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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

ストロベリー・パス/大鳥が地球にやってきた日

2010年07月03日 23時59分46秒 | JAPANESE POP
 フライド・エッグの前段階として存在していた成毛滋とつのだひろのブロジェクト(更にその前にジプシー・アイズというバンドも存在していたらしい)。ギター&キーボード+ドラム&ボーカル、そしてベースの江藤勲がゲストで数曲参加という布陣で制作されたようだ。私はこれが出た当時、小学6年生くらいのハズだったが、10歳上の愚兄がロックファンだったせいで、自宅にはけっこういろいろなロックやジャズのアルバムがあったものの、さすがにこれは自宅になかったし、ミュージック・ライフや音楽専科などでも本作のことは、ついぞお目にかかった記憶もない。なにしろ私がその存在を知ったはここ数年という有様である。なので、本作は当然初めて聴く作品となる。

 録音は71年、音楽的にはクリームあたりをベースに、ジミ・ヘントリックス、ディープ・パープル(「ハッシュ」の頃)、プロコルハルム、ヴァニラ・ファッジ、クリムゾンあたりのテイストを加味した、当時の日本の洋楽受容状況をよく表した音楽となっている。メンバーがふたりという制限ある編成で録音されたためか、音楽のノリはやや箱庭的にちんまりしてしまっているが(当時、欧米に比べて圧倒的に遅れをとっていた日本の録音技術が、期せずして明らかになっているこの線の細い音質が、その印象を倍加している)、逆に成毛はそういう編成だったからこそ、ここではオーバーダビングを存分に駆使して、ギターとキーボードを披露している。

 収録曲では、「アイ・ガッタ・シー・マイ・ジプシー・ウーマン」はクリームやジミヘン風な作品で、「イエローZ」はブルース・ロック的な香りを発散しつつも、ソリッドな仕上がりで、成毛のギターも高いテンションにミック・ボックス的なギター・ソロを聴かせる。また、フライド・エッグの「グッバイ」でもライブ演奏されていた。「ファイヴ・モア・ペニー」「リーブ・ミー・ウーマン」は典型的な当時のブリティッシュ・ハード&ブルース・ロック的フレーズやサウンドが散りばめられた作品である。ともあれ、当時聴いていたら、これらはブリティッシュ・ロックの日本流のエピゴーネンに聴こえてしまったかもしれないとも思うのだが、もはや発売から40年、当時の流行やスタイルがすっかり洗い流され、スタイルとして古典化してしまった現在だからこそ素直に楽しめる音楽とも思う。

 一方、非ハード・ロック系のものとしては、「ザ・セカンド・フェイト」は誰が聴いてみプロコルハルムの「青い影」を思わせるクラシカル・テイストのインストゥルメンタル。「球形の幻影」のドラム・ソロをフィーチャーした作品だが、そのメロディックなセンスは意外にもマイケル・ジャイルズ臭かったりもりする。ラストのタイトル曲はかなりプログレ風の仕上がりで、アコギのアルペジオをバックにクラシカルなフルートをフィーチャーして進行するあたり、「風に語りて」か「エピタフ」かって雰囲気である。先のジャイルズ風なドラムといい、71年の日本でクリムゾンの影響がこれほどダイレクトだったとははある意味驚異ではある。

 最後に7曲目は、かの「メリー・ジェーン」のオリジナル・ヴァージョンだ。つのだひろの唯一の大ヒット曲というか(笑)、ある種ロック・スタンダードにすらなっているナンバーだが、オリジナルはこのアルバムに入っていたのを私は初めて知った。なんだか、見知らぬ街で、突然古い友達に再会したような気分である。改めて聴くと、アレンジに見事に歌謡ロックを先取りしていりするが、泣きのストリングスの響きがもろに歌謡曲してしまっているが惜しい。おそらく成毛はここではメロトロンを使いたかったに違いない。
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グッバイ・フライド・エッグ

2010年06月20日 13時57分42秒 | JAPANESE POP
 成毛滋、角田ヒロ、高中正義(この時期はベースを弾いていた)からなる1970年代初頭に活躍したしる人ぞ知るトリオ、フライドエッグのラスト・アルバム。A面ライブ、B面スタジオで構成されていて、タイトルといい、その寄せ集め感といい、クリームのそれを思わせる仕上がりである。音楽の方もロックといっても、ブリティッシュ・ニューロック&ハードロック・ムーブメントの極東支部といった感じであり、これが制作された1972年という時代の匂いがプンプンする音楽となっている。

 A面ライブの方はとにかく成毛滋のギターが堪能できる。この人が持っていた当時のブリティッシュ・ロックへの忠誠心というか、同化振りは尋常でなく、そのクウォリティは当時の日本では明らかに突き抜けていたことを感じさせる。当時、この人はこの種の音楽に対する理解度や表現力という点で、ほとんど孤高というか、長崎の出島的なポジションであったに違いなく、回りそのような人がほとんどいないという孤立無援なフラストレーションがあったと思われる(「521秒間の分裂症的シンフォニー」では他にやれそうな人がいないから、自らエマーソンやウェイクマンばりの鍵盤奏者になっているほどだ)。このライブではそうしたフラストレーションが一気に爆発し、まるで狂ったように弾きまくっているようなところすら感じられる。

