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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

私の愛機 [10] STAX SRM-717 (Ear Speaker Driver Unit)

2007年02月28日 20時17分21秒 | PC+AUDIO
 スタックスのヘッドフォン端子は通常のそれとは全く異なり、アンプのヘッドフォン・ジャックには絶対刺さらない、詳細は省くが早い話が専用のアンプが必要なのである。スタックスはこれをドライバー・ユニットと称しているが、これは昔も今も変わらない。こういう余計なデバイスが必要なおかげで、スタックスのヘッドフォンはいきおいマニアックな代物とならざるを得ず、いくら音質が素晴らしいと賞賛しても、仮に劇的に価格が下がることがあったにしても、おそらく今後も愛好家向けのスペシャルなデバイスでありつづけるのだろう。もっと手軽に使いたいでも....という思いは、実は私にもあるのだが、何年か使うと「そこがいいんだよ」みたいに変わってしまうのだ。まぁ、そのあたりがスタックス信者の信者たるところなのかもしれないが。

 さて、ドライバー・ユニットの方もこの20年、ヘッドフォン本体ほどではないが、いろいろ使ってきた。前のところにも書いたが、最初に使ったのはSRD-7MK2という、スピーカー端子から結線する代物で確か1985年くらいから10年近く使った(現在でもサブ・システムで活躍中)。その後、真空管で駆動するみるからにアンプのようなルックスをもった横長のSRM-T1Wにチェンジして、いかにも真空管らしい音に魅了され、5年くらい使った後、思い切って購入したSR007に前後して、やはり真空管で駆動するSRM-007tを購入した。価格的にいえば、両者の組み合わせは「スタックス最高のグレード」となり、そのリッチでシックな音はなかなかのものだったけれど、「最高のもの」が即自分の好みに合うとは限らない。前にも書いたとおり、結局、ヘッドフォンはLambda Nova Signatureに戻したのは、やはり歯切れのよいタイプが欲しくなったということなのだと思う。結局、ドライバー・ユニットも最終的にこのSRM-717というトランジスタで増幅するタイプにして、私のスタックス病はここ数年間は治まっているという訳だ。

 SRM-717の良いところは、やはり透明感、音の立ち方がシャープで自分の好み合っている点だ。SRM-007tの濃厚な肌触りも良いのだが、ロックやジャズだと多少モヤつくような印象がないでもなく、やはりいろいろ聴くならSRM-717かな....という予想で購入してきたらコレはどんぴしゃで当たった。以来、このヘッドフォン・アンプはほとんど不動である。あと、これの便利なところは、セレクターがなく、内蔵ボリュームのバイパススイッチを備えていることから、パワーアンプみたいにな形で仕えて、プリアンプと相性が良い....つまり、プリアンプで音量等をコントロールできる点だ。
 などと分かり切ったことをあれこれ書いてきたのは、これの後継機種であるSRM-727Aが出ていたことをさきほど知ったからだ。去年の11月発売でマイナー・チェンジなのかモデル・チェンジなのかよくわからないのだが、とりあえずなかなかの評判で、スタックス愛好家としてはヒジョーに気になるところなのである。
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ジャネット・ベイカー マーラーを歌う/バルビローリー&NPO,ハレO

2007年02月28日 00時07分27秒 | マーラー+新ウィーン
 ジャネット・ベイカーのマーラー歌曲集。収められた曲「亡き子をしのぶ歌」、「5つのリュッケルト歌曲集」、「さすらう若人の歌」で、伴奏はバルビローリ指揮のハレ管弦楽団(「リュッケルト」はニュー・フィルハーモニア管弦楽団)がつとめている(収録は67,69年)。ジャネット・ベイカーでマーラーといえば、72年にバーンスタインと共演した「亡き子」を先日とりあげたばかりですが、あれは5年振りの再録音ということになります。私はジャネット・ベイカーのことは英国出身のソプラノで、やたらと幅広いレパートリーでもって、60~70年代にかけていろいろなレコードで名前をみかけた人....くらいのことしか知りませんが、おそらくマーラーは得意のレパートリーだったんでしょうね。ベスト・セラーの「復活」とか「大地」の常連メンバーだったような気がします。

 さて、このアルバムですがお目当ては、やはり「亡き子」ということになります。5年ほど若い時期の録音ですが、歌そのものは基本的にあまり変わらないような気がしますが、こちらの方がスタジオ・セッション的に端正というか、割ときちんとコントロールして歌っているという感じ。こちらを聴くとバーンスタインとのパフォーマンスは一気に歌いきったようなライブ的感興のようなものがあって、秘めたる激情みたいなところをよく表現していたことがわかります。また、伴奏の違いもけっこう大きくライブ的なバーンスタインに対して、バルビローリはどちらかという瞬間、瞬間の美しさを描くのに注意を傾注しているという感じがして、時に音楽が止まってしまってるようなところもあり、かなり静的な演奏といえるでしょう(典型的なEMI調でまとめた録音というのも大きいと思いますが....)。それにしても、ベイカーの声というはとても安定感があり聴いていて安心できますね。ある種の母性を感じさせつつ。理知的な面にも不足しないというのが、特徴だと思いました。

