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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

エラ フィッツジェラルド/エラ・イン・ローマ

2005年10月31日 23時23分27秒 | JAZZ
 昨夜、ルー・レヴィのところで話題に出したので、今夜はこちらを聴いてみた。エラ・フィッツジェラルドの全盛期(58年)のライブ・パフォーマンスである。とにかく凄いとしかいいようがないバフォーマンスで、一曲の「セント・ルイス・ブルース」からほとんど現代では再現不可能と思われるようなとんでもないスウィング感に圧倒される。エラ・フィッツジェラルドのどんな曲でも縦横に歌いこなす歌唱テクニックはいうはいうまでもないが、どんな歌でもものすごいスウィング感で縦横に曲をインプロヴァイズしていく様は驚異としかいいようがない。しかもこれだけやっていて、聴こえてくるものは、曲芸でも通好みな代物でもない。ごくごくまっとうで普遍的な楽しい音楽としかいいようがないものになっているのだから、これはある種奇蹟のようなものである。

 収録曲は全部で17曲。CD化に際してアナログ盤未収録の4曲追加されたらしくたっぷり楽しめる。エラ・フィッツジェラルドのライブというと、例のスキャット・ボーカルに象徴されるアップ・テンポでぐいぐいと進んでいくパフォーマンスを思い浮かべるけれど、「エンジェル・アイズ」とか「アイ・ラブズ・ユー・ポーギー」、「ミッドナイト・サン」「ソフィスケイティッド・レディ」といったしっとりとしたバラードも勘所に入っていて、これがまたとても味わい深くて素晴らしい。そして終盤には「レディ・イズ・ア・トランプ」「キャラバン」「サヴォイ・ストンプ」といった曲でライブの醍醐味をこれでもかというほど楽しませるてくれる。ちなみにスキャット・ヴォーカルをフィーチャーした「サヴォイ・ストンプ」のピアノはルー・レヴィではなくオスカー・ピータソンで、スウィンギーなテンションもここに極まりといったところである。
 しかし、当時の彼女のライブ盤はどれも非常にできがよく、このあたりから察するにライブ・パフォーマンスでは、常のこの程度の水準をキープしていたんじゃないだろうか。凄いことである。
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ザ・ルー・レヴィ・トリオ

2005年10月30日 23時23分42秒 | JAZZ-Piano Trio
 私がスタンダード・ナンバーを好きになった十数年前(確かバブルの頃)、そのきっかけとなったのは、50年代にエラ・フィッツジェラルドが収録した一連のソング・ブック・シリーズやライブ盤だった。大編成のオーケストラをバックに瀟洒なサウンドでもって構成されたソング・ブック・シリーズも良かったが、縦横無尽にスタンダード・ナンバーをインプロヴァイズしたライブ盤も負けず劣らず素晴らしかった。こうしたライブ盤ではヴォーカル+ピアノ・トリオ+α程度ほとんど最小限の伴奏で収録されたものが多いのだけど、中でも「エラ・イン・ローマ」は、かの大名盤「イン・ベルリン」と並んで、高いテンションとリラクゼーションがいい具合にバランスした好作品だった。

 ルー・レヴィはそこでピアノを弾いていた人である。前述のとおりエラのライブは極めて小さな編成のパフォーマンスだったため、ピアノは歌伴の中核的な役割を果たしていた訳だけれど、「エラ・イン・ローマ」でのルー・レヴィはリズミカルなブロック・コードでの伴奏を中心に、エラのインプロヴァイスされた歌にに当意即妙に飯能市、機動力抜群演奏をしていたのが印象的だったが、このアルバムでも彼のそうしたリズミカルで軽快なピアノが楽しめる。演奏している曲はお馴染みのスタンダードばかりで、いかにもウェストコースト・ジャズ的な明るく、スポーティーな演奏で押し切っているのもいい。私はウェストコースト・ジャズというのはどちらかというと、好みではないけれど、これはこれで趣向というものだと思う。ライナーには「ウェストコースト・ジャズのオーバー・シーズ....」みたいな記述があるけれど、全般にタイトなリズムで、ぐいぐいと演奏を進めていく雰囲気は「オーバー・シーズ」を思わせるものがある。
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ドン・セベスキー/アイ・リメンバー・ビル

2005年10月29日 12時27分53秒 | JAZZ
 ドン・セベスキーといえば、60年代のverveやCTIといったイージー・リスニング系ジャズ・レーベル(というかクリード・テイラー)のハウス・アレンジャーとして、ウェス・モンゴメリーやジム・ホールなどのアルバムの編曲に当たったことで有名だが、アレンジャーが今のように看板アーティストとして認知されていない60年代の彼が手がけた作品、例えば「アランフェス協奏曲」(ジム・ホール)とか「サンフラワー」(ミルト・ジャクソン)あたりは、今の感覚ならほとんどドン・セベスキーの作品といってもいいようなものだったと思う。

