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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

ハイドン 交響曲第25番「田舎紳士」/フィッシャー&AHハイドンPO

2007年09月30日 20時34分40秒 | ハイドン
 この曲の第2楽章を聴いてなんとなく思い出したのが、6月に観たヒッチコックの「農夫の妻」という作品。この作品あの時も書きましたけれど、妻に先立たれた農夫が、近隣にいる未亡人達に次々に求婚するものの、次々に断られてしまうというがプロセスがストーリーの大半を占めておりまして、ジェームスン・トーマス扮するやもめの旦那が、それなりに着飾り紳士を気取って、美しいイングランドの田園風景の中、未亡人をモノにしようと闊歩していく様が妙におかしい作品でしたけれど、この第2楽章を聴いたら、なんだかそれを思い出さずにいられませんでした。

 ちなみにこの交響曲の第2楽章はメヌエットで、いつもながらハイドンらしい牧歌的、田園的なメヌエットなのですが、主部ではヴァイオリンが会話風に登場したり、トリオではホルンや木管がソロでやはり会話風に出たりして、なんだかあの映画の本人はカッコつけてカッコ良いつもりなんだけど、やはりちょいとばかり田舎クサイところが隠しきれないとぼけた男爵っぽい髭の主人公が勇躍して、山道を馬で上っていくユーモラスな風景が(別にあの時の音楽と似ていた訳ではありませんが)、この楽章のユーモラスさと妙にシンクロしたんですね。そんな訳で、これにちなんでニックネームは「田舎紳士」としました。

 さて、この曲ですが全3楽章です。第2楽章がメヌエットだとすると、緩徐楽章がないことなりますが、それは第1楽章の冒頭に3分近くかなり長目の序奏部としてアダージョがついているので、おそらく緩徐楽章はいらないと思ったか、書くのが面倒になったのでしょう(笑)。第1楽章の主部はハ長調らしい快活て、勢いのよいアレグロ、第3楽章はそれ輪をかけて快速調なプレストですが、曲そのものは特段ユニークでもキャッチーでもなく、ごくごくいつものハイドンのペースで押し切っているという感じです。やはりこの曲の個性は第2楽章のイナタくユーモラスな雰囲気ってことになるんでしょう。
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トリオ・モンマルトル/ローマの思い出

2007年09月29日 23時15分58秒 | JAZZ-Piano Trio
 ニルス・ラン・ドーキー弾きいるトリオ・モンマルトルの確か第2作。なにしろこのバンド名だし、アルバム名が「ローマの思い出」だから(ちなみに第1作のタイトルは「カフェ・モンマルトルからの眺め」)、これはもうどこをどう見ても「ニッポン発欧州ジャズ」の香りである。具体的にいえば、ちょっとオシャレにジャズを聴いてみたいOLのような人をターゲットにして制作されたのは多分間違いないところだ。いや、だからといって悪い訳じゃない、音楽が良ければ、否、自分の好みであれば、「モンパルナスの窓」であろうが、「カンヌのそよ風」であろうと、とりあえずタイトルやジャケはなんでもいい。では、この作品の場合はどうか?。

 音楽的には絵に描いたようなヨーロッパ型のピアノ・トリオである。本作では選曲にイタリア系のものが多くとられたためのせいもあるが、非常に叙情的なメロディーを実にしっとりとラプソディックに歌っている。また、音楽をインプロで拡散させながら、陰影の深いロマン性や思索的なムードを繰り広げていくあたりは、例によっては初期のスタンダーズの影響が強い感じがする。ニルス・ラン・ドーキーはヨーロッパの中堅として、ゲイリー・ピーコックを向かえたピアノ・トリオ・アルバムなども作っているようだから、この仕上がりは当然ともいえかもしれない。特に1曲目の「素直なあなた」など、ラン・ドーキだけではなくトリオ全体がアラ・スタンダーズであるし、オリジナル作品である8曲目の「KS」などもスタンダーズ風なゴスペル&ロック的な風味がある。

