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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

ダウランド リュート作品全集/ヤコブ・リンドベルイ

2009年04月28日 23時24分49秒 | クラシック(一般)
 山下がギターで弾く「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」を聴いていたら、なんだか強烈にギターとかリュートの音楽を聴きたくなってしまったので、とるものもとりあえず、ブリリアントから出ているダウランドの「リュート作品全集」を購入してきた(4枚組で2500円....相変わらず安い。こういう時にブリリアントのセット物というのは、ほんとうにありがたい存在である)。
 何度も書いている通り、クラシックといっても、聴くのはもっぱらロマン派以降の音楽であり、古典派はほとんどとおり一遍、それ以前のバロックだの古楽とかいうと、ほとんど未知の世界という感じなので、このダウランドという人がいつ頃の人で、どんな特徴のある音楽をやっていたのか....などということは、ほとんど全く知らない。ただ、10代の中盤頃だったか、ひょんなことからダウランドの作品を数曲ほど聴いていたことを思い出し、その記憶を頼りにこれを購入してきた訳である。

 いろいろ調べてみると、ダウランドはバッハよりほぼ一世紀近く遡った時代の人らしいのだが、頼みの綱(?)のwikiなどにもあまり詳しいことは記述されておらず、バロック音楽に分類されるべき人なのか、ルネッサンス期の音楽として捉えるべき人なのかも、実はよくわからないままだ。まぁ、「頭でっかちに音楽を聴きたがるのはオレの悪い癖」とばかりに、あれこれ考えずに聴いてみたところ、久しぶりの「あぁ、コレコレ」状態で(笑)、現在ニコニコしながら堪能中である。
 こういう音楽については、無知なせいか、「ひなびている」「素朴」「メロディック」くらいの形容しか思い浮かばないのだが、いわゆるクラシックとはちょいと違った、開放的で即興的な音楽だと思う。情感、旋律美みたいな点も、なにやら浮世離れしたいにしえの世界にタイムスリップしたような感覚があってこれが実にいい。明日は休みなせいもあって、思わず酒がすすんでしまう。ちなみに、前述の昔聴いた曲もさっそくディスク1に4曲ほど入ってたのもうれしいところだった。
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ブゾーニ ピアノ作品集2/ハーディン

2009年04月24日 23時02分07秒 | クラシック(20世紀~)
 ブゾーニ編曲によるピアノ版の「シャコンヌ」が聴きたくて購入してきたアルバム。パルティータ第2番第5曲のシャコンヌといえば、全6曲に渡る「無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ」のほぼ中心に位置するといってもいい楽章であり、恐らく全曲中もっとも有名な楽章ということになるとも思う。なにしろ、全曲中に収まったこの「シャコンヌ」の突出感は異常である。演奏時間は群を抜いて長い約15分、冒頭のテーマからただならぬ緊張感に支配された悲愴感が漂い、その重量感とシリアスさは他の楽章の比ではない。また、途中一転して長調の伸びやかなムードになった後、再び漆黒の闇みたいなムードが甦ってくるあたりの展開は、一足飛びにロマン派の世界に到達してしまったような趣すらある。

 おそらくブゾーニはそういうところ感化されたのだろう。これをピアノ用にアレンジした訳であるが、元の作品に霊感を受けたのか、この編曲版は作品をほとんど忘れられてしまっているブゾーニの作品にあって、戦前から有名ピアニストに好んで演奏され続けているほどに有名なピアノ・ピースになっている訳である。
 さて、それほどに有名な「シャコンヌ」を、私は恥ずかしながら初めて聴いた訳だけれど、これは先日の山下によるギター演奏以上に全く違和感のない編曲である。もともとロマン派ばかりを聴いてきて、ブラームスの第4のパッサカリアだの、ウェーベルンの「パッサカリア」、ついでにコドフスキーの「未完成交響曲の冒頭八小節に基づくパッサカリア」なども日常的に楽しんで来た当方としては、ホームグラウンドに戻ってきたような感すらあるくらいだ。

 とにかく、ブゾーニはこの「シャコンヌ」をほぼ完全にロマン派の音楽にしている。これを聴いて頭を駆けめぐるのはバッハというより、前述のブラームスやウェーベルンだったりするのだ。この曲は冒頭の4小節のテーマを様々に変形させつつ64回現われるのが骨格だが、各変奏の特徴をかなり際だたせて、全体としては性格変奏にも近いような音楽的なレンジがあるし、テンポを動かし、ピアニスティックなフレーズを多用して、感情面の振幅を大きくとっているあたりも実にロマン派的といわねばならないだろう。
 そんな訳でこれは非常に楽しめる。またピアニスティックなフレーズが随所に登場して、派手なショー・ピースみたいになっているところも私好みだし、前半~中盤部分を占める短調の部分のラストあたりであおり立てるように展開していくあたり圧巻である。
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バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(ギター版)/山下和仁

