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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

ワーグナー 「ニーベルングの指環」 管弦楽曲集/マゼール&BPO

2010年08月28日 23時09分21秒 | クラシック(一般)
 「ニーベルングの指環」の管弦楽曲集といえば、大抵は全曲盤から聴きどころを抜粋したものか、慣例的に独立して演奏されるいくつかのパートを集めたもののどちからだが、このアルバムはそのどちらでもない独自の構成をとっている。全曲から声楽抜きの聴きどころを集めている点は同じだし、選ばれているパートをそうかわらないものの、ユニークなのは全体が切れ目なく続く点で、さながら大きな組曲か交響詩のような体裁になっているのだ。
 このアダプテイションというか、編曲を行ったのは指揮のマゼール自身で、そもそもこの1987年にリリースされたこのアルバムのために作られたヴァージョンのようだ。彼はその後、これの続編として「タンホイザー」でも同種のアルバムを作っている。もっともレーベルはCBS、オケはベルリンではなくピッツバーグ響だったが…。

 構成としては、「ライン」は4パート約12分、「ワルキューレ」は5パート約15分、「ジークフリート」は4パート約7分半、そして「神々の黄昏」は6パートで35分となっていて、最初の3つの楽劇については、さしずめ主題提示部的な感じで比較的足早に進み、最後の「神々の黄昏」を事実上のハイライトとして、じっくりと聴かせる構成になっているといえる(そういえばN響で去年に取り上げられた「」)。
 冒頭は楽劇同様ライン河の水底のから始まるのがいい。いくら抜粋とはいえ、まがりなりにもアルバムとしてハイライト盤を聴いて、その冒頭が「ヴァルハラ城への神々の入城」では、いかにも興ざめな感じがしたので、きちんと冒頭が入っているのは大正解だと思ったものだ。ここから「神々の入場」、そしてニーベルハイム族の鍛冶屋の音へと繋がっていき、最後に雷神ドンナーに至るあたりの構成の妙は、なかなかのものである。
 このようにアルバム前半は3つの楽劇の名場面が走馬燈のように提示されていくが、ぶつ切りではなく全てが繋がっているという効果、統一感は絶大で、約70分でもって、とりあえず-本当にとりあえずだが-、この巨大な楽劇を聴いたような気分になれるのだから、その構成はやはり相当に巧みなものである。

 演奏だが、1987年の収録だけあって、かつてマゼールにあって覇気やおどろおどろしさはほとんどなく、全体は円満そのもの。逆にいえばオペラチックなところがそれほどある訳でもなく、全体はコンサート・ライクなものといえる。ただし、オーケストラはベルリン・フィルだから、その精度や安定感たるや絶大で、この巨大な楽劇の片鱗を実に安心して楽しむことができる。
 ついでに録音はテラークで、全体としてはいつもと同様ホールトーン豊かな、例のふっくらした音質なのだが(それにしてもテラークで捉えたベルリンの音というのも珍しいと思う)、雷神ドンナーの一撃な凄まじい迫力を捉えられていて、テラークらしい見せ場もしっかり用意されている。
 この種のものとしては、ヘンリ・デ・フリーハー編による「指環~オーケストラル・アドベンチャー」というの作品もN響で視聴したことがあったが(最後にブリュンヒルデの自己犠牲をくつけた独自の版に仕上げ直していた)、編曲、演奏、録音ともに圧倒的にこちら方が優れているという印象だ。
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シューベルト 弦楽四重奏曲 第14番「死と乙女」/イタリアSQ

2010年05月09日 22時51分51秒 | クラシック(一般)
 シューベルトにはどうもこれまで縁がない。20代前半にクラシックを集中的に聴いていた頃でも、交響曲とピアノを数曲くらい聴いたくらいのものだった。室内楽なども全く聴いていないのが現状である。先日のことだが、弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」を管弦楽版(マーラー版に非ず)を興味本位で購入してきたので、それをいい機会に、まずはこれの原曲から、あわよくばシューベルトの世界に踏み入ってみようという気になってきた。先日の即興曲などもその一環である。
 シューベルトは弦楽四重奏曲を第14曲残しているが、これは当然最後のもので、病魔におかされたシューベルトが死を意識しつつ作曲した作品ということで、全楽章短調でつくられた、全編に渡って悲愴な美しさに満ち満ちた仕上がりになっている。おそらく彼の作った弦楽四重奏曲では、ひとつ前の「ロザムンデ」と並んで、もっとも有名なものになるのではないだろうか。とりあえず、自分の用のメモとして全楽章を辿ってみたい。

 第1楽章 前述の通りこの曲は全楽章短調で、ほぼ全編に渡ってシューベルトの「陰」の側面がでているが、特にこの楽章の冒頭~第一主題はベートーベン風とでもいえるような、ほとんど峻厳といいたいような悲愴感がある。もっとも第二主題はウィーン風な穏やかな表情もみせるが、つかのまの安らぎといった感じだ。ちなみにこの楽章主題提示部がやけに頭でっかちで、全部で12分かかる内の5分を費やしている。
 第2楽章 主題と5つの変奏+コーダがなる。主題は抒情的だが荘厳な葬送音楽のような雰囲気があり、悲痛な美しさに満ちている。第1変奏から第3変奏までは各々ヴァリエーションを展開しつつも、直線的な流れてが感じられ、第3主題で大きく盛り上がりハイライトを形成している。穏やかで安らぐような第4変奏でやや落ち着きを見せるものの、それも長く続かず、主題再現部風の第5変奏とコーダで再び沈痛なムードに戻る。。

 第3楽章 4分足らずで終わる比較的短いスケルツォ。Wikiによれば、音楽的にはスケルツォというよりはレントラーらしいのだが、なるほどそういうリズムも感じられなくもない。ただし、音楽そのものはかなり精力的、かつシリアスな面持ちが強いので、舞曲風なのどかな感じにはあまりならない。トリオは鄙びた風情を展開するがあっという間に終わって、元のスケルツォに戻る。
 第4楽章 タランテラ風なリズムを使ったロンド。鬱屈とした熱狂が支配していて、メインの主題の合間に登場する明るい部分も、なんだか気まぐれのように聴こえる。とにかくフィナーレに向かって絶望的な風情で精力的に進み、やがてラストが唐突にやってくるのだが、このプロセスを聴いていると、明暗が交錯しつつ絶望的フィナーレを迎えるマーラーの交響曲6番の祖先を聴いているような気にもなる。
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シューベルト 即興曲 作品90 D.899/Mvd.ヘーク

