーシェの路線を感じさせるエレガントさがあって楽しい。
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ジャック・ルーシェ/デジタル・プレイ・バッハ

2009年11月29日 14時42分46秒 | JAZZ-Piano Trio
 ジャック・ルーシェといえば、60年代はデッカ、その後、復活してから近年はアメリカのテラークでアルバムを出しているけれど、80年代中盤にスタートというマイナー・レーベルからプレイ・バッハの取り直しをしたアルバムが、実は復活のはじまりだったことを、そろそろみんな忘れてきていると思う。誰の発案だったのか、かつてのプレイ・バッハ・シリーズから十八番の曲をデジタル録音で取り直すというアイデアは、すぐさま続編が続いたくらいだから、けっこう受けたはずだ。思えば、この時期の活動がその後の90年代に、今度はテラークで収録されることになる新バッハ・シリーズ、その他に繋がっていくことになるのだ。

 そえいう経緯で、このアルバムはおそらく単発企画として製作されたものだから、選曲的にはまさにプレイ・バッハ・グレーテスト・ヒッツである。私はこのアルバムを、確か今はもうない千葉市新星堂で、「イタリア協奏曲」がプレイバックされているを一聴して購入したように記憶しているが、この「イタリア協奏曲」のいささか権威主義的な第1楽章をスポーティーかつカジュアルな形で崩して演奏するセンス、いささか辛気くさい第2楽章ここまで洗練されたブルージーなアレンジする垢抜けた感覚、そして第3楽章を豪快なスウィング感と達者なテクニックにいたく感心したのだった。当時の私はオイゲン・キケロは知っていたけれど、多分、ジャック・ルーシェについてはほとんど知らなかったと思う。なので、このオイゲン・キケロより数段洗練されたルーシェの演奏を聴いて、「へー、こんなにお洒落なクラシックのジャズ化があるんだね」と、一聴、惚れ込んでしまったのだ(まぁ、オイゲン・キケロには彼なり良さがあることに後年気がつくのだけれど)。

 という訳で、このアルバム、80年代から90年代にかけてはずいぶん聴いたものだった。一曲目は「G線上のアリア」からスタートするが、この静謐なイントロからしばらく続いた後、あの有名な旋律が登場するアレンジがあまりに印象的だったので、テラークでの「プレイ・バッハ」シリーズのベスト盤が、前奏曲第1番ハ長調から始まることに大きな違和感を覚えたくらいなのである。もちろん、他も曲もいい。「イタリア協奏曲」と並ぶ十八番の「トッカータとフーガ」も、デッカ時代のオリジナルよりコンテンポラリーなセンスを取り入れて、良いアレンジ演奏だと思うし、 このふたつほど有名ではないが、「ピアノ協奏曲第1番ニ短調」も、あまり有名でないからこそ、従来のバッハ的世界を心地よく裏切るインプロビゼーションを楽しめる。また、「主よ、人の望みの喜びよ」「コラール前奏曲第1番~目ざめよと呼ぶ声あり」といった小曲は、この人らしい実にセンスの良いお洒落な演奏で実に心地が良い。

 という訳で、このアルバム、自宅で、車で、結婚式の会場で....と、あのバブル最盛期の頃にはずいぶん活用させてもらったが、今ではそれもずいぶん昔の話となってしまった。今時、結婚式に絵に描いたようなフランス風のルーシェなんか気取って使ったら、ガチすぎて引いてしまう人も多いことだろうな(笑)。ついでにいうと、音質はデジタル録音初期であるものの、ルーシェ諸作ではこれが一番自然だと思う。その後のテラークはちと低音(特にバスドラ)がエゲツなさ過ぎで、その迫力感はさすがテラークという感じ凄いのは認めるが、あまりにスットン、バッタンした音質には少々違和感があった。やはりルーシェにはこういうシルキーな音質が良く似合うと思う。
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宮川泰/ゲバゲバ90分ミュージック・ファイル

2009年11月29日 11時00分19秒 | サウンドトラック
 1969年から数年間のことだったが、ナイターのないシーズンの火曜、夜8時から日本テレビで放送された「ゲバゲバ90分!」だったが、斬新なバラエティとして、大変な人気を博した名物番組であった。巨泉と前武を筆頭に、宍戸城、小川知子、朝丘雪路、宮本信子、小松方正といった非お笑い芸人が多数登場して、ソープ風、ミュージカル風な短いギャグを、適当な区切りに例の「ゲバゲバP!」を挟みつつ、テンポ良くつるべ打ち状に構成したような番組だったが、その後、このスタイルを踏襲したバラエティがほとんど存在しないことあり、テレビ史上でも極めて特異というか、ワン&オンリーなプログラムとして現在でも高く評価されているようだし、単純にあれを懐かしむ声も多い。当時小学の高学年だった私も、ご多分にもれずこれを夢中で観ていたクチだ(なにしろ、日曜の昼に30分とか60分の編集された再放送も観ていたくらいだし)。

