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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

ブラームス 「6つの小品」 聴き比べ

2010年05月03日 16時15分59秒 | ブラームス
 このGWまっただ中、今日の午後は昨日の「3つの間奏曲」に続いて、「6つの小品」をあれこれ聴いてみた。この曲はブラームス晩年の「孤独だが自由だ」的心情の、割と陽の部分を出して始まり、中間部では若い頃の激情やロマンスを回想しつつ、最後には諦念の淵へと沈み込んでいくという感じで進んでいくもので、ある種のストーリーを頭に描きながら聴くことも出来ると思う。そういう曲である。

・W.ケンプ
 前記の物語性を表でって感じさせず、実にさっぱりとして、その枯れ具合は、ちとオーバーにいうと解脱した境地みたいな趣きがある(そういえば録音もけっこう無愛想だ)。やっぱり、なんでもかんでも口に出してしまい、大きな声で解説してしまうのは、「粋じゃないでしょ」とでもいっているようだ。それにしてもニュアンス豊かな演奏で、こういう演奏でこの曲に馴染んでしまうと、他の演奏は聴けなくなってしまいそうな気がする。

・P.レーゼル
 この演奏も文学性あまりなく、まるでベートーベンを演奏するかの如く、重厚で隙がなく完成した音楽として扱っているみたいな印象。その安定感はいかにもドイツ的でいかにも充実響きが心地よい。「何も足さない、何も引かない」的スタンダードな演奏というべきだろう。聴けば聴くほどに味が出てきそうな演奏で、かなり気に入ってきた。

・W.クリーン
 レーゼルの後に聴くと、この人はやはり低音が軽い感じてしまう。VOX特有(?)なAM放送みたいな録音のせいもあるだろうが、「ロマンス」みたいな曲だとズシンとくるものがない。一方、間奏曲のような穏やかな曲になると、他と曲と同様、ブラームス晩年の「孤独だが自由だ」的心境を、実に安らかな気分で楽しむことができる。ちなみにここ数字にベッド脇にあるCDコンポで、寝る前はいつも彼の演奏ばかりを聴いている。

・G.オピッツ
 レーゼルを多少鋭角的にして、メリハリをつけたような演奏で、動的な曲ではかなり華麗な部分も過不足なく表現し、この曲の幻想味や文学性も不足しないという、万事破綻がない演奏という感じだが、どうもこの人のピアノはたまにキンキン響くところがあって、気になる時がないでもない。聞き比べてみるといろいろと気になることも分かってくるものだ。

・H.アウストベ
 アウストベは北欧出身でメシアンなどを得意としているようだが、この人はブラームスが書いた対位法のような部分に着目しているのか、普段は目立たない部分が、ふいと浮き上がって聴こえてきたりする。また録音の良さもあって、この曲を実に多彩なテキスチュアで表現していて、かなりモダンなブラームスという感じがする。
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ブラームス 7つの幻想曲/ペーター・レーゼル

2010年05月01日 22時45分36秒 | ブラームス
 今日はブラームスの晩年のピアノ独奏曲集群の中から「7つの幻想曲」を集中的に聴いてみた。もともとはアファナシエフのCDが届いたので、これらの曲はその予習のつもりで聴き始めたのだが、久方ぶりに聴いてみたところ、思いの他楽しめたので、案の定、CDラックを検索したり、新たに購入してきてしまったりで、典型的にハマっている状態になってしまった(笑)。そんな訳で、この2,3日この4曲をつらつらと聴いているところなのだが、やはり4曲(というか20曲)を通して聴くと、それぞれの楽曲の印象が散漫になってしまうがちなので、ちょうどGW中で暇もあることだしと、とりあえず今日は4曲の冒頭を飾る「7つの幻想曲」から行ってみたという訳である。

 この曲は4曲の間奏曲と3曲の奇想曲から構成されている。構成比率としては4対3だか交互に出てくるのかというと、そういう訳でもなく、 (カリプッチョ)-(間奏曲)-(カリプッチョ))-(間奏曲×3)-(カリプッチョ)) という、あまりシメントリックでない構成になっている。特にカリプッチョの方は、ブラームスらしい激情をピアニスティクなフレーズで綴っている感もあり、かなり華麗な技巧を要する場面も登場したりして(二つめのカリプッチョはアルペジオを駆使した主題など)、後の3作品ほど自然体でないというか、どこか肩の力が抜けきっていないところがあり、なんとなくブラームスの作曲者としての「力み」のようなものを感じたりもする。

 一方、第4,5,6の曲の3曲は、いかにもブラームス晩年の枯淡の境地を伝えるこの曲集の白眉ともいえるブロックになっている。特に「夜想曲」みたいな雰囲気の第4曲目は絶品で、瞑想的な雰囲気の中にふと寂しげな風情が顔を出すところなど実に味わい深いものがある。また、この曲を受けての2曲、特徴的なリズムが逡巡する思考を表しているような第5曲、子守歌みたいに始まり次第に幻想味が増していく第6曲、いずれも「夜想曲」的な雰囲気を受け継ぎつつも、次第に内向の淵に沈んでいくような連なりになっていて、なんともいえない味がある。個人的にはこの3曲だけで独立させて、「3つの夜想曲」とかいうタイトルでも、つけても良かったんじゃないかと思ったりするくらいだ。

 こんな風に考えると、なんとなくとても悲しげな雰囲気の第2曲は、仮にこの「7つの幻想曲」をソナタに例えるなら、第二主題に主題のように思えてくる。そうすると、3-6曲が長大な展開部で、第7曲は省略された再現部って感じに考えられなくもない(第7曲は、途中でふと夜想曲的なところが忍び寄ったりする)。いや、あくまでもこじつけだが、でも、そういう「起承転結」感覚がこの曲にはあると思う。晩年になって、再びピアノ音楽に手を染めたブラームスだが、いきなり自由きままに枯淡の境地を開陳するには、彼の音楽嗜好はちと優柔不断過ぎたのかもしれない。それでこんな構成的になったのではないだろうか。

