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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

桂三木助/芝濱

2009年12月31日 22時27分38秒 | Books
 年末....というか、大晦日の個人的な定番は落語「芝浜」である。「芝浜」が年末の風物詩などというのは、世代によってはもはや説明無用なことだろうが、この噺の概略を一応wikiからの引用しておくと、『酒ばかり飲んでいる男が芝浜で大金の入っている財布を拾う。しかし拾ったはずの財布がなくなる。妻の言葉によって「財布を拾ったこと」は夢であったと諦める。男は改心して、懸命に働き、立ち直り、独立して自分の店を構えるまでに出世する。後に妻から実は妻が財布を隠していたという事の真相を知らされる』というもので、この「事の真相」を妻から知らされるが大晦日....という設定になっているからである。この「芝浜」は、現代の落語家はけっこう取り上げているようだが(立川談志など)、その昔は桂三木助の十八番だったようで、私が愛好しているこの三木助の高座を収録したCDである。

 さて、この三木助の芝浜だが、有名な前半、絵画にも例えられる芝浜の描写も見事なものだが、魚屋の主人としてひとかどの親方になった主人公と妻のやりとりで進む大晦日の情景が実に雰囲気があっていい。「銭湯」、「飯台」、「勘定は春永にゆっくり」、「高張り」、「畳の張り替え」、「門松の音」、「明日はいい元日だ」、「年越しそばのどんぶり」と様々な道具立てで、大晦日の情景が描写されていくのだが、この江戸前としかいいようがない、気っ風がよく、リズミカルな三木助の話術でもってこれを聞かされると、「かつての日本のそこかしこにあった大晦日」を、実にリアルに感じ取ることができ、しばし、なんともいえなく懐かしくて幸福な気分になれるのである。ちなみに、私が良く聞いているのこのCDは、なんでもラジオ用の短縮されたヴァージョンらしい。全長版というのはきっと、より濃い江戸情緒があったに違いない、あったらいつか聞いてみたいものだ。
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ドボルザーク 交響曲第9番「新世界」/リッツィ&NHK交響楽団

2009年12月31日 20時18分37秒 | クラシック(一般)
 以前に書いたが、自分にとって年末の第9とはベートーベンのそれではなく、ドボルザークの「新世界」である。この曲の随所からあふれ出る望郷の念だとか、どんじり風な切迫感だのが、きっと帰郷ラッシュを迎え、いかにも押し詰まった今の時期に気分的に合っているだと思う....と、これもかつて同じところ書いた。で、例年は時に応じて新規に購入したCDの聴き比べが恒例だったのだが、今年のはちと趣向を変えて、「新世界」を視聴してみることにした。演奏はカルロ・リッツィが指揮するN響で、今年の前半にBSでオンエアされた第1641回定期からものだ。リッツィは初めて聴く人だが、1960年生まれのイタリア人とのことだ、年齢的には中堅といったところだろう。いかにもこの国の指揮者らしく、どうも専門はオペラのようだが、2005年のザルツブルク音楽祭で、急逝したマルチェッロ・ヴィオッティのピンチヒッターとして、「椿姫」を指揮して大成功したことで、一躍知名度を上げた人らしい。

 さて、このリッツィとN響による演奏だが、指揮者がイタリア人という当方の先入観も大きいとは思うが、伸びやかによく歌う旋律、シェイプするリズムに直線的な推進力といった、いかにもアバドやムーティらの後塵を拝する、いかにも現代のイタリア人指揮者による演奏という感じである。第1楽章は主題提示は譜面通りの反復して、メリハリはあるがドラマチックな盛り上がりはほどほどに、全体をプロポーショナルにまとめているという感じ。途中登場する愛らしい旋律や後半の金管を中心とした場面で、それぞれの楽器にきっちりと音楽的な役割を分担させようとしする、交通整理をするような指揮振りはまさにオペラ的である。第2楽章はイタリア指揮者ならやはりこうなるだろうという、この楽章の望郷の念を歌いまくって表現した演奏だ。指揮者のテンペラメント溢れる身振り手振りや、何故か美人がやけに多いN響でもアイドルのひとり(?)池田昭子のオーボエのソロなどを観ながら聴くと、この耳タコの旋律も新鮮な感興がある。

 第3楽章は古典的スケルツォというよりは、キリっとして直線的な演奏の流れの上で、短いシグナル風のモチーフが入り乱れることを強調したような演奏だ。この曲になさそうでけっこうあるモダンさのようなものが良く分かる解釈といえるかもしれない。トリオを経てスケルツォが回帰するあたりの間合いも良い感じ。どんじりの第4楽章はこれまでの主題を次々に再現し、突き進むような怒濤のような展開をする実にドラマチックな音楽だが、この演奏ではあちこちに風呂敷を広げない直線的な演奏でぐいぐい進んでいく、ややスリムな印象だ。フリッチャイとベルリンが組んだ、あの巨大な演奏を同曲のベストと思っている私としては、ちと低カロリーに思ってしまうところがないでもないが、今時あんな超高カロリーの演奏など誰もしないだろう。客観的に見れば、これはこれで十分にテンションに盛り上がっているし、素晴らしい演奏だと思う。という訳で、映像付きで観る「新世界」、音だけで聴くそれとは、ひと味違った感興があって楽しめた。
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ベートーベン 交響曲第9番「合唱付き」/マズア&NHK交響楽団