 さて、このアルバムはその「ゲバゲバ90分!」のサウンドトラックで構成されたものである。ちなみに「ゲバゲバ90分!」は、現存する映像から起こされたDVDも出ているらしく、残っていないといわれた、あの当時の映像の一部を今でも楽しむことができるのだが、さすがに今観て昔のように笑えるか不安なので私は購入していない。実は番組に使用された音楽についても、私はほとんど記憶に残っていないので、実はどうしてこのアルバムを購入したのか、よくわからないのだが(笑)、おそらくオプティミズム全開のオープニング・マーチでも聴きたくて購入してきたのだろう。という訳で、アルバム・トップは当然、「ゲバゲバP!」に続いて「オープニング・テーマ」である。いかにも高度成長期ニッポンのオプティミズムが全開という感じで、実に懐かしい。同時にメインのシステムで聴くと、テレビでは聴こえてこなかった(単に記憶にないだけかもしれないけれど)、ストリングスのカウンターメロディだの、バンジョーだの、シンバルの細かい音が聴こえて、かの曲はこんなに情報量の沢山あった音楽なのかと驚きもしたりする。

 以降に収録された約40に渡るトラックは、当方の記憶にはほとんど残っていないが、今聴いてもなかなかおもしろい。様々なテーマのヴァリエーション、ボサノバ、ジャズ、ディキシー、モダンなヨーロッパ映画風、往年のハリウッド風、ゴーゴー、バロック風、ピンクパンサーのぱくり、ジョビンのぱくり、スウィング、ティファナ・プラス風にアレンジされたカルメン....と、箱庭風にあれこれ様々な音楽ジャンルをつまみ食いしていく(これを器用に演奏していく、当時の日本人ミュージシャンもさすが)。いかにも宮川らしいバタ臭さい洋楽指向といった感じだが、そのセレクションのセンスはさすがだ....などとニヤニヤしながら聴いていたら、あっという間に60分過ぎてしまい、ミュージカル風に4ビートにアレンジされたオープニング・ヴァリエーションになっていた....(ちなみに、番組の方はこのエンド・タイトルの後、実は何分かオマケがついて、唐突に終わるのというのが、いつもパターンだったように思うんだど?)。
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世界樹の迷宮 第四層到達

2009年11月29日 00時11分51秒 | GAME
 というこの一週間もヒマを見て、「世界樹の迷宮」はちょこちょこ進行中である。第三層は熱帯林の場所で、まずは11階と12階の地図づくりがミッションになっていて、例によって楽しくて面倒くさい作業をちまちまと続ける訳だけれど、特に問題もなく順調に踏破。この途中でブシドーという日本の侍みたいな職業を取得できるようになったので、このブシドーをパーティーに入れて、Lv20くらいまで育成してみたけれど、既に三十代後半に差し掛かっている他のメンバーまでもっといくのは、ちと面倒くさくなったので、ブシドーはそのまま放置して、ソードマン/パラディン/レンジャー/メディック/アルケミスという布陣でダンジョンの踏破を続けた。ちなみにFFXIでいえばソードマンは戦士、パラディンはナイト、レンジャーは狩人、メディックは白魔道士、アルケミスは黒魔道士という役割である。私は他にブシドーは当然侍だろう。他にも詩人に相当するバード、鞭ジョブのダークハンターとかある。

さて、地図づくりの最後にはボス、クイーンアントとの対決があるが、これまも危なげなく勝利して(むしろ無限に西南のエリアで無限に増殖するアントの方がやっかいだったかな、中ボス倒せばいいことにきがつかなくて延々と戦っていた-笑)、11階と12階が終わると、今度は東西に流れる川がエリアを分断する13階(いったん14階におりてまた上がる、8~9階と同じパターンで行く)、湖みたいなエリアをハスの花に乗って移動する14階と進み、15階に入るとコロトラングルというタコのお化けみたいなボスと対決、これまた当方のレベルが上がりすぎているのか(笑)、これも問題なく勝利して、そのまま階段を下って(このエリアはとても狭い)、先ほど16階、第四層へ到達したところである。
 あと、ほとんど物語らしい物語もないこのゲームだが、そろそろこの世界樹なる樹海が出来た理由、謎の先住民族みたいなものが、ミッションや登場人物の間で見隠れしてきたから、このゲームもそろそろ佳境といったところかもしれないが、本当にこれ何層あるのかな?。
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チック・コリア/ナウ・ヒー・シングス・ナウ・ヒー・ソブス