 なお、本日聴いた演奏は、クリーン、オピッツ、アウストベ、そしてこのペーター・レーゼルである。ドイツ風な堅実な演奏をする人で、質実剛健、虚飾を排したストイックな演奏という趣きも強い。インテンポで進む「カリプッチョ」などびくともしない風情であり、まるでベートーベンを聴いているようだし、「間奏曲」も内向的な面持ちや幻想味に過剰に寄りかからないストレートな演奏である。ざっくりといってしまえば、サロン風なクリーンと、きっちりかっちとしてシャープなオピッツの真ん中といったところか。これといって際だった個性はないが、何度か聴いていると、ブラームスというのは本当はこういう音楽なのではないか....と思わせる説得力はある。

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ブラームス 後期ピアノ作品集/W.クリーン

2010年04月30日 23時26分22秒 | ブラームス
 ワルター・クリーンのブラームスは30年くらい前だったろうか、当時、ワーナーパイオニアから大量に復刻されたものを良く聴いたものだ。あまりよく覚えていないのだが、これらのアルバムはジャケ裏に演奏技法のようなものかなり詳細に解説したライナー・ノーツがついていて、かなりマニアックな体裁だったのが心をくすぐられたものだったし、1500円くらいの廉価盤というのも大きな魅力だった。まぁ、あの時期にブラームスのピアノ曲が体系的、かつ気軽に聴けるアルバムなど他になかったという事情もあるにはあるのだが…。このアルバムはそんなVOX時代のブラームスをCD5枚に集めたものである(ちなみに全集ではない、LP時代には収録されていたので、ここに入ってない曲もけっこうある)。

 ワルター・クリーンは50年代中盤あたりから、グルダ、バドゥラ=スコダ、ブレンデル、デムスらと並んで、ウィーンの有望株だったはずで(「ウィーン三羽鳥」はグルダ、バドゥラ=スコダ、そしてクリーンだったような)、ご多分にもれず、彼も理知的なスタイルをベースにリリカルなタッチと身上としていたようだ。なので、モーツァルトあたりならその特性も発揮されるだろうが、重厚なブラームスでは音が軽すぎて、ちとそぐわない気が-当時はブラームスなどほんの聴きかじりだつた私してから-したものだった。なにしろ、他にアルバムと聴き比べることが、そう簡単ではなかった時代なので、聴いているうちに無理矢理自分の方が演奏慣れてしまったみたいなところがないでもなかった。今ではいい思い出である。

 さて、クリーンの演奏だが、全体に柔らかく丸みを帯びて、ちょっとくすんだような響きがとてもウィーン風だと思う。老境のブラームスに去来したでろあろう複雑な感情といった文学性、あるいはデモーニッシュな振幅といったものを排したアポロ的な演奏というべきかもしれない。もっといえば、その軽味を帯びた音色やベタベタせずにスムースに進行していくところなど、サロン風な美しさと心地よさすらあるといってもいいくらいだ。なので、「3つの間奏曲」などもあまり深刻にならず、むしろ時折見せるほのかな幸福感のようなものをクローズアップした演奏という感じがする(もちろん、単に明るいだけという訳で、細かいニュアンスにも富んでいるので、この曲の機微のようなものが不足している訳ではない)。また「6つの小品」もほのかに明るく、また伸びやかな曲が多い作品集ゆえ、4曲の中では一番クリーンに向いている演奏かもしれない。

 また、「7つの幻想曲」の1,3,7曲のカリプッチョなどに代表される、それなりに重厚でシリアスなパートでも、スタイリッシュかつシャープに弾いている感じで、胃もたれしない演奏という感じだし、様々な音楽要素が錯綜するせいで、一番「とりとめがない」感じがする「4つ小品」でも、クリーンは各曲の個性を際だたせるというよりは、4曲をなだらかに均質化しているというか、曲毎の差異を上手に埋めていった演奏という感じもしたりする。
 あと、既にマスターが劣化してしまっているのか、、「4つ小品」などでは強音でざらつくノイズがやけ多いのが残念だ。こういう繊細な演奏では否応なく目立ってしまうので、ある意味致命的なところもある。
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ブラームス 後期ピアノ作品集/H.アウストベ

2010年04月29日 16時06分29秒 | ブラームス
 ブリリアントから出たブラームスのピアノ作品全集から晩年に作曲された4つのピアノ曲をまとめたディスクを聴いた。リストの「ピアノ・ソナタ」を異例な遅さで弾いたアファナシエフについて興味を持ったものだから、今度は私の大好きなブラームスを聴いてみようと、彼が出した2枚のブラームス作品集を購入し、それが数日前に届いたので(一緒に「展覧会の絵」も購入した)、それを聴く前の予習として-昨夜のG.オピッツに続いて-聴いている訳である。

 ブラームスはこれらの曲を1892年に書いたといわれている。ブラームスの有名な引退宣言が1890年で、亡くなったのは1897年で64歳の時だったから、この作品は50代後半の頃だったことになる。この年のブラームスは近しい人を何人か亡くし、自分の晩年を実感して遺書を記す一方、クララ・シューマンとの関係修復、そしてとある女性歌手にほのかな恋をしたりして、それなりにいろいろなことがあった年でもあった。この4曲はまさにこうした最中に書かれていた作品でもある。