 一方、当時の角田ヒロのドラムスもおもしろい。おそらくこの人のドラマーとしての立ち位置はブリティッシュ・ロックというよりは、もうすこしオーソドックスでジャズ的なものがあった人のように思えるのだが、成毛とは違った意味で、当時は「このくらい叩ける人はあの時彼しか居なかった」的な四面楚歌的なドラミングになっているのだ。例えは悪いが、「学校で一番うまいドラムを叩ける生徒」が、ブラバンから軽音楽サークル、そしてロックバンドまで掛け持ちしているような感じだったのだろう。ともあれ12分にも及ぶ「Five More Pennis」後半のエキサイティングにソロ・パートなど、その熱気といい、卓越した技術といい、当時、紛れもなくロック高進国だったニッポンで実現した白熱の記録といってもいいと思う。

 旧B面のスタジオ録音も充実した仕上がりだ。その完成度といい、テンションの高さといい前作「ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン」を上回る仕上がりだと思う。ツェッペリンでもパープルなく、ユーライア・ヒープばりのリフやコーラス、クリムゾン風な抒情、そしてELP的なキーボードなどなど、当時の彼らのブリティッシュ・ロックへの十字軍精神というか気概、もしくはエリート主義のようなものまでよく表していて、聴いていると、今では文化として全く陳腐化してしまった「ロックに殉教する」的なカルチャーと熱気がひしひしと伝わってきて、実に懐かしい気分になる。

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フード・ブレイン/晩餐

2010年05月29日 16時04分30秒 | JAPANESE POP
 柳田ヒロ(Kye)、陳信輝(Gtr)、加部正義(Bs)、つのだひろ(Ds)という、当時(1970年)、日本に居たロックの精鋭によって作られたオール・インストのジャム・セッション。私は当時のロックについては疎い方だが、当時の日本の業界は、グループサウンズにしてから全く歌謡界の論理で運営されてたに違いなく、1970年にロックのレコードが出されていた事自体はありだとしても、よもやこうした非商業的でアングラの匂いがプンプンする日本版「スーパー・セッション」ばりのアルバムまで作られていたとは実に意外だった。

 さっそく聴いてみる。1曲目はブギウギのリズムにのって、ハードにドライブする作品。ハードロックとサイケが妙に混濁したような音楽で、大蛇がのたうちわるような加部正義のベースもかなりヘビーなプレイであり、このカオスっぷりはなかなかである。3曲目の「M.P.Dのワルツ」は、それこそ「スーパー・セッション」の生みの親、当時は今では想像もつかないほど影響力があったアル・クーパーのオルガンを思い起こさせる柳田ヒロのスペイシーなオルガンがフィーチャーされている。一方、4曲目の「レバー・ジュース販売機」は加部のベースと陳信輝のギターがフィーチャーされ、クリームとかヴァニラ・ファッジを鋭角的にして、ギラギラさせたようなサウンドになっている。

 5曲目の「目覚まし時計」では、再び柳田のオルガンがフィーチャーされる。70年当時の最新モードからするやや旧式なプレイだが(キース・エマーソンのプレイの影響はまだないに思える、当然シンセはまだ使っていない)、かなり熱いプレイである。6曲目の「穴のあいたソーセージ」では、オーネット・コールマン、ついでにマルイスの「ビッチズ・ブリュー」的な、いかにもロック・ミュージシャンによるフリージャズになっている(そういう意味でクリムゾンなんかに近い感触がある)。それにしても、この混沌とした様相は、初めて聴くアルバムであるにもかかわらず、なんだか小学校5,6年の頃にタイムスリップしたような懐かしさがある。

 当時、この手の換骨奪胎ロックって、実は日本のスタジオや映画、テレビなどで似たような音はけっこう耳にしていたと思う。しかし、それをこうした形で残しておいたのは、今となってはレアとしかいいようがない。それにしてもこのブギウギに始まり様々な当時のロックをフォローしつつ、ラテンやバッハなどもつまみ食いする音楽的情報量の多さはいかにもニッポンである。スタイルの進化をスピード競争していた時期に聴いたら、まるでフォロワーにしか聴こえなかったであろう音楽だが、今となって独自のニッポン的価値感を主張できるかと思う。
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VITAMIN-Q featuring ANZA

2010年02月12日 23時05分50秒 | JAPANESE POP
 昨年物故した加藤和彦の最後のプロジェクトのひとつである「VITAMIN-Q」は、土屋昌巳(gtr)、小原礼(b)、屋敷豪太(ds)、そして女性ヴォーカルANZAが加わったロック・バンド・プロジェクトだ。ANZAのことは寡聞にしてよく知らないのだが(元々は桜っ子クラブさくら組というアイドルグループ出身でその後シンガーとして自立したという経歴らしい)、このメンツであれば、一昔であればスーパー・バンドと呼ばれていたことだろう。だが、おもしろいのはむしろここに参集した面々が、メインで活躍した時期が60年代から現代までほぼ全域をフォローしているということだろう。60年代フォーク、サディスティック・ミカ・バンド、一風堂、ソウルIIソウル、HEAD PHONES PRESIDENTといったところだが、およそポップやロックと名のつくものなら、なんでも出来てしまいそう面々を集めながら、音楽的なターゲットはもっぱら「60年代後半ロックの再現」に絞っているという足枷がまずおもしろい。この時代のロックに対して、集まったメンバーの思いはいろいろだろうし、それぞれの音楽的スタンスも違うであろう。おそらく、加藤和彦はそのあたり微妙なズレを予め織り込んで、いや計算ずくでこのメンツを集めたのだろうと思う。このアルバムのおもしろさは多分そのあたりにある。