2010年05月08日 10時57分45秒 | クラシック(一般)
 ブリリアントから出たシューベルトのピアノ曲を集めたボックスセットからのもので、昨夜からちょこちょこ聴いているところ。大分前にも書いたが、この曲の演奏といえば、もうかれこれ30年くらいイングリッド・ヘブラーのものしか聴いてないような状態で、この半世紀のどんな演奏があったのか、その変遷などまったくおろ抜いて、いきなりこのマーティーン・ファン・デン・ヘークによる「最近の演奏」を聴くと、そのおそろしく異なる趣きに愕然としてしてしまう。

 第1曲はいかにもシューベルトの短調という感じの音楽で、ひっそりとした哀感がじわじわと広がっていくあたりが印象的な曲で、途中転調して長調になる部分の壮麗な美しさもひときわ心に残る作品でもあるのだが、前述の通りヘブラーの木訥とした演奏を長らく聴いて来た耳には、このへークのクリアでシャープな音色、快調なテンポですいすい進む演奏は(ヘブラーより30秒ほど演奏時間が短い)、極めてジャストなノリと正確無比さとあいまって、これが今時の演奏なのかと驚いてしまう。

 第2曲はロココ風な軽快さがある音楽で、三連符のアルペジオが印象的。こういう曲だと現代のピアニストであるへークは(この人はナクソスのアルバムなどでもたまに名前をみるが、名前からしてオランダ人だろう)、まさに玉を転がすような粒が揃って美しく、またカラフルな音色でもってこの曲を弾いていて、その感覚的な美しさはなかなかのものがあると思う。個人的にはヘブラーのちょっとくすんだ、手縫いの衣服みたいな風情の演奏が懐かしくもあるが。

 美しいさざ波のようなアルペジオに乗ってロマンティックな旋律が歌われる第3曲は、ちょっとショパンを思わせるような陶酔感があり、個人的にはこの4曲の中ではもっとも好きな曲だ。へークの演奏はずいぶんテンポが早いな…と思っていたら、意外にもヘブラーより10秒以上時間をかけて演奏していた。きっと、インテンポですっきりスポーティーすっきりと弾いているので「早い」と感じるのだろう。その分、この曲の濃厚なロマン性のようなものは薄らいでいるようにも思うが。

 最後の第4曲は、第2曲ような細かい動きがキラキラとする部分に始まり、中間部ではちょっと深刻な気分となって、第1曲の雰囲気を思い出させたり、再び気を取り直すように明るい気分の音楽に転じてみたりと、まさに即興曲という名に相応しい自由に飛び交うような展開をする。へークは粒ぞろいなタッチの美しささすがだが、この曲の「気まぐれ感」のような表現はさすがにヘブラーの人間くさい演奏に、今一歩劣ってしまう印象だ。

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リスト ピアノソナタ ロ短調 /アファナシエフ

2010年04月20日 23時34分53秒 | クラシック(一般)
 このところ何種類か立て続けに聴いてきたリストのピアノ・ソナタなのだが、とりあえずこれが最後になる。結果的にこの演奏が真打ちになってしまったが、ある意味でこのくらいそれに相応しい演奏もないと思う。なぜなら、このアファナシエフの演奏は同曲をなんと41分もかけて演奏した異演との評判も高い演奏なのである。
 前にもそんなことを書いたが、同曲は通常で31,2分程度、早いものならアルゲリッチが25分半でやったりしているくらい代物だから、これを41分かけて演奏するという感覚はやはり尋常ではない(リピートとか版の問題でもなさそうだ)。

 で、おそるおそる聴いてみると、なるほど異様なほど遅い。ただ、遅いも遅いが、この人の場合、この人のピアノはリリース音がやけに短せいもあってか、休止部分が間がやけ長いのが特徴だ。ただでさえ遅い第2部など、もうほとんどこのまま止まってしまうのでは思うようなところすらあるほどだ。つまり、音と音の間に異様に隙間を感じさせる演奏になっていて、モチーフや流れがほとんどばらばらに解体されているといった印象である。その様はさながら超高解像度のCGで再構成された名画を観ているような、虫眼鏡で拡大するとドットが見えてくるような演奏といった感じがする。おかげで第3部など、この曲をパーツごとに解剖しているような趣きがあり、フーガの部分などまるでシェーンベルクみたいに聴こえたりする。

 更にいうと、この人のタッチはかなりごつごつしていて(フォルテの部分も異様な音がする)、決して滑らかでない奇妙なフレージングが散見し、先の「遅さ」も併せると、ある種マニエリスム的な解釈という感も強い。つまり、結果としてこうなったというよりは、この演奏は非常に意識的かつ人為的に解釈された産物のようなものを感じさせたりする訳だ。まるで音楽的な引力に逆らって、演奏者が忍耐の限界でまで遅くすることに挑戦し、その結果、期せずして生じる緊張感を狙った演奏という感もあるくらいだ。あまり頻繁聴こうとは思わないが、とにかくユニークな演奏である。
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リスト ピアノソナタ ロ短調 聴き比べ(その4)

2010年04月19日 21時09分44秒 | クラシック(一般)
・アラウ(Live`82)
 先日のCDとほぼ同時期のザルツブルグ音楽祭でのライブ。例の振りかぶったようなドラマチック身振り、ずしりとくる低重心の重厚さ、風格に満ちた威厳といったものが満ち満ちた演奏。つまり、ほぼスタジオ同様な演奏な訳だけれど、心持ちテンポを早目に演奏しているようで、スタジオに比べ約2分ほど演奏時間が短い。雰囲気的にもライブ特有ないくら上気したような一気呵成な勢いのようなものがあり、噛んで含めるような周到なスタジオ盤に比べると、生演奏らしい音楽的感興がある(その分ミスタッチもあるが)。