2009年12月31日 15時49分24秒 | クラシック(一般)
 この1月にSTBをハードディスク録画機能付きのものに新調して以来、リアルタイムでは観れないクラシックのソースや映画などを録画しては楽しんで来た。なにしろNHKはこういうソースのオンエアにかけては、さすがに国営という威信があるのか、N響の演奏会以外にも、特にオペラなどは豪華なプログラムが揃っていて、ついついあれもとオペラだの映画だのの長尺ソースを録画していくと、あっという間にハードディスクの容量を逼迫してしまう。録りためたソースをDVDに焼き、レーベル面をきちんと印刷してライブリ化という作業をまめにやればいいのだが、このところ息切れ気味なので、年末だというのにハードディスクの残り容量がかなり心許ないことになっている(なにしろダビング中は録画できないのがキビシイ)。さて、この残り少ないハーディスクのスペースをやり繰りしながら録画したのがコレである。この22日にやったらしい、N響によるベートーベンの第9だ。

 指揮はクルト・マズア、演奏前に流れたテロップによればこれが初客演となるそうだ。マズアは東ドイツ出身の指揮者で、個人的にはライプツィヒ・ゲヴァントハウスの首席を長く続けた、地味だが質実剛健な指揮者というイメージがあるけれど、東西ドイツが統一されてからはかのニューヨークフィルの首席に着任したりと、現在はかなりメジャーな指揮者のひとりとなっているようだ。そんなマズアを呼んでの第9だから、N響も張り切っている(ように見える)。いつもはどちらかといえばスリムで淡麗な演奏をする彼らだが、第1楽章の第一主題のところから既にかなり重厚なサウンドに一変しているように感じるのは、当方の先入観だろうか。
 この曲の前半の2つの楽章はリズムが素人聴きにもやけにおもしろくできていて、現代の指揮者はそのあたりをクローズアップして、この曲をモダンに聴かせたりすることが多いように思うのだけれど、この演奏は悠々迫らぬテンポ、ゴツゴツとした肌触りで、これはいい意味でいうのだが、オーバーにいうと「徐行する戦車」みたいなイメージの演奏になっているのはおもしろい。
 第3楽章はまさにドイツの田園風景が見えてくるような演奏。この楽章は一見平坦でしかもかなり長いので、前述のようなモダンな演奏だと、妙に均質で一本調子の演奏になってしまいがちなところもあったりするのだが、さすがに練達な指揮者のことだけはある、オーソドックスといえばこのくらいオーソドックスな演奏もないと思うが、田園風景の向こうにきっちり音楽が聴こえてくるから、飽きずに最後まで楽しめるのだ。

 続く、第4楽章は通常の編成に少年少女合唱団を加えた大所帯で演奏されるのが珍しい。ベートーベンの第9は、このやけに祝典的だが聴けば聴くほど、実はよくわからない楽章をどう料理するかにかかっている。宇宙的なスケールで展開し、あちらの世界に飛び出したまま終わるものもあるし、交響曲の枠組みをぎりぎりで堅持しつつマーラー的なロジックで演奏するものあり、また、あくまでも古典交響曲の異端児として、どちらかといえば質素に演奏するものなど様々である。マズアはこの3つ目のものだろうか、もちろん合唱団の迫力は録画で観ても豪華絢爛だが、音楽そのものは意外にも見識あるストイックを備えていたと思う。個人的にはこのくらいに質実な演奏の方が楽しめる。という訳で、久々にベートーベンの第9を楽しんで聴くことができた。
 それにしても、同曲を大晦日に聴くのは何年ぶりだろう?。いや、ひょっとして初めてかもしれないな(笑)。次は、ドボルザークの第9でも聴こうか。
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伊福部昭/海底軍艦

2009年12月30日 18時43分25秒 | サウンドトラック
 今年も「海底軍艦」を観た。この作品は年末の29~31日あたりになると必ずといっていいほど観たくなる作品で、個人的には年末の恒例行事(?)になっている。そもそもこの作品、田崎潤と上原謙の重厚な演技に、高島忠夫と藤木悠の極楽コンビ、藤山陽子と小林哲子というふたりの対照的なヒロインという俳優陣らのドラマ面がすこぶる充実していることに加え、海底軍艦というこれまでにないメカニックのおもしろさが加わり、これに前後する作品と比べると、やや異色な感はあるものの、東宝特撮映画全盛期を彩る名作である。その「海底軍艦」の盛り上げるもうひとつの絶大な魅力は、いうまでもなく伊福部先生の音楽であろう。私は先生つくった映画音楽ならなんでも有難く聴けてしまう人だが、あえて先生の東宝特撮関連の映画音楽のベスト3を個人的に選ぶとすると、それは「ラドン」、「モスラ対ゴジラ」、そしてこれということになるだろう。いや、「ゴジラ」や「地球防衛軍」、「宇宙大戦争」も大好きなのだが.....。