 本アルバムは先ほども書いたとおり、基本的には60年代後半のロックだ。ただし、あの時代のサイケデリック・ロックやフォーク・ロックをベースにしつつも、オールディーズ、ビートルズ、ニューロック、日本のGS、歌謡曲、ハードロック、グラムロック、ニューウェイブ、90年代以降のギター・ロックといった音楽的要素が隠し味のように効いて、音数はそれほどでもないが、やけ情報量の多いサウンドとなっている。まさに立ち位置の微妙に異なる大ベテランが集まったからこそ出来上がった音というべきだろう。収録曲は加藤和彦の曲が中心だが、基本フォーク・ロック風な曲に、土屋昌巳のギターがのることで、例えばSMBなどともひと味違うサウンドになっているあたり、このバンドの異種格闘的なおもしろさが出た最たる場面だと思う。それらしても、土屋のギターは相変わらずロックの全ヒストリーをひとりでフォローするヴァーサタイルさを発揮していて、本物なんだが偽物なのかわからないこのバンドの音楽に、いかにもロックなリアリティを与えていて素晴らしい。ちなみに屋敷豪太の提供した2曲は、「ホワイト・アルバム」をパロディったような曲たが、彼は世代的に60年代後半の音楽をリアルタイマーとして経験していないハズだから、完全に現代の視点で「ホワイト・アルバム」の音楽を料理していて(XTCなんかに近い感じ)、これまたおもしろい作りになっている。
 
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加藤和彦氏 死去

2009年10月17日 23時19分35秒 | JAPANESE POP
 加藤和彦というと、私の世代だとなんといっても「帰って来たヨッパライ」である。かの曲の大ヒットを子供心にも鮮烈におぼえていることは、再結成フォーク・クルセダーズの「戦争と平和」のところにも書いたとおりだが、その後彼は「あの素晴しい愛をもう一度」を大ヒットさせて、それもまた強烈な印象があったことは同じところに書いた。さて、その後の加藤和彦は、ご存じサディスティック・ミカ・バンドでイメチェンする。アングラ・フォークからニュー・フォーク、そしてグラム・ロックへと変わっていった訳で、そのカメレオンの如き変貌振りはかのデビッド・ボウイ並だが、その後80年代以降も軽妙洒脱なシティ・ポップスを中心に、職人的ソングライターとして楽曲提供やサディスティック・ミカ・バンドな2度に渡る再結成など、決してメインストリートに躍り出ることはないけれど、常に「通向き」なスタンスであれやこれやと音楽をつまみ食いし続けた人というイメージだった。

 今になって彼は死は自殺であったという報道もちらほら出てきている。もしそうだとすると、思うに彼の音楽とは音楽の最新のトレンドを起爆剤として、自らの音楽を触発していくタイプだったので、あれやこれや音楽をつまみ食いし、サディスティック・ミカ・バンドやフォーク・クルセダーズも再結成させて、自らの音楽をもレトロスペクティブしてしまった後、もはややることがなくなってしまっていたのかもしれない(60代ともなれば普通そうだ)。それに彼のような人の場合、自分の老いということも耐え難いものがあったのかもしれないなどとも思ったりする。ともあれ、その突然の死にはけっこう驚いているところだ。最近の加藤和彦といえば、再結成フォーク・クルセダーズは聴いたが、再々結成サディスティック・ミカ・バンド(木村カエラの方ね)や骨太ロックを指向したらしいVITAMIN-Qは未だ聴いていない。彼への追悼もかねてこれらのアルバムでも聴いてみようか。
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坂本龍一/スムーチー

2009年08月16日 23時21分42秒 | JAPANESE POP
 この作品、基本的には前作「スウィート・リヴェンジ」に続編という、ポップな作品を作るというスタンスで製作されものだと思う。ただし、「スウィート・リヴェンジ」が音楽的にも非常に多彩で、全体にカラフルな仕上がりであったのに比べれると、こちらはそれが結果的にではあったにせよ、いささか生彩に欠く印象を受ける。なにやらしんみりした曲が多いし、アルバム全体がいささか低回気味なムードに支配され過ぎているような気がするのだ。1曲目の「美貌の青空」ではイントロで、いきなりインダストリー風にブチカマしてくれるが、曲自体はメランコリックな沈みがちなものであるし、2曲目「愛してる、愛してない」では、こともあろうに中谷美紀が呼んでおきながら、少女への憧憬が空転するような意味不明な作品になってしまっている。

 と、まぁ、万事こうした調子の曲が続く。豪華に装丁された高級書籍のような風情で発売されたこのアルバムを勇んで購入してきたこちらは、いい面の皮である(笑)。今回、久しぶりに聴いて、ハタと気がついたのだが、この時期の坂本は「未来派野郎」以来、かれこれ10年近く続けてきたシーケンサー、サンプリング、ループといったエレクトリック・サウンドにいい加減、飽きてしまっていたのではないだろうか。その証拠といってはなんだが、このアルバムの後発表された「1996」は坂本流の室内楽であって、その後もピアノ・ソロだの、オーケストラだのと、「生音指向」が強い作品を頻発していくのである。そう思えば、この作品は、むしろ「スウィート・リヴェンジ」から「1996」へと向かう狭間に作られた過渡期に作品と考えると、なんとなく坂本ヒストリーでもなんとなく「座りの悪い」この作品もすっきりとするような気もする。もっとも、私は坂本流の室内楽は、あまりおもしろいと感じないクチなので、理屈で納得したからといって、この作品が俄然好きになったりする訳でもないのだが(笑)。