2009年04月22日 23時12分23秒 | クラシック(一般)
 こちらは山下和仁によるギター版。山下といえば80年代初頭くらいだったか、もの凄いテクニックを持った若手ギタリストとして、「展覧会の絵」「新世界」「火の鳥」といったオーケストラ曲を自ら編曲して一本のギターで弾いてしまうという、とんでもない試みでもって一世を風靡していた記憶があるけれど、このアルバムはその山下が無伴奏をソロ・ギター用に自身で編曲したものだ。調べてみたところ、15年前にも録音しているようなので、これは再録音ということになるが、前述のオーケストラを編曲したものはほとんど再録していないようだから、まぁ、スタンスの違いはあるとしても、これはやはり「特別かつ自信のあるレパートリー」なのだろうと思う。

 演奏はとても素晴らしい。このところソロ・ヴァイオリンに馴染みが出てきたとはいえ、やはり、緊張感がやたらと高い無伴奏ヴァイオリンの演奏というのは、軽く流している分にはいいが、ひとたび聴き込むんだりすると、こちらにも相当な緊張感を強いるところがあるが、無伴奏ギターとなれば話は別である。なにしろギターやリュートの音楽といえば、10代後半の頃にひょんなことから多少聴きかじってはいたし、もともと聴いていたロックやジャズの方は、ギターはいわずもがなな楽器であったので、聴いていてとにかく違和感がないし、身体に馴染んでいるので、この演奏の素晴らしさ、凄さがストレートに分かるという感じである。

 同じ曲でもヴァイオリンで聴くような緊張感はあまりなく、ある意味ギターというウォームで暖色系な音色でもって、この曲をちょっとひなびたバロック期のリュート音楽みたいな感じ楽しめるところがいい。もちろん弾いているのが山下であるので、早いところの指使いなど壮絶なものだが、それもあまりこれみよがしではなく、まさに必要に応じて表現方法のひとつとして使っているに過ぎないところがいい。そもそも、聴いていて素晴らしいと思わせるのは、むしろ音に隙間の多いゆったりとした曲の間だとか、歌い回しの格調高さだったりするのだ。つまり、優れて音楽的な演奏なのである。15年前の演奏がどんなものだったのか私は知らないが、きっとそれと比べても格段の成熟が感じられるのではないだろうか。

 ちなみにこのアルバム、やや多めの残響、大きめなギターの音像で収録されているが、SACDということで、マルチチャンネル層でも楽しめる。試しにAVシステムの方でマルチチャンネルを再生してみたが、残響が鳴りっぷりが一層リアルでナチュラル、ありきたりな表現だが、まるでそのホールにいるかのような錯覚を感じるほどで、その包み込まれるような質感は圧倒的である。
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バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ/ムローヴァ

2009年04月18日 23時50分50秒 | クラシック(一般)
 バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」だが、すっかり気に入ってしまい....などという感覚とはちと違うが、とりあえず興味はあれこれ感じで加藤知子の全曲版に続いて、ヤッシャ・ハイフェッツが50年代に入れた研ぎ澄まされたような緊張感が漂う演奏だとか、それより更に古いジョルジェ・エネスク(エネスコって今は書かないのか)のなんともロマンチックな情緒連綿たる演奏などもかじっているところだが、今週の後半に近くのショップで購入してきたのがこれである。

 ヴィクトリア・ムローヴァといえば、私の同世代の人だけあって、先日聴いたショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲では、今時の若手の演奏に比べ、一回り大きな風格があり、また成熟した女性らしい情感を感じさせたりもしたけれど、この演奏ではバロック時代の弓を使いピリオド奏法を採用、古い楽器にガット弦、低いピッチと、今流行(?)のピリオド・スタイルをとりいれての演奏らしく、ここではけっこうモダンなスタイルでバッハに挑戦といったところだろうか。

 なるほど、その前に聴いたものとは一聴して趣の異なる演奏である。ピッチが低いため総体的に音色は落ち着いているし、ヴィブラートが極端に少いピリオド奏法のせいか、表情はいかにもさらりとしている。全体に早めテンポですいすい進んでいく感じで、往年の演奏にあったようなシリアスで重厚な迫力だとか、曲が曲なだけにそういう思いを込めるのは当然だったんだろうが、「ヴァイオリンの聖典に挑む」的なものものしさがあまり感じられない演奏になっていると思う。あえて言えば、「普段着のバッハ」みたいな、親しみやすい印象といったところである。

 そういう演奏なので、いずれも長調で作られた3番のソナタとパルティータあたりはクリーンで流麗な歌い回と開放感などから、とても楽しめるものになっている。一方、先行する短調でつくられた各々2つのソナタとパルティータは、タブルストップ時の重厚感も控えめだし(ピリオド奏法と関係なるのかな?)、例えば「シャコンヌ」なども壮絶なドラマを期待すると、ちょいとはがらかされたような感じになるかもしれない(これを聴くと先日聴いた加藤知子の演奏がいかにシリアスで研ぎ澄まされたような緊張感に満ち満ちていたかよくわかる)。

 ともあれ、前回も書いたとおり、今の気分としてはあまり重厚でシリアス、かつ教義主義的なバッハというのはどうも遠慮したいので、こういうモダンでクリーン、緻密で緊張感もあるが独特の軽みを帯びた演奏というは歓迎だ。当分これをリファレンスとして聴こうと思う。
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ビートルズ 新リマスター盤 発売決定!