 一方、「リュッケルト歌曲集」は「亡き子」とある意味対をなす、そこはかとない幸福感に満ちた歌曲集ですが、先に聴いたトゥーレルと比べると、格調は高い表現のように感じました。ちなみに「アダージェット」に酷似した「私はこの世に捨てられて」はハレとNPOの2ヴァージョンが入ってます(あっ、そうそう、この歌曲集の3,4曲目って、どうもマーラーのオーケスレーションじゃないような気がするなぁ)。
 更に「さすらう若人の歌」は伴奏のせいか、非常に重厚なパフォーマンスになっていて、これはこれでおもしろいとは思いましたが、ややこの曲にもともとあるはずの軽快さのようなものがどこかにいってしまって、違和感を覚えたのも事実ですねぃ。 
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マーラー 歌曲集/フィッシャーディスカウ,フ.ルトヴェングラー,ケンペ&PO

2007年02月27日 21時38分47秒 | マーラー+新ウィーン
若き日のフィッシャーディスカウがフルトヴェングラー、そしてケンペと組んだ名盤中の名盤です。前者は「さすらう若人の歌」で52年に、後者は「亡き子をしのぶ歌」で55年に収録されていますが、どうしてこういう組み合わせになったのか、浅学の私は知りませんが、オリジナルではおそらく別々に発売されていたいたものをLP時代になったまとめたものが名盤化したのかもしれませんね。50年代中盤といえば収録はまだモノラルであり、音質的な面からも、古びてしてまいかねないアルバムでしたが、私がクラシックに耽溺していた80年代もこのアルバムは「名盤中の名盤」として評価が高く、レギュラープライスに近い形で発売されていたような気がします(違ったかな)。

 さて、このアルバム、私は80年代にこのアルバムをエアチェックかなにか録音したテープで繰り返し聴いたような記憶がありますが、多分、購入はしていないでしょう。おそらくこういう歌曲なら女声で歌ったものを聴きたくて、そちらを数枚購入したまま、次の対象に興味が移ってしまったというところではないかと思います。
 なので今回聴くのは実に久しぶりになるのですが、一聴してひきこまれました。さすがに名盤中の名盤という評価はだてではありません。そもそも私は歌曲というジャンルが得意でなく、その中でも男声の歌曲となるとほとんど興味からはずれてしまうのですが、このアルバムについては例外といえますね。とにかく両曲ともにフィッシャーディスカウらしさであるいつもの格調高さに加えて、ここでは若さ故なのかナイーブな情感のようなものがブレンドされ、微妙な緊張感を湛えつつも、知情意が見事にそろった歌い振りなっているのが素晴らしいです。一般的には老獪なフルトヴェングラーと組んだ「若人」のフレッシュな歌い振りが方が有名でしょうが、「亡き子」の抑圧された情念のようなものも見事なものがあると思います。
 フィッシャーディスカウという人の歌曲は数えるほどしか聴いていませんが、60~70年代のつくられた歌曲集などを聴くと、あまりにコントロールされた完璧さ故にとっつきにくく感じてしまったものですが、このアルバムでは素直に情感に訴えてくるような一途さのようなものにぐっときます。

 録音は52,55年ですから当然モノラルということになりますが、あまりに素晴らしいパフォーマンスなので、こうした音質上の欠点は1,2分聴いただけで忘れてしまいます(リマスターの効果もあるんでしょうが)。オケは50年代にEMIのハウス・オーケストラとして数々の盤歴を残したフィルハーモニアですが、フルトヴェングラーとケンペという指揮者を迎えたせいか、カラヤンの時のようなスリムな機動美さではなく、ドイツのオーケストラのような重量感とくすんだ響きがあってこれも良いところですね。
 あと蛇足ですが、ここに収録された「若人」と「亡き子」って、もし指揮者は逆だったらどうなっていただろ?と聴きながら考えちゃいました。まだまだブラームスみたいなところが残っている「若人」の方を正統派ドイツの巨匠ケンペが担当し、「トリスタン」の親類みたいな「亡き子」フルトヴェングラーが振るというのも、けっこうおもしろかったと思うのですが....。 
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ブラッド・スウェット&ティアーズ/子供は人類の父である

2007年02月27日 00時07分39秒 | ROCK-POP
 先日、シカゴのデビュウ作を聴いたからという訳でもないが、今度は70年代初頭シカゴと並び称されていたBSTのデビュウ作を聴いてみた。私はシカゴはほとんど聴いてこなかったけれど、BSTについてはある程度聴き込んでいたので、どちらかというとBST贔屓になってしまうはご承知いただきたい。さて、記憶によれば当時は「音楽性の高さでBST、ニュー・ロック的パワーと現代性でシカゴ」みたいな捉え方をされていたと思う。今聴くとこのふたつのバンドが持っていた音楽性は全くといっていいほど違うことがわかるのだが、当時は「ブラスロック」というカテゴリーでほとんど同一視されていたのだ。洋楽後進国だった頃ならではの話である。