 さて、ネガティブなことばかり書いているようだが、実はそうではない。この作品、なんだか沈痛な作品ばかり続くのだが、私にとって光り輝いている曲がある。それはラストの2曲、つまり「Rio」と「A Day In The Park」だ。この2曲だけは文句なく素晴らしい。「Rio」はSF的な空間の中、ゴスペル風な旋律が見え隠れする、なんだか「ブレイド・ランナー」でも観てるような気分にさせるスペイシーな曲なのだが、ピアノとシンセのアーシーなフレーズがエレクトリックな空間の中で静かに鼓舞する様は、問答無用な美しさを感じさせる。また、後者の「A Day In The Park」はAOR風なサウンドとファンキーなリフの繰り返しで構成された一見「普通の曲」だが、実は「普通の曲」バラバラに解体されたオブジェの曲であることは、この曲のメインのボーカルがないことでも一目瞭然だ。いやぁ、実に素晴らしい。という訳で、今夜も私はこの2曲だけを聴くためにこのアルバムをひっぱりだしてくるのだ。
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坂本龍一/スウィート・リヴェンジ

2009年07月24日 23時25分16秒 | JAPANESE POP
91年の「ハートビート」から3年を経て94年に発表された作品。「ハートビート」のとこにも書いたが、ソロ作品という側面でいうと、坂本龍一はワールドワイドな展開については「ハートビート」でもってとりあえず後退させ、この作品から明確に国内向けに舵を切ったような印象を受ける。これまでの数作で頻出したアヴァンギャルドでハイブリッドなインストやソウル色をほぼ一掃、全曲にボーカルをフィーチャーさせ、表向きあまりポップな体裁をとっている作品ばかりで構成されているあたりからそう思う訳だけれど、アルバム全体がいつも粘着質な音作りではなく、サラサラとしてあっさりとしたものになっているのもそうした印象を倍加している。
 なお、日本での発売元はなんとフォーク系のフォーライフ、そういえば本作には今井美樹が参加しているし、彼女のアルバムのプロデュースなどもしているから、その路線変更ぶりはけっこうあざといものすらあった。なお、この路線が決して気まぐれでなかったことは本作に続く「スムーチー」でも、ほぼ同様の路線がとられたことでも分かる。

 さて、そんなポップな「スウィート・リヴェンジ」ではあるが、個人的にはけっこうな愛聴盤である。なにしろ、このアルバム。「ハートビート」「サマーナーブス」あたりと並ぶ、坂本が出した「夏物」の傑作といえるからだ。特に好きなのは後半の4曲で、アズテック・カメラのロディ・フレイムをフィチャーし、ブリティッシュ・ロックとリゾート・ミュージックが一緒くたになったような10曲目「Same Dream, Same Destination」、アート・リンゼイをフィーチャーしたニューヨーク風なボサノバ作品である11曲目「Psychedelic Afternoon」の乾いた抒情(ついでにいうと坂本のリチャード・ティー風なエレピが実にいい感じ)、ラターシャ・ナターシャ・ディグスのラップ....というかモノローグにリズム隊抜きのあっさりとしたバックをつけた12曲目「Interruptions」の脱色した日常風景みたいなリラクゼーションなど、どれも夏に聴くと実に心地よい作品なのだが、極めつけは8曲目の「アンナ」で、いかにも日本人が好みそうな哀愁と抒情の旋律をベースに、ヨーロッパ風なクールなエレガントな雰囲気をボサ・ノヴァに合体させた素晴らしい作品だ。

 そんな訳で、今年も坂本の夏物ばかりを集めたコンピレーションCDを作ってみた。なんだか、イリアーヌ・エリアスと交替で一年おきに、こんなの作っているような気もするが(笑)、今回作った構成は以下のとおり。前半「ハート・ビート」、中盤「ビューティー」&「ネオ・ジオ」、後半にくだんの「スウィート・リヴェンジ」の4曲ということになっている。前述のとおり「アンナ」は私の大好きな曲なので、2曲づらしてハイライトに配置したあたり、自分の好みがモロに出ている。ちなみに最後の2曲は「サマー・ナーブス」だが、これは音楽的な傾向が違いすぎるので、余白のボーナス・トラック扱いってところ。計16曲、76分ぎりぎり収録である。もっといれたい、いれるべき曲はあるのだろうけど、とりあえず今年はこれで満足。


01 Heartbeat (Heart Beat_'94)
02 Rap the World (Heart Beat_'94)
03 Triste (Heart Beat_'94)
04 Lulu (Heart Beat_'94)
05 High Tide (Heart Beat_'94)

06 You Do Me (single '89)
07 AMORE (Beauty '89)
08 Free Trading (Neo Geo '87)
09 After All (Neo Geo '87)

10 Same Dream, Same Destination (Sweet Revenge_'94)
11 Psychedelic Afternoon (Sweet Revenge_'94)
12 Anna (Sweet Revenge_'94)
13 Interruptions (Sweet Revenge_'94)
14 Sayonara (Heart Beat_'94)

15 Sweet Illusion (Summer Nurves_'79)
16 Neuronian Network (Summer Nurves_'79)

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We Wish A Merry Christmas / various artists