 とはいえ、全編スタンダーズ調という訳ではなく、5曲目の「ひとりで」などは軽快に4ビートをスウィングさせているし、印象派的なセンスをみせる4曲目「プレリュード~カルーソー」などもあるし、ジョアン・ジルベルトなども歌っているスタンダード「エスタテ」(3曲目)はストレートにメロディを歌い好感がもてるところだ。決してエピゴーネンではない。また、これもオリジナルだが、10曲目の「ホーム・スイート・ホーム」あたりの米欧混合なセンスなどもなかなかおもしろい。この人はむしろこういうところに個性があるのではないかと思う。という訳で、このアルバム、悪くはない仕上がりだと思う。実はこのアルバム、数年前に購入して一聴して後、印象が薄くて放置してあったのだが、あの時より遙かに好印象をもった。これを機会にWalkmanにでもいれてリピートして聴いてみようか。
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ナット・キング・コール/ヴォーカル・クラシックス

2007年09月28日 23時28分16秒 | JAZZ
 ナット・キング・コールというと思い出すのは、小学生にもならない頃、我が愚兄が聴いていたビートルズのLP盤の袋のこと。あの頃の東芝のLPの中袋は紙でできた四角いもので、それが両面ともに既発盤のカタログのようになっていたので、私は見るともなくよく眺めていたんだろうと思う。あんまり記憶にないけれど、確か片面はクラシックで、もう片面がポピュラーというような構成だったと思う。クラシックの方はクリュイタンスが振ったフランス物とか、マリア・カラス、ポピュラーだとビートルズ、ベンチャーズあたりの当時のドル箱スターはいわずもがなだが、ビーチボーズなんかに混ざって、ナット・キング・コールがけっこう入っていたような気がする。私は小さなジャケ写真をみならがら「この冷酷そうな黒人のオッサンはいったいどんな曲を歌っているのだろう?」と思ったものだ(笑)。

 ちなみにそこに出ていたのは、コールが50年代後半以降にキャピトルで録音し、ネルソン・リドルをアレンジャーに擁した、それこそ「ポピュラー・ミュージック時代」のコールの作品「恋こそはすべて」「モナリザ」みたいなものばかりだったはずだが、しばらくして、こうしたアルバムから聴ける音楽が、金ぴかのオーケストラをバックに甘ったるく歌う音楽であること知って(いつ頃知ったのだろう?)、私はナット・キング・コールなと興味の範囲の他となった。ちなみに彼に再び興味を持つことになるのは、1991年、娘のナタリー・コールが出した「アンフォゲッタブル」のラストで、彼女のボーカルのデュエットの相手にコールの声が突如登場し、「なんて素敵な声なんだろう!」と感嘆してからである....などと、いつになってもこのアルバムの話が出てこないので、無理矢理このアルバムに話題を移す。

 このアルバムはコールが前記のようなポピュラー寄りの活動にスタンスを切り替える以前の40年代に録音したものである。当時のコールはジャズ・ボーカリストとしても売れていたが、ピアノ弾きとしても有名だったため、このアルバムはボーカル・クラシックスというタイトルになっている。音楽はシンプルな自前のピアノ・トリオ(ドラムレスでギターが入るパターンの方)をバックに、コールがじっくりと歌っているが、とにかくボーカルがサイコーである。コールのボーカルはキャピトル時代のメロウに歌い上げるのもいいが、やはりこうした場末な感じのバッキングで、アーシーかつやくざなところをちらほらざせながらも、表向きはソフトな歌い方をする複雑系の方が良く似合うと思う。1曲目の「スイート・ロレイン」なんぞ聴くと、まるでモノクロ製のギャング映画のキャバレーシーンにでも紛れ込んだような気にさせてる。悪役なのか、正義の味方なのか分からないところが、この時期のコールの魅力とでもいったらいいか。
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FFXI < エインヘレヤル、アサルト、スキル上げ >