 そんな訳で映画を見終わった後、久しぶりに単体のサントラの方も聴いてみた。冒頭、由々しき事態の発生を告げるような「東宝マーク」の音楽(わずか20秒)からワクワクしてしまう。重厚に進むメイン・タイトル「海底軍艦のテーマ」は、その格調高い音楽の背後から悲愴感を漂わせているところがなんともいい。この映画は神宮司大佐の終戦間際からレールを逸脱してしまった悲劇がドラマの基調にあるので、いたずらに「海底軍艦」のメカニックを礼賛してはならないのだ。この「海底軍艦」のテーマは劇中に何度も登場するが、常にある種の悲劇的感情を伴っているのがポイントになっている。特に後半の「海底軍艦出撃I,II」は劇中はもちろん、音楽単体でも異様に興奮する音楽になっている。
 一方、この「海底軍艦のテーマ」と対をなしているのが「ムー帝国」のテーマだ。非常にエキゾチックな主題で劇中では造語による歌詞までついていたが、「ムー帝国」がこれもまた悲劇的な成り立ちを背負った国という設定だけに、音楽も一方的な悪するのではなく、なにやら儚げで哀感をともなった旋律でつくられるいるのが印象的だが、この両者が交錯しつつ音楽が進行する「挺身隊出動」の音楽はさしずめこの映画の音楽のハイライトであろう。

 あと、あと忘れられないのが、「真琴のテーマ」は一般ドラマで使いそうな先生らしい生真面目で荘厳な曲でこの映画にドラマ的な深みをあたえるものとなった。先生の場合、特撮映画といっても、いつもドンパチ風な音楽をつけるだけでなく、「ラドン」などでもこうした音楽をつけたことはあったし、「宇宙大戦争」では「愛のテーマ」風な音楽を作ってもいる。この「真琴のテーマ」は劇中2回しか現れないものの、先生のこうした音楽の中でもとりわけ印象的なものといってもいいのではないだろうか。ついでに書くとエンドマークのところで流れる「エンディング」の音楽もいい。ムー帝国のテーマが哀しげに演奏されると、やがてこれまでのドラマを全てを閉じるかのようなコーダがつく訳だけれど、先生のいつも手法とはいえ、本当に浄化されるような趣があって感動してしまう(昔の映画は延々としたエンドロールがなかったので、すぐ館内が明るくなって、我々は現実の世界に引き戻された訳だ)。
 という訳で「海底軍艦」を観て、改めてその音楽を聴けば、個人的には完全な年の瀬ムードである。
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KEITH JARRETTE / Up for it

2009年12月30日 11時38分14秒 | JAZZ-Piano Trio
 久しぶりにキース・ジャレットを聴いてみた。このところ、たまりにたまった宿題を片付けるようにビル・チャーラップの買い込んであったアルバムを聴いているが、その意味でいうとキース・ジャレットの方もずいぶん宿題がある。考えてみると、例のブルーノートの6枚組以降に、彼、いや彼らが出したアルバムは、Whisper Not"、"Inside Out","The Out-of-Towners","My Foolish Heart" などなど、たいてい購入はしているんだけど、たいてい1回くらいしか聴いて放置か、誰か自宅に訪れて「キース・ジャレット聴かせて!」みたいな時くらいしか聴いていないような気がする。もちろんこのアルバムもそうである。このところ休日の朝というと、ハイドンの交響曲を聴くのが日課のようになっていたのだけれど、さすがにちと飽き気味になってきたので、気分転換に何か....と思ってあれこれ探していたところで、特に理由もなさそうだが、これでも久しぶりに聴いてみようという気になったというところだ。

 さて、このアルバム、2002年のフランスでのライブ・パフォーマンスである。彼らの目下の最新作は2005年のパフォーマンスを収録した"My Foolish Heart" だろうが、これも彼らとしては比較的最近のものといってもいいだろう。演奏は良くも悪しくも「後期スタンダーズ」の音楽である。つまり、初期のヨーロッパ風な叙情から、ビバップ風な趣が強く出てある種の先祖返りをしている。1曲目の「If I Were A Bell」や2曲目の「Butch & Butch 」3曲目「Scrapple From The Apple」あたりの軽快にスウィング感、 6曲目の「Two Degrees East, Three Degrees West」のブルース感覚などはその好例だ。もっともやっているのがこのメンツだからして、ビバップやブルースといったところで、その実はひとたび暴走すると再現がなくなる「限りなくフリーインプロに近い音楽」という感じではあるのだが....。まぁ、その良い例がラストの「枯葉」だろう。彼が演奏する同曲はもう何度目かだが、ここではテーマを演奏、そのままかなり激情的なインプロに突入し、テーマが回帰すると、途切れなく8分以上に渡るフリーインプロにになっいくのだ。もちろんこれで悪くないのだが、この曲のラストから末広がりにプラスされた彼らのインプロというのは、得てしてジャズ・ロック風な8ビートだったり、ラテン風なリズムによっていたりと、ちょっと毛色の変わったパターンで延々とやることが多く、あんまり続くと「もうごちそうさま」といった気分になってしまう。

 という訳で、このアルバム、結局良かったのは「My Funny Valentine」や「Someday My Prince Will Come」といったパラード作品だ。どちらも彼らとしては何度目かの演奏になるし、そもそも選曲そのものがガチすぎるきらいはあるが、この2曲は初期の彼らにみられたヨーロッパ的、思索的な音楽を多少思い出したような演奏で、特に11分にも及ぶ前者は「My Funny Valentine」という、あまりにも有名な曲をインスパイアされ、多彩なフレーズと高いテンションでもって、実に美しい音楽になっている。あぁ、そうか、先ほどこのアルバムを聴いたことについて「特に理由もなさそうだが」と書いたけれど、昨晩聴いたチャーラップの「My Funny Valentine」に感心して、キース・ジャレットの同曲の演奏はどんなだっただろう....などと考えたこと思い出した。このアルバムを聴いた理由は、「My Funny Valentine」だったのである。
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蘇慧倫/the Fool