・リヒテル(Live`66)
 ようやく入手、同時に収録された協奏曲の方はマーキュリーの録音だったが、こちらはスタッフが違うようで、ややナロウでモノラル的な音場なのが惜しいが、やはり劣悪な圧縮ノイズのない、自然な音でこの演奏を聴けるのはうれしい。演奏はもの凄い力感と男らしい剛毅さがあり、同曲の演奏にありがちな「だれがちな場面」でも弛緩する一切なく、最後まで一気に聴かせてしまう。この人の推進力はやはり素晴らしいとしかいいようがない。ただ、何回は聴いた感じでは、前回取り上げた某動画サイトのライブ音源とはどうも違う演奏のようだ。調べてみるとあちらは65年のカーネギーホールのライブのようで、これ以上に壮絶なテンションを感じさせるものだったのだが...。

・ボレット
 60年の録音だからデッカで活躍する前の旧録になるのだろう。いかにも19世紀の生き残りといった感じの、これまた大上段から振りかぶったようなドラマチックな演奏である。ただし、アラウほど低重心な演奏ではなく、煌めくような中高域のクリアな響きが、いかにも華麗な印象を残す演奏となっている。第3部の畳み掛けるような展開など、ブリリアントで華麗極まりない演奏なのだが、この人の場合、「リスト弾き」ということで有名にはなったけど、こういう華麗さはむしろショパンなどの線で、この曲を料理している感じもする。

・ポゴレリチ
 わお、これは序盤から非常におもしろい演奏だ。ダイナミクスや緩急などがオヤっと思うところの連続。また、第2部では陶酔していそうな部分と冷静沈着さが交錯しているようなところもあったり、テクニカルな第3部でも技術的には楽々弾いている印象だが、妙にひっかかるようなテンポや表情があり、実にユニークな演奏というイメージである。目下のところ、それがおもしろい止まりなのか、クリエティブな試みなのかはよくわからないところもあるのだが、確かにデビュー直後、その特異な演奏で一斉を風靡していた頃の天衣無縫なオーラが伝わる演奏ではある。

・ユジャ・ワン
 彼女のデビュー・アルバムからの演奏。ヴェルビエ音楽祭2008の演奏が凄すぎたのか、単に映像がないせいなのか(笑)、よくわからないところもあるが、あれに比べると、傷のない録音を目指したしたのか、このスタジオ盤は多少おとなしく優等生風のイメージで演奏している。ただし、その凄まじい技巧とカッキーンと鳴る打鍵の鋼鉄のようなタッチ、そして、しなやかなリズム感のような相変わらずだし、逆に妙に落ち着き払ったその演奏はスタンダードな風格すら漂う。
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リスト ピアノ協奏曲第1&2番/リヒテル,コンドラシン&LSO

2010年04月14日 21時00分20秒 | クラシック(一般)
 このアルバムは、先日某動画サイトにアップされている演奏を聴いて、ぜひディスクで欲しいと思ったリヒテルによるリストのピアノ・ソナタが聴きたくて購入してきたアルバムである。本ディスクには幸いにも同じくリストのピアノ協奏曲の1番と2番が含まれていて(というか、実はこっちがメインでピアノ・ソナタはむしろオマケ)、後述するように、これら演奏は個人的にはけっこう思い出深い演奏であるので、今回は協奏曲の部分を取り上げてみることとしたい。

・ピアノ協奏曲第1番
 リストのピアノ協奏曲第1番といえば、私は30年ほど前にこの演奏で慣れ親しんだ。確かフィリップス系列の廉価盤レーベルだったフォンタナから1枚1300円で出たものを購入したと思うのだが、CD時代になってからは、もっぱらブレンデルとハイティンクの演奏を聴いていたので、実に久々に聴くことになる。正直言うと、ブレンデルとハイティンクの演奏は、「ちょっと温和しすぎるんじゃないの」と思っていたので、この下品なほど豪快極まりない演奏は、個人的には「これだ」っていう説得力がある。冒頭のオケのざっくり切り込むような響きとリヒテルの豪放かつシャープなピアノが一体となって、重戦車みたいな迫力で進んでいく様は、当時でいう「東側」特有な凄みが漂っている。

・ピアノ協奏曲第2番
 前述のフォンタナの廉価盤LPで、B面に入っていたのがコレ。華麗な1番に比べると、2番は冒頭の晩年のヴィスコンティ映画に使えそうな耽美的なムードや、チェロをフィーチャーした第3部の陶酔的な炉君ティシズムなどは魅力的だったのだが、全体としてみると、妙に散文的でとりとめがないところがとっつきにくく、魅力的に感じるまでけっこう時間がかかった記憶がある。今聴くと、前述のパートに挟まれた動的パートはかなり豪快な演奏で、メリハリが過ぎるような気もするくらいだが、それでさえとっつきにくいと思ったのだから、最初からブレンデルとハイティンクの演奏を聴いていたら、どんな印象を持ったことだろう。いや、作品のイメージからするとブレンデルの方がより正統な演奏という気はするのだが....。。

 さて、この2曲だが、当時聴いていたフォンタナの廉価盤LPは、全体に音がモヤモヤしてナロウなものだったのだが、こちらはリマスターの成果なのか、目が覚めるようにクリアさ、エッジが切り立った腰の強い音に様変わりしているのに驚いた、念のためブックレットのクレジットを確認してみたらびっくり、なんとこの演奏マーキュリーのリヴィング・プレゼンスのスタッフで録音されているようだ。マーキュリーのリヴィング・プレゼンス・シリーズで出たのかどうかは分からないが、なるほど、今聴いても全く遜色のないこのエグ過ぎる音質はあきらかにリヴィング・プレゼンスである。当時全盛期を迎えていたリテヒルとコンドラシンの演奏が、このスタッフによって記録されたというのはまさに僥倖であったと思う。
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リスト ピアノソナタ ロ短調 聴き比べ(その3)