 さて、BSTのデビュウ作だが、体裁としては冒頭と結尾にオーケストラによる序曲と終曲が一種の額縁にように配置され、、その間にバラエティに富んだ楽曲を配しつつ、最終的に一個の作品のようになるべく、つまりビートルズに「サージャント・ペパー」のようなトータル・アルバム的構成になっているのが特徴である。音楽的にはブラス・ロックとはいうものの、自前のブラス隊の他、序曲や終曲の他にもストリングスも容赦なく取り込み、ついでにテープの逆回しだの各種イフェクトも登場して、その後のBSTと比べれると全体としてはかなり賑々しいサウンドとなっている。このあたりは、サイケデリックの残り香のような影響もあったのだろうが、アル・クーパーという一種の元々インテリで音楽マニアが講じてミュージシャンになった彼の素地が出たともいえるではないか。

 具体的にいえば、「アイ・ラヴ・ユー・モア・ザン・ユール・エヴァー・ノウ」、「サムシン・ゴーイン・オン」はブルース・プロジェクトの後塵をはいしたブルース、「彼女なしには」は本格的ボサノバ、「ミーガンズ・ジプシー・アイズ」「ハウス・イン・ザ・カントリー」はサイケ、バカラックの影響がちらほらする「マイ・デイズ・アー・ナンバード」「ソー・マッチ・ラヴ」、正統派ニューロックである「アイ・キャント・クイット・ハー」、エルトン・ジョンみたいな「プラトンとディオゲネスとフロイトの現代的冒険」といった具合に、何しろ曲がバラエティに富みすぎているである....。まぁ、だからこそ序曲と終曲という額縁が必要だったのかもしれないが。

 ともあれ、今聴くとBSTとシカゴの音楽性の違いは明らかだ。ここに収録されているバラエティに富んだ楽曲は、おしなべてアル・クーパーという人の批評眼から生まれた産物で、意識的なきっちりとアレンジで出来上がった代物という気がするのに対し(だから上手いミュージシャンを集めたのだ)、シカゴは当事者意識のかたまりみたいな音楽で、理屈抜きでオレ達のやりたい音楽やるんだという野放図なパワーが溢れている。ようするにそういう違いがあったのである。BSTはこの後、アル・クーパーが抜けある意味デビュウ作以上に音楽主義的なバンドになっていくのだが、それはまたいずれ....。
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花粉症?

2007年02月26日 12時06分30秒 | others
 どうも先週の週末あたりから体調が良くない。くしゃみ、鼻水、鼻づまり、目のかゆみ、頭がぼやっとするという症状だったので、土曜の午後、出張の帰りにかかりつけの医者にいったところ、あっさり「アレルギー性鼻炎」といわれた。つまり花粉症である。そういえば、今年は暖冬だしニューズなどでも、「例年より花粉の飛散が10日早い」みたいな報道もされているので、「やっぱ、そうなのかなぁ」と思っていたが、今朝になって咳と喉の痛み、そして発熱まで始まった....本当に花粉症かこれ?。ともあれ、もやはダウン、仕事を休んでしまった。

 さっきもう一度医者に行って診てもらおうと、ベットからむっくり起きあがってきて、ぼんやりしながらネットでいろいろ調べてみると、花粉症でも発熱はするし、後鼻漏といって咳がでるのも珍しくないらしい。やっぱ花粉症だろうか。私はアレルギーみたいなものとは、ほとんど無縁なガサツな人間を自称してきたので、ちょっと信じたくない気もするが、そういえばここ数年、毎年春先になるとこういう症状が出ている気もするが、やっぱそうなのか?ってか、早く気が付けよという感じなのかな(笑)。

 ちなみに、写真は医者からもらってきたリノコートという薬の説明書に出ていたもので、充填と噴射という2ステップで鼻孔に薬をスプレーする。これを寝る前に使うと、寝ている間に気になって目がさめてしまう、あのいやーな鼻づまりが大分ラクになるというすぐれものな薬で、このところ毎日お世話になっている。
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マーラー 亡き子をしのぶ歌/ベイカー,バーンスタイン&ニューヨークPO

2007年02月26日 00時13分46秒 | マーラー+新ウィーン
 先にメモった時に聴いた「亡き子をしのぶ歌」は、ジェニー・トゥーレルとバーンスタイン&ニューヨークPOが組んだ60年のパフォーマンスでしたが、こちらはトゥーレルがジャネット・ベイカーに替わった布陣で72年収録されたもので、どちらもバーンスタインのマーラー全集の旧盤に収録されている訳ですが、「亡き子をしのぶ歌」が収録されているのは珍しいことではないにしても、2種類入っているというのは珍しいと思います。そういえばこの全集、第5の「アダージェット」とか第8の第一楽章とかも入っていて、まぁ、サービス満点というとこなんでしょうね。