・七つの幻想曲 作品116
 幻想曲と命名されているだけあって、晩年の作品群の中では一番「遠くを見つめている」感じの曲が多い。1曲目がいきなり昔を思い出したような男性的なスケルツォ風、3曲もなかなか情熱的なところを見せる、7曲目は1曲目のムードに戻ってけっこう精力的だったりするのだが、その間に入っている4曲はどれも寂しげな諦念がただようもので、総体的にはブラームス晩年の様々な思いや葛藤が封じ込められた曲という感じだ。

・三つの間奏曲 作品117
 晩年のピアノ曲の中でももっとも有名な作品といったら、やはりこれではないか。この作品についてブラームスは友人に「我が苦悩への子守歌」と呼んだらしいが、瞑想的で枯れきった風情、表向き子守歌のようななだらか趣の中に、複雑な想念がひっそりと交錯する味わい深い曲になっている。ブラームスの晩年のモットーは「孤独だが自由だ」というものだったらしいが、その裏には様々な葛藤や苦悩だってあったはずで、それらも含めストイックな音の流れの中で実に複雑な感情を表現しているのが素晴らしい。

・六つの小品 作品118
 4つの間奏曲とバラード、ロマンスからなる小品集。これ以上ないくらいにストイックだった「3つの間奏曲」に比べると、いくらか伸びやかさ、ピアニスティックな響きがある作品が揃っている。また全体に平穏な感情を表向き表現しているような曲も多いが、簡素な佇まいの中に、単一の感情表現では割り切れない複雑な思いが綾をなして音楽に封印されているのは他の曲と同様である。なお、7曲目の一瞬印象派と見まごうような音の連なりと、その深い幻想美にはしばし圧倒される。

・四つの小品 作品119
 3つの間奏曲とラプソディーからなる。前3曲に比べ更に散文的な趣きが強くなり、一筆書きのような簡素さと異様なまでにストイックな趣きがある。4つの作品の中ではブラームス晩年の諦念と追憶のようなものが、ひときわ強く感じられる。老境に達した人間に去来するさまざま思いというのは、しばし「永遠の時」のように感じられるのではないか。この音楽はそうした瞬間をそっと映し出しているようにも思える。
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ブラームス ピアノ四重奏曲 第1番(シェーンベルク編)/ラトル&バーミンガム市響

2010年02月11日 00時07分42秒 | ブラームス
 この曲はしばらく前にロバート・クラフトの演奏を2種類聴いたばかりだが、気が向いたので、久しぶりにラトルとバーミンガム市響の演奏を聴いてみた。前にも書いた通り、私はこの曲をこの演奏で知り、以来四半世紀もシェーンベルク編曲のピアノ四重奏曲第1番といえば、これを聴き続けてきたせいもあって、やはり一番しっくりとくる違和感がまるでない演奏だ(クラフトの2番目の演奏も良かったが)。冒頭から実にブラームスらしい響きが充満しているし、全体にテンポや表情も実に的確で、常に男らしくありたいと思い続け、傍目にもそう振る舞いながら、時にふと遠くを見て、うつむいてしまう優柔不断なロマンチストという側面が複雑に絡み合ったブラームスが思い浮かぶような演奏なのである。多少雑ないい方をすれば、前に聴いたクラフトの演奏が「シェーンベルクがブラームスをどう料理したか」をポイントにしたものだったとすると、ラトルの方は「他人の手が入ったブラームス作品をいかにも純正ブラームス作品に近づけるか」を主眼にした演奏という風にもいえるかもしれない。

 なにしろ冒頭、木管に続く弦が入ってくるあたりの響きが素晴らしい。しつこいようだがブラームスそのものである。またそれをいくらか遅めにじっくりと歌う間合いというか呼吸感のようなものは、新ロマン派的な感性、あるいはマニエリスム的なディテールへのこだわりを感じさせるものだと思う。おそらく、古い指揮者だとここまで、歌い込んでロマンティックに演奏してしまうのはおそらく気恥ずかしく感じるのではないだろうか。ラトルという指揮者は、当時未だ20代後半、しかも、この曲(版というべきか)が今ほどポピュラーではなく、手あかのついていない素材だったから(慣例や常道的な解釈が存在していなかったので)、こういうやや身振り手振りの大きい、いってしまえばフルトヴェングラー的な指揮ができたのだろうとも思ったりする。やや遅めの解釈した最終楽章なども、ハンガリー的な色彩はほどほどにして、ブラームス的な行きつ戻りつしながら盛り上がっていく、調度交響曲の第二番の最終楽章のようなハイライトを形成しているのも、そう考えると納得できるものだ。とりとめがなく地味になりがちな、真ん中のふたつの楽章を、ここまで情感豊かに、しかも元から交響曲のパーツであるかのような演奏しているのも出色だ。
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ブラームス ピアノ四重奏曲 第1番(シェーンベルク編)/クラフト&フィルハーモニア管

2009年12月01日 22時39分12秒 | ブラームス
 ロバート・クラフト2回目のピアノ四重奏曲第1番である。前回のシカゴとの録音が1964年で、こちらのロンドン響とのは1998年だから、ほぼ四半世紀を経ての再録ということなるが、その年月が物をいってるのだろう。一回目ものより数段素晴らしい、実に熟成した味わい深い演奏だ。シカゴ交響楽団というバウフルな上にパワフルなオケを得て、ジョージ・セルもかくやというザッハリッヒな熱狂が横溢した演奏も悪くはなかったし、時にうなり声を上げて指揮するクラフトの十字軍的な剛直さにもある種の情熱を感じるのもやぶさかではなかったが、あまりにも直線的で、まるで真一文字に口を結んだようなその演奏は、ブラームス的な逡巡する抒情のようなものが、どこかに置き去りされてしまったような憾みを感じないではいられなかった。