2010年04月09日 22時02分45秒 | クラシック(一般)
・スヴャトスラフ・リヒテル (Live_66)
 ネット上での様々な評判を耳にして聴いてみたい演奏だったのだが、HMVやタワーでも見つからず、どうも廃盤と諦めていたところで、某動画サイトにアップロードされているものを聴くことが出来た。劣悪な音質だったが、ガツーンと来る胸に響く低音、カッキーンと鳴り響く高音のきらめきなど、力感溢れるピアニスティックな音色。ぶっといナタを振り下ろすような剛直さと突き進むような推進力も魅力的で、これは一聴して凄い演奏だと感じた。この曲の演奏では、最近、アラウのグランドスタイルな重厚さに魅力を感じているが、こちらも負けず劣らず素晴らしい。圧縮音源などでないきちんとしたCDで聴いてみたいものだ。

・ジョン・オグドン
 これも某動画サイトにアップされていたおそらくかなりレアな動画。オグドンといえば、精神を病むなど数奇な生涯を辿ったこと、あとブゾーニ作曲の巨大なピアノ協奏曲を弾いた人といった、割と異端のピアニストみたいなイメージがあったのだけれど、この演奏ではそういうエキセントリックなイメージは余りなく、非常にスポーティーかつきらめくように爽快な演奏という印象だった。あと、どんな部分も軽々と弾きこなす、もの凄いテクニシャンぶりも印象的で、かなり込み入ったところでも、ずり下がった眼鏡を余裕で直す様なんか、けっこう笑ってしまった。いずれにしてもこの演奏、作品に没頭し、共感しつつ熱く演奏するというタイプではなく、割と作品を突き放し、客観的に演奏しているというイメージも強かった。これは彼が作曲家という側面があったことも無縁ではないと思う。

・アルフレッド・ブレンデル
 これも名盤として知られている演奏。一聴して、リヒテルやアラウのような剛毅さや重量級はないが、全編を通じてタッチの明晰さ、緊張感と安定感に満ちた演奏で、どこをとっても「これがオレの結論」といった、迷いのない自信というかオーラのようなものが演奏から満ちていて、さすがに名盤の誉れ高いアルバムのことだけはあるという印象だ。前述の通り、タッチや音色という点では中~軽量級な感じではあるのだが、聴いていて得もいわれぬ充実感もあり、まるでベートーベンのピアノ・ソナタを聴いているような格調高さや端正さ、あと、なんていうか「いかにもこれが正統です」といった風格を感じさせるのはやはり演奏の妙といったところなのだろう。かなり気に入った。

・エマニュエル・アックス
 多分初めて聴く人で、隅々まで端正に弾いているだが、前述のブレンデル以上に、タッチが軽く柔らかい印象で、ブレンデルがベートーベンだとすれば、この人はモーツァルトの線、いってしまえばややサロン音楽的な印象もある。まぁ、そういう演奏なので、この曲のエグさ、情念といった部分では今一歩な感があり、総じて中庸の美徳的演奏というところだろう。ただし、じゃぁ、それがつまらないかというと、意外にもそうではなく、何度か聞いていると、ショパン的抒情はもちろんだが、その端正な演奏からこの曲に潜んでいるスタティックな美しさが伝えてくるようなところもあって、これはこれでけっこうな味がある演奏だと感じた。
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リムスキー・コルサコフ 序曲「ロシアの復活祭」  聴き比べ

2010年04月05日 21時10分08秒 | クラシック(一般)
 Twitterのタイムライン(TL)で、「今日は復活祭」旨の書き込みを読んで、ふと前々からやろうと思っていた、リムスキーの序曲「ロシアの復活祭」の聴き比べをしてみようかと思い立った。私はもともと「シエラザード」を筆頭にリムスキーの作る華麗なオーケストレーションが大好きなのだが、中でもこの曲は15分程度のサイズの中に、敬虔なコラール風の旋律、ダイナミックに展開するオーケストラの迫力、リズムのおもしろさなどなどを盛り込んで、この手のスタンダローンな管弦楽曲としてはチャイコフスキーの「ロミオとジュリエット」などと並んで、特に好きな曲だったのでいい機会であった。では、例によってTLにつぶやいたログを元に簡単にメモってみたい。

・デュトワ&モントリオールSO
 このコンビが70~80年代にかけてデッカのアンセルメ路線を継承したアルバムを次々にリリースして人気を博していた頃の演奏。この曲はアンセルメの十八番でもあったことから選ばれたのだろう。この曲のファンタスティックなところを全面に出した演奏で、中間部のリズムや迫力はイマイチだが、非常に美麗な演奏で後述のジンマンとは違った意味で、明らかにロシア色が薄い西側的な洗練が感じられる仕上がりになっている。オーケストラも非常に美音で、こうして聴いてみるとやはりこのコンビは「80年代のアンセルメ&スイス・ロマンド響」だったと思う。

・ジンマン&ロッテルダムPO
 今やメジャーな巨匠になりつつあるジンマンが、70年代にロッテルダム・フィルを率いてフィリップスに残した演奏のひとつ。ジンマンは既にこの時期からリズムの切れが良く、音切れのいいサウンドを作っていて、このちょっとこってりとしたロシア物を、実にさっぱりとした、いかにも西側っぽいスタイリッシュな演奏に仕立てている。途中で出てくる込み入ったリズムの部分での交通整理も巧みなのだが、全体にオケが鳴りきってないような弱さを感じないでもない。

・ラザレフ&ボリショイSO
 ラザレフという人のことを私は全く知らないのだが、なんでも「ロシアのクライバー」と称されたこともあったらしい。ポジションを巡っていろいろトラブルもあったらしいが、現在でもロシアの有力な指揮者のひとりらしい。この演奏はエラーとに80年代に入れたもので、歌い込む旋律、野趣満々な強奏の迫力、思い切った緩急、リズムの推進力と、さすがに本場物の自信に満ちあふれた演奏という感じ。この曲を良さを知るにはスタンダードな演奏というところだろうか。