2009年04月14日 12時36分44秒 | Beatles
 まさにファン待望である。ビートルズの一連のアルバムが初めてCD化されたのが1987年だから、ほぼ四半世紀(22年振り)の新リマスターである。ビートルズについては、その間に大作「アンソロジー」は出たし、「イエローサブマリン」「ルット・イット・ビー....ネイキッド」「ラブ」といったリミックス盤、ベスト盤「1」、そして近年だとキャピトル編集盤なども出たから、なにかと話題に事欠かないところはあったとしても、ことオリジナル・アルバムについては、初出以来、原典固守の姿勢を崩さず全く音なしの構えだったからである。恐らくジョージ・マーティンの意向でそうなったのだろうが、ファンはやきもきしていた。

 それはそうである。ビートルズと並ぶ大物は次々にリマスターが試みられ、その都度賛否はあったとしても、聴こえてくる音は大きく変化してきた経緯をファンは十分承知していたし、ことビートルズに関しても、何度か試みられたリミックスや、キャピトル盤で獲得した音圧を聴くにつれ、オリジナル盤についても、今の基準で施されたノイズ除去、音圧増強、EQ調整でもって、CDというフォーマットを限界まで使った新しいサウンドを聴いてみたいと常々待望していた訳だ。というか、そもそもビートルズ以外の大物で、ここ十年くらいの間リマスターされなかったアーティストなどもはや居ないとった状況で、どうしてEMIはこんなおいしい商売ネタを放置しているだろう....という下世話な憶測を呼んだくらいだったのである。

 さて、今回の新リマスター盤の特徴といえば、リマスタード・サウンドがどう仕上がっているかは、聴いてみないとわからないものの、フォーマット上の変更としては「プリーズ・プリーズ・ミー」「ウィズ・ザ・ビートルズ」「ハード・デイズ・ナイト」「ビートルズ・フォー・セール」がステレオ・ヴァージョンで収録されることだ。「パストマスターズ」に収録されたトラックがどういう扱いになるか今一歩判然としないところもあるが、いずれにしても、これでビートルズの公式音源はすべてステレオが標準になるということだろう。ちなみに後方に追いやられることになるモノラル音源についても、EMIは商売に抜かりはない、紙ジャケその他、マニア向けの仕様にしたモノラルボックスということで、一括で発売されるようだ(オリジナル・シングルも発売するという噂もある)。

 という訳で、発表の暁には、リミックスのディテール、異同、音質の仕上がりなどを巡って、またぞろ侃々諤々の議論になるに違いない。あと、今から出てくることが必ず予想がされるのが、旧CDの方が良かったという向きが現れて、その論に説得力があったりすると、今度はそちらが高値を呼んだり、希少化したりするだろうなということ、これは絶対出る(笑)。
 ついでに書けば、個人的にはCDの上位フォーマットであるSACDやDVD-Aでぜひ出して欲しかった。おそらくビートルズであれば、リマスターに当たってはCDより遙かにオーバースペックな環境でデジタル・マスターが作られているに違いないので、それに少しでも近づいたフォーマットで聴きたいというのは人情だと思う。ともあれ、9月9日全世界同時発売である。
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バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ/加藤知子

2009年04月13日 22時16分27秒 | クラシック(一般)
 ショスタコのヴァイオリン協奏曲で突如ヴァイオリンに目覚めてしまったことはもう何度も書いているところだが、今夜はかの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ(バッハ)」の全曲に挑戦中である。バッハの「無伴奏ヴァイオリン」といえば、先日聴いたリサ・バティアシヴィリのアルバムに入っていたパルティータの第1番を聴いて、バロック期の音楽特有の静謐感+無伴奏の緊張感が妙に心地よかったりしたし、先日録画したギル・シャハムの来日公演でもソナタの2番が演奏されていたりもして、そろそろその時期が来たのかも....などと思って、加藤知子の弾く全曲盤を入手して今聴いているところだ。