 このアルバム、そのドン・セベスキーが98年に発表したドン・セベスキー名義の作品である。ビル・エヴァンス・トリビュート作ということで、多分日本で企画された作品だと思うが、経緯はいかなるものであれ、私のようなセベスキー・ファンには、彼の健筆をふるったソロ名義作品が聴けるだけてもうれしい限りである。基本的にはマーク・ジョンソンとジョン・ラーバラもしくはマーティ・モレルとエディ・ゴメスというビル・エヴァンスゆかりリズム隊+ビッグ・バンドが主体で演奏されている。全編に渡ってピアノが不在なのがミソで、木管楽器を数多くフィーチャーした独特なん色彩感を持ったビッグ・バンドのサウンドと、ソリストとしてラリー・コリエル、デイブ・サミュエルス、ニュー・ヨーク・ヴォイセズ、リー・コニッツ、ジョン・ピザレリといった多彩なメンツを割り振ったあたりが、ドン・セベスキーの腕の見せ所となっている。

曲としては冒頭の「ワルツ・フォー・デイビー」の新古典派の室内楽みたいな管楽器のアレンジがオヤと思わせるし「ソー・ホワット」はお馴染みのモチーフをセベスキー流にビザレリのヴォーカルをフィーチャーしたタイトル曲(セベスキーのオリジナル)がまるで数十年来のスタンダード・ナンバーのような格調高い旋律をもったウォームでラブリー作品で聴き物だ。全体的にverveやCTI時代のような俗受けする瀟洒さやダイナミックさや派手さがもう少しあってもよかったと思うが、これはセベスキーの年齢のせいもあるだろう。非常に洗練されてはいるが、やや通好みなハイブロウというか渋い作品である。
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FFXI <暗40,ナ40,忍37, 戦33,白25,黒25, 狩20, シ20, モ10 >

2005年10月28日 12時25分40秒 | GAME
 で、そのまま突っ走って、一日ひとつかふたづつ上げて、金曜日の夜半にクロウラーノ巣にてめでたく37に到達。10月10日の不愉快なやりとりな後、思い立って忍者取得したのが12日だから、17日で37まで上げたワケだから、日中、仕事しているサラリーマンとしてはけっこう早い方だと思う。人間、悔しさとか怒りをバネにすると、モチベーション上がるもんだ。まっ、そう思えば、「今のヴァナじゃ、サポ忍はジョーシキよん....云々」とかのたった、傲慢なベテラン・プレイヤーさんにも感謝しなくちゃいけないかもしれないな。ははは、もっと、オレのことを虐げてください....なんてね(笑)。

 しかし、忍者での戦闘はほんとうにチャット窓に流れるログとのにらめっこである。自分の空蝉の枚数の他、自分以外にも空蝉持ちがいるとそっちも数えなきゃいけない。PTは事前に打ち合わせすることもあまりないので、なかなか阿吽の境地みたいにはならない。大体2時間くらいやるとすると、30分とか1時間とか経過したあたりからようやく息があいはじめれば、上出来という感じではないか。今晩のPTでは忍ふたりの他、侍とシーフのコンビで不意騙+連携が交錯したので、序盤はもうがたがた(笑)。30分くらいしてようやく呼吸をつかんできたという感じが、そういうプロセスも私の初心者にはけっこう楽しいものであるが....。

 ついでだが、懸案の空蝉の弐については、うん十万だして競売で購入してしまった。なんでそんな金があったのかというと、夏頃に知り合ってフレンド登録したベテランさんから借りることができたのである。返すあてなどないのだが、その方が某不人気ジョブを上げる時にレベリングで付きあう....という条件だったんだで、行為にあまえることにしてしまった。ははは、オレはヴァーチャルな世界でも借金漬けになってしまったか。ともあれ、空蝉弐覚えたはいいが、これって壱とどういう組み合わせで、どんな風に使っていくのかさっばりわからん。それに忍者については37まで上げて、空蝉弐を覚えたところで少々つかれてしまったので、ひとまず休憩とし、明日以降はそもそものきっかけのなった戦士の方にレベル上げに以降することとした。
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なるけみちこ/ワイルドアームス (Soundtrack)

2005年10月27日 20時34分48秒 | サウンドトラック
 <なるけみちこ(成毛美智子)>といえば、ゲーム・ファンの間では「ワイルドアームス」の音楽で有名です。「ワイルドアームス」といえば、リメイクも含め既に4作ほどあるわけですが、「ワイルドアームスの魅力のひとつ=なるけみちこの音楽」といわれるくらいに熱狂的なファンもいるほどです。このシリーズでは口笛をフィーチャーしたマカロニ・ウェスタン風なメイン・タイトルに置くのがパターンとなっていますが、これらの音楽を聴くと、「ワイルドアームス」の舞台となった砂漠化の進む荒涼とした世界を思い浮かべ、次に「あぁ、<なるけみちこ>だなぁ」と思うゲーム・ファンも多いのではないでしょうか。