2009年11月28日 20時51分15秒 | JAZZ-Fusion
 先日とりあげた「トリオ・ミュージック」の三人が最初組んだアルバム(1968年発表)がこれ。いうまでもなくチック・コリアの名を一躍押し上げた、ジャズ・ピアノの大名盤でもある。多分、偶然だが、私このアルバムを初めて聴くのに前後して、ビル・エヴァンスとそれ以前のピアノ・トリオを集中的に聴いていた。そのせいもあって、このアルバムで聴けるある種の伝統と断絶したような斬新さやフレッシュな躍動感にずいぶん驚いたものだった。例えば、ハード・バップ系のピアノ・トリオを聴いていて、ビル・エヴァンスを聴くと非常にモダンな感じがするけれど、そのビル・エヴァンスの例えば「ライブ・アット・モントルー」のような比較的モダンな演奏の後でも、これを聴くとそれまでのジャズとはそももそも感覚的に違うとしかいいようがない斬新さを体感できるのだ。

 さて、本作だが「Steps - What Was」からはじまる。多少フリーがかったピアノ・ソロからオーソドックスなジャズへと流れが収束するように音楽が進み、込み入ったリズムをもったブリッジを経て、やがて急速な4ビートに雪崩れ込んでいく構成が見事、ピアノ・ソロもモードも飛び越え、時にフリーに接近しつつも、オーゾドックスな体裁を整えているあたりがいかにもチック・コリア的なクレバーさがあっていい。また、ドラム・ソロの後、その後のRTF的なスパニッシュ調になるのもいかにもチック・コリアだ。「Matrix」はやはり込み入ったテーマの後、急速な4ビートに雪崩れ込んでいくパターンで、ここでもコリアのシャープなピアノがめくるめくような展開をしていくところがいいし、ビトウスの鋭利で饒舌なフレーズ、ドライなスウィング感も、コリアの音楽にぴったりとマッチして斬新だ。

 先の2曲に比べると、旧B面の3曲は多少テンションが落ちる感じだが、タイトル曲はややおおらかな流動感があり、これはRTFに受け継がれていくように思う。「Now He Beats The Drums, Now He Stops」はたぶんフリーのインプロヴィゼーション、中間部ではオーソドックスなピアノ・トリオのスタイルとなるが、ここでは変幻自在なビトウスのベースが目立っている。最後の「The Law Of Falling And Catching Up」は短い点描主義の現代音楽みたいな音響系フリー・ジャズ、演奏時間は2分半くらいだから、ちょっと変わったアルバムのコーダとして楽しめるのがいい(ちなみにCDには8曲、30分近いボーナス・トラックが入っていて、本編の緊張感に対して、ボサノバ、スタンダード、モンク作品などリラックスしてやってりして、なかなか興味深い内容だったりするのだが、これについては別の機会に譲りたい)。

 という訳で、このトリオは「トリオ・ミュージック」「ライブ」も良かったが、やはりこちらは別格という感じがする。思えばこのアルバムを聴くきっかけになったのは、私があしげく通ったレコード・ショップのマスターがことあるごとに大推薦していた名盤という理由の方だが、やはり団塊の世代のジャズ・ファンにとって、このアルバムとは時代的にも「非フリー・ジャズ系のコンテンポラリーなジャズの名盤」だったのだろう。フリー・ジャズを意義面では認めるものの、やはり本音の部分ではフリーは音楽としてはちっともおもしろくない....みたいな人ほど、このアルバムをもてはやしたのではないか。そういう折衷音楽的なところが、実はこのアルバムの斬新さの実体であり、分かりやすいところでもあったと思う。かくいう私もそういうところが大好きなのだ。
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Coco Lee / Exposed

2009年11月28日 19時15分05秒 | 台湾のあれこれ
 今調べてみたら、彼女の「ジャスト・ノー・アザー・ウェイ」をレビューしたのが2005年の5月だった。このアルバムの時点で、ココ・リーは既に台湾ポップの大スターだったが、もともとサンフランシスコ育ちということもあり、こうした素性を買われて(?)、全曲英語で歌ったワールドワイドでのデビュー作「ジャスト・ノー・アザー・ウェイ」が作られたのだった。このアルバムもコメントいただいた方から情報でその存在を知り、その直後に購入はしたはいいが、あっちこっち音楽的なよそ見をしているうちに、おきまりの放置状態になっていた。さきほどラックをごそごそしていたら、いくつかの台湾ポップの未聴アルバムに混じっていたコレをを見つけたので、さっきから聴いているところだ。

 前作はワールドワイド発売ということで、流暢な英語によるソウルフルな歌唱と本場のプロダクションによって、ほぼ完全な米国産モダンR&Bになっていたが、どうもそれが逆に没個性になってしまったとスタッフは反省したのかもしれない、本作ではアジア風なエキゾシズムを音楽に随所にとりいれているのが特徴だ。もっとも、アジア風といっても欧米人が歓びそうな味付け程度で、基本はリック・ウェイク(セリーヌ・デュオン、マライア・キャリー)をプロデュースによる前作ラインを踏襲していて、それほどイメチェンしている訳でもないのだが....。1曲目の「Step In」では、いきなり琴みたい楽器が中華っぽいムードを漂わせているのは苦笑してしまうが、そのまま続く「No Doubt」は前作の同様のテクノ・ファンク的な世界に、相変わらずコテコテのソウル歌唱で凄いパンチ力だが、聴いた感触としては脂っこい感じがまるでない、しなやかな鞭みたいな歌いぶりはいかにもココ・リーという感じで、もはや安定感すらただよう。