2007年09月27日 23時37分19秒 | GAME
 しばらく続いたミッション消化の日々も終わり、この一ヶ月はアサルト(まぁ、これもミッションの一種ですが)、比較的最近実装されたエインヘリヤルというバトルフィールド、そしてスキル上げにあけくれていた一ヶ月間。アサルトは先月くらいまで「秘密訓練所急襲」とか「土竜」といった、簡単でやり慣れたものを繰り返しクリアし、たまに初物を混ぜるというパターンで、実に緩慢に階級を上げて、傭兵長になったところでしたが、この一ヶ月間は繰り返しが徐々に減っていき、初物にトライする機会が増えたせいで、階級が4つも上がり昨日特務曹長になったところです。なにしろ初物は5回クリアすれば、次の階級への昇進試験が受けられますが、一度やったものだけやっていると、結局25回やらないといけないので、やはり早く上に行くには初物をおそれずにトライするに限ります。特に直近のふたつの昇進では、リピートは一切なしで、初物オンリーでやりましたので、5日ごとに昇進試験という感じで、ポンポン上に上がっていくのは、モチベーションの持続という意味でも楽しいですね。

 おもしろかったのはマトンが障害物を破壊するフォロウをする「イルルシ掃海作戦」、逃げまくるボスを追っかける「賢哲王暗殺作戦」「黒い男爵撃墜作戦」あたり殲滅系ですかね。「土筆」みたいなスニーキング・ミッションや、「海猫護送作戦」「クラボエール男爵警護」みたいな護衛系は一度やればもういいやって感じ。
 エインヘリヤルは、最大36人が入れる30分制限のバトルフィールドで、とあるLSに拾ってもらってこれまだ7回ほどやりました。入ってみなければ分からない12体(×2)の雑魚をなぎ倒し、ボスと勝敗決するというバトルですが、とにかく相手が数の暴力でくるので、場合によってはほとんど勝機もつかめず敗退するんですが、私が参加しているLSはいつも30名以下しか集まらないためか、作戦が悪いからか、はたまた単に運が悪いのか、私は目下2勝5敗で4連敗中です。いずれにしてもエインヘリヤルの「不条理な数の暴力」はおもしろいのか、つまらないのか、やっている方も意味不明な楽しさがあります。

 スキル上げは、このゲームを始めたばかりの頃、戦士が取り扱える各種武器を砂丘のモンスを相手上げまくったことありましたけど、思えばそれ以来かもしれません。ジョブをカンストし、こういうことに手を出し始めること自体、既にプレイヤーとしては末期症状のような気もしますが(笑)、私はこういうのはきらいではないので、このところパラ忍でこの不毛な作業にハマっています。とりあえずどれも100~120くらいだった、両手剣、棍2種、両手槍、短剣を東アルテパ~西アルテパ~流砂洞~クフタル~テリガンの順で巡って、各々上げているとこで、ソロに飽きるとスキル上げパーティーに参加したり、自分でも組閣したりしまして、こちらはクフタル、テリガン、ボヤ、そしてルオンの庭あたりをやっているところでかね。結果として、両手剣は230、その他もおしなべて180後半になったところです。とりあえずどれも250近くにしてオファー可能なWSクエストなども消化したいところですが、いや先は長い。
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水田直志/Final Fatntasy XI ジラートの幻影

2007年09月26日 23時46分01秒 | サウンドトラック
 「ファイナル・ファンタジーXI」本編の翌年、つまり2003年に発売された拡張ディスク第1弾のサントラである。昨日も書いたとおり、これ以降の音楽はほぼ全面的に水田直志が担当することになるため、このサントラもクレジットは水田ひとりになっているが、一年が経過して音楽的にもこのゲームのツボを掴むことに成功したのか、音楽自体の起伏、鏤められた楽曲のヴァリエーション、ゲーム画面との相乗効果などなど、前作より数段上を行く充実した仕上がりになっている。私はこのゲームを拡張ディスク第2弾である「プロマシアの呪縛」すらリアルタイムで体験していないクチなので、音楽的には最初から本編も拡張ディスクもシームレスに聴いてきたのだが、こうしてくっきりとディスクで分けられると、はっきりとこの「ジラートの幻影」の方が充実していることがわかるのだ。