 このアルバムは、シリーズ第一作のサントラになります。前述のマカロニ・ウェスタン風な音楽に加え、もうひとつの魅力であるウェットな哀感を感じさせる旋律、テクノ風に軽快な戦闘音楽などがまんべんなく鏤められ、既に<なるけみちこ>の魅力満載の作品になっています。もちろん、プレステ時代のゲーム音楽ですから、サウンド的には全て打ち込みシンセ+たまに生音でという構成でぱっと聴きにはチープそのものな訳ですが、仮にこれを全て生オケなんかでやったとしたら、逆にゲームの画面が負けてしまうでしょうから、これをシンセによる箱庭サウンドでやったのはむしろ必然というべきでしょう。
 また、<なるけみちこ>という人はゲーム以前にはTVの音楽などを担当してきたことにも関係あるのかもしれませんが、どうも壮大なスケールだとか、強烈な音楽的自我みたいなものはどうも苦手なようで、慎ましさだとか繊細な情感といった側面で優れて職人的というか本領発揮するです。そうした意味でもこの作品のような箱庭的なゲーム音楽には合うのかもしれません。いずれにしても、メインタイトルである「荒野の果てへ」にはそのあたりの魅力が凝縮されていると思います。

 それにしてもゲーム音楽というのは独特なものだと思います。ユーザーの好むと好まざるとにかかわらず、ゲームをやる度にメイン・タイトルや戦闘、あと街などの音楽をほとんど強制的に聴かせられることなります。場合によっては何百回も聴くことだってあるかもしれません。普通、音楽とはそうした聴き方はしないはずですから、この反復効果は悪く云うと、人それぞれの音楽の好みというか嗜好性みたいなものを麻痺させるような側面もあるんじゃないとすら思うんですね。このあたり深く考えるとなかなかおもしろい仮説がでてくるような気もしますが、これはまたいずれということで。
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坂本龍一/プレイング・ジ・オーケストラ

2005年10月26日 12時48分45秒 | サウンドトラック
 このところ80年代後半の坂本龍一の映画音楽作品をあれこれ聴いてきたので、ついでにこんなアルバムをひっぱりだしてきた。88年の4月にNHKホールで行われた「Sakamoto Plays Sakamoto」のパフォーマンスを収録したライブ盤で、大友直人指揮に東京交響楽団による「ラスト・エンペラー」と「戦場のメリークリスマス」をメインに据えた構成になっている。確か当時の坂本は、「ラスト・エンペラー」のアカデミー賞受賞その他で、「世界のサカモト」としてワールドワイドに勇躍しようかという時期だったばすで、これもヴァージンからの発売だったと思う。石ころが入っていて、振るとカラカラと音のするエキゾチックな箱にパッケージされていたのも、なにか当時の意気込みを感じさせて懐かしい。

 収録は前述のとおり、「ラスト・エンペラー」と「戦場のメリークリスマス」がメインのディスクに収録されている。前者は収録時間の関係からかオリジナル・サウンド・トラック・アルバムに収録されていないオケの楽曲群が収録されているし、「戦場のメリークリスマス」はオリジナルのシンセ演奏に対しこちらは生オケと、どちらのサントラを持っていても買って損はない内容となっているのは良心的だったのだが、オケの演奏そのものがそうだったのか、ライブ録音という制約がもとでそういう音になってしまったのか、ひょっとするとその両方なのかよくわからない点もあるのだけれど、ともかくオリジナル・サウンドトラックのそれに比べると、リズムは鈍重だし、弦に冴えがなく、どうも全体に生彩に欠く、一種の生ぬるい演奏という印象だったのが惜しい点だった。ずいぶん長いこと聴いていなかったので、今回、久しぶりに聴いたらそのあたりも大分緩和されているのではないかとも思ったが、残念ながらそのあたりの印象は変わらなかった。そもその「ラスト・エンペラー」はサントラ盤は坂本のデビッド・バーン等、共同で担当した2人の音楽も収録されており、坂本が書いたオケの演奏だけをじっくりと聴きたいと思っていた私のような映画音楽フリークには、数ある坂本サントラでも旋律美という点はでは筆頭に来る作品を楽しむに格好のアルバムだったハズだったのが....。惜しいアルバムだ。

 そういえば、その数年後に出た佐渡裕指揮の「シネマージュ」という同様なライブ盤にもほぼ似たような印象を感じたものだが、やはりオケのライブ盤というのはなかなか難しいものがあるんだな、と改めて実感した次第。それを考えると、近年のクラシックはライブでも、ほぼスタジオ盤とかわらないクウォリティを確保するようになっているのはさすがだと思う。
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ハイドン交響曲第10番「運動会」/フィッシャー&オーストリア・ハンガリー・ハイドンPO