2009年12月30日 00時12分25秒 | 台湾のあれこれ
 DVD「登陸地球演唄会(追得過一切演唱会)」を観たところで、そこでもちらっと話題に出した「the Fool」もひっぱり出してきた。もう何度も書いているとおり、彼女のたぶんのこのアルバムをきっかけにイメチェンをする。それまでの数作(94年の「就要愛了嗎」から97年の「鴨子」あたりまで)では、典型的なアイドル路線からルックス的にも音楽的にも割と楚々とした正統派美人みたいなイメージで売ってきたのだが、おそらく「檸檬樹」や「鴨子」みたいなコミカルな曲が大ヒットしたからだろう。長い髪を切り、おかっぱで素っ頓狂なキャラに変身する訳だ。彼女は女優さんなので、おそらくそいうキャラを演じていたのだろう。結局こうしたキャラクターで、「Happy Hours」「懶人日記」 など、2001年の「戀戀真言」まで突っ走ったものの(ついでに数枚だした広東語でアルバムも全てみの路線であった)、「鴨子」に匹敵するようなヒットも生み出せず、そろそろアイドルを演じるには年齢に限界でも感じたのか、結局、その後数年間というもの歌手家業は事実上の休眠状態になってしまった。

 さて、本作だが、まず一曲目の「黄色月亮」が摩訶不思議でエキゾチックな中華ムードが妙なポップさを漂わせる作品で彼女の代表曲のひとつといっていい仕上がり。ギターバンド風なサウンドを取り入れて彼女にしてロック的な勢いが感じられるタイトル曲もなかなかいい。テクノ+レゲエ風なリズムで歌われる「愛是個」、やはりギターバンド風なサウンドでゆったり歌われる「O2」、「随心所慾」といった曲は新路線で押している感じだが、その一方で「929」はゆるやかな広がりを感じさせるサウンドでもって、従来からの伸びやかな彼女の声を生かした「これまでの彼女」を感じさせる曲で、本作のもうひとつの代表作となっている。また、「不知不覚」、「没有人理我」、「脚踏車」といった曲ではこれぞ正統派台湾ポップという感じのバラード系の作品になっている。つまり本作は、音楽面では新路線と従来のAOR路線とが入り交じったような仕上がりになっている訳だ。先にも書いたとおり、彼女は本作以降、こういう音楽はどんどん捨ててしまうので、その意味でもこのアルバムは「正統派アイドル蘇慧倫」を感じさせる最後の作品となったという見方もできる。それ故、個人的には愛着のあるアルバムになっている。
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スパコンはダメでもマジコンはいいのか

2009年12月29日 23時59分00秒 | others
 なにげにツイッターがブームである。こうしたミニブログに限らず、ネットには自分の感動や想い、鬱憤や愚痴、欲求不満、食べた物、行ったところ、購入した物などを外に向かって吐き出して、なにがしかに欲求不満を解消したい人で一杯だ(いうまでもなく、私もそのひとりであるが)。あわよくば、誰かがコメントでつけてくれて、そこから新たなコミュニケーションにでも発展すれば、それはそれで素晴らしい....きっと、そんなところなのだろう。
 そんな中、こうした外部に対して何を発信するのに圧倒的に敷居の低い「つぶやきメディア」に乗って、民主党の蓮舫議員がちょっとしたポカをやった。ツイッター上で「DS『イナズマイレブン2』の改造コードの入れ方をどなたかご存知ですか? 私にはさっぱり…」と発言したのだ。要するに彼女は息子にマジコンを買い与えており(12歳らしいから自分でマジコンを購入したとは考えにくい)、母親である彼女は、この限りなく黒に近いキカイの違法性も自覚せず、実におおらかにその「やり方」を質問してしまったという訳だ(笑うしかねー)。

 いや、これ自体、別段たいした問題でもないとは思うのだが、世の中には一見ご立派そうな大人でも、「著作権」の概念を知ってか知らずか、ファイル共有ソフトでを使ってさまざまなソフトをダウンロードしたり、誰かに音楽CDだのパソコン・ソフトをコピーしてもらうことなどに、何ら良心の呵責も感じないどころか、人の創造物である著作物に対して、その対価として金を払うというごく当然のことを、「そんなものに金払うのは損でしょ」みたいに考えかねない連中が、-そこらにいる市井の民ならいざしらず-実は国会議員のような人達の中にもいる....ということを物語っている出来事だと思う(まぁ、自分もあんま人のことあれこれいえるほど、ご大層な人間ではないのだが-笑)。
 ちなみに、この秀逸なタイトルは、残念ながら私の考えたものではない。このニュースを知り、遡って読んだ某巨大匿名掲示板群からのものである。子供にマジコンを使わせているような人が、いくら正論をいったところで、まるで説得力がない....といったところであろう。ノーブレス・オブリージュという言葉は、どうやら、期待の民主党の人たちにも無縁のようである。
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ニューヨーク・トリオ/君はすてき