 この曲はヴァイオリンの聖典などと呼ばれることもあるし、金字塔のような演奏にもことかかないようだが、個人的にはあまりいかめしく求道的な、聴く前から頭を垂れてしまいそうな(笑)、シゲティだのシェリングといった往年の巨匠の演奏はなんとなく敬遠したい気分だったので、本邦の女流加藤知子がデンオンに録音したものを入手した。加藤知子といえば、やはり先日録画した「4人のバイオリニストの競演」という日本の女流四人が一同に会した演奏会のしんがりとした登場していた人だが、調べてみると1982年のチャイコフスキー・コンクールでムローヴァに次いで第2位獲得という経歴がある人らしい(ということは私とほぼ同世代なのだろう)。まぁ、こういう曲を録音しているくらいだから、本邦ではトップ・ヴァイオリニストなのだろう。前述の演奏会でもサラサーテの「カルメン幻想曲」を流麗かつ、この人はサラサラとして弾いていて、そのあまりしつこくない演奏センスが印象に残ったので、このバッハもそのあたりが狙いである。

 とはいえ、この曲については、曲そのものに馴染みがないので、演奏についてどうのこうのといえるような段階ではない。とかく「ヴァイオリンの聖典」と呼ばれているような曲ではあるが、あんまり身構えなくとも、けっこうしっくりと身体に浸透してくる音楽という気がする。耳をそばだてれば、研ぎ澄まされたような緊張感があり、軽く流していてもアンビエント的に耳にうるさくない、独特なひんやりとした空気感が心地よい....そういう音楽であるともいえるかもしれない。
 私が聴くクラシックは昔からロマン派の瀟洒なもの専門みたいなところがあるけれど、「自分がこういう枯れた音楽を楽しめるようになるのは、きっと遠い未来、ジジイになってからことだろう」と思っていたが、なんだか妙に心地良くこういう音楽を楽しんでいる自分を考えると、前述とは違った意味で、そういう時期が来たのかもしれないとも思う。
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バレエ「火の鳥」/マリインスキー劇場バレエ団

2009年04月12日 23時19分15秒 | クラシック(20世紀~)
 2月に録画してあった、ハイビジョン・ウイークエンドシアター「サンクトペテルブルク白夜祭2008」を観てみた。内容はマリインスキー劇場バレエ団でストラヴィンスキーの「火の鳥」「春の祭典」「結婚」の三つ、演奏は同劇場オケで指揮はワレリー・ゲルギエフという豪華な布陣である。私はバレエについてはオペラ以上に興味薄に分野なので、あれこれと語るほど作品も観ていないし、知識もほとんどないのだが、マリインスキー劇場バレエ団が旧キーロフバレエで、ロシアのバレエ団としてはボリショイと並ぶ存在....くらいのことは知っていたし、作品がストラヴィンスキーの有名作で、しかも指揮がゲルギエフとなれば(私もしばらく前に彼の指揮なる「春の祭典」にショックを受けたクチである)、もっぱら音楽面の興味だけでもイケそうだと録画してみた訳である。

 とりあえず、今夜は「火の鳥」を観てみた。私はフランスのベジャールとか、ああいうモダン・バレエは、私のようなガサツな人間には高級過ぎるのか、ついぞおもしろいと思ったことためしがないので(ホント、私ってフランス物がだめなんだよなぁ-笑)、これもけっこう退屈するのでは....と、多少懸念しつつ観始めたのだが、いやぁ、これが実に素晴らしいものだった。ストーリーは子供でも知っている有名なお伽噺、バレエそのものも動きの抽象度が高くなく、何を表現しているるのか、解釈に困るような代物でないから(今回の演出がフォーキン作で、これは初演時にものらしいから、さもありなん)、とて分かりやすかったのがよかった。主な登場人物の3人はどれも古典的な美男美女、火の鳥の凛々しい美しさ、王女(マリアンナ・パブロワ)など、まるで50年前にタイムスリップしたんじゃないかと思うような絶世の美人ぶりで、ガチでストレートな良さにオジサンは思わず見とれてしまった。また、舞台や衣装の眩いばかりの色彩感なども素晴らしく、存分に古典的ファンタジーの世界を味わせてもらったというところだろうか。

 ちなみに「火の鳥」の全曲版は音楽だけ聴いていると、情景描写やアクションに傾き過ぎるところがあって、音楽だけ聴いているとやや弛緩してしまう瞬間もあるのだが、やはり本来の形であるパレエ随伴音楽として鑑賞すると、50分はあっという間で、むしろ短く感じたほどだ。そうか、この曲は本来こうやって楽しむもんだったんだねぇ....と、妙に納得してしまった(って、今頃気がついてどうする)。ゲルギエフ指揮による演奏も、例によって非常に「濃い」もので、後半のハイライトの「カスチェイ一党の凶悪な踊り」の煽るように突進する勢い、フィナーレの壮麗な高揚感などさすがのテンションを感じさせてスリリングであった。
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京極夏彦の「百鬼夜行」シリーズと新ウィーン楽派の音楽

