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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

FFXI からくり士Lv37>>>Lv75

2009年06月26日 23時08分14秒 | GAME
先のゴールデンウィーク....正確には4月29日にLv15から再開したからくり士ですが、前回書いた5月6日にはLv37でしたが、そして本日、よーやくLv75に到達しました。今回はFoVを中心に遊んだせいで、レベル上げパーティーには全く参加しませんでしたが、それでもかなり早いペースです。調べてみたら、去年やった青魔道士とカンストペースとそんなにかわらないですから、凄いですね。凄いって、当然自分が凄いんじゃなく(当然だ-笑)、ソロでこんなに早く上げてしまえるコンテンツが、いよいよこのゲームにも出たということなんですが、苦行のようなソロ活動をすることなく、楽にレベル上げが出来きたのは、ある意味驚きです。なんだかこのゲームもレベル上げという点に関してはずいぶん様変わりしたような気がしましたね。

 レベル上げパーティーにはまず縁がないからくり士ですが、こうした状況下だったせいもあるんでしょう、ほとんど全編ソロで楽しくLv75にできました。Lv37以降はLv65くらいまでアルテパでやりましたが、手始めにコロロカの入り口付近のカブトと弱めのアンティカ、キリンとアンティカ、そしてop前のゴブ、西に行ってカブトとサボテンダーの組み合わせのFoVはもう何回やっただろう?....という感じです。
 ついでに書くとFoVはモンスターでも楽なのばかり相手するので、からくり士のオートマトンの持つ白兵、魔法、射撃と3つのスキルはなかなかキャップに達しないもので、恒例のクフタルのカニ(ついでにブンカールやパシュハウ[S]のカニ)をやったりしました。Lv60くらいまでなら、からくり士は強相手でもなんとか勝てますから、ひいひいいいながらキャップさせることができましたが、さすがにLv70を過ぎてロメーブやクフタルとなると、そうもいかないので、めでたくLv75にはなったものの、マトンのスキルは見事に白いまま、白兵などキャップまで30くらいあるような有様です。なので、Lv75になったとはいえ、まだまだやらないければいけないこと沢山ですかね、exp43,999でカンストもしてないし、メリポを振りたいし....。

 それにしても、先に書いたとおり、このゲーム、レベル上げについては本当に様変わりしました。こんなに簡単にLv75にできちゃっていいのかな?という感じ。そこから感じるのは、もはやこのゲームは様々なジョブをカンストさせるのが目的ではなくて、むしろその後に控えている膨大なアイテム収集コンテンツをプレイヤーにやらせることに、運営側がいよいよ明確に舵を切ったのではないかという思えることです。いや、実態としては以前からそうだったのかもしれませんが(笑)、なにしろこのゲームのレベル上げは、かつてあまりに縛りが強すぎて、肝心のレベル上げパーティーになかなか参加できなかったりして、やる気満々なのにレベル上げができず、誘われ待ちのまま丸一日みたいな、ほとんど笑えないようなことが往々にありましたから、やはりLv75までの道のりはけっこう遠かった。それが現在では、「Lv75まではさっさと上げてちゃってください、あとは豊富なエンドコンテンツを楽しんでねー」みたいになったように感じるんですよね。
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春日武彦&平山夢明/「狂い」の構造

2009年06月18日 23時49分06秒 | Books
 精神科医、春日武彦と小説家、平山夢明との対談集、私は寡聞にして両氏に関してはまったく知らないのだが、それぞれのそういう分野でのエキスパートではあるらしい。このご両人がアカデミックという言葉とはほとんど無縁な、いっしまえば非常に下世話な雰囲気かつ乾いたユーモアが横溢する口調でもって「人が狂うこと」あるいはその前段階になるであろう諸相について、あれこれ蘊蓄を傾けるという趣向だ。

 この本のおもしろいところは、おそらく読んだ方が誰でも指摘するであろう。日々の生活に潜む「面倒くさい」が、もろもろの「狂い」への揺籃器となっていることを指摘している点だと思う。企業の不祥事だとか、端からみていて「どう考えても変な事件、おかしい出来事」など、そもそも「面倒くさい」がトリガーになって引き起こされるのではないか、といっている訳だ。
 確かにそうだろうと思う、自分も振り返ってみると、たいてい自分の部屋が荒れ果てているような状況というのは、なにもかも全てが面倒くさくなって、おおよそ知的だとか生産的というようなものとは逆の、ただただ怠惰な日常生活に埋没していることが多い。こういうところから人は狂い始めるのだといわれれば、確かにそういう気がしてくる。

 あと、おもしろかったのは「バルンガ病」という言葉。バルンガというのはウルトラQに出てくる、なんでも吸い込んで際限なく肥大していく雲のお化けみたいなモンスターだけれど、あれになぞられえて、己のプライドが異様にふくれあがってしまっている人たちの症状をいっているらしいのだが、そもそもこのネーミングがヤケに笑えることに加えて、「いるいる、こういう身勝手な理論で、けっこう世の中泳いじゃってる人って~」と妙に納得してしまうのだ。
 本にも出てくるのだが、金はないわけでもないのに、「義務教育なんだから給食は払わなくていいハズですぅ」とか「そもそも義務教育って、無料であるべきじゃないのぉ」とか、まぁ、主張するのは勝手なんだけど、その理屈でもって本当に払わないことを実践しちゃってるバカ親とか、ああいう人たちのプライドというか、いわゆる王様理論などその典型だと思う。