2009年12月29日 23時56分12秒 | JAZZ-Piano Trio
 「Live at the Village Vanguard」の翌年、つまり昨年の作品である。こちらはヴィーナスから出ているので、チャーラップ、レオンハート、スチュアートによるニューヨーク・トリオ名義となる。今回の作品は、もう何度目かになるお得意のソングブック・シリーズで、今回はリチャード・ロジャースの作品を取り上げている。チャーラップはこれまでバーンスタイン、エリントン、ガーシュウィン、ポーターとこのアメリカの大作曲のスタンダードを中心とするシリーズを延々と続けてきたが、単発では彼の作品を何度も取り上げてはいるものの、リチャード・ロジャースの作品集は、そういえば未だだったのか....という感が強い。なにしろリチャード・ロジャースの作品はコール・ポーターのようにひねったところがなく、素直で愛らしいメロディと軽妙な都会的センスが特徴な訳で、こうした特徴はまさにチャーラップの資質にぴったりと一致するように感じるからである。

 セレクションされた曲では、2曲目の「マイ・ファニー・バレンタイン」が印象に残る。なにしろ耳タコの名曲だし、このトリオ自身も「夜のブルース」で既にレコーディング済みであったりするのだが、だからこそというべきなのか、この「またコレですかい」といわれかねないところを、チャーラップは冒頭3分近くをかつての名演「いそしぎ」を思わせる静謐な美しさをもったピアノ・ソロで演奏し、その後、お得意の「遅い曲をもっと遅く」のパターンで演奏してみせる。1回目のレコーディングでは、この曲をミディアム・テンポでちょっと明るく演奏したが、今回のはその演奏の力のいれようからして、これぞ本番といったところだろう。名演だと思う。他の曲は比較的渋めの選曲だが、どの曲もかなりクウォリティの高い演奏だ。3曲目の「時さえ忘れて」はこのトリオらしい、ごりごりとした個性のぶつかり合いが楽しめるスウィンギーな演奏、一方、4曲目の「いつかどこかで」もミディアム・テンポで、ほどよく軽快、ほどよくしっとりしたシックな演奏になっていて、なかなか味わい深い演奏になっている。他もパラード・タイプの5曲目「息もつまって」や10曲目「一度彼女をみてごらん」などを始めとして、おしなべて演奏のクウォリティは総じて高い。

 以前のアルバムでは非常に出来の良いパフォーマンスと、やとわれ仕事的な安全運転の演奏の落差が大きいような気がしたが、このアルバムではそろそろこのトリオも例の「ミスマッチング的なスリルやおもしろさ」から、チャーラップのレギュラー・トリオに迫る阿吽の境地というか、一体感のようなものが出てきたところから感じられ(7曲目の「ミス・ジョーンズに会ったかい?」などレギュラー・トリオのコンセプトがこちらに浸食してきているように感じられる)、音楽的なクウォリティがぐっと向上したように感じられるのだ。レコーディング用の臨時編成だったこのトリオも、結成して10年近く経過したこともあり、さすがに熟成の時期を迎えたというところだと思う。この編成でライブをしているのかどうかは知らないが(おそらくしてないだろう)、レギュラー・トリオがライブは傑作だったし、そろそろこちらのトリオでもライブ盤など出してもいいのではないだろうか。そんなことを感じさせる良い出来のアルバムだ。
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ハイドン 交響曲 第42番「さきがけ」/フィッシャー&オーストリア・ハンガリー・ハイドンPO

2009年12月29日 12時33分30秒 | ハイドン
 この42番ですが、前の41番とほぼ同様に第1楽章冒頭は全合奏による和音でもって開始します。かなり推進力を感じさせつつ、ぐいぐいと進んでいく様はちょっとベートーベンの「英雄」を思わせる趣がありますね。冒頭の和音がところどころで循環しつつ、楽曲が精力的に展開し、次第にスケール感を上げていく様も「英雄」的といえます(演奏時間も8分強となかなかの長さ)。ハイドンは私が聴いた印象でも、これまでこうした「英雄」的なムードを予見したような音楽を何回か書いていますが、中でもこれはかなり酷似したものといえるのではないかと思います。第2楽章は9分半とかなり長く、従来の楽天的な明るいムードというより、もう少し複雑な感情を表すかのようにいくつかのモチーフが錯綜してかなり重厚な楽章となっています。この作品はシュトルム・ウント・ドランク期に属するようですが、そろそろこういった楽章でもにベートーベンやシューマン、そしてブラームスといったドイツ・ウィーン流のロマン派的な緩徐楽章に近い雰囲気になってきました。

 第3楽章はハイドンらしい明るいメヌエットですが、いつもよりいささかスクウェアで生真面目、いささか角張ったリズムが感じられますね。その意味ではこれもこじつければ「ベートーベンのスケルツォももうすぐ」みたいな感じがなくもないといえるかもしれません。トリオはスケルツォそのままで室内楽風な音楽になります。最終楽章はいつものように直線なアレグロの進むフィナーレというより、細かい音符が躍動し、多少ぎくしゃくした音楽(途中小休止も何回かあるようですし)になっています。これまた最後を変奏曲で締めくくった「英雄」を思わせる絡め手のカタルシスがあります。ついでに書いておくと、後半のふたつの楽章は併せて8分くらいで終わりますが、この頭でっかちなバランスというのも考えみれば「英雄」的ですよね。という訳でこの42番、非常に個人的な印象かもしれませんが、ベートーベンの「英雄」を先取りしているという意味にひっかけて、「さきがけ」としてみました。うーむ、ちょっとごじつけが過ぎるかな(笑)。
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鳩山政権の3ヶ月