2008年11月24日 20時05分29秒 | JAPANESE POP
 細野晴臣と高橋幸宏がつくったYenレーベルの参加アーティストが集い、83年に作ったクリスマス・アルバム。83年といえば、既にYMOは解散していたけれど、YMOの後遺症のようなものは日本人アーティストにまだまだ蔓延していて、かくいうこのYenレーベルなども、いまして思えば、本家細野と高橋を筆頭にYMO後遺症にかかったミュージシャンたちが、なんとかYMOの幻影から決別すべく、集団的なリハビリをしていたようなレーベルだったと思う。参加アーティストは、御大2名の他、ムーンライダース、越美晴、大貫妙子、伊藤銀次、立花ハジメといったおなじみの面々だが、このアルバムで個人的に好きなのは、なんといっても、上野耕路と戸川純というゲルニカのコンビが二手に分かれて提供した2曲だ。

 上野耕路の提供した曲は、「Prerude et Choral」というオリジナルで、日本語にするとフランクの曲みたいな「前奏曲とコラール」といういかにもクラシカル然としたものだが、内容もシンセでオーケストレーションされているとはいえ、まったくのクラシック的なもので、ベルク的な粘着質で饐えたような世紀末な感覚、シェーンベルクの「浄夜」を思わす冷え切った夜の感覚や弦楽のダイナミズムなどなど、2分半ほどのスペースの中に私の大好きな新ウィーン的なムードがつめこまれていて、めっぽう楽しめる。
 前記「前奏曲とコラール」をまさしく前奏曲的に配置して現れる、戸川純の「降誕節」もいい。いかにもクリスマス然としたドリーミーなオーケストレーションと打ち込みのリズムにのって、幼児パワーが炸裂したみたいな戸川純の天衣無縫なボーカルが、ちょっと変なクリスマス気分を演出していて、これまた楽しいのだ。

 という訳で、毎年このシーズンになると、この2曲は私の定番だったりするのだが、他に大貫妙子のひとりスウィングル・シンガーズ・スタイルで仕立てた「祈り」とか立花ハジメの「WHITE & WHITE」とかも楽しい。もちろん額縁になった御大2人の曲も悪くないし、ポップス的な3曲も良いアクセントになっている。ピエール・バルーのボサ・ノバ作品とか昔はちっともおもしろいと思わなかったが、さっき聴いたら、こういう「苦み」は昔はわからなかったんだろうなぁ....などと思いつつ、けっこう味わい深かったりもした。全体に気取りすぎなところはあるけれど、やっぱこのアルバム楽しめる。
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荻野目洋子/Pop Groover

2008年11月12日 23時25分51秒 | JAPANESE POP
 「洋楽ロックファンに受けるアイドルの系譜」という話をどっかで聴いたことがある。硬派のロックファンでもコイツなら許せる....的な人達の連なりもだったような気がするのだがよく覚えていない。覚えているのは、その系譜の最大の存在はやはり森高千里だったということ。そして、森高千里が王座に収まるまで、その系譜にトップに君臨していたのが、荻野目洋子だったということだ。こういう系譜にはチャラチャラした松田聖子だとか、直球ど真ん中みたいな斉藤由貴などはは入らないのだが、荻野目洋子といえば、松田聖子や斉藤由貴とほぼ同時期のアイドル群にあって、「歌のうまさでは一等地を抜けた本格派」みたいなと評価があったし、あまり媚びたところないルックスといったところがある種エクスキューズになってロックファンに受けていたような気がする。

 さて、私といえば森高千里については、アルバム全部を所持する問答無用の大ファンだったけれど、荻野目洋子についてはあまり入れ込んだ記憶がない(ルックスでいえはお姉さんの慶子のが好きだったしなぁ-笑)。確かに歌はうまいのだが、音楽がユーロビートの本案だったり(本家ユーロビートは大好きだったのだが)、歌っている歌詞のテーマが原宿だのヤンキーまがいの生活感だったりで、どうも自分が好きな音楽との接点がみつからないし、前述のとおりやがて森高という巨大な存在が現れると、この人の音楽も存在感もすっかり地味になってしまったみたいなところがあるのである。なので、自宅をさがしてみると彼女のアルバムも5枚や6枚は出てくるのものの、はてその音楽の中身はというほとんど記憶のデータベースに該当するものがない....という実情なのだが、例外といえるアルバムが「CD Rider」と、この「Pop Groover」である。

 「Pop Groover」は当時人気絶頂だった彼女のそれまでの活動を捉えた一種のベスト盤であるが、再録や初収録の曲なども多く、ほぼレギュラー・アルバムに準じた扱いされていたような記憶すらある。で、このアルバムの何がよかったのかといえば、アルバム最後に収録3曲、つまり「北風のキャロル」「D2D」「ノンストップ・ダンサー」が異常に素晴らしかったからだ。「北風のキャロル」は筒美恭平の哀愁のメロディー、「D2D」は荻野目の歌唱力のすごさがちょっと背伸びしたAORに結実した極上の作品、そして「ノンストップ・ダンサー」は、若き日の小室のクレバーなセンスが炸裂する緩急自在のテクノ・ポップ歌謡の傑作といった感じで、この3曲だけは何故か私に異常に波長が合い、この3曲だけなら現在でも頻繁に聴いているほどなのである。
 
※ そういえば、先般巨大な落日を迎えた小室哲哉だけど、小室といえば、私にとって「ノンストップ・ダンサー」と「愛しさと切なさと心強さと」が2曲が双璧である。
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大貫妙子/カイエ

2007年10月17日 23時00分28秒 | JAPANESE POP
 「クリシェ」と同じ84年に発表された作品で、同名のヴィデオ作品のサウンドトラックのようです。彼女は映像に音楽をつける仕事もその後、あれこれ手がけたりもする訳ですが、この作品あたりがその最初のものといえるかもしれません。内容的にはインスト、再録なども多く、いわゆるオリジナル・アルバムとは明らかに違う感触ですが、坂本、ミュージーというアレンジャーを配し、濃厚な欧州ムードという点で、紛れもなく「クリシェ」で展開した陰影、情緒をここでは再現しています。