2005年10月25日 16時35分13秒 | ハイドン
 10番と付いてますが作曲されたのは4番の頃らしいです。全3楽章というのもそうした事情を反映しているのかもしれません。全3楽章といっても、こらちはノーマルな急-緩-急のオーソドックスなパターンで、全編に渡って初期ハイドンらしい屈託のない明るさと淀みない流れが感じられる作品です。

 第1楽章は和音の一撃で始まり、晴れ晴れとした祝典的なムードのさわやかに進行。ヴァイオリン協奏曲風にヴァイオリン・ソロが絡まる部分もあって、より一層ムードを華やかなものとしている感じです。構成は極めてもちろんソナタ形式で、主題の提示から展開部を経て再現部まで、淀みなく進行しつつ簡潔にまとめているあたりにハイドンの職人性を感じないワケにはいきません。
 第2楽章はいそいそと奏でるヴァインオリンの旋律を他の楽器がゆったりと応答するように進行するエレンガントで、ほんのちょっぴり官能的なムードもある緩徐楽章。第3楽章は冒頭の快活なムードに戻りますが、ヴァイオリンの跳ねるような部分が印象的ですし、副主題で突如短調になるあたりの意外性も逆に小気味よいアクセントになってます。個人的にももう少し早く駆け抜けるようなテンポだった方がいいような気もしますが、まぁ、これはこれで趣というものでしょう。さて、先行する楽章の長さに対して、最終楽章がかなり手短に終わるというのは、ハイドンでは非常に多いパターンだと思いますが、何故こうなったのかけっこう興味あるところであったりします。

 標題ですが、両端楽章の華やかなさや明朗さが、なんとなく抜けるような秋の空をイメージしたんで、最初は「青空」としようと思ったんですが、なんか芸がなさすぎる気がしたもんで、次に「碧空(へきくう)」....しかし、これもイメージ堅すぎて、飛び跳ねるような躍動感のようなものか消えてしまう感じがしたのでこれもボツ。そこで思いついたのが、秋の空+躍動感で「運動会」。特に第1楽章は古き良き昭和30~40年代の運動会のBGMにかけたらぴったりな感じだし、個人的にはこれで決まり。だめ?。
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FFXI <暗40,ナ40,戦33,忍31, 白25,黒25, 狩20, シ20, モ10 >

2005年10月24日 00時29分42秒 | GAME
 引き続き忍者のレベル上げに没頭。クフィムは金曜日にレベル25になったので卒業。空蝉の術壱も少しづつ慣れてきた。週末はお約束のユタンガ~ヨアトルでレベル29まで上げることに成功したが、マンドラというモンスターは機関銃のように攻撃するため空蝉の3枚はあっという間に消える。そのせいかどうかは分からないけれど、このエリアでは、やたらと複数の忍者さんのいるパーティーに拾ってもらったのが印象的だった。土曜の夜など忍者3人と暗黒の前衛+詩人&召還士の後衛だったが、懸念したようなケアル不足などまったくならず、おそろしくHPが消耗しないパーティーを体験したのが、楽しかった。うーむ、おそるべし空蝉の術。
 明けて、今晩は海蛇の入り口付近で魚と魚人を相手にして、わずか2時間足らずでレベルをふたつ上げて31に到達した。ここでも前衛は忍×2でタゲ回しで進んだが、もうひとり忍さんの空蝉の状況をウォッチしつつ挑発→張り替え、忍→シフ、忍→暗黒の湾曲2連携の一翼をにないつつ氷柱でMB、30になったシフさんのふいだまのサポートと、これだけこなすにはやるのはちと私には荷が重かったようだ。間違いも多かった。

 それにしても、忍者というのはパーティーに誘われる頻度は体感的に高いし、経験値もおいしいのだが、戦術的にはあまりにテクニカルで、肉弾戦的な興奮があんまりない。盾というならやっぱナイトの方が体張って戦ってる感じがして、後衛さんの負担を別とすれば、やっていて楽しい気もする。ただ、せっかく30代を迎えたことでもあり、こうなると次の目標である37まで突っ走ってしまえるかなどとも考えているのだが、レベル上げはそこそこ進められるとしても、問題なのは37で取得可能な空蝉弐だ。BCでの戦利品として入手できるらしいのだが、てっとり早く入手するにはと、さきほど競売をのぞいみたらなんと数十万という目の飛びでるような価格でやりとりされていた。これは目下の私の所持金の5倍近い値段であり(笑)、おいそれと手がでるようなものではない。はて、どうしたものか....。調理で上がる利益など一週間で1~2万いけば良い方だから、他のジョブ用とってある装備品と、これまで貯めた戦績を装備品にとりかえて、それらを一切合切売り飛ばすくらいしかないか、などと現在思案中である。うーむ。
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私の愛機 [8] YAMAHA AZ-1(AV-Amp)