2009年12月28日 22時58分56秒 | others
 先日で鳩山政権も100日を経過、この100日を目安に新政権に対する多少の迷走や混乱も大目にみてあげる時期が過ぎたなどという話もよく聞く(ハネムーン期間というヤツね)、確かに当初ほとんど偏向しているとしかいいようがないくらい民主党擁護的スタンスで突っ走っていたマスコミもこのところ、一斉に批判の勢いを強めているような気がしないでもない(もっともテレビのワイドショー・レベルだと、民主党に対しほとんど盲目的な擁護をする出演者を集めて、依然として民主アクティブ・キャンペーンをしているような話も聞くが....)。いずれにしても、前回の選挙で民主党に一票投じた人たちは、今の民主鳩山政権をどうように評価しているのだろう?、興味あるところである。

 個人的な意見を言わせてもらえば、たいへん申し訳ないが、「うーん、だめだね、こりゃ」という感じだろうか。新聞その他の報道を信じる限り、とにかく鳩山首相のする発言のブレ方は尋常ではない。まさかここまで大事になるとは私自身思ってもいなかったが、沖縄基地の移転問題で二転三転した首相の発言など(今日現在でもブレているから笑える)、本年冒頭の麻生首相の給付金を貰う貰わないで大騒ぎした問題などとは、スケールにおいても、その内外へのネガティブな影響度といった点でも、比較にならない壮大なブレ方であったと云わざるを得ない。中国の要人と天皇陛下の会見を無理矢理実現したとされるプロセスも大きな物議を醸し出したし、いわずもがなの国債発行、鳩山首相の脱税問題などがいよいよ大問題化していることなどはもそうだが、まずなにより当初派手にぶち上げたマニフェストがあちこち頓挫している-少なくとも実現する気配が感じられない-のが大きな減点だ。もちろん、たかが100日で何ができるという寛大な見方もできるだろうし、自民のツケなどという他力本願な言い方もあるだろうが、なにしろ100日経って目に見えて成功したのが、あのあからさまな「政治ショー」としかいいようがない、事業仕分けだけというのでは、どう好意的にみても「お寒いかぎり」としかいいようがないのではないか。

 いずれにしても、今の民主政権は結局のところ「現実的対応」を余儀なくされ、かつて振り回していたマニフェストに代表される理想主義に足を絡めとられてしまっていると思う。このまま現実路線を突っ走れば、つまるところ自民化したと批判を浴びるのは必定であるし、理想主義を貫こうとすれば様々な矛盾が噴出してくるのもまた分かり切ったことである。難しいところであろう。ともあれ、あれほど舌鋒鋭く自民批判をしていた鳩山首相自らが、政治資金その他の問題で、かつてした自らの発言に足を絡め取られてしまい、マスコミから袋だたきにあってあっている哀れな姿をみると、かつて偽メール事件で自滅したあのグデグデなプロセスをどうしても思い出してしまい、「やっぱ、この人達ったら、いつも口先だけで、やっぱだめじゃん」とか、つい思ってしまうのだ。ともあれ、今の政権は民主党にあり、こちらには少なくとも夏までは政権選択の手段もない訳だがら、しばらくはせいぜい生ぬるく民主党を応援していくとしたい。



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イヴォンヌ・ウォルター/アイ・ウィッシュ・アイ・ニュー

2009年12月28日 00時05分02秒 | JAZZ
 オランダ出身の女性ジャズ・ヴォーカリスト、イヴォンヌ・ウォルターの本邦デビュー作。いろいろ話題になったのでご存じの方もいるとは思うが、本作はジョン・コルトレーンの「バラード」の収録曲をまるごと歌ってしまうという一種の変形トリビュート・アルバムになっているのである。コルトレーンの「バラード」といえば、「疾風怒濤なジョン・コルトレーンがつかの間見せたリラクゼーション」という希少価値も手伝って、他のアーティストの同種のアルバムとは、ほとんど隔絶したオーラが漂っているアルバムだが、このアルバムではその額縁を借りつつ、ヴォーカル・アルバムとして作り替えてしまおうというところだろう。コルトレーンの「バラード」はタイトルからも分かるとおり、スタンダードのバラード物を取り上げたアルバムだから、同じセレクションで歌物のアルバムを作ること自体はそれほど難しいことでもないだろうが、この種の企画が近年まで出てこなかったのは、やはり「バラード」というアルバム自体が古典として生乾きであったからだろう。逆にいえばこういう作品が出てくること自体、「バラード」という作品が、ジャズ史上の完全なる古典となったということの裏返しなんだろうと思う(ジャズ・ベスト25みたいな意味ではなく)。