 ただ、このアルバムではどちらかというとダンサンブルな曲もミディアム・テンポのものが多いし、4曲目「Hush」、6曲目「Touch」あたりはけっこうしっとりしたバラード、ラストの「Magic World」は珍しくアコースティックな趣が強いゴスペル・ナンバーだったすることで、アルバム全体の印象を多少落ち着いた方向にシフトさせているような気がしないでもない。個人的には前作にあったイケイケでぶっちり切ったノリのナンバーが何曲かあっても良かったとも思うが(10曲目「Coll」、11曲目「Music As We Make It」あたりがその線といえないこともないが)、まぁ、これはこれでひとつの趣ではあるだろう。さて、2005年の本作のあと、彼女のインターナショナル路線はどうなったのだろう?。
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ハイドン交響曲第34番「聖堂」/フィッシャー&オーストリア・ハンガリー・ハイドンPO

2009年11月28日 11時44分03秒 | ハイドン
 34番は荘厳なアダージョから始まります。アレグロ本編への序奏ではなく、アダージョのみで6分半くらいやってますから「本気で緩徐楽章を頭に配置」しています。交響曲が緩徐楽章からスタートさせるのは、後年チャイコフスキーとかマーラーが芸術的な必然から、ルール違反であることを念頭に「掟破りな構成」として試みるみとにになる訳ですが、実はハイドンは5番、11番に続いて3度目のルール違反をしていたことになります。もっとも、彼の場合、チャイコとかマーラーのように最終楽章も緩徐楽章にして構成的整合性を整えるようなことはしていませんし、なにしろ交響曲という概念そのものがまだ曖昧だった時代ですから、セレナードとかディベルティメントあたりの緩やかな構成に近づいたということでしょう。また、ハイドンらしい茶目っ気というのもあるのかもしれなません。

 ともあれ、この第1楽章は実に堂々たる緩徐楽章になっています。単一楽章で独立曲としてもいいくらいです。軽薄な言葉でいうと、「キャラが立っている」感じがします。短調で宗教的な荘厳さを漂わせて進みますが、ここまで荘厳かつスケールが大きいと、ハイドンでも90番台以降、モーツァルト最終期あたりの交響曲の第1楽章についていた、希有壮大な序奏を予見している感じもしますね。続く第2楽章は霧が晴れたようなニ長調のアレグロですが、私が今聴いているフィッシャーは第1楽章とはほぼ間を空けずに続けて演奏していますから、まぁ、リスナー的にはまぁ長大な序奏のように聴こえないこともありません。重々しい先行楽章とはうって変わって、躍動的な弦の動きやスケール感など、非常に爽快な仕上がりではあるのですが、あまりに大きく存在感がある仕上がりになってしまった第1楽章とバランスをとれるには、この第2楽章、ややハイドンの手癖というか、職人芸でまとめただけみたいなところがあって、今一歩役不足というか、もうひとつ魅力的な「つかみ」が欲しかった感じがしなくもないです。

 第3楽章はメヌエットにしてはやけにきびきびと進み、いつもの鄙びたメヌエットに比べると、トリオを含めてリズムにせよ、ムードにしても鋭角的な感じがします。最終楽章はプレスト、アルペジオみたいな三連符が全編を覆いつくし、途中、ソロヴァイオリンなども入り、かなりとっちらかったせわしない印象があります。時間的に考えてもこの楽章は第三楽章とセットで第三部みたいな考えるとしっくりとくるかもしれません。ただ、まぁ、ハイドン自身はメヌエットと最終楽章をどうおさまりよく配置するか、実験中という感じで、どうも考えあぐねているようなところも散見しますけど....。
 ちなみにニックネームですが、これは第1楽章の厳かで重厚なムードから、ごく自然に「聖堂」としました。「寺院」でもよかったかもしれません。まぁ、こちらはまた使うこともあるでしょう。
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カルロ・ルスティケリ/ブーベの恋人

2009年11月27日 22時16分29秒 | サウンドトラック
 「プーベの恋人」という映画は、おそらく団塊の世代には忘れられない映画ではないか。そもそも主演のクラウディア・カルディナーレというイタリアの女優自体が、この世代にはおそらく忘れられない人であり、この作品はクラウディア・カルディナーレの代表作となっているものから、この両者はたぶん不可分なのだろう。物語は第二次世界大戦末期の北イタリアを舞台にしたパルチザンの青年と娘の悲恋といったもので、牢獄に入れられたパルチザンの青年にあえてついていく、苦難の道を選ぶ主人公のけなげな純愛ぶりが当時受けたようだ。私が観たのは、初公開時からずっと20年近くたった頃で、どうもそれが災いしたのか、よくいえばごくまっとうな、悪くいえば通俗的な青春映画という感じで、その名声の割に、例えば先日のアントニオーニのような歴史に残る名作という風格も感じなかった。そのことは監督がルイジ・コメンチーニという、当時の職人監督であったことからもわかる(この人の作品にこれに限らず、割と社会派なところがあり、そこにイタリアのネオリアリズムの残滓を感じることもできる)。