 さて、ベイカーの「亡き子をしのぶ歌」ですが、ジェニー・トゥーレルが割とこの曲の浮世離れした美感のようなものを超然と表現していたに比べ、ベイカーはもう少しウォームでウェットな情感を表現をしているように思います。この曲はご存知のとおり原詩を作ったリュッケルトの子供が16日の内に相次いで死ぬという悲しい出来事に端を発して作られた詩篇集の中からマーラーが5つ選んで歌曲化したものですから、子供の死を悼むという感情が全面に出ている歌曲集な訳ですけれど、そういう悲しみとか絶望感のようなものはベイカーの方がストレートに伝わってくると云いかえることもできるでしょう。また、ベイカーは豊かな声量があり、割とオペラティックなドラマを感じさせる歌唱も随所に見せ、起伏という点でもトゥーレルよりメリハリがあります(音質も72年で物理特性がそもそも良いのかノイズのダクションがほとんどなしで、生々しい鮮度があります)。

 それと今調べてみて分かったんですが、ジェニー・トゥーレルってこれを録音した時、既に60歳を超えた大ベテランだったんですね。この時期は晩年のワルターみたいに音楽活動といえばレコーディング(それもバーンスタインとの共演のみ)だけだったようですが、てっきり当時のバーンスタインに気に入られたアメリカの中堅ソプラノくらいに思っていたので意外でした。ベイカーと比べても、むしろモダンと形容したい、プロポーションの良い彫像を思わせるスタティックな美声はとても魅力があります。 
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マーラー 亡き子をしのぶ歌/トゥーレル,バーンスタイン&ニューヨークPO

2007年02月26日 00時05分01秒 | マーラー+新ウィーン
 今回のマーラー第5特集の副産物として、これまでどうにも馴染むことの出来なかった「亡き子をしのぶ歌(Kindertotenlieder)」を何となく好きになれたことがあげられます。この曲はマーラーの中期交響曲と主題とかムードとか比較的密接な関係があるそうですから、第5を集中的に聴いたせいで、この連作歌曲を好きになれる下地ができたと、勘ぐって勘ぐれないこともないですが、恐らくあまり関係なく、単なる偶然でしょう(笑)。ともあれ、この全編に渡って沈痛なムードが充満し、これといった起伏のない冴えない作品と思っていたこの連作歌曲集がしっくりと耳に届き、「あぁ、いい曲だなぁ」と思えるようになったのは、私としては快挙です。という訳で自分用のメモとして、この連作歌曲集の5曲を内容をちょっとメモっておきたいと思います。

1楽章「いま太陽が燦々と昇ぼろうとしている」
 クラリネットのもの悲しい旋律で幕を開けることの曲は、どことなく厳かでそこはかとないエキゾチックなムードがあって独特な美しさがあるけど、それは第6番の第3楽章のそれに酷似している....というかそのものである。どうしてこれまで気がつかなったのだろう。ついでにいうと第5番の第一楽章の終盤近く、この曲と同一テーマが出てくるのは有名な話。

2楽章「いま私はわかった。なぜそんな暗い炎を」
 前曲が第6番の緩徐楽章に似たムードだとすると、こちらは第5番の「アダージェット」に近いような気がする。また「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲に似た緊張感のようなものもある。全体としては既視感と官能が交錯する流れの中で、歌は何度か絶叫しかけるが、その都度諦めの中に消えていく。

3楽章「おまえたちのおかあさんが戸口から歩み入るとき」
 哀愁のある旋律でムードもオーケトレーションも1楽章に近い感じ。寂寥感感あふれる木管楽器とボーカルの絡みが絶妙。重い足取りを感じさせる律動がちょっと「さすらう若人の歌」の第3曲を思い起こさせるものがある。

4楽章「よく私は子どもらはただ散歩に出かけただけだと考える」
 これも第6番の緩徐楽章に非常に似たムードがあるが、色彩的にはやや明るめ、楽曲の推移としてもこの曲あたりで曙光が見えてくるというところなんだろうか。

5楽章「こんな嵐のような天候の中へ」
 こちらは第6番の第1楽章のダイナミズムを思わせるオーケストレーションが特徴か、これまでずっと抑圧してきて、ここに来てそれが解放されるような趣があるけれど、明るい結末というよりは、暗い決意のようなものを感じさせるが、最後の最後でなんとか長調で安寧なムードで結ばれるにはほっとする。
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FINAL FANTASY XII

2007年02月25日 20時51分29秒 | GAME
 購入したはいいが、もう一年近く放置してあったゲームです。職場でのこのゲームに手を染めた二人の若い方は今もってエンディングを向かえておらず、一般の評価もあまり高くなく....というかほとんど盛り上がらずといった感じだったので、こちらも今やっているFFXIの方を中断してまでやるほどのものじゃあるまい....と思っていたのですが、ブログの穴埋め(って訳でもないですが-笑)、先ほど1時間程やってみました。

 例によって、最初の30分くらいはほとんどムービーです。もうそのまま映画になりそうなくらいクウォリティの高いCGで、舞台となる王国だの、主人公の王女様の結婚式だのが実に壮麗に描写されます。FFだとFFXのムービーも凄いと思いましたが、こちらはムードとして「ベン・ハー」と「スターウォーズ」と「グラディエーター」合わせたような感じで、廃墟と自然の描写を中心にすえたFFXに比べ、明らかにスケールとディテールを強調した仕上がりです。それにしても、よくもここまでPS2でできるものだと感心しますね。逆にいえばこのあたりが限界なのかもしれませんが....。