 さて、本作だが、収録されたのは全部で12曲、まずは「バラード」の曲を1曲目から7曲目までをそのまま歌い、後の5曲は、コルトレーンのもうひとつの古典「ウィズ・ジョニーハートマン」から3曲と「バラード」の残り1曲、そして「ネイマ」が歌われている。全ての曲がピアノ+ベースというシンプルなバックで歌われているが、これは「バラード」のコルトレーンをそのまま彼女に置き換えた....というコンセプトなのだろう。なにしろオリジナルが巨人コルトレーンだからして、いろいろ文句をつける向きもあるだろうが、「バラード」のワン&オンリーな世界というか、あの静謐なムードをそれなりに再現していると思う。彼女の声は同郷のアン・バートンに似ているといわれているそうだが、私はアン・バートンを聴いたことがないのでよく分からない。あまりフェイクしたり、デフォルメせず、噛んで含めるような歌い方をしつつ、どこかドライな風情が漂っているのは、「バラード」的な世界にけっこう合っていると思う。普通ならバックがピアノとベースだけだと、バラードとはいえ退屈してしまう私だが、あまりそう感じなかったところにこのアルバムの説得力があると思う。いずれにしても、オッサンが夜に飲む酒のお供にぴったりのアルバムだ。もっとも聴いていて、オリジナルはどうだったかな?....と、寄り道したくなるアルバムでもあるが。
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ベルク ヴァイオリン協奏曲/ムター、レヴァイン&CSO

2009年12月27日 21時54分13秒 | マーラー+新ウィーン
 この曲、5つ目の演奏である。ムターがレヴァインとシカゴ響を従えて1992年に収録した演奏だが、非常に大雑把な言い方をすると、グリュミオーとマルケヴィチの演奏の関係が逆になったような演奏....という印象を受けた。つまりここでのオーケストラは美麗で精緻、ほどほどに甘美で万事破綻がないのに対し、ヴァイオリンはこの作品に非常な緊張感と厳しい姿勢でなりふり構わず対峙しているようであり、両者の姿勢は共通しているというよりは、むしろ対照的な様相を呈しているのだけれど、それが故にユニークな協演となったというか、協奏曲的なおもしろさが出た演奏となったように思えるからだ。

 もう少し詳しく書くと、オーケストラは演奏はほぼ全編に渡って緻密で安定感があり、とにかくパーフェクトな印象である。ベルクの曲はあまりにもオーケストラ・サウンドが錯綜しているためか、全体としては混濁して聴こえようなことがしばしばあるけれど、この演奏ではそのあたりの見通しが良く、細部に渡って非常にクリアな印象だが、この手の演奏にありがちな冷たさとか分析過剰な演奏になる一歩手前で、オーソドックスな演奏の枠に留めているのは、レヴァインの手腕が生きているといったところだろう(ベルクにしてはちと整然としすぎて、やや透明感がありすぎるような気がしないでもないが)。また、ドラマチックな場面では(特に2部出だしなど)、獰猛ともいえるパワフルさが顔を出すのは、さすがシカゴといったところだ。

 一方、ムターのヴァイオリンは、あまりに生真面目で律儀だったコルンゴルトの協奏曲のような例もあったので、こういう作品ではどうかなと思ったが、甘さや世紀末的なムードは薄いものの、この曲のレクイエム的な面、あるいは悲劇的な側面を非常に真摯に表現しており、彼女独特のごつごつとしたフレージングがほとんど違和感なかったのが意外だった。とにかく非常に聴き応えのある重量感のある演奏だ。そんな訳で、オーケストラとヴァイオリンが、反対の方向を向いたような演奏であるにもかかわらず、聴こえてくる音楽が非常に充実しているのは、やはり協奏曲というフォーマット故のことなのかもしれない。個人的にはこの演奏、グリュミオーとマルケヴィチのものに次いで気に入ったものとなった。
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ハイドン 交響曲 第41番「トリプレット」/フィッシャー&オーストリア・ハンガリー・ハイドンPO

2009年12月27日 12時22分57秒 | ハイドン
 こちらはシュトルム・ウント・ドランク期の作品。短調ではありませんが、全体に落ち着いた風情が漂っていて、それ以前の作品に比べると、構えや佇まいといった点でかなり重厚になっている気がします。第1楽章は全合奏による和音を序奏に開始、当時はきっとモダンな始め方だったんでしょう。これまでハイドンの交響曲は41番まで聴いてきた訳ですが、この後はそれこそ沢山このパターンを踏襲するのだろうとは思いますが、これまでだとこうした「一撃開始」はなかったように記憶しています。主部は流麗さが際だち(ちょっとモーツァルトのピアノ協奏曲を思わせます)、職人的にまとめ上げて居る感じですが、主題的はちょいと決め手に欠くところも感じます。第2楽章はおとなしめの弦に導かるフルートのソロをフィーチャーしつつ、長調なんだけど一瞬短調のようにも聴こえる一種独特な牧歌的ムードを醸し出しています。また、中間部はかなり手の込んだ作りになっています。

 第3楽章のメヌエットはやはり構えが大きく重厚さがあります。従来の舞曲的な軽さから明らかに交響曲という「大きな曲」を構成するひとつパーツとして考え始めたという気配が感じられますね。第4楽章は三連符で執拗に繰り返されるモチーフが全体を貫いてるのが大きな特徴となっています(ちょっとメンデルゾーンの交響曲第4番の第1楽章を思わせたり)。ストレートな躍動感というより、じわじわと迫り来るような迫力がありますね。これも当時としては、かなりモダンな響きを醸し出していたんでしょうが、残念ながらここから何かが展開していくところまでいかずに、この三連符のみで押し切っているのがちと食い足りないところかもしれません。さて、ニックネームですが最終楽章の三連符にちなんで「三連符」といきたいところですが、ここはとち気取って英語で「トリプレット」とでもしておきましょうか。まぁ、ドイツ流に「トリオーレ」でもいいんですけど、この言葉は自分自身に馴染みがないので、やっぱ「トリプレット」で....。
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蘇慧倫/追得過一切 演唱会 (DVD)