 印象的な曲は数々あれど、まず筆頭にくるべきは「ユタンガ大森林」の音楽だろう。ジャングルっぽい鬱蒼としたムードに、バラライカみたいなエキゾチックな響きのする弦楽器が絡み、異境的な雰囲気を漂わせつつ、ベースとなっているリズムは意外にもファンクっぽいリズムのテクノ的翻案だったりしているのが、まさに「架空世界の風景の箱庭化」に相応しい仕上がりだと思う。またリズムが次第に錯綜しサウンドが分厚くなって、次第に混沌としたムードになっていくあたりの構成もよく、一個のジャングル・テクノ的な作品としても楽しめてしまいそうな出来である。あと、日本人のプレイヤーに非常に受けがいいのが「聖地ジタ」の音楽、外人の場合この曲は「聴いていて眠くなる」という人が多いのだが(笑)、この曲に漂うそこはかなとない哀感のようなものが、日本人の好みにあっているのだろう。この音楽はその後拡張ディスク「アトルガン」でエジワの洞窟の場面で、これの続編のような音楽を聴かせることになる。

 あと「空」関係の音楽は、私自身がゲーム内で「空」に到達したばかりなので、あまり馴染みがない、つまりそれほど聴き込んでいないのだが、どれもエキゾチックなスケールを使い、奇妙な遠近感が寂寥感を演出するサウンドを持った曲が多く、上手に異世界的な雰囲気をかもしだしているとおもった。いくつか用意されたバトル・シーンの音楽は概ね、スケール感がアップして、前作で担当した谷岡のキャラをフォロウしたようなクラシカルな面も見せて器用なところをみせている。
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植松伸夫,水田直志&谷岡久美/Final Fatntasy XI

2007年09月25日 23時47分36秒 | サウンドトラック
 当ブログは一応音楽ブログで、それもかなり包括的に音楽を扱っているせいで、私自身様々な音楽を聴いているつもりなのだが、ここ2年くらい一番聴いた音楽というと、実はこのFFXIのサウンドトラックなのではないかと思う。なにしろここ2年ほどこのゲームやりつづけ、様々なシチュエーションでサウンド・トラックを否応なく聴いてきた訳だから、単に聴いた頻度でいうならけならダントツでトップなのは間違いない。まぁ、逆にいうと、そうした音楽であるが故に、サントラなど買って聴くまでもないと思っていたのもまた事実だし、そもそもゲームのサントラを購入するのは、私の場合決まってゲームをクリアした後なのである。ところが、本日仕事帰り某中古書店に立ち寄ったところ、これと「ジラートの幻影」が一枚1000円くらいで売りにだされていたので、ちと気紛れを起こして購入してきてみた。

 今まで全く知らなかったのだが、これのサントラはメインとなる楽曲のほとんどは水田直志が作曲し、補助的に谷岡久美、FF音楽の元祖、植松伸夫は数曲提供しているものの、ほとんど監修という立場で参加しているようだ。音楽的には毎日聴いているものが多いので特になんということもない、特段の発見も新鮮さも特には感じなかったが、あえていえば、ゲームディスクに収録された圧縮音源はなく、無圧縮で収録されたリニアな音を高級ハイファイ装置で聴くと、細部までくっきりと見渡せ、「へぇ、あそこのエリアの音楽ではこういう音が鳴ってたのねぇ」とは思った(とはいえ、私はPS2をAVアンプを繋げて5.1chで再生しているので、画面はともかく音的にはかなりリッチな環境で聴いてはいるだが)、どの楽曲も日本人らしくかなり強力に作り込まれていて、音楽の情報量、密度はかなり高いのである。しかも、どの楽曲もあまり強烈に個性を自己主張するようなことなく、ゲームの効果音の一種として、更にはオンラインゲームという性格を考慮したのか、比較的地味でかつ機能性を重視した飽きのこない仕上がりになっているのは、ある意味でさすがといえる。つまり、すぎやまこういちの「ドラクエ」とは対照的なのである。