 さて、そんなイマイチな印象だったこの作品であるが、そんな中にあって随所で光り輝いていたのがこの音楽である(もちろんカルディナーレも光り輝いていたけれど、こういう気性の激しそうな女は、個人的には「なんか、かなわねーな」とか思って敬遠したくなってしまうのだ-笑)。スコアはカルロ・ルスティケリ、古くは「鉄道員」を筆頭にピエトロ・ジェルミ作品で忘れられない旋律を提供し、「禁じられた恋の島」「イタリア式離婚狂想曲」といった作品でもファンには知られるイタリアの名匠である。さしずめこの作品はルスティケリ最盛期の名作ということになると思う。この作品のには一度聴いたら忘れられないような曲が2つある。ひとつは嘆き悲しむようなトランペットのイントロから、哀愁を漂わせつつサックスが物憂げな旋律を吹く「プーベのブルース」、ワルツのリズムなのに何故かひっそりとした哀しさ誘う「マーラのテーマ(ちなみにこういうタイトルのトラックはない)」である。劇中、このテーマがあれこれと姿を変え、随所に登場する訳だが、実際、この悲恋の物語はこの音楽なくして....というくらいに映画を大きく盛り上げていたと思う。ついでにいえば、アルトサックスがとろけるようにスウィートでノスタルジック旋律を奏でる「ステファーノ」も素晴らしい。基本なジャジーな音楽なのだが、実は地中海の海を望むような壮麗さがある実にイタリアらしい音楽で何度聴いても陶然として聴き惚れてしまう(ちなみにこれも劇中に何度も登場する)。

 という訳で、数あるイタリア映画の音楽でも非常に好きな一作である。このサントラを聴くと、この映画自体のことはあまり思い出さないけれど、20代はじめの頃、映画に耽溺していた時の自分のあれこれを思い出したりもしてしまう。もっとも、当時聴いていたのは、このサントラではなくキングから出ていたヨーロッパ映画音楽名作選みたいなものに収録されていた、確かルスティケリ自身のオーケストラかなにかの演奏だったように思う、プーベとマーラのテーマがあわさったアレンジだった(この時期にキングがよく出していたセブンシーズ音源のヨーロッパの映画音楽集、オリジナルサントラではないけれど、趣味のいい演奏が多かったように思う。復刻してくれないかなぁ)。サントラを入手したのはもっともっと後のことだ。
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ウィントン・マルサリス/シンク・オブ・ワン

2009年11月27日 00時45分38秒 | JAZZ
 こちらは82年の第2作。諸先輩方に招いて多少顔見せ的なところがないでもなかった前作の内容からすれば、こちらが実質的なデビュー作といえるかもしれない。出来の方も前作より数段良い仕上がりだ。メンツはブランフォード・マルサリス(サックス)、ケニー・カークランド(ピアノ)、ジェフ・ワッツ(ドラムス)、レイ・ドラモンド、フィル・ボウラー(ベース)という、第一期マルサリス・バンドの面々だが、おそらく当時はマルサリスを筆頭に「60年代の新主流派の後継者」たらんとして、音楽的な理念を共有していたのだろう。マルサリスの音楽だからあくまで理知的だが、それでも今このアルバムを聴くと、当時のこの世代の持っていた意気軒昂さがけっこう伝わってきたりして、実にフレッシュである。

 1曲目の「ノーズ・モウ・キング」は久々に聴いたが改めて圧倒的された。短いモチーフをテーマに即座にインプロに移行、ここでのマルサリスの超高速フレーズ、バンド全体のスピード感、パワーは凄さまじく、この時期のマルサリスの音楽の持つ「無敵な人」ぶりが良く伝わってくる。音楽はいったんテンポを落としブランフォードがソロを担当、その最後にピアノが入ってくると、再びテンポを上げて本格的なカークランドのソロへと雪崩れ込んでいくテクニカルな構成もいうことなしだ。2曲目「フューシャ」はトランペットとサックスが微妙なハーモニーを織りなすまさに新主流派的作品で、カークランドの印象派風なピアノがいい。3曲目「マイ・アイディアル」は比較的オーソドックスでリラックスした4ビート作品。4曲目「ホワット・イズ・ハプニング・ヒア」も「フューシャ」同様新主流派的作品、ピアノ~ベースとソロが続くと一旦テーマが回帰して、ウィントンとブランフォードなソロを同時進行しつつフェイドアウトするちょっと変わった構成だが、このままあと2分くらい続けてもよかったかな。