2009年04月10日 23時52分55秒 | Books
 先の日曜くらいからのことだったが、ある方の日記上であれこれコメントしていくうちに、ひょんなことから再読したくなって。ここ2,3日久しぶりに夢中になって読んでしまったのが京極夏彦の「絡新婦の理」という作品。もともとその方の日記では北朝鮮のテポドン(?)が日本の上空に飛来する話題がメインだったのだが、ネットでの会話ではありがちなこととはいえ、こういう話題の飛び方はなかなかおもしろい。時に話を意図的に横道にそらした本人ですら、意図せざる方向に話があれよあれよという間に進んでいったりするのである。今回は、北朝鮮のミサイル発射に何故か理解を示す、某政党の女性党首の話から、フェミニズムの話になり、それが憑き物の話に発展して、そのあたりを包含した新たな話題として、「絡新婦の理」という作品の話が登場したというところかもしれない。こう書いていくとなにやら必然な流れを感じさせるが、実際はそうでもない。適当な偶然である。

 さて、そんなきっかけで再読した「絡新婦の理」だが、めっぽうおもしろかった。舞台となる場所は、馴染みある千葉県の勝浦市、季節は今と同じ桜舞う春ということで、TPOもぴったりだ。三読目だから荒筋だの真犯人だのは覚えているが、ディテールは忘れている部分も多く、通勤時や出張の移動時間、自宅で就寝前などを利用して読んでいたのだが、木場、榎木津、京極堂にせよ、事件の全体のからくりがおぼろげに見えていながら、いやおうなくその事件にの駒として取り込まれていってしまうあたりのプロセスがおもしろいし、三つくらいのストーリー(目潰し魔、勝浦、ミッションスクール)が前半はほとんど交錯することなく進行し、中盤当たりから畳みかけるように収束していく様は、京極らしいストーリー・テーリングに翻弄される楽しさがあった。またサブストーリーとして出てくるフェミズムの問題も女性拡張論者という名で登場人物達に様々な正論を語らせつつ、結局最後でその理論の浅薄さを論破してしまう構造も中々のものだ。

 ちなみにタイトルのことだが、移動中はそういう音楽を聴くこともあまりないのものの、自宅でゆっくりと京極作品を読むときは、そのBGMに新ウィーン楽派の音楽をかけることが多い。特にシェーンベルク、ベルク、ウェーベルンあたりの無調時代の音楽は、その世紀末的に退廃的なムードと、、ある種の官能や情動と明晰な合理性が奇妙に混濁して共存、つまり無意識な流れを音楽化したような混沌さがあるけれど、京極作品の陰湿で暗く、ドロドロしてはいるが、基本はあくまでも謎解きである作品の特徴にけっこう共通するのではないか?と個人的には思ったりしているので、こんなタイトルになった。深い意味はない。
 ちなみに先ほど、「絡新婦の理」の勢いを借りて、早々と「姑獲鳥の夏 」も再読してみたが(こちらは四読目くらい?)、BGMはもっぱらポリーニが弾く「新ウィーン楽派のピアノ音楽集」であった。
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エルガー 交響曲第1番/ショルティ&LPO

2009年04月08日 23時24分21秒 | クラシック(20世紀~)
 先日、「記憶によれば、私は交響曲の一番をずいぶん聴き込んで、「あぁ、もう少しだ、あと何回か聴けば、きっと気に入る....」くらいまでいったと思う」と書いたエルガーの交響曲第1番。ヴァイオリン協奏曲、エニグマ変奏曲とエルガーをあれこれ聴いているついでに、長年終わってない宿題のようになっている、この曲もリベンジよろしく久々に聴いてみた。演奏は先の5枚組に入っているバルビローリと他にも、ショルティとバレンボイムがあったので、あちこちつまみ食いしているところだが、とりあえずヴァイオリン協奏曲の時の経験からも、一番メリハリがありそうなショルティとLPOのものを聴いている。

 さて、この交響曲第1番だが、四半世紀前にずいぶん聴き込んだとか書いている割には、改めて聴いてみてもどこもほとんど覚えていない。むしろ、こんな晦渋な代物を20代の頃によくもまぁ飽きずで聴き込んだものだと感心してしまうくらいに、よくわかんない曲である。まぁ、全体的には「エニグマ変奏曲」と似たような雰囲気、音符が沢山出てくるので、ヴァイオリン協奏曲に比べれば、まだエルガーらしさのようなものは良く伝わってくるのだが、それにしたって全体は恐ろしく地味である。ロマン派らしい劇的なドラマのようなものが、この曲の中でいろいろ蠢いていることは分かるのだが、その動きが表向きあまりに変化に乏しく、その実相が正しく伝わってこないといったところだろうか。

 冒頭の主題は全曲に循環するモチーフのようだが、聴きようによっては「威風堂々」のヴァリエーションみたいなこれが、まずはイマイチ魅力に欠ける。エニグマのような情緒、チェロ協奏曲のような劇性がなく、なんだかひなびた田舎の式典会場のような雰囲気すらしてしまうのだ。これが一区切りすると、ようやく主部となるが、暗雲漂うような第1主題、優美な第2主題ととりあえずソナタらしいお約束で進んでいくものの、先に書いたようになにかドラマが起こっていることはわかるのだが、あくまでも他人事みたいなところがあるのである。第2楽章はスケルツォも同様だ。まぁ、慣れてくればおもしろみも出てきそうな予感はするのだが....(と四半世紀前にも思ったのだろうな-笑)。