2009年12月27日 00時17分49秒 | 台湾のあれこれ
 しばらく前に購入した蘇慧倫のライブDVD。彼女のライブといえば「登陸地球演唄会」という1997年の「傻瓜」に発売に前後して行われたステージのVCD(2枚組)を持っていたけれど、こちらはジャケ写真からして、もう少し以前のまだ髪の毛の長かった頃のライブだろうと勝手に想像して購入してきたものだ。だが、実際に視聴してみると、なんのことはない「登陸地球演唄会」と全く同じソースなのであった。このディスクはおそらく中国本土で発売されたものであり、「追得過一切 演唱会」というタイトルはその時に彼女の大ヒット曲にあやかって勝手につけられてものだろう。いや、ろくに曲目も確認せず購入したこちらが悪いのだが....。

 気を取り直して、一通り観てみたが、どうも全体になイマイチである。まずはシューティングした時期が「傻瓜」前後というのが、個人的には減点要素だ。この時期の彼女は髪の毛はばっさり切って、そのキャラをいささか素っ頓狂でコミカルな変貌させていた時期であり(別の彼女の髪に執着している訳でもないのだが-笑)、まぁ、これはこれで悪くないのだが、やはりそれ以前の「いい女」していた時期のライブがというのも、一度は観てみたいと常々思っていて、このディスクにはまさにそれを期待していたからである。また、どういう訳か録音があまりよくなく(彼女の歌は悪くない、けっこう職人した歌である)、ステージの2chモニターをそのまま録音したような妙に平板でメリハリがない音は長く聴いていると欲求不満になってくる。またVCDに比べれば当然画質は良くなってはいるが、おそらく同じマスターを使ってあまりいじくってはいないのだろう。DVDの水準からすれば、全般的にボケ気味でキレが映像のも不満を感じる。

 という訳で、いろいろな点でこれは個人的にイマイチなDVDである。彼女のMTVなども観ると、もっと良さそうなライブパフォーマンスもいくつかはシューティングされているようだし、おそらく当時は大スターだったのだから、そのあたりのソースは事欠かないと思う。今の視点で、そうしたソースかベストヒッツ的に復刻されたライブDVDでも出してくれたりしないものだろうか。あっ、そうそうこのステージなぜか司会者が出て来て、歌謡ショーみたいな趣もあるが、この時期の台湾のアイドルポップ的なステージというのはそういうのが常套パターンだったのだろうか。
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Wizardry 生命の楔 @10階

2009年12月26日 21時54分58秒 | GAME
 引き続きの「Wizardry生命の楔」。今週は6階~10階を探索。6階は火の玉を飛ばす像が仕掛けられた碁盤の目や暗闇を抜け、7階にも上下しながら進み、7階は浮き上がる床に潰されそうになりながら外周を一周、真ん中のエレベーター・エリアを抜けると、ようやく8階への階段を見つける。その8階は岩を動かしてスイッチを押してドアを開け、これまた時計回りで外周をぐるりと回って、あちこちに迂回しつつ、ようやく真ん中のエレベーターエリアに到達、そこから西へ進んでようや階段を発見。この階はどうやってここまで来たのかよく覚えていない(笑)。このゲームをしばらく続けてきて、わかってきたのだが、最初にマッピングしている時は-当たり前だが-遠回りを強い、いったんマッピングが終わると、抜け道が開通するので通過する階の進行はラクになる....このゲームはその落差が非常に大きい。

 9階は東西に別れたエリアを別の階段を使って、途中にスイッチを押すとそれぞれ浸水していくトラップ。水におぼれそうになりながら(笑)、そのタイムリミット寸前で階段で駆け上がる手順を都合2回やることになる。これは火がついて開けることができない扉を開けるために水を呼び込む必要がある訳だけど、暗中模索なエリアをタイムリミット付きで、あちこち進んでいくのはなかなかスリリング、途中でモンスに遭遇したりすると、イライラしてるんだか、楽しいんだか、よくわらない展開になる(笑)。これで10階に到着すると、そろそろモンスターが強い。いや、強いというかとにかく全部20匹くらい出てくることも珍しくなく、そうなると範囲魔法でしとめるのが必須になり、魔法が使えなくなると探索も終わりとなってしまう。しかも相手が先行すると、前衛はほとんどといってもいいくらい誰か死んでしまう。さっき蘇生に失敗して灰化してしまったが(笑)、こういうところはいかにも「ウィザードリィ」である。

 という訳で、さきほど10階大広間でイベントがあり、その奥の11階に至る階段も発見。とりあえずセーブして、第2部終了と相成った。ちらと11階も探索してみたが、ますますモンスが強く、しかも大勢でててくるので前衛が死にまくりだ。現在のパーティーはトップでLv28くらいだが、しばらく10階でレベル上げと、資金稼ぎしないといけないかもしれないだろうな。魔法もスキルも購入してないものが、いつのまにか一杯になってしまっている。
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