 その後、ゲームのチュートリアルを兼ねた戦闘が何回かあって、いよいよ主人公が町に登場する訳ですがこのあたりはFFお馴染みのパターンですね。で、最初のお使いがあって、戦闘があって....と進んだところまでやってみましたが、ここまでの感じだとけっこうおもしろそうじゃないと思いました。戦闘は通常のフィールドからシームレスで移行するパターンで、このあたりはFFXIと同様。FFXIといえばコントローラーの使い方がそれ以前の一般ゲームと恐ろしく違っていたため、最初は苦労しましたが、こちらはそのFFXIのコントローラーの使い方を踏襲しているため、FFXIを日常的にやっている人はなんの違和感もなくプレイできるという感じがします。

 そんな訳で、ちょいと手を出してみただけですが、あんまりFFXIばかりやっていると、他のゲームというか、ゲームというメディア全般がが見えなくなっちゃいそうなので、たまにはオフゲーでもやってみるかという気に少しなってきたところです。そういえば去年の今頃はドラクエやってましたしね。
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ブラームス 変奏曲集/ペーター・レーゼル

2007年02月25日 16時54分25秒 | ブラームス
 ブラームスは変奏曲の大家として有名で、ビアノを中心にして沢山の変奏曲を残しているのは有名な話ですが、「ヘンデル」と「パガニーニ」、そして管弦楽の方でハイドンと三つが飛び抜けて有名で、後はほとんど知られていないというのが現状だと思います。かくいう私もそうで、ブラームス愛好家を名乗りながら、前述の三つ以外はほとんど知りませんでした。ブラームスのピアノ曲は自宅にそこそこの数のCDもありますから、変奏曲もそのほとんどはいつでも聴けるにも関わらず「知らない」というのは、我ながら怠慢以外の何者でもありませんが、本日ひょんなきっかけで「自作主題による変奏曲 ニ長調 op.21-1」を聴いたところ、意外にも楽しめたので取り上げることにしました。

 さて、この作品、番号21の1ですから(ちなみに2は「ハンガリーの歌の主題による変奏曲」となります)、私の大好きな「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」にけっこう近く、曲の雰囲気もかなり共通するような部分が散見するのが注目されます。タイトル通りテーマは自作で、彼の作る歌曲によく出てくるような、厳かだがそこはかとない温もりがあるものです。そこからいくつかの変奏が続きますが、最初は原曲に寄り添うように変奏が始まり、徐々に幻想曲風、練習曲風な変奏が続き、次第にピアニスティックでダイナミックに展開となる訳ですが、このあたりの技巧とロマンの妙な混在ぶりがとても「ヘンデル」に近くて楽しめます。ただ、まぁ、この曲の場合、「ヘンデル」ほど入り組んでおらず、後半登場する劇的な変奏に向かって、比較的一直線に進んでいくような感じがあり、それが終わってしまうと、あとはエピローグみたいな感じになってしまうので、できることなら、もう一山欲しかったなぁと思わないでもないですが....。

 ちなみに聴いたディスクは廉価盤として分売された、ペーター・レーゼルの全集の第3巻です。私はこのピアニストをほとんど知らず、またディスクもこれだけしか持っていませんが、いかにもブラームスといった感じの、ドイツ的な重量感と生真面目なロマン派的情緒をよく表現していて、これといった特徴はありませんが、良い意味で保守的なピアニストだと思いました。一緒に収められた「ヘンデル」と「パガニーニ」は、ほんの少し早めのテンポで、この難曲をいかにもブラームスを聴いているという充実感とともに楽しませてくれます。私はブラームスのピアノ曲全集をゲルバルト・オピッツが演奏したものを持っていますが、このアルバムの内容からするとレーゼルの全集もかなり期待できそうですね。おっと廃盤か。
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メンデルスゾーン 弦楽八重奏曲/ゲヴァントハウス&ベルリンSQ

2007年02月25日 10時47分54秒 | クラシック(一般)
メンデルゾーンが16歳の時に作曲した弦楽四重奏×2というちょっと変わった編成による曲。メンデルゾーンは一種の神童だったようで、これをつくった翌年はかの有名な序曲「真夏の夜の夢」なども作っているけれど、恐らくそれと並ぶ傑作がこれだと思う。メンデルスゾーンは天から降っている音楽を次々に捕まえて、単に楽譜という形に翻訳しているだけなんじゃないかと思うくらいに、音楽は自然で作為がなく、伸びやかで天衣無縫、罪がない美しさにあふれていながら、造形は完璧にととっているというある種奇跡的な音楽になっている。この種の天才の若書きによるとんでもない作品といえば、モーツァルトの初期の作品がそうだけれど、この曲はクラシック音楽としてはそれに匹敵するほとんど唯一の作品なんじゃないかと思う。