 1曲目の「カイエ」はミュージーのアレンジによる、クラシカルでフランス的な優雅さ満点の曲で、大貫がひとり多重でスウィングル・シンガーズばりのスキャット・ヴォーカルを聴かせているのがおもしろいところです。続く「若き日の望楼」はミュージーのアレンジによる再演で、フランス語で歌っていますが、これはちとやりすぎな感も....。「Le courant de mecontentment」は、前作のタイトル・チューンの続編の如き坂本のアレンジによるテクノ・サウンドで、当時はやけに過激なサウンドに感じたものですが、今聴くとむしろ非常に格調高いサウンドになってますね。旧A面を締めくくる「カイエII」は、坂本がアレンジしたインストで、いかに彼らしい粘着質でゴツゴツしたサウンド、そしてやけに情報量の多いサウンドが印象です。

 旧B面に移ると「宇宙みつけた」は「シニフィエ」路線の「分かりやすい大貫」路線の曲で、坂本も「音楽」で披露したあのアレンジを再演しています。 続く「ラ・ストラーダ」「雨の夜明け」「夏に恋する女たち 」の3曲は全てミュージー編曲によるインストで(「ラ・ストラーダ」だけはスキャットヴォーカルが入る)、個人的にはこのアルバムのハイライトだと思います。彼女の声はほとんど聴こえない訳ですが、後の2曲は再演ということもあり、紛れもなく大貫妙子の世界になっているは一聴瞭然ですし、当時の大貫の音楽的なテンションをミュージーに伝わったのか入魂のアレンジで、 「夏に恋する女たち 」など泣かせるアレンジになってます。

 そういえば、これが出た頃、私は結婚式やその二次会のBGMを依頼されると(よくあるんですよね、これ。なにしろ、今でもある-笑)、このアルバムをホントによく使ったものですが、この曲を使って結婚した人たちのご子息、ご令嬢も、今や高校生はおろか大学生や社会人になっているんですね。うーむ。
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大貫妙子/シニフィエ

2007年10月16日 23時14分59秒 | JAPANESE POP
 「クリシェ」に続く84年の作品。前作で頂点を極めたといっていい陰影に富んだ欧州路線から一転して「明るい」作品に仕上がってます。そのせいかこのアルバム、数ある彼女の作品でも最も売れた作品になりましたし、それまでの多少マニア受けする存在だったのが、一気に一般への認知度を上げた作品ともいえます。シングルカットされた「夏に恋する女たち」がそこそこヒットして、TVや街角でかの曲がちらほら流れているを聴いて、「大貫妙子もメジャーになったのかぁ」と思ったりしたものですが、そういえば、この作品あたりからですかね、「ター坊シンパ」というか「大貫十字軍」みたいな一群の女性ファンが誕生したのは....。

 アルバムは前述の「夏に恋する女たち」からスタート、クラシカルなピアノにAOR風なサックスが絡み、透き通るような大貫妙子のヴォーカルが流れ込んで来るイントロは彼女の作品でももっとも印象的、美しい瞬間だと思います。実際このアルバムのイメージって、このイントロで決まったみたいなところありますね。ちなみに、本編はテクノっぽい仕上がりですが、ストリングス、ホーン、チェンバロ風なシンセなどを全編に心地よく配置して、彼女の声に絶妙の彩りを添えています。さすがにデビュウ時から彼女のパートナーとして付き合ってきただけあって坂本龍一のアレンジもさえ渡ってます。
 続く主要な楽曲はほぼ坂本の作る「東京発、テクノ経由、ヨーロッパ行」みたいなサウンドですが、当時、坂本は徐々に過激なサウンドを指向するようになっていたせいか、タイトル曲などでは、かなりエッジの切り立ったリズムが顔を出したりしますが、大貫というキャラとはこのあたりがぎりぎりのバランスだったような気がしないでもないです。また、「テディ・ベア」は同じ頃プロデュースした飯島真理と共通するような「音楽(YMO)」路線のポップな仕上がり。

 あと、このアルバムにもう一色、ヴァリエーションを与えているのは清水信之がアレンジを担当した「ルクレツィア」「SIESTA」「エル・トゥルマニェ」といった曲での開放感でしょうか。前作はフランス的なイメージだったとするとこれらの曲は、もろにイタリア風していて、どれも澄み切った青空、輝く太陽....みたいな開放的なイメージを全開しているの印象的です。
 という訳で、彼女のひんやりとして、美しいがちょっと超然とした声を、一般に認知させてもらうには、このアルバムのポップさ、開放感が、結果的に絶妙なプレゼンテーションを果たしたといったところではないかと思います。
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大貫妙子/Cliche

2007年10月12日 23時36分11秒 | JAPANESE POP
大貫妙子って、なんかイメージ的に「永遠に30代」みたいなところがあるけれど、私より5歳年長ってことは....今年でもう53歳になるんですね。このアルバムは彼女が29歳の時、つまり82年のものですが、多くの人に大貫妙子というミュージシャンのイメージを焼き付けた作品になるんじゃないでしょうか。彼女は70年代中盤にニュー・フォーク的なところから出発しましたが、フォーク的に深化する訳でも、ニュー・ミュージックやAORに染まる訳でもなく、妙に座りの悪い作品を連打していましたが、これはおそらく自分のもっているミュージシャン・エゴのようなものを本人もよく掴みきれていなかったんでしょう。ところが、本作に先立つ「ロマンティーク」「アヴァンチュール」といった作品あたりから、徐々にその音楽にヨーロッパ的なセンスを取り入れ始め、彼女独特の堅く閉ざされたような情感とひんやりとした透明な歌声とを生かす音楽スタイルを見つけるはじめる訳ですが、そのピークとなるがこの作品という訳です。