 5曲目のタイトル・チューンはその後マルサリスが折りにつけ開陳することになるブルース、ルーツ系(ディキシー)の音楽的要素を見せた曲。どことなくユーモラスでハードボイルドな表情はマルサリス独特なものだが、個人的にはこういう作品のおもしろ味を未だに感じることができないのは残念だ。6曲目「ザ・ベル・リンガー」は、新主流派的作品で、どことなくトロピカルな曲調のせいか、「処女航海」の頃のハンコックの影響がちらつく。ベースがやけにオールドスタイルな8ビートやボサノバに接近したりするポップな感触は60年代のジャズロックの線だろうか。7曲目「レイター」はイントロこそルーツ系な感じだが、本編はばりばりとソロが展開する正統派の作品。 ラストの「メランコリア」はもろにマイルス風のミュートをフィチャーしたバラード作品。こういう曲でのマルサリスはほぼ文句のつけようがないソロを展開する。

 という訳で、こちらは久しぶりに聴いたらこちらの作品は実によく楽しめた。ひょっとすると十数年前より楽しめたかもしれない。きっと、あの当時はこちらが求めている「マルサリスのジャズ」が、例えば「ノーズ・モウ・キング」みたいなテクニカルでスピード感ある4ビート作品ばかりだったのがいけなかったのだろう。今ではこちらジジイになって(笑)、彼がやっている音楽にもう少し寛容になったのが幸いしているのかもしれない。ともあれ、しばらくウォークマンにでも入れて、繰り返し聴いてみようと思う。
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ウィントン・マルサリスの肖像

2009年11月26日 23時47分52秒 | JAZZ
 ここ数日、ウィントン・マルサリスの2枚のアルバムを聴いたことで、なにやら彼に対する興味が再び沸いてきてしまい。昨夜、ラックをあれこれ探したところ、幸い売り飛ばさずに残っていたレギュラー・アルバムがCDが数枚でてきたので、昨日、今日とiTunesに取り込んでいるところである。なにしろ、彼のアルバムはもう長いこと聴いていなかったので、多分、「ソウル・ジェスチャーズ・イン・サザン・ブルー」の三部作とかエルヴィン・ジョーンズと「至上の愛」をやっているライブ盤とかも、購入しているはずだから、探せ出てきそうだが、とりあえず彼の活動の本流ともいえるアルバムは出てきたので、昔を思い出しつつ聴いているところなのだが、とりあえず今夜は、彼のデビュー作をメインのオーディオ・システムでじっくりと聴いてみた。おそらく10年ぶりくらいである。

 よく知られているとおり、このデビュー作(81年)は、当時のウィントン・マルサリス・バンドによって録音されたトラック3つを額縁にして、ハンコック、カーター、ウィリアムスというVSOPのリズム・セクションとのトラック4つを間に置いた構成になっている。ちなみ前者は東京録音、後者はニューヨークである。どうしてこういう構成になったのかは、実はあまりよく覚えていないのだが、マルサリスはジャズ・メッセンジャーズの後、VSOP絡み人脈で名前を上げたこともあり、デビュー作にはそのお墨付きを与える意味で、こういう変則的なものになったのだろう。なぜ東京録音だったのかといえば、当時ハンコックがCBSソニーに日本サイドから発案によるアルバムを何枚も製作していたことから(VSOP、ピアノ・トリオ、マルサリス入りのカルテットなど)、おそらくそれらに合わせて録音したのだと思われる。

 まぁ、そういう経緯で製作されたせいもあって、オリジナル・バンドの演奏が1,2,7曲目に配置されているせいもあり、全体としてはマルサリスのアルバムという体裁は整っているものの、その後のマルサリスの出していく一連のアルバムに比べると、彼らしさという点ではやや薄味な印象もあのはいたしかたないところだろう(中間の4曲がいかにもVSOPIIの音である)。ちなみにマルサリス・バンドによる3曲はどれも、テクニカルな仕掛けを隠し味にした複雑なアレンジ、高い演奏力、ある種のシリアスな音楽的な趣など、この時点でほぼマルサリスの音楽は7割方出来上がっていたことを伺わせる。この時期のマルサリスの音楽というのは、フリー・ジャズで一旦壊れ、フュージョンという形で生きながらえたジャズを、今一度伝統的なスタイルで再生していく....みたいなコンセプトを本人自身が使命感として感じていたフシがあって(笑)、この3曲は単に伝統をそのまま再生させるのではなく、なにがしかのコンテンポラリーさを加味した上で再構築していこうという意図が強く感じられるのだ。