 第1楽章は演奏時間に14分を要する長大な曲だけれど、格調高い壮麗さを持ちつつ、つい微笑んでしまいそうな邪気のない第1主題からして魅力的で、これを一見無造作に気分のおもむくまま取り扱っているようでいて、完璧なプロポーションのソナタ形式になんなく昇華して、最後まで一気に聴かせてしまうあたりモーツァルトの天才を思わずにおかない。緩徐楽章である第2楽章は厳かなで敬虔な雰囲気を持っている。全体は楚々として流れていくのだが、途中何回か感情的に高揚する部分や慰めに満ちた平安な場面になったするところがあり、そのあたりの配置がなんとも絶妙、

 この曲で恐らく一番有名なのが第3楽章で、最近はそうでもないらしいけど、大昔は単独でも取り上げてたりしたらしい。ちょこまかと動く弦楽器のせわしなさに「真夏の夜の夢」と共通するような夢幻性というか、メンデルゾーンらしいファンタジーを感じさせつつ、一陣の風のように通り過ぎる。第4楽章は第1楽章の壮麗なムードと第3楽章的なファンタジーが合わさったようなプレストによるフィナーレで、ソロ・ヴァイオリンなども活躍して華やいだムードで盛り上がるが、ハイライトで繰り返される転調につぐ転調の部分の転移無法さなど、やはり天才の閃きを感じさせる。。

 ちなみにこの曲は弦楽合奏でシンフォニックに演奏することあり、実は私などこの曲を知ったのはこちらの方であった。確か演奏はメータとイスラエル・フィル(!)のものだったと思うが、壮麗さのよく出た良い演奏だったと思う。もうずいぶん長いことこのCDを探しているだが、未だに手に入れることができないでいる。まぁ、そのかわりといってはなんだが、ついて先日、マリナーとアカデミーが演奏しているデッカ盤を手に入れることができた。こちらはついては近日中に聴こうかと思っている。
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FFXI <メリポ @赤魔道士/152exp>

2007年02月25日 00時05分29秒 | GAME
「戦士の時から通算するとメリットポイントも早108ポイント、よくやるよなぁ(笑)。」などと書いたのが2月5日。それから約3週間、実は依然としてメリットポイント獲得の戦いを続行しています。現在獲得したポイントは152ポイントで、先月の今頃、赤魔道士をカンストした時は確か87ポイントでしたから、一ヶ月で65,6ポイント稼いだことになります。経験値で一日平均2万くらいですか、本当によくやる(苦笑)。キャンプは段丘、マムージャ、そしてナイズル島の事実上三択状態。前回沼はメリポのキャンプ場所から脱落みたいなこと書きましたけれど、どうやら火山でトロールやるのも現在では希ってな感じになっているようです。

 赤魔道士として立ち回りは大体マスターできたと思います。時にスリプルやディスペルの反応が鈍かったり、魔法を誤爆したりもしてますが(笑)、まぁ、下手の横好きゲーマーとしては、こんなものでしょう。ついでに書くと、何か魔法を撃っていないと、罪悪感にかられるというくらいに忙しい赤魔道士としては、後衛の相方は白魔道士さんがいてくれるのが、一番赤魔道士らしい動きができて楽しいのですが、ここ一週間くらい、例えば詩人をのぞき後衛が赤だけ....という泣きたくなるような組み合わせに多く遭遇し、まじで急用思い出したくなりました(それでも慣れてくると、普通にできたりすることもあるんですが-笑)。また、後衛が赤魔道士二人というのもたまにありますが、これは良さそうでいてよほど息が合わないと、役割がバッティングして非常に居心地悪い思いをしたりもしますね。

 という訳で現在まで振った赤魔道士用のメリットポイントは以下のとおりです。もう少しというところですかね。コンバート短縮もしたいところですが、女神の印とのかねあいがあるので、これは白魔道士でもカンストしたら上げる課題ということで....。最近は左手が腱鞘炎にかかったらしく、とても痛いのでゲームは一日置きにやることにしましたが、(だからブログに音楽の書き込みが激増したんですね-笑)、どうせメリポで強化するなら、ナイトの項目とかも上げたいし、戦士のところも実は未だ途中だったりして、まだまだメリポ終わりそうもありません。

※ 赤魔道士用のメリットポイント割り振り
 ・MP 8段階(30) 
 ・弱体 4段階(09) 
 ・精霊 4段階(09) 
 ・ディアIII 2段階(07) 
 ・スロウII 1段階(03)
 ・パライズII 1段階(03)
 ・氷属性魔法命中率 2段階(03) 
 ・風属性魔法命中率 1段階(01) 
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台湾の即席麺

2007年02月24日 22時31分17秒 | 台湾のあれこれ
インスタント・ラーメンの元祖であるチキン・ラーメンの考案者であり日清食品創業者でもある安藤百福が先日(1/5)亡くなったが、チキン・ラーメンのようなどんぶりに麺を入れ、お湯を注いで3分待つというスタイルは、大分前にチキン・ラーメンが復活して成功してから、他のメーカーも「それ専用」の麺をいくつか復活させて、レトロ・スタイル、復古調とい観点で多少復活してきているようだが、現代日本のインスタント・ラーメンは、チャルメラにせよ、サッポロ一番にしたところで、基本的には鍋で麺をゆでるが前提となった作りになっているんだと思う(これらのラーメンをどんぶりにお湯を注いで食する人はまさかいまい)。