 第3楽章は「エニグマ」の「ニムロッド」を思わす音楽で、「ブラームスin英国」みたいな音楽だと思えば、こちらは素直に楽しめる。第4楽章は第1楽章に呼応するもので、嵐の前の静けさみたいなムードで始まる、調度ブラームスの交響曲第1番の第4楽章冒頭みたいな手順である。だが、これまた本編が始まると、あれこれとドラマチックな展開をしているのだろうが、どうもこちらに伝ってこない。循環主題が登場する楽曲の統一感のようなものも、ここでは大きく目論まれているようなのだが、それもこちらには今一歩訴求力がないというのが正直なところだ。
 いやはや、これも相当な難物である。四半世紀前にどのくらい聴き込んだのか、今では全く覚えていないが、これは当時の私には歯が立たなかったのも無理はないという気もしてしまう。うーむ、この曲、もう少し聴き込んでみるしかないだろう。
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コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲/ハーン, ナガノ&ドイツ・ベルリンSO

2009年04月06日 21時22分04秒 | マーラー+新ウィーン
 先の週末のことだが、「Hilary Hahn A Portrait」というDVDが届いた。このディスクはヒラリー・ハーンの音楽活動を文字通りポートレイト的に追っていくというものなのだが、ボーナストラック的にケント・ナガノ指揮のベルリン・ドイツ交響楽団を従えたコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲が全曲収録されているということで購入したものだ。なにしろ、ハーンの弾いた同曲は、未だにCDがないし、かの曲の復興の一翼を担ったとされる彼女の演奏が映像付きで鑑賞できるとなればなおさらである。

 演奏はすばらしいの一語に尽きる。ケント・ナガノとベルリン・ドイツのモダンなテンポ感覚に裏打ちされた適度にシャープで重厚なサウンドに、ハーンのクリーンですっきりとしたフレージングが絶妙にマッチして、この曲の甘美さ、旋律美を裏切ることなく流れるような名演になっていたと思う。これを聴いてしまうと、シャハムとプレヴィンの名演すら、やや時代がかった大仰さを感じてしまうほどだ。また、映像付きで聴くと、この曲がいかにも「難しい曲」であるかが良く分かる。甘くとろけそうな旋律の合間に、オーケストラとの掛け合いや、さりげないフックに、素人目も難技巧な部分が満載である。ハーンはこうした部分をほとんどこともなげに、時に微笑みすら浮かべて颯爽と弾ききっていて、こうした難技巧が連打する第3楽章でも全く危なげないのは驚異ですらある。

 それにしても、ハーンという人のテクニック至上主義ぶりというか、完璧なる演奏を目指してやまない完璧主義ぶりみたいなところは、映像付きでみるとその精緻さかいっそう鮮やかである。弓の動きにせよ、指使いにしたところで、とにかく機械の如き正確さである(そう見える)。また細かいフレーズだのヴィブラートなどを聴くにつけ、この人は音楽を演奏する時の分解能が非常に高いんじゃないだろうかと思うことが多々ある。分解能などというとまるでシーケンサーみたいだが、分解能というのは、例えば4分音符を何等分くらいに分割して表現できるかということで、この人の場合、その能力が異常に高そうな気がするのだ。ある意味、普通の人より音楽がゆっくり聴こえているのではないかということで、とにかく細かいところ、早いところでリズムが極めて正確、縦割りでまず崩れないという精緻さに感心してしまう。

 ついでに書くと、本編の方だが、この人オフの映像では典型的なアメリカのフランクな女のコというイメージなんだけど、演奏シーンになるとみるからにスター的なオーラが出ていて、ああこのコはスターなんだなぁと思わせる(まぁ、そういう影像なのだから当たり前か)。ちなみに、途中「自分の演奏が、誰かの人生を変えたり、この曲の印象を一変させることができるとは思わない。ただ、作品を聴くきっかけになればいい(要旨)」としゃべるところあるけれど、20台半ばでここまでいえれば、建前にしたって立派なものである。まさに絵に描いたような優等生で、また、それが妙にサマになっちゃうのも、またスターたる所以だろう。はい、私もすっかりファンになってしまいました。
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ハイドン 交響曲第29番「のこぎり」/フィッシャー&AHハイドンPO