 音楽的には、ドラマの象徴的、情念的、ドラマチックな部分は植松、このゲームで組み立てられた「世界の風景を音楽で箱庭化」する作業はもっぱら水田、そのヴァリエーションを広げるために谷岡が色を添えているというところだろうか。水田はもともとロック系のギタリストなのだろうか、アーシーでブルージーなアコスティック・サウンドをテクノ的サウンドにのっけるというような試みを随所で行っていて(「バタリアのテーマ」など)、これはこのゲームの冒険者というイメージを上手く表現していると思う。一方、谷岡は非常にクラシカルなオーケストレーションでもって壮麗なサウンドをつくっていて(「バストゥークのテーマ」など)、全般に-良い意味で-緩い水田の音楽に対して、いいスパイスになっていたと感じ、個人的に彼女の音楽はとてもいいなぁと思った。これ以降のサントラはもっぱら水田が担当しているようで、彼女の出番は目下のところないようなのだが、次のディスクでは彼女の壮麗な音楽も復活してくれたらな....などとこれを聴きながらふと感じてしまった。
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シューマン 交響曲全集/ロジェストヴェンスキー&エストニア国立SO

2007年09月24日 22時37分40秒 | クラシック(一般)
 シューマンの交響曲には、ブルックナーの版違い程ではないが、これらの曲を扱う指揮者によってスコアに改変を加えるということがよく話題になる。もっとも最近の指揮者は基本的にスコアはいじらないで演奏するようだけれど、昔はかなり好き勝手にいじくっていたらしい。その一番有名なのはなんといってもマーラーだろうが、私の大好きなセルの演奏も、かなり大胆なオーケストレーションの改変を行っての演奏だということは昔から有名だし、フルトヴェングラーとかああいう世代の指揮者になると、改変するのが当たり前だったようだ。世代的にはぐっと若いが、このロジェストヴェンスキーとエストニア国立交響楽団によるシューマンの交響曲全集は、「マーラー版の改変アイデアを多く取り入れた」とあり、ちょっと気になったの購入し、今聴いているところだ。

 一聴して確かに違う、いつも聴いているのは明らかに異なるとしかいいようがないバランスで管楽器が聴こえてきたり、やけに旋律線がくっきり聴こえてきたりするところが頻出するのだ。調べたところによると、マーラーの編曲はシューマンが重ねすぎた音の一部を排除することで、混濁するオーケスレーションの見通しをよくすることをコンセプトにしていたようだけれど、このマーラー版のアイデアを多く取り入れた演奏を聴くとなるほどと思う。聴くべき音と背景となるべき音をきっちり位置づけして、オーケストレーションを再構成したというところなのかもしれない、したがって聴こえてくる演奏のイメージはクリアそのもの、ただしシューマンらしい、ややぼんやりとしてもっさりとしたロマン性のようなものどこかにいってしまっている気もする。

 同じ改変組で、クリアすっきり派のセルの演奏はそのあたりの違和感は全くなかったのだが、どうもこのロジェストヴェンスキーでは違和感が大きいのは、スコアの改変もさることながら、やはり指揮する人のセンス+録音というものも大きくものをいっているような気がしてならない。ロジェストヴェンスキーの指揮した演奏を私はあまり聴いていなのだが、確か大昔聴いたプロコフィエフの演奏なども、非常にクリアでしかもエッジの切り立ったサウンド、理知的なクールなところと、多少荒っぽい野趣のようなものが妙に入り交じっているようなところに独特な個性を感じたものだけれど、この演奏もむしろそういうところが大きく出ているような気がするのだ。
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日本作曲家選輯/大木正夫

2007年09月23日 20時30分32秒 | クラシック(20世紀~)
 大木正夫という人は名前すら初めて聞く人だが、ネットで調べてみると、日本プロレタリア音楽運動の第一人者で、60年安保闘争の頃作られた全二部のカンタータ「人間をかえせ」は、当時けっこうなベストセラーなったというから、かなり有名な人ではあるらしい。世代的には1901年生まれ、伊福部先生より一回り半くらい年長、諸井三郎より2歳上といったところで、キャリアとしては戦前からワインガルトナー賞などとっているというから、そこそこ知名度も高い人だったということになるのだと思う。収録作は戦前の「日本狂詩曲」と戦後の交響曲第5番「ヒロシマ」の2曲となっているが、まずはこの両作品のあまりの作風の違いに驚いてしまう。