 その点、この演奏はまるでシカゴの時とは別人の如き落ち着きがあり、シェーンベルクによるシミュレーションで再構成されたブラームス的な抒情を実に丹念に描いている。第1楽章など前回の演奏では、一度始まった最後で一瀉千里とばかりに精力的に進んでいったが、こちらは微妙なテンポの変動も含めて、落ちつき払ったような感覚があり、木訥としてふと立ち止まるようなブラームス的な趣をよく表現している。遅めに解釈された第2主題など聴くにつれ、「あぁブラームスを聴いてるなぁ」と感じさせてくれるのがうれしいところである。
 ともあれそういう演奏なので、第2、第3楽章も非常にいい仕上がりだ。どちらも基本的にはシカゴの時の同様に早めの解釈だが、ロンドン響(というかイギリスのオケ特有というべきか)のややくすんだ響きがブラームスにとてもよくマッチしており、時折見せるラプソディックな表現が味わい深い。最終楽章も節度がある。この熱狂的な楽章に限ってはあの性急な前回の演奏の方が懐かしいような気もするが、交響曲のラストとしては実はこのくらいの方が座りがいいのではないか。聴いている感じとしては、ハンガリー云々より、第2交響曲のラストのような趣がある。

 という訳で、このブラームス的側面を満喫できる仕上がりだ。前回の録音がシェーンベルクのオーケストレーションを焦点を当てたのに対し、こちらはその向こう側にあるブラームス的世界をじっくりくみ取った演奏といういい方も可能かもしれない(もっともこれは元々Kochレーベルのシェーンベルク・シリーズの一貫として録音されたようなのだが)。録音もCBSのようなオンマイクなものではなく、どちらかといえば、オーケストラのマスな響きに焦点をあてたふっくらとしたもので、これもまた演奏の自然な印象を倍加している。
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ブラームス ピアノ四重奏曲 第1番(ピアノ連弾版)/マティーズ&ケーン

2009年11月25日 00時38分25秒 | ブラームス
 マティーズ&ケーンによるブラームスの主要作品のピアノ連弾シリーズ、今回はこのところ頻繁に聴くピアノ四重奏曲の第1番を聴いてみた。このシリーズは気がつけばたいていのものを購入しているが、これなど確か2,3年前には購入してあったように思うのだけれど、ピアノ四重奏曲そのものがしばらく興味の範疇外であったから放置してあったのだが、今まさに機は熟したというところだろう。それにしても、全くナクソスというのは良質なレーベルである。こういうメジャーな会社なら見向きもしないようなレパートリーを地道にレコーディングしてくれるのは、まずは資料としても貴重というのはもちろんだが、こういう演奏を聴くことによって、こうした作曲家に対する理解の深化や新たな側面を認識できたりするきっかけを得られると思うからだ(実際は得られるかもしれない....程度かもしれないが-笑)。

 それにしてもブラームスの作品というのは、セレナードはもちろん、交響曲にしても、実にピアノ連弾というスタイルに合う音楽だと思う。この1番はそもそもピアノを伴った曲だから、そもそも、半分は「そのまま」だとしても、残りの弦楽パートをピアノに置換してもそれほど不足感がないのは、そもそもブラームスという人がピアノ音楽的な発想で作曲してきた人だからだろう。第1楽章のピアノの暗鬱なテーマから、深刻な表情で弦楽が重なってくる冒頭など、-そもそもシェーンベルクの分厚いオーケストレーションでこの曲を聴き慣れてきた私のような者が聴いても-「これはこれで十分あり!」と思わせる良さがある。ブリッジの憂愁なムードもピアノだけで錯綜する線を再現しているが、オリジナルとは違った透明な美しさがある。また、ブラームスらしい寂寥感のようなものが漂う場面では、4手では思いの他効果的新鮮だったりもする。ただし、壮麗な第二主題はとか錯綜する展開部などは、4手では明快に各声部が聴き取れるのはいいのだが、やはりいささか寂しい感じもなくはない。

 第2楽章と第3楽章(間奏曲)は、時に背景のリズム処理が多少機械的にトランスクリプションした不自然さを感じるは時もあるが、大筋では違和感なしの出来。前者はシューマンの暗い抒情が横溢するピアノ曲のように聴ける。後者はオリジナルとは趣のことなった淡い水彩画のような美しさが印象的だ。ハンガリー風の第4楽章は、元々4手の曲のようにすら聴こえるから妙だ。これは「ハンガリー舞曲」という、既成事実の存在も大きいのだろう。突如「ハンガリー舞曲」を聴いている気分になってしまうのは笑える。いや、くだんの舞曲集でもここまで過激に盛り上がる曲もなかったのではないか。ともあれ、ここでは、いつもお行儀のよいマティーズ&ケーンが終盤はかなりホットな演奏になっているのは、やはりこの楽章の性格あって故なのだろう。
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ブラームス ピアノ四重奏曲 第2番/プロアルテ・ピアノ四重奏団

2009年11月17日 00時14分28秒 | ブラームス
 さて、プロアルテ・ピアノ四重奏団による第2番だが、この演奏の特徴はなんといっても第1楽章の遅さだろう。これまで聴いたいくつかの演奏では第1楽章は一番早いバリリで14分15秒、あとのふたつは15分半くらいなのだが、この演奏ではなんと17分15秒もかけて演奏している。ひょっとするとリピートの問題なのかもしれないが、ぱっと聴きでもその「遅さ」は歴然だ。この楽章にある初期型ブラームスらしい若々しい推進力のようなものが、ある意味ぐっと後退して、その分、中期~後期型ブラームス的な侘びしさや落ち着きが表に出てきているという感じなのである。他では瑞々しさを全面に出した流れで演奏される第二主題が、とぎれがちの独白のような趣になっているあたりその最たるものだが、ありがちな弛緩した印象がなく、これはこれで説得力がある解釈に聴こえるのは、最後まで緊張感を保って演奏だからだろう。ともあれ、そのせいでこの演奏は「楽器の絡み合いの妙」といった点が実によく聴き取れる。