 インスタント・ラーメンの調理法がどんぶりにお湯を注ぐスタイルから、鍋でゆでるの方法に移行したのは、一体、いつ頃のことだったのか正確には覚えていなけれど、多分、昭和40年代の中盤くらいだったと思う。カップヌードルが出たから、袋入りラーメンは鍋でゆでるスタイルに変わったと思う人もいるかもしれないけれど、記憶によればカップヌードルの登場前に、一般家庭では既に袋入りラーメンを鍋にいれてキャベツだのなんだとゆでる調理法は、袋にも書かれはじめていたしすっかり広まっていたはずだ。その後、昭和40年代後半にカップヌードルが登場して、お湯を注ぐスタイルはカップ麺の方に完全移行したという順番だったと思う。以来、日本のインスタント麺は調理法で完全に棲み分けをするようになったのである。

 ところが、私の知る限り日本以外の袋ラーメンは、たいていチキン・ラーメンのようなどんぶりにお湯を注ぐスタイルを守っている。中国しかり、韓国しかり、そして台湾しかりなのである。それらの国々にはちゃんとカップ麺も存在しているが、日本のような調理法による棲み分けはあまりないようだ。私は台湾や横浜の中華街などに行く人がいると、たいていみやげ代わりに、台湾の袋ラーメンを買ってきてもらうのだが、裏の調理法を読むと、鍋でゆでてもいいが、やはりどんぶりにお湯を注ぐ調理法が書いてある。よーするに安い値段で、気軽に作ってさっさ食う....という本来の目的を最優先しているのだろう。私の台湾の袋ラーメンを多分十種類以上は食べているが、基本的にはそういうノリな味である。客観的にみたら食品としてのクウォリティは日本製とは雲泥の差があると思うが、そうしたジャンキーな味であるが故に、私のようなオッサンには昭和40年代を懐かしませたりして、妙においしかったりするのである。

 そんな訳で、つい先日台湾帰りの職場の同僚が買ってきてくれた、袋ラーメンもあと一袋になってしまった。また、誰か買ってきてくれぃ....って、今年こそ自分で台湾にいかねばなぁ。
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マーラー 交響曲第1番「巨人」 +「花の章」/小澤&ボストンSO

2007年02月24日 20時16分14秒 | マーラー+新ウィーン
 こちらは小澤がボストンと77年に入れた演奏。小澤はフィリップスで全集を完成していますから、このグラムフォン盤は旧録ということになるんでしょう。やはり「花の章」をつけた5楽章版として演奏しているのが「売り」ですが、先ほど聴いてイマイチだったメータとイスラエル・フィルによる演奏に比べれば、よほどこちらの方がしっくりときます。もっとも、この演奏の「あっさり感」のようなものは、実はメータ以上だったりするんですが(笑)、小澤の場合、その「あっさり感」は、まるで絹ごしの冷や奴を食しているような感じで、これはやはり同胞人の強みなんでしょうね、全く違和感ありません。また、ややストイックではありますが、この頃の小澤にはまだ60年代の若武者時代にあった気っ風の良さみたいなものが残っていてますから、リズムのキレ、メリハリも必要にして十分なものがありますから、安心して聴いていられます。うーん、最初からこっち聴いてればよかったな。

 聴いていて、まず気がつくのはストリングスの透明感ですね。これは録音というのも大きく影響しているのかもしれませんが、メータとイスラエルの演奏が割と厚手の音色に特徴があったとすると、こちらはボストンらしいというべきなのか、小澤の個性なのか、いまいち判然としないところもありますが、ともかくシルクのような光沢をもち、いくら音を重ねても見通しのよい立体的なオーケストラ・サウンドは印象的で(音質的にはフィリップスのサウンドに似ているような気がします)、前述の「さっぱり」、「あっさり」といった形容詞を使いたくなるのも、そのあたりも大きいんだろうと思います。あと、もちろん、小澤らしくあまりこねくり回さず、ストレートに歌っているのも、そういった印象を倍加しているといえます。
 まぁ、そういう演奏なので、どちらかというと第2楽章の絵画性、第3楽章のトラッドっぽさ、第4楽章の情緒たっぷりの哀愁とかいう場面になると、ややくいたりないところがないでもないですが、両端楽章を造形的にもきっちり押さえつつさっそうと乗り切っていますから、全体のメリハリは十分、全曲を聴き終えると、なんともいえず交響曲を聴いたという充実感を感じさせてくれのは、やはりさすが小澤とボストンというべきなんでしょうね。私は小澤の振ったマーラーというのは、実はこれしか持っていないのですが、他はどうなんでしょうね。この演奏から推測するに、第4番くらいまで、かなりイケそうな気がするのですが....。
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マーラー 交響曲第1番「巨人」 +「花の章」/メータ&イスラエルPO