 「日本狂詩曲」はタイトルから伊福部先生のデビュー作と同じだが、ロシア・スラブ系の作曲家がよくやった自国の民族音楽を西洋流に翻案するというスタイルをそのまま日本でやったという趣である。素材的にはに日本のものだろうか、音楽的には極めて西洋的なもので、オーケストレーションなども非常に練達な印象だ。ボロディンとかスメタナ的な方法論をもうすこしモダンにした印象とでもいったらいいか。具体的にいえば、リズミカルなピアノが途中出てきたり、打楽器が活躍する錯綜するリズム....といった点は、誰が聴いてもストラヴィンスキーの「ペルーシュカ」を思わせることと思う。まぁ、ストラヴィスンスキーなどまだ前衛以外の何者でもなかった戦前の日本でこうしたモダンな作風を持っていたというのは、ある意味かなり驚異だが、まぁ、器用な日本人の面目躍如といったところなのかもしれない。

 一方、交響曲第5番「ヒロシマ」は原爆投下された広島惨状を描いた絵画にインスパイアして作曲された8つのパートからなる一種の音画である。基本的には無調以降の非常にシリアスな感じの「現代音楽」で、全編に渡りうごめくような音響のうねり、不協和音による強烈なダイナミズム、そして沈痛なムードが充満した、非常にシリアスな音響作品になっている。ただ、不遜ないい方かもしれないけれど、私のような後発のリスナーの場合、この作品の内包する重さのようなものはあまり関係なく、例えばジェリー・ゴールドスミスあたりがSF映画でよくやる音楽を楽しむが如く、緊張感が高く、確かに設計された音響美の手応えを素直に楽しん聴いた。まぁ、少なくともこの手の左翼的スタンスでありがちな、ちょい気恥ずかしくなるような説教臭い教条主義的なヒューマニズムだの、お涙頂戴式な情緒の垂れ流しみたいなものとは無縁仕上がりなのは、安心したところでもである。
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シューマン 交響曲全集/サヴァリッシュ&シュターツカペレ・ドレスデン

2007年09月22日 21時57分42秒 | クラシック(一般)
 サヴァリッシュとシュターツカペレ・ドレスデンによるシューマンの交響曲全集、今日はディスク2を聴いてみた。ディスク1はフィルアップに「序曲、スケルツォと終曲」を入れたせいで、2番が入らなかったのだろう、ディスク1に2番と比較的短い4番が入っいるので、こちらのディスクは2番と3番ということになる。いや、ひょっとすると作曲順というコンセプトで並べたら時間的にぴったりだったということなのかもしれないが....。演奏の方だが、ディスク1と同様、シンフォニックで大柄な構えではあるが、明晰さシャープさも不足しない素晴らしいパフォーマンスで、ドレスデンの重厚な音色をEMI流のナチュラルでプレーンな録音がよく捉えている。

 それにしても、このコンビの演奏を聴いていると、シューマンの音楽ってベートーベン、シューベルト、メンデルゾーンなどの伝統を背負った紛れもない正統派のドイツ音楽という感じがする。いやもちろん、他の演奏もそう感じる時は多々あったのだが、こちらはある意味でシューマンの個人様式のようものより、そうした氾ドイツ的な音楽言語というか、最大公約数的イメージでもって、押し切ったという演奏という感じがするのである。
 その意味で第2番は典型的な様相を呈していると思う。第1,4楽章はベートーベンさながら重厚な推進力、第2楽章は幻想的な面よりスケルツォという諧謔面を、第3楽章は教会音楽的なところよりは、交響曲の緩徐楽章としてのなだらか起伏を重視している感じなのだ。要するに交響曲としてのフォルムを最大限際だたせた演奏とでもいったらいいか。一方第3番も、この曲の交響詩的、音画的なところはあまり表に出さず、5楽章からなる堂々たる交響曲として演奏しているといった風情である。時にBGM的な演奏になりがちな第2楽章も実に格調高い演奏になっている。