 具体的にはいえば、「ファーザー・タイム」はトリッキーなリズムとオーソドックスな4ビート・ジャズをシームレスにつなぐアレンジ、「アイル・ビー・ゼア....」は切れ切れのモチーフやインプロで印象派風な空間を形成、「トワイライト」はブルース的なリフの繰り返しの中、アブストラクトなソロを点描的に配置していく非常にモダンな作品といったところか。まぁ、よーするに60年代の新主流派の音楽の続きを15年後に再開したような音楽なのだが、ここでは未だ新伝承派としてのコンセプトが勝ちすぎて、音楽的感興が伴ってない憾みがないでもない。ちなみにいえば、80年代にこれを聴いた私は「これって絶対考えすぎな音楽だよなぁ、もっと素直に普通ジャズやればいいのに」とか思ったものだったが、今回実に久しぶりに聴いても、残念ながらそのあたり印象はかわらなかった。
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ハイドン交響曲第33番「儀典官」/フィッシャー&オーストリア・ハンガリー・ハイドンPO

2009年11月25日 23時57分14秒 | ハイドン
 33番の第1楽章はヴィヴァーチェ、最初から飛ばしてます。この時期の交響曲といえば、第1楽章はたいていアレグロですが、個人的にはこのくらい性急かつ溌剌と始めた方が、現代人の私には心地よく感じられます。非常にはつらつとした勢いがあるものの、どちらかというスポーツ的な運動性とかいうのではなく、雅やかで宮廷風、絢爛で華やいだ風情が強いのが特徴でしょう。それはまるで王侯貴族の祝い事かなにかで催される盛大な宴のスタートみたいなイメージみたいな感じ。また、先の32番ほどではないにしても、ここではティンパニがけっこう活躍しますが、これがまたいいアクセントになってます。また、しっとりと落ち着いた第二主題は、この楽章の格調高さに一役買っているのもいい感じ。

 第2楽章はアンダンテでオーソドックスな緩徐楽章ですが、ハ短調のせいもあるんでしょう、夜会的というかセレナーデ的ななひんやりとした落ち着きが感じられれます。第1楽章は4分弱でしたが、こちらは5分半で全楽章中最長、じっくりと進みます。第3楽章のメヌエットも特にほぼパターン化された古典様式の音楽ですが、第1楽章と呼応しているのかティンパニがいいアクセントになってます。トリオのシンコペしたリズムはおもしろいですが、それらも含めこちらは2分半であっという間に終わります。最終楽章はほぼ第1楽章の宮廷の宴的な雰囲気に戻りますが、こちらはヴィヴァーチェでもプレストでもなくアレグロ、こういうのはハイドンらしいバランス感覚なんですかね。ここでもティンパニがドシンとかなり強烈な効果を出していますが、よく出来た第1楽章に比べると軽く流した....という感がなくもありません。

 という訳で、この曲は前半の2つの楽章の出来が良く、特に第1楽章の華やいだ雰囲気はかなり気に入りました。ニックネームについてはそれにあやかって「儀典官」。儀典官というと、現代の日本にも外務省なんかいると、こういう名の役職があるようですが、私のイメージしたのは、宮廷の宴儀で開始の時や、料理が運ばれくるとかけ声をかける、実にあの時代らしい役職の方ですね。なんか昔、映画だか小説だかで知ったんですが、調べみたら、こうした宮廷時代の儀典官は金色の鍵を首からぶら下げてそうですが、まぁ、こういう人が、気取った貴族達を尻目に宴を格調高く仕切っていたんでしょう。そういうイメージでつけてみました。
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ブラームス ピアノ四重奏曲 第1番(ピアノ連弾版)/マティーズ&ケーン

2009年11月25日 00時38分25秒 | ブラームス
 マティーズ&ケーンによるブラームスの主要作品のピアノ連弾シリーズ、今回はこのところ頻繁に聴くピアノ四重奏曲の第1番を聴いてみた。このシリーズは気がつけばたいていのものを購入しているが、これなど確か2,3年前には購入してあったように思うのだけれど、ピアノ四重奏曲そのものがしばらく興味の範疇外であったから放置してあったのだが、今まさに機は熟したというところだろう。それにしても、全くナクソスというのは良質なレーベルである。こういうメジャーな会社なら見向きもしないようなレパートリーを地道にレコーディングしてくれるのは、まずは資料としても貴重というのはもちろんだが、こういう演奏を聴くことによって、こうした作曲家に対する理解の深化や新たな側面を認識できたりするきっかけを得られると思うからだ(実際は得られるかもしれない....程度かもしれないが-笑)。