 もっとも第2楽章以降は、第1楽章ほどユニークな演奏ではなく、まぁ、まずは普通な演奏といってもいいと思うが、それでも随所に第1楽章と共通するこの楽団の独特な(といってもいいのだろう)、まったり感が出ていると思う。例えば第3と第4の早い楽章では、第1楽章同様、推進力やダイナミズム、あと構築性という点は少々抑え気味にして、全体に気の赴くまま....というか、「ブラームス流の渋い感情表現をよりラプソディックな趣で演奏してみました」という感じで、聴いていると、大作曲家ブラームス的威厳だとか風格といったものより、初冬の曇天の下、ドイツの田舎をとぼとぼ歩く髭のブラームスみたいな姿を彷彿とさせたりもするからおもしろい。
 一方、第2楽章は、第1楽章を一番早く演奏しているバリリが13分近くかけて実にデモーニッシュな演奏をしているに対し、プロアルテ・ピアノは11分程度で終わらせている。別段せかせかしている訳ではないけれど(むしろ逆)、ピアノとチェロが不穏な雰囲気を醸し出す部分など、あまり深刻にならず、全体に楚々とした風情の演奏に仕上げているのは興味深い。

 という訳で、プロアルテ・ピアノ四重奏団という団体は、どうも「早い楽章は遅く、遅い楽章は早く」演奏するという傾向があるみたいだ。もちろんこの演奏だけで即断するのも危険だが、あえて深読みすると、今風なマニエリスム的な解釈をしたのではないという気がする。もっとも、この楽団はブカレスト・フィルというローカルなオケのピック・メンバーによって構成されているらしいから、存外、その体質(オーケストラ的な響き、芸術性より職人的スタンス)が素直に出ただけなのかもしれない(たぶん、これが正解だな-笑)。ともあれ、他の演奏に比べると全体に「まったりとした演奏」であることは確かだ。
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ブラームス ピアノ四重奏曲 第3番/バリリ四重奏団、デムス

2009年11月11日 00時20分22秒 | ブラームス
 第三番の方はようやく体に馴染んできたという感じ。というか、聴く度に「あぁ、これは名曲だなぁ」と思えるようになってきたところだ。ピアノの和音によるドラマチックな開巻から、暗明を往復しつつ、次第に気分を高揚させながら曲を進行させ行く第一楽章の壮麗さ。第二楽章の緊密に構成されたスケルツォの充実感と不気味な勢い。それと鋭く対照する第三楽章の安らぎ切った雰囲気。最終楽章の逡巡しながらも暗から明を目指す葛藤のようなものを表現した切実感と....。少なくとも、聴くべきところがふんだんに用意された作品であることは、聴けば聴くほどにそれを発見できる曲ということが分かってきたというところである。

 バリリ四重奏団の演奏は、さすがにこういう曲では、さすがに時代というべきなのか、この曲をベートーベン流に深刻な曲として解釈しているのか、随所にシリアスな表情を随所に見せている感じだ。第一楽章も第一主題はぐいぐいと進み、やや明るい第二主題ではぐっとテンポほ落として曲の振幅をはっきりと隈取っているあたりは、先の2番でもそういうところはあったけれど、この楽章の持つドラマチックさをより強調していると思う。こうした明暗をくっきり対照させて曲の振幅を増大させていくようなやり方は、第二楽章や最終楽章でもいえることで、おそらく50年代だと、そういうロマン派時代の演奏の名残りのような解釈は、-特にウィーンのような保守的な地域では-まだまだ残っていたのだろうと思う(なにしろまだフルトヴェングラーもワルターも生きていた時代だからな)。もっとも、第三楽章はその鄙びた雰囲気、エレガントな風情はさすがで、なんともいえない雰囲気がある演奏なのだけれど、意外にもテンポはけっこう早めで、実は割とすっきりと演奏しているが意外な点でもある。

 あとこれは、第一番のところにも書いたけれど、この演奏はやはりその出来や仕上がり以前に、そのあまりに乾いて潤いのない録音がやはりちとひっかかる。いくらなんでもこんなにマイクを近づけることはなかのではないか。なにせ時代はSP、しかも製作がアメリカ陣ということあって、こういう音になるのは必然だったかもしれないが、ファウスト、ジュランナ、ムニエ、ハンやボザール・トリオの完備した録音と聞き比べてしまうと、やはりその点では大分損をしていると思ってしまう。これがもうすこし残響をとりいれ、しかもステレオ録音だったりしたら、どんなに聴き映えがしただろうとつい感じてしまうのだ。
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ブラームス ピアノ四重奏曲 第2番/バリリ四重奏団、デムス

2009年11月10日 23時23分30秒 | ブラームス
 続いて第ニ番、こちらは未だ曲自体があまり当方に馴染んでいないので、なんともいえなところは多々あるが、緊張感の高い第一番に比べ、より牧歌的、田園的な趣が強い作品な分、この楽団の持つウィーン風なところ、加えて約半世紀前の56年録音という時代的な落差が独特の鄙びた風情を醸し出している。ファウスト、ジュランナ、ムニエ、ハンの演奏では、この曲の規模の大きさやラプソディックな風情に注目し(たのかどうか知らないが)、同じブラームスのセレナードみたいなノリでシンフォニックに演奏していたけれど、こちらはまるで古い木造校舎の音楽室で聴く「生真面目で木訥とした室内楽」みたいなイメージである。では4つの楽章を聴いた印象をざっとメモしておきたい。