・ドラティ&LSO
 私はこの曲を20代前半の頃、フィリップスの廉価盤のフォンタナ・シリーズに収録されていたこの演奏で知った。そのせいか、やはり「ロシアの復活祭」というと、この演奏が一番しっくりと来る。リズムの切れの良さ、オケのドライブ感はやはり素晴らしいの一語に尽きる。しかも、50年前の収録とは到底思えない、異常に生々しい音質も素晴らしく、かつてLPで聴いたあのぼやけた音はなんだったのだろうと思ったりもする。それにしても、マーキュリー・リヴィング・プレゼンスの音は本当に凄い。どうして半世紀以上前にワンポイントで、こんな生々しくエグい音がとれたのだろう?。ついでにSACDの3chでもこれを聴いてみたが、定位が抜群に良くなり、もうほとんどマスター・テープそのものを聴いている気にすらなったほどであった。
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リスト ピアノソナタ ロ短調 聴き比べ(その2)

2010年03月31日 11時09分01秒 | クラシック(一般)
・クラウディオ・アラウ(70年)
 彼は何度かこの曲を録音しているようだが、これはちょうど真ん中くらいに当たる70年の演奏。アラウの年齢はホロヴィツと同じだがら、これは彼が67歳と時の録音ということになるが、演奏には老いの影とかはほとんどなく、イメージ的には壮年期をちょっと超えた程度といった感じで、全く危なげがなく、覇気が漲りまくっているという感じだ。演奏のタイプとしても、アラウはドイツ保守本流を伝える人という定評通り、アルゲリッチの奔放な演奏とは対極にあるような、叩いてもビクともしないような重厚さと安定感がある演奏になっている。どこを聴いても、この曲の公的イメージを全く裏切らない、正統派としての充実感が漲っていて、とにかく安心して聴いていられる。個人的には大いに気に入った一枚。

・ウラジミール・ホロヴィッツ(73年)
 晩年に近い時期の演奏。さすがに先に聴いた49年の演奏に比べると、70才を超えての演奏だから、あの獰猛といいたいような勢いやテンションは既になく、早いパッセージだのになると、多少よれ気味だったりして、多分に枯れた演奏という印象である。ただ、聴いていると、なんだか晩年の志ん生の落語を聴いてるみたいな、老獪かつ緩急自在な語り口でもって、翻弄されるような快感があって、そういう意味では「おもしろいことこのうえない」のかもしれないが、目下の所、私はこの曲の名技性とハイブリッドな構成についてばかり、興味がいっているので、この演奏に特質なのであろう「語り口のおもしろさ」については、どうも、今一歩リアリティがないというといのが正直なところだ。

・マウリッツォ・ポリーニ(90年)
 ある意味予想通りというか、デモーニッシュなどという形容とは対極にある知的コントールの効いた演奏。この曲のどろどろとした情念的なところ、これみよがしな名技性などはきれいさっぱり洗い流し、ポリーニらしい潔癖性的な透明感と、隅々までコントロールされているという印象で、この曲の構造的な面がとてもよくわかりそうだ。かつてショパンの「練習曲集」を聴いた時の驚きが甦り、確かに「凄げえ、演奏だよなぁ」とは思うのだが、こういう演奏であれば、曲自体もう少し馴染んで聴いた方が、よりこの演奏のおもしろさ、凄さがよく分かる気もした。

・クリスチャン・ツィメルマン(91年)
 1956年生まれで収録時35歳、これまで聴いてきたピアニストの中では新世代に属する人の演奏だけあって、抜群のテクニックと安定度がある。とにかく全編に渡って、華麗にきわまりないテクニックで豪快かつ緻密に弾き切っていて、第3部のオクターブ技が次々に繰り出される難所など、あきれかえるほどに楽々と弾いているのは驚異的ですらある。また、彼はポーランド出身なせいか、第2部など聴くにこの曲をショパン的な美感で弾いているようであり、アルゲリッチのテンペラメントやポリーニの冷徹さのような尖った個性はないものの、前述のふたりからは、もうひと世代新しさを感じさせるピアニスティックな名演といったところだろうか。

・菅佐知子(09年)
 菅佐知子のことを私は全く知らないのだが、おそらく日本の中堅ピアノというところだろう。このYouTubeにプロダクション・サイドからアップされてもののようで、画質も音質もそこそこ良かったので通して視聴してみた。まだ30代の若手ピアニストみたいだから、テクニックにしても、個性したところで、CDで聴ける並み居る大物達に比べるのはちと可哀想だが、やはり日本人がリスト弾くとこうなるのかという、実にあっさりとした演奏という印象だ。節々に瑞々しさのようなものがあり、こういうところは同じ日本人としては全く違和感がない美感だと思った。
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リスト ピアノソナタ ロ短調 聴き比べ

2010年03月26日 23時36分36秒 | クラシック(一般)
 リストのピアノソナタを聴くのが断然楽しくなってきた。そのきっかけは先日に視聴したユジャ・ワンの演奏で、それに追い打ちをかけるようにアルゲリッチの演奏があまりに素晴らしかったものだから、この曲につきまとう構造的な面での理解なと、なかばどうでもよくなってしまい。現在では「どういう演奏で聴いてもそれなりに楽しい」という状況になってきた訳だ。とりあえず、前述の演奏の他に聴いてきた何種類かの演奏について、忘れないうちにメモっておきたい。

・ヤノーシュ・ランドー
 これまで自宅にあった同曲の唯一のCD。ナクソスから発売されていたものだけあって、取り立てて良くも悪しくもクセのないプレーンな演奏という印象(ランドーはナクソスのハウス・ピアニストのような存在)。ただし、アルゲリッチやワンの演奏聴いてしまうと、なんというか、この曲の持つ「壮絶さ」みたいなものとか、ピアノを強打した時にガツンと来る打鍵の気持ち良さみたいなものが、あまり伝わってこない憾みがある(ナクソスのそっけない録音のせいもあるだろう)。つまり、全体としては穏健過ぎてイマイチ迫ってくるものがないという感じで、やはりこういう曲だと、もう一歩突き抜けたものを求めたくなってしまう。ただし、抒情面での表現はなかな素晴らしいものがあり、第2部などはまるでショパンを聴いているようにしっとり楽しめるのは好印象だ。