2007年02月24日 11時50分16秒 | マーラー+新ウィーン
 やっぱメータの演奏って、自分とは合わない....今さっき、休日の午前というリラックスした気分でもあり、最近ではめったに聴かない初期型マーラーでも聴こうと思い、メータとイスラエル・フィルによる第1番の演奏を取り出してきたんですが、それを聴きつつ、随所でそう思ってしまいました。もう何度も書きましたが、メータの演奏って妙な違和感があるんです。うまく表現できないんだけど、この人のつくる音楽のメリハリが微妙に自分の望むメリハリとズレているような感じがするというか....。今回は第1番自体聴くのが久しぶりでしたし、演奏内容などあまり関係なく、曲そのものを再確認する方が大きいと思っていたのですが、やっぱダメ。本当に相性が悪いと思います。思えば、シェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」、R.シュトラウスの「家庭交響曲」、先日のマーラーの5番、ウィンナ・ワルツとか、この人の演奏ってみんなそうなんだよなぁ。

 ついでに書くと、この演奏はメータにとって3回目の第1番ということにになるようですが、なんかいつものメリハリすらなくて、妙におとなしくて軽い、ある意味古典派の交響曲でも振るような演奏になっているのも不満です(そういえば、第1楽章は主題のリピートを敢行してます)。そもそも、この演奏は「花の章」を付けて、より原点の交響詩に近づけるコンセプトのはずで、第1楽章の幸福感、第2楽章の天上的雰囲気、第4楽章の叙情、そして最終楽章のドラマティックさなど、演奏も相応に劇的なものでなければならないはずなのに、意図的にあっさりした演奏を指向しているのは明らかで(だとしか思えない)、このあたりも納得しがたい....というか、正直いってほとんど意味不明な感じすらします。
 ちなみにテラークみたいな厚めのホールトーンを取り入れた録音も、この演奏の場合、その平坦な印象に拍車をかけちゃっているようで、これまたイマイチでした。最終楽章の大太鼓の迫力はなかなかですけど....。
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ケニー・バレルの全貌

2007年02月23日 22時15分46秒 | JAZZ
ケニー・バレルというとブルーノートとかブレステッジみたいな硬派のジャズ・レーベルの人というイメージがあるけれど、このアルバムはクリード・テイラーが主催するヴァーブレーベルの一枚。この人がヴァーブに一体どのくらいアルバムを残しているか、浅学の私は知らないけれど、どうもバレルとヴァーブはイメージが合わない気がする。内容的にはギル・エヴァンスを編曲に向かえ、ジャズ・オーケストラをバックに様々な音楽スタイルにバレルが挑戦しているから、「ケニー・バレルの全貌」というタイトルはあながち間違えもないのだけれど、「○○の全貌」とか「△△の神髄」とか「××の芸術」という、いかにも60年代的な生真面目なノリを感じさせるタイトルは、どうも「豪華な高級イージー・リスニング・ジャズの老舗ヴァーブ」らしくないシリアスさあって居心地が悪い。きっとレーベルがインパルスとかならぴったりなのもしれないけれど....。

 ともあれ、音楽的には「豪華な高級イージー・リスニング・ジャズの老舗ヴァーブ」の面目躍如たる仕上がりではある。編曲がギル・エヴァンスなので、仕上がりはドン・セベスキーのような華麗さはなく、けっこう渋めのムードだけれど、10分近い2曲目「ロータスのテーマ」はスパニッシュ調+ボレロ風なテーマでぐいぐい盛り上げていくあたり、誰だってマイルスの「アランフェス」を思い出してしまうだろうし、この時期でイージー・リスニング・ジャズといえば絶対はずせないボサ・ノバも5曲の「月と砂」で登場、6曲目「ロイエ」はカリプソ風なリズムを使ったラテン調。クラシックのアダプテイションとしては有名な英国民謡を都会調のスウィンギーなアレンジで演奏した7曲目「グリーン・スリーブス」や4曲目「前奏曲第2番(ガーシュウィン)」など登場しその総花的な豪華さは、バレルやエヴァンスと同時に全体としてはクリード・テイラーのセンスとしかいいようがない感触があるのだ。

 おまけに1曲目「ダウンステアーズ」と3曲目「テラス・テーマ」は、スモール・コンボの曲で「イントロデューシング・ケニー・バレル」以来の、ちょっとアーシーなブルージーさ都会の夜的なリラクゼーションがほどよくブレンドされた正調バレル節が堪能できる演奏になっているし、9曲目「ブレッド・ウィナー」はモードっぽい、当時としてはかなりコンテンポラリーな演奏(ついでにいえばバーニー・ケッセル的スウィング感もある)といった具合に、イージーリスニング的な楽曲のはざまにジャズ的醍醐味を感じさせるナンバーをしっかり配置しているのはさすがだ。

 そんな訳でわずか40分足らずの音楽ではあるけれど、この全方位的な充実感はなかなかもので、最後まで聴いたら、やはりこのアルバム・タイトルは「ケニー・バレルの全貌」で良かったのか....と思えてきてしまった(今なら原題通り「ギター・フォームス」でも感じ伝わるんだろうけど)。ともあれ、CD初期からカタログにのっかっていたがジャズの名盤であることが納得できる仕上がりではある。
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