2005年10月23日 20時41分12秒 | PC+AUDIO
 2003年末に購入したAVアンプで、映画やゲーム、あとマルチチャンネル系のオーディオ・ソースを楽しむ時に利用しているものです。自宅でマルチチャンネルを構築したのは2003年の夏で、その時はアンプとして同じヤマハのDSP-AZ2を10万くらいで購入したのですが、当ブログでも度々とりあげているとおり、日頃使っているピュア・オーディオのシステムが一般的にいえばかなりのグレードだったため、それと比べると音質的にどうしても貧弱に感じてしまい、せめてもうワンクラスの音が欲しいとの思いから、わずか数ヶ月でDSP-AZ2をDSP-AZ1リプレースしました。当時のヤマハのAVアンプはDSP-Z9という超弩級のフラッグシップ機をリリースした直後で、先代にあたるこのDSP-AZ1は定価のほぼ半額15万で販売されたのを見逃さずに購入したものです。DSP-AZ2は5万くらいで下取りしてもらったので、差額10万、けっこういい買い物でした。

 一聴した印象としては、DSP-AZ2に比べ音の透明感や低域の駆動能力がぐっと高まり、さすがにフラッグシップ機は違うというものでした。価格的にDSP-AZ1はDSP-AZ2の倍近い設定がされていますが、音質はそれ以上の差があったと思います。自分が使っているピュア・オーディオのシステムと比べてどうのこうといえるようなものではないとしても、10万台前半のプリメインくらいのグレードはあるんじゃないですかね。相変わらず、繊細でスタティックないかにもヤマハらしい音で、これなら音楽でも1時間も聴いていれば、不満は感じなくなるレベルですかね。
 おまけに....というか、こちらがメインでしょうが、DSPを使った各種残響効果(各種ホール、スタジオ等)をつけて音楽を聴くのは雰囲気があってけっこう楽しいです。個人的にこの種のデジタル・シグナル・プロセッサーを使って音楽を聴くというのは、昔シンセをいじくっていた頃からやってますが、あれこれ残響のパラメータいじくったりするとけっこうハマりまったりするんですよね。あと映画に関していうと、ほとんど文句なしのグレード。映画の音というのは独特なデフォルメ感をともなった音なので、これだけの再生クウォリティあれば十分でしょう。これ以上音質を向上させるなら、むしろ貧弱なTVをなんとかしろってことになってしまう。

 そんな訳で、あれこれ書いているうちに、そろそろDSP-Z9の後継機種の出る頃だし、値下がってたら....などと思い立って、ネットで調べてみたら31万円、まだまだ高くて手がでません(笑)。
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MAHAVISHNU ORCHESTRA / Apocalypse

2005年10月22日 23時50分56秒 | JAZZ-Fusion
 ジョージ・マーティンブロデュース、マイケル・ティルソン・トーマス指揮のロンドン交響楽団との共演。空中分解した第1期に続く第2期マハビシュヌの第1作といろいろな意味で話題になった74年の作品である。私はこれをほぼリアル・タイムに購入し、その難解さに辟易しつつも根気よく聴いた記憶がある作品なので、前2作と違って個人的には馴染み深い。とはいえ、聴くのは多分20年振りくらいになるが。

 さて、久しぶりに聴いたこの作品だが、メンバー間のインタープレイのみが突出してしまった「火の鳥」以降に比べると、本作では再びマハビシュヌ的本来の色合いを取り戻そうとしているのがよくわかる。やはりマハビシュヌというのは、スーパー・テクニック集団によるスポーティーでにフュージョンであればよいというのでなく、やはり「未だ見ぬ異境を音楽でもって垣間見せてくれるようなバンド」であって欲しい、その思いはマクラフリンが一番感じでいたのではないだろうか、ともかく本作ではそういう部分を甦ってきているのである。それに一役買っているのが、オーケストラの導入である。マイケル・ギブス(彼は英国のギル・エヴァンスだ)によるエキセントリックなオーケストラ・サウンドは確かにマハビシュヌ的なエキセントリックさと、巨大なスケールを作品にあたえることに成功している。アルバムの中核をなす2曲目や5曲目といった大作は、作り込んだ構成といい、鏤められたソロの充実度といい、聴き応え充分である。もっとも、前作までのメンツによる壮絶なインタープレイの充実度という点では、更に手綱がゆるんだ感じがする人もいるかもしれない。どちらをとるかは人それぞれだろうが、個人的には「ロスト・トライデント」や「虚無からの飛翔」ならば、こちらの作品に軍配を上げたいところだ。

 それにしても、マクラフリンがマハビシュヌを再構成するにあたってキーボードをゲイル・モランにしたというのは、いかにもヤン・ハマーの扱いに疲弊していたかを物語ったいるようでおもしろい。「もう、あんな獰猛な鍵盤奏者はたくさん」と思っていたかどうか知らないが。 
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MAHAVISHNU ORCHESTRA / Between Nothingness & -