 アルバムは前半4曲が坂本龍一、後半6曲はシャン・ミュージーのアレンジですが、1曲目の「黒のノアール」はこのアルバムのテーマ曲といえる作品で、情緒面々たるメロディーを冷たいほどに澄んだ声で、まるで自分の情感ですら突き放すような歌う彼女のヴォーカルを聴いたときは、「いやぁ、こりゃ自分の一番弱いところを突いてきた音楽だな」などと意味不明なことをつぶやいたものです。2~4曲はある意味で当時のYMOの守備範囲ある、ユーロピアン・ミュージックとテクノの融合といえますが、「色彩都市」の上品さセンスは、まずは大貫と坂本の理想的コラボレーションのひとつといえると思います。5曲目からは本場のフランス・サウンドへのスウィッチ、どれもフランスの香り一杯のサウンドに彼女の声がこよなく調和していますが、個人的には7曲目「つむじかぜ」の明るいシャンソン風なところが好き。ついでに書くとこの曲以降の暗い情念に満ちたちと深刻展開はなはなかなか凄いものがあって、それを浄化するように映画ばりのロマンティックさに模様替えしたインスト版「黒のノアール」で締めくくるという構成は、渋谷陽一さん風にいうと、ゲシュタルト崩壊しそうなドラマチックさがあります。

 ちなみに彼女はこのアルバムでヨーロッパ路線を確立した訳ですが、この後84年の「カイエ」という企画っぽいアルバムでこの雰囲気を一度だけ再現しましたものの、実をいうとそれ以外、こうした路線はどんどん後退させてしまい、音楽的には少々ストイックで無色透明になり過ぎていったように思います。このアルバムで彼女のファンになったような私からすると、これはちと残念だったりするんですが、21世紀にはいってからの彼女の作品って、私聴いたことないんですが、そろそろこのあたりに回帰したり....してないか。
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坂本龍一/ハートビート

2007年08月11日 23時08分03秒 | JAPANESE POP
 1991年に発表された作品、詳しいことはよく覚えていないか、確かオリジナル・アルバムはヴァージンからワールド・ワイドで発表、サントラはベルトリッチ作品を連続して担当するなど、坂本がもっとも「世界の坂本」らしい活躍していた時期に当たっていたと思うが、このアルバムはオリジナル・アルバムとしてはその掉尾を飾る作品といえる。何故かというと、これ以降の坂本のオリジナル・アルバムはフォー・ライフに移籍したのに歩調を合わせるように、主として国内向けのスタンスで作るようになったからだ(少なくとも日本国内から見た、私にはそう思える)。

 私の思うに、「ネオ・ジオ」「ビューティ」 そして、本作は坂本の「ワールドワイド三部作」といいたくなる作品である。一体、彼がこれらの作品をどの程度世界で「受ける」と思っていたか分からないが、東洋的エキゾシスムを戦略的な「売り」にしつつ、アジア的な視点で無国籍を、圧倒的な情報量の音楽として構築した点は評価していいと思う。ただ、これら三部作は子細に眺めていかなくとも、アヴァンギャルドな音響的なユニークさのようなものは次第に後退し、どんどんポップになっていくのは明らかだ。その原因を考えるに、やはりこの「ネオ・ジオ」「ビューティ」といったアルバムは、世界的にみて、彼が思っていたほどには「受けなかった」ことが原因となっているのではないか。

 これはあくまでも私の視点からの想像だが、この「ハートビート」という作品は、いわば前2作の不振から、坂本が勝負をかけた作品のように思えて仕方がない。当時、シーンを席捲してハウス・ビートを大々的に導入し、ソウル・トゥ・ソウルあたりから注目されたバリー・ホワイト的な洗練されたポップ・センスをまぶして、しかも、坂本的な音楽的なコアは犠牲にしないという、かなりきわどい音作りになっているが、それがぎりぎりのところでバランスしているのは、さすが坂本龍一としかいいようがない。ただし、そうした水際だった音づくりな割に、これがセールス的に成功したのかというと、どうでそうでもなさそうだったから、彼はオリジナル・アルバムというポジションでは国内に目を向けざるを得なかったというところだと思うのである。

 ともあれ、この作品、この時期の坂本龍一の最高傑作ではないか。特に前半のハウス・ビートと坂本サウンドの合体、ポップさと実験性のきわどい綱渡りが、絶妙にバランスして坂本でしかなしえないサウンドになっているし、2曲のボーカル作品のポップさも楽しい。夏のドライブにさらっと流してもイケるし、ヘッドフォンで聴いてもその豊富な音楽的情報量の巧緻な組み立てに感心するも良し....という訳だ。
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ZARD/揺れる想い