・ジャン・ラフォルジュ
 私はこの人のことは全ったく知らない。名前からしてフランス人だろうか。50年代後半の収録らしく、これまで聴いた3種のモダンな演奏に比べると、加速減速の激しい鈍行列車みたいな演奏で、アバドのマーラーを聴いた後、唐突にワルターのが始まったみたいな、演奏様式の時代的な断絶感を覚える。第一主題のデモーニッシュな部分など、噛んで含めるように弾いているし、名技性の高い部分なども、現代のスムースさからすると、別に下手な訳ではないのだろうが、とつとつしているというか、ふらふらした演奏に感じるのは、きっとテンポが細かく揺らして演奏しているからだろう。ともあれ、後半のテクニカルな部分などは、さすがに現代の高精度の演奏にはかなわない気もするが、この曲のファンタジー面は拡大したような味がおもしろく、また後半の盛り上がりも独特な流れがあって、けっこう楽しめる演奏だ。

ウラジミール・ホロヴィッツ
 さきほど届いたもので、最近発掘された1949年のカーネギーホールでのライブで、先にラフォルジュより古い演奏だが、こちには時代的な誤差をぶっ飛ばす説得力がある。「リストのピアノソナタってのはこういうもんだ」的な自信と鬼気迫るオーラが漂い、全盛期のホロヴィッツの凄みがビンビン伝わる、まさにいにしえのグランドスタイルな演奏。
 全体は27分で終わるかなり早い演奏なハズなのだが、冒頭の第一主題から第二主題へ至る展開からして「もうこれ意外ない」と思わせる緩急が絶妙で、特段早いという気がしないのはまさに演奏の妙味というべきだろう。また、ホロヴィッツらしく、トリルで鍵盤を縦横に走りまくる華麗さ、最強音のところでピアノがまるでクラスターみたいに鳴り響くところの壮絶さなどは無類である。こういう一種の大見得を切るような演奏は、例えば「展覧会」のような曲だと、今の感覚だとちと過ぎな感も覚えたりしないでもないのだが、この曲では不思議とそのようには感じられず、むしろ曲のキャラクターにぴったりと一致していると思わせるのは、それだけこの曲がホロヴィッツという人の向きな作品だったということなのだろう。
 ちなみに1949年の収録ではあるものの、リマスタリングが成功しているのか、音質は極めて良好、同時期のRCAの録音より明晰さ、音圧、情報量という点で勝っているくらいだ。原盤がテープではなくラッカー盤であるにもかかわらず、客席のノイズがビビッドに聴こえてくるのは驚異である。
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リスト ピアノソナタ ロ短調/アルゲリッチ

2010年03月23日 22時42分40秒 | クラシック(一般)
 アルゲリッチのDGにおける録音をソロ編と協奏曲編の2つ分け、発売されたボックス・セットからもの。私は彼女のアルバムといえば、ショパンやチャイコフスキーを筆頭にアナログ時代から何枚かは購入してきたが、このリストを聴くのは実は初めてである。リストのピアノ・ソナタといえば、晦渋、難解、そして高難度をもって知られるピアノ曲の大作だが、先日、NHKでオンエアされたユジャ・ワンの華麗な演奏を見てからというもの、この曲に対する興味が、何年かぶりに沸いてきたところだったので(ちなみにユジャ・ワンのデビュー・アルバムも先日購入済み)、これを機会に元祖テンペラメント系女流ピアニスト、マルタ・アルゲリッチの定評ある名演を聴いてみようという訳である。

 さて、実際に演奏を聴く前にふとクレジットを見て驚いた。なんと演奏時間が25分半である。私がこれまで聴いてきた、ランドーの演奏は31分、他の演奏もたいてい30分以上はかけていたと思うから、「えっ、この曲を25分半で弾いてしまうの?」という感じである。そんな訳で、かなり超特急な演奏だろうと、おそるおそる聴いてみたのだが(笑)、確かに早い、序盤の第一主題など、あまりデモーニッシュなところはなく、いきなりレッドゾーンにいってしまったようなテンションで一気呵成に弾いているという感じだ。だが、それが強烈な説得力があるのだから驚いてしまう。
 また、この曲には「1楽章の中に多楽章の要素を流し込んだ複合型ソナタの元祖」のような曲という、その手の書物には必ず出てくる歴史的意義のような側面があり、そのあたりがいきおい難解な印象を倍加している節もあると思うのだけれど(私などそういう陥穽にすぐハマってしまう-笑)、この演奏はほとんどそういう小難しいことを忘れて楽しませてくれるものでもある。そこが素晴らしい。

 アルゲリッチの演奏は、一見、散漫で捉えどころがないようなこの巨大な作品を、まるで感情のうつろいを気の趣くままに表現したラプソディックな音楽として演奏しているように聴こえる。勇壮でヒロイックな場面ではショパンのようであり、ロマンティックな部分などシューベルトの即興曲、そして終盤のオクターブを連打するハイライトの場面ではチャイコフスキーのピアノ協奏曲の華麗さを思い出させたりするのだ。これらをなんの違和感もなく、まるで走馬燈のようにひとつの楽曲として演奏していくのだから、彼女の天才を感じないではいられない。彼女にかかるとこの曲は全然晦渋でも難解でもなく、華麗極まりないピアノ・ピースでなのである。この曲との出会いが彼女の演奏なら、この難解な作品もさぞや親しみ易いものだったろうに....と、ちと悔しい気がするくらいだ。ともあれ素晴らしい演奏、この名演に果たしてユジャ・ワンは勝てるだろうか?。
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シューマン 交響曲第1番「春」/クレンペラー&NPO

2010年03月07日 23時46分20秒 | クラシック(一般)
 ここ数日は小春日和でもなんでもないのだが(笑)、相変わらずシューマンの交響曲第1番「春」をあれこれ、とっかえひっかえ聴いている。昨日はHMVに注文してあった、クレンペラーとニュー・フィルハーモニアものが届いたので、昨晩から早速聴いているところである。クレンペラーというと、これまでR.シュトラウス、ブラームス、ワーグナーといったところを聴いてきたけれど、どの演奏もドイツ流の巨木のようなびくともしない安定感をベースに、時折に見せるエキセントリックな分析癖というか、ある種潔癖症みたいなディテールへのこだわりが独特な世界を見せていたものだけれど、このシューマンも全くもってそうした演奏になっている。まさに期待に違わぬ出来という感じである。