 第一楽章はリズムにせよ、曲の流れにせよ、あちこち寄り道をしながら、まるで逡巡するかのように音楽をつくっていくブラームスの個性のようなものをクローズアップしているいるような感じで、いたずらにこの楽章の明るさばかりを強調せず、冬の日だまりみたいな、つつましやかな暖かみを感じさせているあたりがこの楽団の見識を感じさせる。
 第二楽章は時折現れるデモーニッシュな部分がかなり重々しく、結果的にそれに続く安らぎを感じさせるような明るい部分との対照が大きくなっているように思う。従って、こちらは前楽章と比べると、こちらはけっこう構えの大きな演奏というか解釈になっているように感じた。なにしろ、一歩間違えば退屈極まりない凡庸な音楽になってしまいそうな楽章だけに、この老練さはさすがにブラームスを体で知っている人たちの演奏だという感じが強い。

 第三楽章はスケルツォだが、先日も書いたとおり、あまりリズム的に角張ったものではないし、ベートーベン流にシニカルな趣も強くない、いわく形容し難いブラームス流の音楽なのだけど、こういう舞曲風な音楽だと、この楽団が持っていたのであろう「ウィーン風なスウィング感」のようなものがとても気持ちがいい。主部はもちろんだが、多少哀感も感じさせる中間部から再現部へと移り変わっていくあたりの、ほどよく高揚感のようなものは、こうしたスウィング感から来るところが大きいのではないか。一気呵成に演奏しては、おそらくこういう味は出ないのだろうと思う。
 バリリ四重奏団はこの最終楽章を、おそらく全曲のハイライトと位置づけたのだろう。ラストにしては多少座りの悪いこの楽章を、全曲中もっとも明るく吹っ切れたような雰囲気で演奏しているように思える。ほっとするような明るさが印象的だ。デムスの張り切ってピアノを弾いている。
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ブラームス ピアノ四重奏曲 第1番/バリリ四重奏団、デムス

2009年11月10日 00時03分10秒 | ブラームス
 先のボザール・トリオの全集と一緒に購入したもの。ウェストミンスター・レーベルから出たもので、演奏は50年代のウィーン・フィルからピックアップ・メンバーで構成された伝説のバリリ四重奏団に、ピアノがイェルク・デムスが加わった布陣で収録されている。ウェストミンスターというアメリカのレーベルは、どういうコネクションだったのか、50年代のウィーン・フィル関連のメンバーで構成されるいくつかの団体を擁し、室内楽のアルバムを沢山残したおかげで、現在でも名盤選定の際にはたいてい名前が出てくるくらいに有名で、例えばブラームスのクラリネット五重奏曲をウラッハが吹いたあの大名盤なども、このレーベルからのものだった。そういえば、ヘルマン・シェルヘンのマーラーなどもこのレーベルである。

 さて、このバリリとデムスによる演奏だが、さすがにメンツがメンツなだけにウィーン風なムードと伝統的な表情が濃厚だ。第一楽章冒頭のピアノからチェロにテーマがリレーし、やがてアンサンブルへ発展していく部分からして、くぐもったというか、艶消しで仕上げたような音色が実にウィーン的なものに感じられる。また、全体にリズムの角が少しとれて、縦割りもあまりきっちりかっちり揃っていないのが逆に独特の柔らかな感触を醸成させており、そのあたりもウィーン的なるものを感じさせていると思う。第二楽章のメランコリックなムード、第三楽章の鄙びた風情などは、まさに「おらが音楽」的な自家薬籠中の境地が感じられる。まぁ、そう思って当方が聴いている先入観も大きいとは思うが(笑)、やはりこうした部分はウィーンならではの音楽だと思う。なにしろ当時のウィーン・フィルはまだインターナショナルな存在になる直前で、まだまだ古式ゆかしいローカルな音色を温存していたことも大きいだろう。

 最終楽章は後年の演奏になればなるほど、ホットに疾走しがちな傾向があると思うのだけれど、ここではテンポにせよ、リズムの切れにしたところでかなり節度を持った演奏だ。実をいうと、私はそこにある種の「古さ」や「枠」を感じないでもないのだが、これはこれでひとつの「時代の見識」だったのだろうと思う。ついでに書くと、デムスのピアノが実に瑞々しい気品がある。当時のことなど私は知るわけもないが、その頃、フリードリッヒ・グルダ、パウル・バドゥラ=スコダ、アルフレッド・ブレンデル、そしてワルター・クリーンらともに、当時の彼はの若手のホープだったはずで(確か「ウィーン三羽鳥」のひとりだったはず)、そうしたはつらつさも伝わってくるプレイである。

 ちなみに録音は1956年でモノラルだが、ステレオ録音もちらほら開始されている時期だけにモノラルとはいえ非常に聴きやすい音質となっている。ただ、これはアメリカのレーベル故というべきなのだろうが、やけにオンマイクで楽器に近接した録音のせいで、音圧や各楽器の質感のようなものは非常にクリア収録されているものの、やけに音像が大きく、残響やあまりに少ない、まるでライブをラインモニターで聴いているような音質は、若干の不自然さを感じなくもない(こういう録音はジャズだといいんだけどな)。という訳で、録音にはちと違和感があるものの、全体としてはほとんど違和感がなく、安らかに聴けるブラームスになっている。実はをいえば、この演奏、今の世の中にワルターのマーラーを聴くような、いささか古色蒼然としたものを感じないでもないのだけれど、ブラームスのような音楽だとそういうのはむしろプラスに作用したりするのだ。
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ブラームス ピアノ四重奏曲 第1番(シェーンベルク編)/クラフト&CSO 他