2005年10月21日 23時53分12秒 | JAZZ-Fusion
 第一期マハビシュヌの最終作。昨日とりあげた「ザ・ロスト・トライデント」がお蔵入りなったおかげで、悪くいうと契約消化のために作られたものらしいが(当時のリスナーはそんなことは知る由もなかったのだが)、とにもかくにも第一期マハビシュヌのライブ・アルバムを残しておいたということだけでも、今となっては貴重といえる。収録曲は3曲でいずれも「ザ・ロスト・トライデント」に収録されていた曲で、いずれもスタジオ録音の比べて、インプロビゼーションのパートが拡張され、奔放さが横溢した、いかにもライブらしい演奏になっている。

 「トリロジー」はスタジオ版ではきっちりと3部に分かれていたパートを、ここでは奔流の如く一気呵成に演奏していて、第2部から第3部へとテンションが高まっていくあたりの流れはいかにもライブ的な感興に満ち満ちている。第3部でのマクラフリンとハマーのソロの応酬はスタジオ版も凄かったが、それをも上回る怒濤の勢いで進んでいくあたりは聴き物だ。ハマー作の「シスター・アンドレア」はマハビシュヌにしては、ポップでファンキーなテーマをもった曲で、ある意味一般的なフュージョンのフォーマットに近づいた感じだが、中間部でのマクラフリンのギターとコブハムのドラムスは最高のテンションだし、後半のハマーによるギターライクなシンセ・ソロもこの曲あたりが「走り」なのだろうが、もう完璧にひとつのスタイルとなっていると感じるのは、その後いくたのフォロワーが出たせいだろうか。「ドリーム」は演奏時間がスタジオ版の倍に拡張された演奏で、「トリロジー」と同様、割とおとなし目の導入部分はほとんどイントロ扱いになって、圧倒的なテンションの中、ハイスピードなソロの応酬に重点がシフトしている。演奏時間でいうと12分あたりから、マクラフリンとコブハムのみで演奏するところなど、いかにもライブって感じのパフォーマンスだし、このような半分遊びみたいなパートでもふたりのコンビネーションがほとんど完璧なのは、聴いていてほとんど驚異である。

 というワケでこのアルバム、とにかく凄い演奏。正直いうと「ザ・ロスト・トライデント」と同様、マハビシュヌらしいエキセントリックみたいなものが薄まり、やや求心力が低下している印象がなくもなく、スーパー・テクニック集団の見本市みたいに堕してしまっているところもあるのだが、とりあえず、ここまでやってもらえれば文句はない。ただ、今の耳で聞くとドラムの音が薄く、音像が遠方過ぎてやや音質的に万全でないのと、収録曲も少ないのが不満だ。「火の鳥」や「内なる炎」の曲もいれてアナログ2枚組くらいの分量だったらよかったのに。 
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マハビシュヌ・オーケストラ/ザ・ロスト・トライデント

2005年10月20日 19時43分55秒 | JAZZ-Fusion
 1999年に発掘されたマハビシュヌ・オーケストラの幻のサード・アルバム。ライナーを読むと当時のマハビシュヌは、バンドの発展に伴って決まっておこるバンドメンそれぞれの自我の拡大に伴うエゴの衝突を起きていたらしく、結局、あらかた収録の終わっていたスタジオ第3作はつめの段階でメンバーの意見が折り合わずお蔵入り、契約履行のためにライブ盤「虚無からの飛翔」を出した....ということらしい。「虚無からの飛翔」は未発表曲3つで構成されていたが、どうして既発のマテリアルのライブ演奏が収録されなかったのか、当時はいろいろ物議をかもしだしたらしいのだが、結局は発表することなくお蔵入りとなった幻のサード・アルバムの落ち穂拾いだったワケである。

 さて、このところマハビシュヌのあれこれ聴いているところであり、これも久しぶりに聴いてみたというワケだが、発売当初「なんでこんなに凄い作品をお蔵入りせにゃならんのか?」という印象はかわらないものの、第1作、第2作とクロノジカルに聴いていくと、スリリングかつハイテンションなソロの応酬は確かに凄いものがあるんだけど、マハビシュヌらしいエキセントリックな緊張感のようなものは、やはりかなり後退してしまって、どっちかというと練達の職人たちが、確立したフォーマットの中でそれぞれの腕を競っているだけ....などといったらいい過ぎになるが、もはや目標はテクニックだけみたいな袋小路に突入してしまっていることも実感するのも確かなのだ。これが普通のフュージョン・バンドだったら、もうこれで充分なのかもしれないが、マハビシュヌの場合、最初が最初だっただけにもうひとつ突き抜けものを期待していまうのである。