 第1楽章の序奏部は壮麗極まりなく、主部に入っても悠々迫らぬテンポで進んでいき、いかにもドイツ保守本流みたいな雰囲気なのだが、特徴的な木管とやや混濁気味の弦のバランスがやたらとクリアに処理されていて、実に新鮮な響きとなる。このあたりが一瞬オヤっとして、さすがクレンペラーとニヤリとしてしまうところなのである。また、展開部の転調を重ねて短調に至り、やがてトライアングルが聴こえてくる部分(この楽章のもっとも魅力的な部分のひとつではないか?)の推移など、もはやデジタル的といいたいような分析的な処理でクレンペラーの妙味を満喫させてくれる。
 第2楽章も梃子でも動かないといった風情のテンポにのって、ゆったりと進んでいくが、ここでも各パートが動きが実にクリア聴き取れるあたりが実に「らしい」ところ。しかも肝心なのは第1楽章もそうだったのだが、シューマン的な幻想というかファンタジーのようなものを演奏が全く裏切っていない点、なにしろこれがいい。この楽章、カラヤンの壮麗さも良いがこちらも負けず劣らず素晴らしい。

 第3楽章のスケルツォは動的な意味でダイナミズムはイマイチだが、その割に強烈な説得力がある。クレンペラーの作るリズムというは、サウンドは重いがノリとしてジャストそのものという気がするのだけれど、この楽章はそうした特徴がよく出ていると思う。トリオの無骨な物々しさなどカッコ良すぎで、笑いたくなってしまう。
 最終楽章はかなり散文的な演奏。カラヤンのように交響詩風でもなく、セルのように「これは交響曲の最後の楽章です」といったまとめ感もなく、「だって、シューマンはこういう風にとっち散らかって書いたんだから仕方ないだろう」的投げやり感さえ漂う演奏ともいえる。とはいえ、あちこち寄り道しているようでいて、最後にはいつのまにかどでかいフィナーレを形成しているあたりさすがクレンペラーである。
 ここ数年、セルとかクレンペラー、あとパレーやドラティとか、昔だったら、渋すぎてあんまり注目していなかった指揮者たちの良さが、なんだかしみじみと分かるようになってきたのは、実に楽しいことだ。クレンペラーのシューマンもこの後、2,3,4番を聴くのが実に楽しみになってきた。
 
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シューマン 交響曲第1番「春」/カラヤン&BPO

2010年03月03日 21時24分11秒 | クラシック(一般)
 カラヤン&BPOがグラモフォンに残した主要な交響曲を網羅したCD38枚組のボックスセットからの1曲。しばらく前に購入し、例によって放置してあったものだが、数日前の小春日和な陽気につられて、シューマンの交響曲の第1番をあれこれ聴きはじめたのをきっかけに、同曲目当てに開封したという訳である。
 このボックスセットには主に70年代の演奏が収録されているが、70年代といえばこのコンビがクラシック界の無敵艦隊として古今の交響曲の全集を次々に録音していた時期にあたり、毀誉褒貶は当然あるとしても、どれも名演奏として名を馳せたものばかりである。ここに収録されたシューマン(71年録音)もその一連のもので、これまで1番や4番を単発で録音してきたカラヤンが満を持して、全集録音に挑んだといった体のものだったように思う。

 さて、演奏だが、いかにもこの時期のカラヤン&BPOらしく、全編に渡ってゴージャスな極まりない豊麗さと自信満々風格を感じさせる演奏である。第1楽章では良くも悪しくもがっしりとして構えが大きく、冒頭の文芸大作の序章みたいな雰囲気を感じさせる重厚なサウンドと巨大なスケール感はさすがだが、本編の方はやや粘っこいリズムで進むせいか、私がこの曲の持っている「軽いフットワークから湧き出る淡彩な季節感」みたいな側面はかなり後退してしまい、やや足取りが重い印象があるのも確かだ(第二主題のロマンティックな表情などは素晴らしいが)。
 第2楽章は、カラヤン&BPOのマジックを味あわさせる素晴らしい演奏。ここでは前楽章で気にかかった足取りが重さは、壮麗さとにじみ出る官能性として作用して、ブラームスを思わせるロマンチックな解釈になっている。また、サウンド的にも聴く前に予想したような人工臭がなく、けっこうスタンダードな響きに感じられるのはリマスターして弦の高域が滑らかになったせいだろうか、

 第3楽章はスケルツォで、メンデルゾーンのように演奏するセルなどと比べると、ここでも少々足取りが重く、ややもっさりした印象を受ける。ただまぁ、これはこの時期のカラヤンの個性なのだろうし、この程度であればまずは許容範囲である。むしろここではトリオが素晴らしい。木管と弦の会話のように絡んで進む部分のオケの柔らかな立体感など、BPOの素晴らしいアンサンブルを堪能できる。
 最終楽章はまるで交響詩のようなドラマチックさがある。この楽章は元々ブラームスの2番のラストと先取ったような音楽だと思うのだけれど、ここでのカラヤンは一足飛びにR.シュトラウスの交響詩を思わせる語り口で、この「春の情景」を微に入り細に渡って表現している。その様はまさに一流のストーリーテーラーであり、各種金管と弦が入り乱れて多少混濁したような印象がある途中の部分も、克明さと躍動感を両立させつつ、音楽のドラマを自然に盛り上げてしまうカラヤンの語り口はやはり凄いものだと思う。
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ユジャ・ワン ピアノ・リサイタル