2009年04月04日 10時43分42秒 | ハイドン
 うわぁ、ハイドンの交響曲シリーズ、一年以上も空いてしまった。このハイドン交響曲命名シリーズも2005年6月スタートですから、もうすぐ満5歳なる訳ですが、そもそも古典派の音楽って得意分野ではないし、ロマン派の音楽のような「曲自体が作曲者がいいたいことを発表する場」でにもなっていないですから、曲はどれも似たような感じだし....で、どうも足遠いちゃいますね。このペースだとあと10年やっても最後まで終わらなそう(笑)。早いとこ「オックスフォード」だとか、「時計」とかの有名曲に行って、既に購入してある他の演奏と聴き比べとかしてみたいんだけど、ホントいつになることやら.....などといいつつも、気を取り直して今回は29番。

 前の番号にあたる28番はなんだか全編リズムの実験みたいなところがありましたが、この29番も割とそういうところがあります。第1楽章は快速調というよりは、メヌエットみたいなのどかなムードを持つテーマを、あれこれ操作しつつ進んでいくような感じで、そのせいかソナタというよりは変奏曲のように聴こえてます。次はおそらく弦楽のみで演奏される緩徐楽章、ただし、アダージョとかではなくテンポはアンダンテですから、こちらは緩徐楽章にしては「早い」感じがします(第1楽章は開幕の割に「遅い」の対照がおもしろい)。この楽章もだいたいのどこかに進んでいきますが、途中ギコギコと鋭く入るチェロのシャープな響きが印象的ですが、これなど当時はかなり刺激的な響きだったのかもと思ったりします。

 多少、実験的な先行2楽章に対して、第三楽章と第四楽章は普通のハイドンらしい仕上がりといえるかもしれません。前者はトリオで見せる神妙な表情がちょっとかわってますが、あとはいつもペースで進んでいきますし、後者は快活明朗、ちょっとモーツァルト的な伸びやかさも見せつつ快調にフィナーレまで進んでいきます。さながら最後で大サーヴィスといったところでしょうか。3分くらいあっさり終わらせず、たっぷり5分くらいかけているのも、全体のバランスを考えるといい感じです。
 さて、恒例のニックネームですが、これはもう第2楽章の特徴的な部分、つまりチェロのギコギコにちなんで、「のこぎり」しかないでしょう。ダメかな?。
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花粉症2009

2009年04月03日 10時13分34秒 | others
 毎年、かかる花粉症。私の場合、症状はたいてい毎年同じだ、咳と喉の痛み、そして発熱と意識朦朧である。このひどい風邪のような症状があまりにしんどいので、今年は早めに薬をもらってきて、飲んではいたのだ。それが幸いしたのか、3月中はこのような症状はほとんどおこらず、「あぁ、良かったね」という感じだったのだが、その油断がまずかった。ここ数日薬が切れてしまっていだが、「まっ、いっか、今年はもう大丈夫、大丈夫」とばかりに放置していたら、案の定来てしまったのだ。

 まずは咳から始まった、そして喉がいがらっぽい、こうなると、この週末は一気に発熱と意識朦朧までいくような気がする。せっかくの貴重な週末なのになぁ....。ちなみに、職場や回りは花見で浮かれているが、私はそれどころではなくなってしまった(笑)。今夜も帰宅して、一応、録画していったクラシック番組(名古屋フィル定期)や音楽(エルガー)なども試聴してみたりもしたが、ちっとも楽しくない。やはり人間、健康が第一である。
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エルガー 「エニグマ変奏曲」聴き比べ

2009年04月02日 20時49分49秒 | クラシック(20世紀~)
 昨夜、バルビローリとフィルハーモニアの演奏した「エニグマ変奏曲」を聴いて、なんだか久しぶりのこの曲の良さを堪能させてもらったもので、ものはついでとエルガーのCDをあちこち探したところ、数枚出てきた。私はCD期に入ってエルガーはほとんど聴いていなかったので、こんな沢山出てきたこと自体意外だったのだが、お得意の「いつか聴くこともあるだろう」みたいな感じで、昔購入してあったのだろう。幸いにも「エニグマ変奏曲」も2種類ほどあったので、ちょっと聴き比べをしてみることにした。

・バレンボイム指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
 1976年、若き日のバレンボイムの演奏である。たしかこの時期の彼は2つの交響曲や同時まだ存命中だったデュプレとチェロ協奏曲など、シリーズのようにエルガー作品を録音していたが、これもそのひとつだと思う。
 演奏はフルトヴェングラーばりに主情的なテンポのうねり、カラヤン的な細部の磨き上げが共存した、いかにも新ロマン派の時代に録音した演奏という感じである。そうした特色が「エニグマ変奏曲」と実によくマッチしていて聴き応え十分の演奏となっている。もっとも、気高く荘厳な美しさという点では、昨日聴いたバルビローリに敵わないが、それでもこの曲の持つ「大英帝国の落日」みたいな情緒はよく出ているし、バルビローリでは多少おっとりしていた速い変奏部分は、当時のバレンボイムの若さなのだろう、実にフレッシュでメリハリがあって、この点ではバルビローリに勝っている。