 そもそういう日常生活に潜む「おかしい人、変な人」から、「狂い」というものを引き出してくる切り口はおかしい....じゃなく、とてもおもしろい。ついでに書けば、そういう日常に潜む精神の裂け目のようなものに、自分も日常的に隣り合わせになっていることをふと感じさせ、思わずひやりさせられるあたりにけっこうな「深さ」も感じさせる。おふざけみたいな会話もあるが、その情報量、深度はなかなかのものがある。
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中川淳一郎/ウェブはバカと暇人のもの

2009年06月10日 09時37分12秒 | Books
 非常に痛快でかつ読後にはなんだかけっこうな無力感に襲われる本だ。ネットにはWeb2.0に代表される、新しい技術に対するほとんど楽観的ともいえる、「これが人類の未来を築く」的な礼賛がある一方、あまたの犯罪を筆頭に、渦巻く誹謗中傷、そこまでいかずともやけにドロドロに人間関係だのに「ネットっていつからこんなしょーもないカオスになっちゃったのよ」みたいな現状も厳然とある。

 私のようなネットのあれこれで飯食う人間にとって、この両者がなんか渾然一体となった今のネットという訳のわからない世界は、妙に居心地の良さそうでいて悪く、常に釈然としないものを感じ続けている訳だけど、この本ではそのあたりを「集合知だの、ロングテールだのいってるのは頭の良い人だけで、ネットユーザーの大半はバカと暇人」と過激に定義している。最初は「おいおいこんなこといっちゃったら炎上しちゃうぜ」とか思いながら読んでいたのだけれど、なにしろ出てくる話などを読むにつけ、「ウェブはバカと暇人のもの」がいちいち納得できる事例ばかりなのだ。

 いちいち例はひかないけれど、この本に出てくるネットに生息するオバカな例の数々は本当に身につまされるものばかりである。実際にこういう現場にいるといたいほど良くわかる。ネットというのはお互い顔が見えず、匿名性もけっこう高いため、普通なら我慢するようなことも思わず発散してしまう人が多いからだろうけれど、まったく自らの価値観が全世界に通用するものとスタンダードと思いこみ、ネット内で「我こそ正義」とばかりに、攻撃的意見だの糾弾だのをまくしたてる「仮称:正論クン」とかは、その最たるものである(かくいう、私などさしずめ「暇でおバカな仮称:知ったかクン」だろうな)。

 結局、ネットというのはそういう人達の集まりであり、ある種の理想主義だの、思いやりだの、知性至上主義だのを前提にして、ネットで地図を描いてみたところで、絵に描いた餅になってしまうというところだろう。本書はそうした意味で筆者がネットで物の見事に敗北した記録にもなっている。本書の最後にある敗北宣言とはそういう意味であり、私が暗澹たる気持ちになったのもまさにその点であった。なので、この本、おもしろいけど、最後には妙に気分が滅入るのである
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チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲/ジョセフォウィッツ,マリナー&アカデミーCO

2009年06月02日 23時36分38秒 | クラシック(一般)
 今は死語だろうが、アナログ盤時代には「メン・チャイ」という言葉があった。メンデルスゾーンとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のカップリングのことである。アナログ期にはこうした定番の組み合わせがあり、これの他だと「運命/未完成」なんかがそうだったと思う。アナログ盤の収録時間の関係でAB面分けて収録するには短すぎるような名曲が、組み合わされて定番化したんだろうが、CD時代になると78分という収録時間に併せて、こうした組み合わせも一新された結果、「メン・チャイ」という言葉は死語になったという訳だ。それにしても、今にして思えば、チャイコフスキーのこの曲などよくぞ片面にカッティングしたものだと思う。

 気になって調べてみたら、チャイコフスキーで35分、メンデルゾーンで30分は優にかかるではないか、当時、ロックの方ではたいてい片面の収録時間は20分前後だったから、25分なんか収録したら音が悪くなるといわれていたから、35分というのはいかにも詰め込み過ぎだ。恐らくカッティング・レベルをかなり小さくして収録していたのだろうが、いったいどんな音で鳴っただろう?、もっともクラシックならあまり気にならないレベルだったのかもしれないが。それにしたって、記憶によれば当時、カラヤンがフィルハーモニアを振ったモノラル盤で、ドボルザークの「新世界」とチャイコフスキーの「悲愴」を片面づつに収録した恐るべきレコードなんかもあったから(このカップリングだとCDにだって収録できまい-笑)、35分くらいは序の口だったのかもしれないが。

 さて、チャイコのヴァイオリン協奏曲である。80年代前半に私は当時のメンチャイのレコードの1枚や2枚は必ず購入しているハズなのだが、何を購入したのかまったく記憶にない。なので、この曲もほとんど初めて聴くに等しいのだが、たまたま先般聴きまくったコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲で、ムターとプレヴィンが組んだアルバムに併録(というかコルンゴルトがおまけでチャイコがメインなんだろうけど)されていたせいで、ここ二週間くらいウォークマンで良く聴くようになってきたし、これまた奇遇にも庄司紗矢香がラ・フォル・ジュルネ音楽祭で弾いた演奏だの、この4月にヤンセンがN響の定期に出演した時の演奏だのを視聴できたせいで、けっこう身近に感じてきたところだ。

 この曲はいわゆる「4大ヴァイオリン協奏曲」のひとつではあるし、チャイコだけあって華麗さという点では随一の仕上がりだと思う。ムターのアルバムのカップリングがそうだったせいもあるけれど、コルンゴルトの同曲の華麗さと共通するような感じもするのがいい。今回聴いたジョセフォウィッツという女流の演奏は、ムターのような威風堂々としたところもないが、流麗でクセのないスムースなところがよくも悪しくも特徴なように感じた。そういえば、ハーンも演奏も既に購入済みだが、彼女はどうこの曲を料理しているのだろう。
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