2007年06月09日 21時01分54秒 | JAPANESE POP
 多くの人がそうであるように、私がZardを知ったのは93年のTVで大々的にオンエアされた、ポカリスエットのコマーシャルである。今となっては、あんまりよく覚えていなのだけれど、一色紗英が夏の海岸で男のコと戯れているようなものと、自転車にのっている野球場へ向かうようなヴァージョンがあったような気がする。特に前者は一色紗英の魅力爆発という感じで、もうとにかくキラキラ輝いているような美少女ぶりだった訳で、このコマーシャル映像的にもなかなか印象的なものであったのだけれど、そこで流れていたのがZardの「揺れる想い」だったのである(こういう時に便利なYouTubeをあれこれ探したみたけれど、くだんのCMを探しだすことはできなかった)。

 「揺れぇ~る想~い、体じゅう感じぃてえ~」という有名なコーラスが使われていた訳だけれど、目の前のパースペクティブがわぁとばかりに拡がるような開放感と、清涼感のような歌声も実にキャッチーなインパクトがあった。昔も今もCMのタイアップ曲などにはほとんど縁がない私がこれにはかなり惹かれるものを感じたのだった。
 ところが、私はこの曲を歌っているのが、CMに出ている一色紗英に違いないとかたくなに思いこんでいて、ショップにいくと彼女のCDをたまには物色したりもしていたのだか、彼女は歌など歌わないのである訳もなく、「あの歌はなんだったんだ?」と思い続けていたのである。まぁ、周囲の人にでも尋ねれば、あっという間に解決したのだろうが、いかんせん、私はこの曲を一色紗英のものだと信じこんでいたのである。まぁ、そのくらい映像と音楽のイメージが絶妙にシンクロしていだろう。ともかく、私は「幻の一色紗英のCD」を探し続けていたという訳だ、今ではお笑いである。

 で、どんな経緯だったか、もう忘れてしまったのだけれど、私はくだんの曲が「揺れる想い」というタイトルで、ZARDというロック・バンドがやっているらしいこと知って、なにかのついでにこのCDを聴いたのだったが、清涼感のあるボーカルはいいとして、ロック風なサウンドとか(時にビートルズ風)、ジャケ写真を飾るかげろうのような女性(坂井泉水)というのが、けっこう意外だった。聴いてみるとこの曲の他にも、「負けないで」とか「君がいない」とか聴き覚えるある曲も入っていたが、正直くだんの「揺れる想い」ほどインパクトがある曲はなかったようにも感じた。逆にいえば、そのくらいこの曲は私にとって光り輝いていたというだろう。
 という訳で、CMのタイアップ曲とか街に流れるヒット曲を小耳に挟んで、「うぉ、これいいじゃん」などと思うことがほとんどない私であるが、この曲はスピッツの「ロビンソン」と並ぶ数少ない例外である。
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ZARD /永遠

2007年05月28日 20時47分45秒 | JAPANESE POP
 本日、出先で昼飯を注文し、待っている間、PDAでネットでニュースにアクセスしたところ、ZARDの坂井泉水が亡くなったことを知った。このニュースで初めて知ったのだが、彼女は昨年から子宮けいがんで治療を受けていたらしく。いったん良くなったものの、がん細胞が転移したことで入院していて、26日の朝、散歩の帰りに高さ3メートルの階段から滑り落ち、脳挫傷のため亡くなったという。 なんでも、雨で階段が濡れていたことで滑り落ちたとのことだが、最近はそれほどでもなかったとはいえ、私は坂井泉水の大ファンだったので、病魔に冒され、その闘病の最中にあっけなく事故で亡くなってしまうとは、なんともはや痛ましいというかやりきれない思いになった。

 そんな訳で、今夜は彼女の追悼という意味を兼ねて、1999年に発表された「永遠」を聴いているところである。この作品はたぶん私が購入した最後のZARDのアルバムであり、実は買ったのはいいがそのまま放置してあったアルバムでもあったからだ。ZARDのきちんとしたスタジオ・アルバムとしては、このアルバム以降長いこと出ず、かろうじてシングルでつないでるようなところはあったし、これといった曲も聴こえてこず、セールス的にもぱっとしない日々が続いたせいもあって、私はZARDに対する興味を少しずつフェイドアウトさせてしまい、このアルバムもそのうちに聴こうと思いながら、そうこうしているうちに、むしろ私のZARDの作品に対する好みがほぼ固まってしまい、私にとって『ZARDのといえば、「TODAY IS ANOTHER DAY」まで』というイメージになっていたのだった。ともあれ、8年も経ってしまっていた訳だ。

 さて、初めて聴くこのアルバムだが、1曲目の「永遠」がいい。このアルバムで全盛期の名曲群に伍する作品といったら、やはりこれになるだろう、なんだか壮大な恋愛の落日をスナップ・ショットしたような曲で、高揚感と虚脱感が交錯するところが印象的だ。青春時代の恋愛賛歌というか、その応援歌みたいなちょいと大人が聴くには気恥ずかしい歌詞を、「ひょっとして、自分にこんなことあったかも?」と、妙に説得力ある世界に替えてしまっていたかつてのZARDワールドに比べると、その世界自体が少しづつ落日を向かえていたことを匂わせる曲でもあり、その意味でも少し哀しくなる曲である。
 ともあれ、最初がそうだから、全体にそう感じてしまうのかもしれないし、彼女の訃報を知っているから余計そう感じるのもかもしれないが、やはり以前のはつらつとしたところがいささか後退しているのがちと寂しく響くアルバムでもある。そんな訳で、最後に彼女の冥福を祈りつつ、この歌詞を引用しておこう。


 君と僕の間に 永遠はみえるかな
 この門をくぐり抜けると
 安らかなその腕にたどりつける また夢をみる日まで(「永遠」)
コメント (3)
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