・ショルティ指揮シカゴ交響楽団
 74年の収録で、当時黄金時代を迎えていたゴールデン・コンビの演奏だ。良くも悪しくも「ショルティとシカゴ」という刻印が至る所に張り付いたパフォーマンスだと思う。したがって、この曲の英国的ムードや情緒といったものは前2種の演奏に比べるといささか希薄で、特別テンポが遅い訳でもないだろうが、「テーマ」を筆頭に叙情的なパートでは総じてインテンポであっさり流れていく。「ニムロッド」は他の演奏とはちょいと違うアポロ的な美しさを描出しているあたりはさすがだが、他の演奏にあったような「この曲への思い入れ」みたいなものはあまり感じさせないのは、少々好き嫌いを分けるところかあるかもしれない。
 一方、速い変奏ではこのコンビの高性能っぷりをアピールするかの如く、例によって切れ味の鋭い、実にダイナミックな演奏になっている。第7,11,15変奏あたりの突進するような勢い、一糸乱れぬ精緻なアンサンブルなどは実に聴き物である。ちなみに録音もいかにもこの時期のデッカ調で、音の細部が隅々まで見渡せるようなブリリアントな仕上がりだ。

・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団
 こちらは47年のモノラル録音で、昨夜聴いたフィルハーモニアとの演奏からさかのぼること約20年前の録音。この時点でバルビローリは未だ48歳だから、その年齢がものをいっているのだろう、フィルハーモニアとの演奏に比べて、全編に覇気がみなぎり、早めのテンポでぐいぐい進んでいく演奏になっている。なにしろフィルハーモニアの演奏に比べて4分も速く、約26分で最後まで駆け抜けていくのだ。情緒たっぷりのテーマの歌い込み、「大英帝国の落日」的ムード、荒場でのダイナミズムなどなど、どこをとっても素晴らしい演奏なのだが、47年録音ということもあり、いかんせん音が貧弱なのが残念だ(全く聴けないというレベルではない-念のため)。同じモノラルでもせめてこの5年後に録音していれば、演奏の素晴らしさが、よりビビッドに伝わってきたろうと、この時ばかりは己のオーディオバカぶりが恨めしくなってしまう。
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エルガー 「エニグマ変奏曲」/バルビローリ&PO

2009年04月01日 23時25分53秒 | クラシック(20世紀~)
 今し方届いたばかりのバルビローリがエルガーの管弦楽作品を振った5枚組ボックス。エルガーはエルガーのスペシャリストとして知られていたので、まずはスタンダードなエルガー・アルバムといえるのではないだろうか。エルガーといえば、今の当方の気分なら、ヴァイオリン協奏曲ということになるが、残念ながらこのセットには収録されていないので、ここではまずは順当な線で「エニグマ変奏曲」を聴いているところだ。「エニグマ変奏曲」といえば、私はレコード時代にこのバルビローリ他にも、オーマンディ、あとストコフスキーの演奏などを聴いたりしたものだが、バルビローリの演奏は荘厳さ、メロディックな憂愁美みたいなところで、群を抜いた美しさがあったように記憶している。

 「エニグマ変奏曲」は、そのタイトル通り変奏曲であるが、同時期のラフマニノフが作った「パガニーニ狂詩曲」、あとレーガーの諸曲もそうだが、ロマン派の性格変奏曲が行き着いた果てというか、ひとつひとつの変奏の性格があまりに肥大化してしまい、ほとんど変奏曲というよりは、ラプソディックでスケールの大きな組曲のような様相を呈していると思う。「パガニーニ」の方もそうだが、メインの主題をさしおいて、途中に現れるひとつの変奏部分だけ、特別有名になるなどというのは(「エニグマ」なら当然第9変奏の「ニムロッド」だし、「パガニーニ」の方なら映画音楽にも使われたりもする第18変奏である)、そのあたりの事態をよく表した現象だとも思う。

 このバルビローリとフィルハーモニアによる演奏も、聴いていてほとんど変奏曲というテクニカルさは意識させず、むしろ19世紀末、そろそろ落日を迎える大英帝国の「威厳」と「過去の栄光」が交錯する30分の音楽パノラマみたいな色彩が強い。このあたりはオーマンディの演奏などはもうすこし性格変奏曲としてのメリハリがきっちりとつけていたような記憶があるのだが、バルビローリの方はダイナミックな部分ではちと押しが弱い分、この曲特有なノスタルジックな美しさを全面に出していて、その意味ではしみじみとした味わいがあって、まさに英国音楽を堪能させてくれるという感じだ。私も堪能させていただいた。

・交響曲第1番 Op.55
・序奏とアレグロ Op.47
・交響曲第2番 Op.63
・エレジー Op.58
・溜め息 Op.70
・ファルスタッフ Op.68
・コケイン Op.40
・フロワサール Op.19
・エニグマ変奏曲 Op.36
・『威風堂々』第1~5番 Op.39
・セレナード Op.20
・海の絵 Op.37
・チェロ協奏曲 Op.85
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