2009年11月08日 00時49分31秒 | ブラームス
 何度か書いたが私はブラームスのピアノ四重奏曲の第一番は、シェーンベルクが編曲した管弦楽版によって知った。」シェーンベルクはこの編曲について「ブラームスの書法を忠実に守り、もし本人が今行ったとしても同じ結果になったようにした」旨を述べているとおり、彼はブラームス的なる管弦楽編曲、ブラームス的な音楽について、並々ならぬ見識を自負していたことは間違いなく、この編曲でもまるでブラームスの第一番以前の交響曲が増えたような....そんなあまりにブラームス的な響きが横溢するものになっている。もちろん、ブラームスの時代ではありえないような打楽器の使用やブラームスにしてはやや賑々しい響きがあるところは否定しないが、それにしたってこれは聴こえて来る音の向こうにあの気むずかしげなブラームスがはっきりと見えてくる音楽だ。

 このシェーンベルク編曲による管弦楽版の「ピアノ四重奏曲第一番」を私はこれまでサイモン・ラトルとバーミンガム市響による演奏を唯一のものとして長く楽しんできたのだけれど、よーやくそれ以外の演奏を聴くことになった。ロバート・クラフトとシカゴ響の組んだ64年の演奏である。ラトルのものが彼のデビュー直後の80年代初頭のものだから、それより大分前のものとなる。おそらく同曲の演奏としては最初期に属するものではないだろうか。おそらくこの時期だと、この編曲版は「とるに足らないシェーンベルクの創作史におけるオマケ」のように思われていたに違いなく、あえてこの時期にこの作品を果敢にも取り上げたのは、ロバート・クラフトというストラヴィンスキーを得意とした学究肌の指揮者故のことだろう。

 さて、演奏だがこれはクラフトらしいというべきなのだろう。実にザッハリッヒな演奏である。これまでラトルの新ロマン派的な演奏で同曲に馴染んで来たせいで、その趣の違いは鋭く対照的に感じる。なにしろ、第二楽章を除けばどの楽章も演奏時間が1分以上短く、演奏はザクザクと一気呵成に進んでいく。ロマン派風なあちこちに寄り道するような演奏ではなく、非常に高いテンションに裏打ちされた、弛緩などという言葉とは無縁な緊張感の高い演奏だ(シカゴのサウンドも実にパワフル)。調度、ジョージ・セルがこの曲を振ったら、おおよそこんな感じになるのではないか。個人的にはラトルの長らく親しんできたせいで、この演奏はあまりにザッハリッヒな感じがしないでもないが、これはこれでひとつの見識というべきなのだろう。じっくりと楽しみたい。
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ブラームス ピアノ四重奏曲 第1番/ボザール・トリオ

2009年11月07日 22時55分52秒 | ブラームス
 このところ、なにかと出てくることの多いブラームスのピアノ四重奏曲だが、リストに上がっている通り、演奏の方はブリリアントの室内楽全集に入っているファウスト、ジュランナ、ムニエ、ハンの4人による演奏をもっぱら聴いていた。昭和初期に録音されたプロ・アルテ四重奏団とシュナーベルが組んだ第一番も手元にあったりもしたのだけれど、なに音が悪すぎてまともに聴くがしなかったら、これしかなかったともいえるのだが....。さて、曲が馴染んでくれば他の演奏が聴きたくのは、いつもの通りのこと(笑)。さっそく数日前にいくつかのCDを購入してしまった。これはもちろんその中のひとつで、ボザール・トリオによるピアノ四重奏曲全集である(作品番号のないピアノ三重奏曲イ短調もはいっている)。ボザールトリオはアメリカのレギュラーで活躍しているピアノ三重奏団で、古今のピアノ三重奏曲の名曲といえばあらかた録音してしまっているベテランであり、この演奏もそういう意味では安心して聴ける演奏であろう....という目論みで購入した訳である。

 とりあえず、今一番を聴いているところだ。この三重奏団は50年代中盤にデビューしているし、なんとなく「フィリップスから出たブラームス」というイメージからして、ステレオ初期くらいの録音かと思っていたら、73年収録だったのは意外だったが(従って音質は十全である)、演奏の方はこれはもう当初の目論み通り、本当に安心して聴けるスタンダードなパフォーマンスだと思う。これまで聴いていたファウスト、ジュランナ、ムニエ、ハンの演奏は、よくいえば非常に流麗で透明感があるやけにすーすー流れるブラームスで、まぁ、それはそれで趣だとは思うのだけれど、ちとラテン的な腰の軽さのようなものが気にならないでもなかった。一方、こちらはもう少し楷書体というか、要所要所をビシっと絞めたタイトな良さがあるし、ぱっと聴きだがテンポも揺らぎがなく全体に安定感を感じさせるのがいい。また、プレイヤーの集合体による演奏というより、ひとつの楽器を思わせるいかにも練り込まれた緊密なアンサンブルでもって全編演奏されているのも、いかにも上質な室内楽を聴いている快感を感じさせたもする。

 という訳で、なかなか優れた演奏ではあるが、どうもこの演奏も基本的にはラテン的なものではないかと思う。私がどうもラテン的なるものが苦手なせいもあるが、これはこれで良しとして、もう少し重厚でどっしりとした石橋を叩いても式のドイツ保守本流ブラームスを体現したような演奏というのも、聴いてみたいような気もする思ったりしてしまうのは私の我が儘というものだろうか?。ちなみにこれと一緒にバリリ弦楽四重奏団がデムスと組んだ50年代中盤のピアノ四重奏曲全集も購入したのだが、ドイツ保守本流ブラームスについては、そちらに期待してみることしたい。
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ブラームス ピアノ四重奏曲 第2番/ファウスト、ジュランナ、ムニエ、ハン