 収録曲は6曲、うち統帥マクラフリンの曲は3曲で、他の3曲はハマー、グッドマン、レアードが担当しているが、やはり聴きどころはマクラフリンの3曲だ。「ドリーム」は、タイトル通り文字通り夢見心地な冒頭の3分ほどで、すぐさまアップテンポでスリリング、凄まじいインタープレイとなる。込み入ったリズムをもったテーマ、ソロの合間の複雑なキメの間をぬって、グッドマン、マクラフリン、ハマーの順でソロが登場する。凄い演奏なのだが、それまでのマハビシュヌできかれたような、壮絶な演奏からふと浮かび上がる異世界の情景みたいなものが、この音楽からはどうも感じれられないのはちと惜しい。
 「トリロジー」は文字通り3部構成で、パート1はウェストコースト風に牧歌的なムード、パート2はギターとヴァイオリンのユニゾンで奏でられるちょっとインドっぽいミディアム調。パート3は「ドリーム」のハイライト部分に似た感じのハイテンションなパート。前半はグッドマンとハマー、後半はハマーとマクラフリンのそれぞれのソロの応酬でスリリング進行。後半のハマーを後年トレード・マークにもなるシンセにギター・ライクなソロが登場。
 「ジョンズ・ソング#2」は本作中、もっともマハビシュヌを感じさせる曲で、前2曲のようなもってまわった構成はとらず、冒頭からハイスピードな演奏でスタート。エキゾチックなムードをたたえた緊張感あるムードはいかにもマハビシュヌだし、ソロもテーマに沿った、いわば楽曲に奉仕しているプレイなのは特筆すべき点だろう。きっとマクラフリンとしてはこういうのをもっとやりたかったんだろうけど、他のメンバーが「前に沢山やったからもういいじゃん」とかいったんだろうな(笑)>
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FFXI <暗40,ナ40,戦33,白25,黒25, 忍22, 狩20, シ20, モ10 >

2005年10月19日 01時31分31秒 | GAME
忍者のレベル上げに終始した一週間。忍者のジョブを取得したのが先週の水曜日だから、一週間あまりでレベル22になったことになる、これでジョブ9つ目ということもあり、我ながらかなり早い。特にソロで上げるのは、レベル10あたりまでは南グスタのバス入り口周辺で「楽」表示の雑魚をひたすら乱獲、レベル10を超えた時点で今度は涸れ谷の前にいって同様に乱獲、とにかく戦闘後ヒーリングしなくてもいいような雑魚にガンガン狩っていくというプロセス。忍者はレベル12になって空蝉の術其壱を覚えるまでは、これといった特徴があるわけでもなく。早いは早いがあまりおもしろ味もない(笑)。

 レベル14になったところで、砂丘に移動してパーティーに参加。Ptにおける空蝉デビュウ戦だったが、同じような境遇の忍者さんとご一緒できたのは幸いだった。ふたりでタゲ回しながら空蝉を張り替えつつ、失敗したり成功したりして、ドキドキしながら楽しくカニを狩った。空蝉壱は3回まで的の攻撃を無効にしてしまえるが、攻撃の早い敵だとあっという間に術が解除されてしまうので、再び術を唱えようにも、時間が経たないと唱えられないという縛りがあるのに加え、攻撃されると詠唱が中断されるという制限もあって、これがなかなか難しいし、これで連携なんかもやるわけで、私みたいなゲーム下手には忙しいこときわまりないジョブであること痛感した次第。ここで3日間でレベル19まで上げたところで、ジュノへとんぼ帰りして、続いての定番エリア、クフィムにて、昨日と今日でレベル22まで上げることに成功。とりあえずの目標である25まであと少しになった。
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坂本龍一/Life in Progress(Disc.2)

2005年10月18日 23時37分47秒 | クラシック(20世紀~)
 ディスク1は無調音楽から1960~70年代のミニマム・ミュージックまでの、20世紀の「ゲンダイオンガク」をクロノジカルにダイジェストしたという内容だったのに対し、ディスク2はワールドミュージックを地球規模で坂本流に俯瞰したといった趣である。ワールド・ミュージックというのは、私の苦手な音楽なので、よくわからないところもあるのだが、ざっとメモしておきたい。