 それにしてもブラームスの作品というのは、セレナードはもちろん、交響曲にしても、実にピアノ連弾というスタイルに合う音楽だと思う。この1番はそもそもピアノを伴った曲だから、そもそも、半分は「そのまま」だとしても、残りの弦楽パートをピアノに置換してもそれほど不足感がないのは、そもそもブラームスという人がピアノ音楽的な発想で作曲してきた人だからだろう。第1楽章のピアノの暗鬱なテーマから、深刻な表情で弦楽が重なってくる冒頭など、-そもそもシェーンベルクの分厚いオーケストレーションでこの曲を聴き慣れてきた私のような者が聴いても-「これはこれで十分あり!」と思わせる良さがある。ブリッジの憂愁なムードもピアノだけで錯綜する線を再現しているが、オリジナルとは違った透明な美しさがある。また、ブラームスらしい寂寥感のようなものが漂う場面では、4手では思いの他効果的新鮮だったりもする。ただし、壮麗な第二主題はとか錯綜する展開部などは、4手では明快に各声部が聴き取れるのはいいのだが、やはりいささか寂しい感じもなくはない。

 第2楽章と第3楽章(間奏曲)は、時に背景のリズム処理が多少機械的にトランスクリプションした不自然さを感じるは時もあるが、大筋では違和感なしの出来。前者はシューマンの暗い抒情が横溢するピアノ曲のように聴ける。後者はオリジナルとは趣のことなった淡い水彩画のような美しさが印象的だ。ハンガリー風の第4楽章は、元々4手の曲のようにすら聴こえるから妙だ。これは「ハンガリー舞曲」という、既成事実の存在も大きいのだろう。突如「ハンガリー舞曲」を聴いている気分になってしまうのは笑える。いや、くだんの舞曲集でもここまで過激に盛り上がる曲もなかったのではないか。ともあれ、ここでは、いつもお行儀のよいマティーズ&ケーンが終盤はかなりホットな演奏になっているのは、やはりこの楽章の性格あって故なのだろう。
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コリア,ビトウス,ヘインズ/トリオ・ミュージック -ミュージック・フロム・T.モンク-

2009年11月24日 22時57分53秒 | JAZZ-Fusion
 チック・コリア、ミロスラフ・ビトウス、ロイ・ヘインズのトリオが14年振りに再開してのアルバム「トリオ・ミュージック」のディスク2はセルニアス・モンク集である。モンクといえば、私のようなスタンダード・ナンバー好きには「ラウンド・ミッドナイト」として有名で、実際このアルバムにも同曲が収録されたりしているけれど、今一歩深度を深めたところで、ジャズ界のミューシャンズ・ミュージシャンというか、ジャズ界でもかなり特異な作曲家として、ジャズ・ミュージシャンの中でもリスペクトの対象になりやすいという存在でもある。私などモンクのユニークさというならある程度感知できるものの、その良さとなるとさっぱり実感できないというが正直なところなのだが(ちなみにデューク・エリントンにこれはもいえる)、それでも自宅にはモンク集といった企画のアルバムが少なからずあったりするから、やはりジャズ・ミュージシャンにとっては、一度は手がけてみたい素材なのだろうと思う。さっそく聴いてみよう。

 さて、本ディスクだが「リズム・ア・ニング」からスタートする。この曲はアコースティック・バンドの演奏で馴染み、遡ってこちらのヴァージョンを聴いたという感じだが、アレンジの大筋は同じだが、アコースティック・バンドでのきっちりかっちりとした演奏に比べると、ディスク1のインプロでトリオ自体が相当のいってしまっていたのか(笑)、かなりフリー....いやかっとんでいる演奏である。およそオリジナル曲を意識にしているコリアだけみたいなところがあり、ビトウスとヘインズはイケイケなノリで飛ばしまくっているという感じか。「ラウンド・ミッドナイト」「エロネル」は、前者は陰、後者は陽という色合いの違いはあるものの、アルバム中ではかなりオーソドックスなピアノ・トリオ演奏だ。「シンク・オブ・ワン」はアーシーなユーモラスさ滲ませた実にモンクらしいアクを感じさせる作品。多分、ジャズ・ミュージシャンこういうアクに、なにやら己のミュージシャン、インプロバイザーとして霊感を刺激されるのではないか?。3人の演奏も実に楽しそうだ。

 「リトル・ルーティ・トゥーティ」も実にモンクらしい、引きつったようなリフがポイントになっている。こういうリフというかモチーフをフックにして、実にスムースにチックのインプロに移行して、ビトウスのソロにバトンタッチするところでもこのリフをフックにしているあたりがおもしろい、ある意味フュージョン的な流れを感じさせる。ラストの「ハッケンサック」も同様だ(そういえばこれもアコースティック・バンドでやっていた)。「リフレクションズ」は、私の場合、ドナルド・フェイゲンのインスト作品で知ったのだけれど、あれはモンクの作品にひそむ都会的な哀感だとかヒューマンな感覚を実にモダンに表現した素晴らしい演奏で、個人的には大好きな演奏なのだけれど、このトリオによる詩的な演奏も負けず劣らず素晴らしい。割とフリージャズ的な奔放さが目立つこのアルバムでは、もっともスタティックな美しさを感じさせる演奏といってもよく、それが故にアルバム中でもひときわ光輝いているという感もある。
 
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