2009年11月01日 23時57分39秒 | ブラームス
 3番のところにも書いたが、ブラームスが3曲残したピアノ四重奏曲の内、1番と2番はほとんど時を同じくして生まれた双子のような作品らしい。ブラームスは同じ編成であるにもかかわらず、性格的には対照的な曲を同時進行させて創作することが-特に室内楽では-よくあってらしいけれど、これなども典型的にそういう例だと思う。作品番号は26(1番は25)で、すぐ近くには有名な「ヘンデル主題による変奏曲」がある。だからという訳ではないだろうが、この第2番は「ヘンデル」に漂っている気分にけっこう近いところがあるように思う。第一番の鬱蒼として重厚、やや気むずかしげな世界に比べると、こちらは、午後の満ち足りた時間....みたいな、明るい伸びやかさやある種の安寧さが横溢しているところが特徴で、こうしたムード、気分はまさに「ヘンデル」と共通するものだからだ。

 作品は全四楽章、演奏には約45分を必要とするなかなかの大作だが、前述のように比較的リラックスした作品なので、ブラームスにありがちなあまりに構築されたが故の威圧感のようなものはあまりなく、BGM的にも聴いてすーすー耳に入ってくる、とても聴き易い仕上がりになっている。第1楽章はシグナル風なモチーフをメインにした明るい第1主題が印象的で、調度セレナード第二番の第一楽章と同じようにように(そういえば、曲自体が「ヘンデル」以上に、セレナード第二番に似ている気もしてきた)、これか繰り返し何度も現れて曲が進んでいく。第二楽章はやや早めの緩徐楽章。時に初期型ブラームス流の情熱的なところを見せつつも、おおむねゆったりと進み、あまり深刻になったりせず、子守歌風にリラックスした雰囲気に終始している。ちなみにざっくりといって、第一番は弦主体、第三番はピアノ主体のような印象を私は持ったけれど、この第二番もどちらかというと流麗な弦の動きが耳に残る作品だと思う。

 さて、第三楽章はスケルツォ、ただし。第二楽章が緩徐楽章にしては多少遅めだったのに比べると、こちらにはスケルツォにしてはあまり情熱的でも精力的でもなく、冬の日だまりみたいなほのかな温もり感が目立つ、調度交響曲第一番の三楽章あたりの印象である。最終楽章は舞曲風なロンド。第一番の余韻なのか、こちらも少しジプシー音楽の影響が感じられるが、やはり第一番の最終楽章のような緊張感や賑々しさはなく、メインの主題に挟まれた副主題は第一楽章に共通するようなゆったりとした雰囲気になるので、全体としてはやはりゆったりとしたリラックスしている感じだ。という訳で、第一番とは鋭く対照的な仕上がりで、全体に間延びした感がないでもないが、この明るい伸びやかさ、ゆったり感は悪くないと思う。
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ブラームス ピアノ四重奏曲 第3番/ファウスト、ジュランナ、ムニエ、ハン

2009年10月22日 23時04分07秒 | ブラームス
 ブラームスはピアノ四重奏曲を3曲書いていて、これは一番最後のもの。ただし、私の読んだ本によれば、双子のような1番と2番よりも早い時期に着手されているらしい。例によってブラームスらしく改訂に改訂を繰り返したせいで完成が遅れ、結局、恩師であるシューマンがライン河に投身自殺を図った1854年2月くらいに一応の完成をみたことと、全編にわたって悲劇的な雰囲気が濃厚なことから、そのあたりの心中を慮って「ヴェルテル四重奏曲」といわれることもあるようだ。私はブラームスのピアノ四重奏曲といえば、シェーンベルクが編曲した第1番しか聴いたことがなかったのだが、しばらく前に封を切ったブリリアントのブラームス室内楽全集に収録されていたファウスト、ジュランナ、ムニエ、ハンのクインテットで演奏した同曲のディスクにこれが併録されていたので、「秋から冬といえばブラームス」ということもあり、最近けっこう頻繁に聴いているところである。

 曲は確かに全編に渡って暗い悲劇的なムードが強い。ピアノに導かれて始まる第1楽章の暗い情熱に満ちた雰囲気は、私の知っているブラームスの曲だとかの「悲劇的序曲」に共通するものがあると思う。この楽章はこうしたパセティックな第一主題とほのかな明るさを感じさせる第二主題をいったりきたりしながらテンションを上げていく、まぁ、ブラームスらしいものといえる。
 第二楽章はスケルツォ、精力的だがやはり暗鬱な情熱に満ちている。この第3番はどちらかというと管弦楽的な第1番に対して(シェーンベルクが編曲したからそう思えるのかもしれないが)、この3番はピアノ・ソナタの拡大版みたいなところがあると思う。終始ピアノがリードするこの楽章などまさに初期のピアノ・ソナタを思わせる趣があり、ピアノ・ソナタ的であると同時にピアノ協奏曲的でもある。ちなみにこの楽章、スケルツォ主題のまんなかにおかれた副主題への推移する部分の流麗さがとても美しい。

 続く第三楽章はブラームス的な抒情が余すところなく発揮された甘美な感傷的、どことなく逡巡するようメランコリーが漂う緩徐楽章となっている。中間部ではピアノと弦が語り合うように進み、やがて感情的な高まりを見せていくが、それもほどなく静まり再び瞑想的に雰囲気に戻っていくあたりの優美な趣はなかなかの味わいがある。第四楽章は再び第一楽章の雰囲気に戻り、暗い情熱に満ちている。最終楽章に相応しくアレグロでかなり精力的に進んでいくが、「暗から明へ」と彼の作品でいえば、ピアノ協奏曲や交響曲の第一番のようには、くっきりと解決しないのも、室内楽という内省的なフォーマット故だろうか....?。
 ともあれ、この第三番、聴けば聴くほど味わいのある作品である。最初、聴いた時はとにかく恐ろしく地味で、どの楽章もこれといって決め手に欠く感じがしたものだけれど、やはり聴きこむという作業は大切だ。ブラームスの室内楽はほんの少ししか馴染みがないから、管弦楽の方と違って、これからまだあれやこれやまだ聴くべき作品が沢山残っているかという思うと、ちょっとうれしくなる。
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