2010年01月15日 21時07分01秒 | クラシック(一般)
 ユジャ・ワンは中国出身で、現在23歳の若手女流ピアニストである。なんでも、ボストンのアルゲリッチの公演に代打で出演して大絶賛、その後にグラモフォンと契約という、絵に描いたようなデビューをしたシンデレラガールのような人らしい。私もそのことが気にかかって、昨年にN響の定期に登場した際のラフマニノフの「パガニーニ・ラプソディ」を弾いた時のパフォーマンスを録画で視聴したが、その不敵な面構えから繰り出される圧倒的なテクニック、ものおじしない思い切りのよさ、激しいテンペラメントと、現代にありがちな優等生とはちょっと異質な華を感じさせてくれる新人という感じで惹きつけられてしまった。このプログラムは先日NHKのBS2でオンエアされた2008年のヴェルビエ音楽祭のもので、今度はソロピアノによるステージであるので彼女のピアノを堪能できた。

 特に楽しめたのはリストの「ピアノソナタ」で、これは圧巻であった。演奏技術を完璧に制覇した者のみが持つ天衣無縫な自在さに加え、あの晦渋な「ピアノソナタ」を実に華麗なるロマン派のピアノ曲として、演奏していたのは瞠目した。第2楽章では若い女性らしい瑞々しい感受性のようなもの発揮して、ややスリムではあるもののロマンティックさを披露したかと思えば、第三楽章のスケルツォでは豹のような俊敏さとを持った運動性でもって、頭がぐらぐらしてきそうな技巧を見せつけるといった具合で、その激しいテンペラメントとスポーティーな技巧の両立は、確かにアルゲリッチの代役として出てくるには相応しいキャラクターに感じた(中国の舞踏団でくるくる踊っていそうな、彼女のちょっとはすっぱなルックスがまたいい。ダイナミックな部分で歯を食いしばって、鍵盤を打ち付けている様はなかなか絵になるし、ロマンティックところで見せる陶酔的な表情もなかなか魅力的だ)次いで演奏されたショーピースの「熊ん蜂の飛行」(シフラ編曲って、ジョルジュ・シフラのこと?)も、女の細腕で豪快に弾きとばし、まさに若さ故のはじけるような推進力とスピードを感じさせる実に痛快な演奏だった。

 後半のスクリャービンのピアノ・ソナタ第2番は初めて聴く曲だ。「幻想」というニックネームがついているが、第1楽章の瞑想的な趣から来ているのだろう。また、印象派風なところもちらほらする美しい音楽である。デモーニッシュな第2楽章は難易度の高そうな技巧が満載の華麗な音楽で、ここでも彼女はパンチの効いた爽快さで一気に弾ききっている。最後はラヴェルの「ラヴァルス」、例によって、彼女はこの難曲を非常に達者に弾いてはいるのだが、さすがにこの曲の持つ交響詩的なドラマ、例えば、雲の間に見え隠れする舞踏会の情景みたいなところだとか、世紀末風な退廃的な官能みたいなところになると希薄な感じもなくはない。まぁ、彼女の若さからすれば当然だろう。
 そんな訳で、やはりリスト、そしてスクリャービンが良かった。彼女のデビュウ・アルバムはこの2曲がフィーチャーされているのが、それも当然という演奏だったと思う。このアルバム、購入してみようかな。ヒラリー・ハーン、アマンダ・ブレッカーに続いて、どうやら彼女のファンにもなりそう(笑)。
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ベスト・オブ・ウィンナ・ワルツ 第2集/エシェベ&ウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団

2010年01月05日 00時12分57秒 | クラシック(一般)
 こちらは第2集、リリースされたのは第1集の翌年だが、収録そのものは1990年8月に行われたのと第1集と同じセッションで行われているようだ。第1集の方に「こうもり」「皇帝円舞曲」「美しく青きドナウ」「ラデツキー行進曲」といった超有名曲が入っているから、第2集の方は多少地味な選曲だが、「春の声」「ピチカート・ポルカ」が入っているのはカラヤンとクライバーによって、同曲がにわかに人気曲になった当時の状況が伺われる。同じように「芸術家の生涯」や「加速度円舞曲」はクライバー、「天体の音楽」はカラヤン、「常動曲」はアバドにあやかっているのだろうか。いずれにしても、今となっては「あの時代」を感じさせる懐かしい選曲ではある。また、トップが「春の声」で、ラストが「常動曲」で締めくくられる構成も洒落でいる。第1集に比べ、この第2集の方はそれほど、聴き込んだ記憶がないのだが、昨夜に続いて懐かしさついでにターンテーブル(本当はCDのトレイ)に乗せてみた。

 うーん、こちらもなかなかいい演奏だ。「春の声」はパウワー・トイスルとかシュトルツほどローカル色が強い訛りはないし、鄙びてもいないが、ボスコフスキーのほど角張っておらず、バランスのいい中庸の美といった「ほど良さ」がいい。「天体の音楽」はカラヤンの超ロマン派的な交響詩とでも呼びたいような名演がある以上、あれを越えるのはなかなか難しいところが、ロマン派的情緒を誘う序奏部分はけっこうあっさり流し、ワルツとなってからのウィーン的な舞踏曲として勝負しているというところだろうか、これはこれで悪くないと思う。そもそもそういう曲なんだろうし。「芸術家の生涯」と「加速度円舞曲」は当時クライバーの颯爽とした演奏があまり印象的だったので、こちらの演奏はほとんど記憶に残らなかったが、今聴くとあっさりとしたウィーン情緒と適度な推進力のバランスがいい感じで、耳に心地よく響く。「常動曲」は最近の演奏にありがちなアクセルを踏みすぎたスポーティーな演奏ではなく、どことなくローカル鉄道に乗って車窓から田舎の風景を見ているような、のんびりした演奏で、これがなんともいえなく情緒があっていい。

 という訳で、この第2集もけっこう楽しめた。ところでさきほど調べてみたら、現在のウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団はここで振っているアルフレッド・エシェベから、指揮者はマルティン・ジークハルトやオーラ・ルードゥナーといった人達に変わっているらしい。エシェベは一見してヨハン・シュトラウスばりのちょっと愛嬌のある風貌でニューイヤーにはなかなかマッチした人だったけど、あれから20年、今はどんな感じなのだろう?。ついでに、今でも来日公演は相変わらずハープなし、打楽器最小といった倹約した編成でやっているのだろうか(笑)。
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