 1曲目の「Evolution of Life」は、冒頭で女性ヴォーカルをフィーチャーし、ゆったりとしたインド風(中近東?)な、エスニックなアシッド感に満ち満ちた雰囲気に始まる。やがて流れるように沖縄音楽が登場し、これがゆったりとした盛り上がりを築き、ひとつの印象的なハイライトを形成しているようだ。続いてロマンチックでアンビエントくさいムードの中、パンルート風な笛をフィーチャーしたフォークロア風な音楽となり、荘厳なコラールでしめくられる。
 2曲目の「History of Gaia」はインドの世俗音楽のような雰囲気をもった女性ヴォーカルから始まり徐々にスペイシーなアンビエント・サウンドに変貌していき、後半は美しいアダージョ風な音楽になる。浄化されるように美しい雰囲気が次第に暗雲がたちこめるような気分に変化していくあたりが聴き物だが、これも再びコラール風な音楽でしめくくられる。
 3曲目の「Art」は、ディスク1冒頭の雰囲気にもどり、無調風なアコピをバックに様々な声がコラージュされる。日本語による「最後の審判....云々」の部分はなかなか凄みのあるコラージュだ。続く「Response」は、いくつかの声、歌が重層的に錯綜する、さながら世界各国のエスニックな歌声のコラージュといった趣で、ちょっとメシアン的な極彩色の世界を思わせたりもする。最後の「Light」は、再びコラール風な音楽で、ちょっと映画音楽での坂本を思わせるムードと12音風なアブストラクトな音響が交互に登場させつつ、再び声のコラージュされると、マーラー風なコーダで結ばれる。

 といった感じだが、ディスク1は時間(縦)軸で構成された音楽であったの対し、こちらは水平(横)軸で広げた音楽ということができるかもしれない。総体的には坂本による20世紀地球音楽レポートといったところなのだろうか。こういう音楽での坂本のホギャブラリーの多彩さはやはり凄いものがあるし、その料理も仕方も水際だったものがあるが、「だからなんなの?」という感も正直申してなくはない。沢山の音楽的情報がここにあり、それが要領よくまとめられていることは感じられても、それ以上の胸に迫るものがないという感がつきまとうのである。ついでにいえば、もう少し刈り込んでCD一枚に収まるくらいの長さにした方がよかったとも思う。
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坂本龍一/Life in Progress(Disc.1)

2005年10月17日 23時42分14秒 | クラシック(20世紀~)
 坂本龍一のサントラを何枚か聴いていたら、何故だかアート・オブ・ノイズの「ドビュッシーの誘惑」を思いだし、それについて昔書いたレビュウを読み返してもたら、これと同じコンセプトで、本作が作られていたことを思い出したので、これまた久々に聴いてみた。ご存じのとおり、本作は彼が1999年につくり、それなりに話題にもなった例の現代オペラ「ライフ」のシンセ版である。おそらく、制作ブロセスで本番前にとりあえず譜面をシンセで演奏してみました....みたいなものだと思うが、とりあえず、箱庭的に20世紀の音楽を振り返るというコンセプトからすると、シンセを使った疑似本物的なチープな音色の方が、個人的にはあっていると思う。もっともオペラの方はほとんど聴いていないので、あまり胸を張って断言はできるものでもないのだがいのだが。

 アルバムは2枚組で、前述の通りこの作品には「20世紀の歴史を音楽の変遷と共にに振り返り、後半でその未来を展望する」みたいなコンセプトがあったように思うのだが、今回聴いても素晴らしいのはディスク1の「20世紀の歴史を音楽の変遷と共に振り返る」である。このディスクは大きく分けて3部に分かれていて、一曲目は19世紀末の音楽的革新のひとつである無調音楽を再現したと思われる「Door Open」かなら始まる。ほとんどピアノ・ソロだが、もろにベルク風な退廃的ムードが充満した曲調で、ここで一気に20世紀初頭のウィーンかなにかに連れていかれような気になる。
 2曲目の「序曲」はドビュッシー的な香りのするピアノ・ソロに始まり、それがオケに引き継がれる序盤から、ストラヴィンスキーの「春の祭典」のパロディみたいな音楽になり、そのまま新古典派風に音楽の温度を下げたところで、お次はヴァレーズ的な音響となったところで終わる。時代的には第二次大戦前といったところだろう。
 3曲目の「戦争と革命」では、モノローグ風なSEをコラージュしつつ、ブーレーズやノーノを思わせる12音音楽、バルトーク風に沈痛な音楽やトーンクラスター風な表現が続く、このあたりは戦争の負のダイナミズムを象徴しているのかもしれない。その後、けっこう長目のフランス語のSEが続くとコラール風というか鎮魂歌のような旋律が登場、これは終戦を意味しているだろうか。
 4曲目「科学と技術」では、SEとチェロが奏でる物憂げな旋律をバックにした、タイトルとは裏腹なちょいとロマンティックな曲調だ。やがて、曲は再び12音風な音楽となる。ミュージック・セリエルとかああいったスタイルに近い音楽かもしれない。お次はいわゆるケルン放送局でお馴染み?の「電子音楽」となり、シュトックハウゼンみたいなトーンクラスターも登場し、それが矢継ぎ早にミニマム・ミュージックに変移したところで終了。時代は戦後をどんどん進んでいったところで終わる。

 というワケで、このティスク1、いろいろな解釈は可能だと思うが、やっぱこれはどう聴いても20世紀の音楽のレトロスペクティブだ。おそらくこれは坂本の意図もそうだったのであろう。その意味でこれは「現代音楽図鑑」なのだろうと思う。
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