 あと、ディスク1の方の曲だが、前述の「序曲、スケルツォと終曲」について、ちょっと書いておくと、作品58だがほぼ交響曲第1番と同時期に作曲されたらしい。全体は緩徐楽章抜きの交響曲といった感じだが、緩徐楽章を欠いているせいで、リズミカルな楽章が3つ続くことになるが、両端楽章は緩徐楽章的なところが時折出てくるので、全体としてはけっこうごつごつとした重量感ある交響的な組曲といった感じである。「序曲」は交響詩風なものものしい開始だが本編はウェーバーとか初期のベートーベンの序曲あたりを思わせる躍動感がある。「スケルツォ」はくるっくるっと回るようなリズムの主題が印象的で、このリズムはトリオにもエコーしている。「終曲」はベートーベン風に勇壮な「勝利の凱歌」的音楽で、シューマンでいうと交響曲の第2番の最終楽章をもうすこしドンパチ派手にしたような仕上がりといったところか。

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ポール・マッカートニー/フラワーズ・イン・ザ・ダート

2007年09月21日 00時44分42秒 | Beatles
 「Unplugged-The Official Bootleg」のところで、「ポール最後の大傑作」と書いた作品。自分でそう書いて思いだしたのか、再び聴きたくなってきた。レギュラー・アルバム自体はもちろん持っているのだが、昨日某ショップに赴いたところ、初回限定の2枚組ヴァージョンが700円だか、800円だかで転がっていたので(併せて「オフ・ザ・グラウンド」の初回版も)購入してきたので、久しぶり聴いてみた。うーむ、やはり傑作だ。ポールらしいメロディックなセンスは往年をしのばせるものがあるし、吹っ切れたような躍動感とコンテンポラリーなサウンドに支えられたキャッチーさは、それまでの作品のやや弛み気味だったポップさから、ぴたりとリスナーのツボをぴたりと抑えたものになっていると思う。つまり、このアルバム全体に「華」のようなものがあるのだ。

 さて、このアルバムの「華」といえば、個人的にはなんといってもエルヴィス・コステロとのコラボレーションである。ポールはコステロに前に元10ccのエリック・スチュアートともコラボをしている訳だが、誰もがいうように世代的にも資質的にもポールとあまりといえばあまりに共通点が多いスチュアートでは、「相互作用によるコラボレーションによる妙味」のようなものは生まれにくかったのだろう、「プレス・トゥ・プレイ」あたりがあまり評判がよくないのはそのあたりにも原因があったのだろう。
 そこでエルヴィス・コステロの登場と相成った訳だ。なにしろコステロといえば、ニュー・ウェイブ世代、辛口のポップ・センス、辛辣な批評眼と、万事穏やかなポールとは異質さが際だったミュージシャンな訳で、このあたりの異質さがまさにポールの狙ったところではないだろうか。ビートルズ・ナンバーの全面解禁したところで、ビートルズ的なコラボレーションを狙った訳でもないだろうが、明らかにコステロはジョン・レノン的役割を担って招聘されたのだと思う。

 結果は大成功であった。コステロとの共作は4曲「マイ・ブレイヴ・フェイス」「ユー・ウォント・ハー・トゥー」「ドント・ビー・ケアレス・ラヴ」「ザット・デイ・シズ・ゴーン」の4曲だが、「マイ・ブレイヴ・フェイス」のポール風ではなく、ビートルズ的な賑々しさや「ザット・デイ・シズ・ゴーン」でポールが久々に見せるゴスペル風なドラマチックさなど文句なしポールの傑作といいたいような佇まいがあるが、これらの作品にある微妙な緊張感や陰影といったものは、多分、コステロなしではなしえなかった世界だと思う。特に後者は個人的にポールのベスト10の入れたくなるほど好きな曲だ。
 加えていえば、「ラフ・ライド」等トレバー・ホーンが絡んだダンサンブルな曲も良い意味で刺身のツマとしてメリハリを出しているし、これらの作品にまじって収録されたポールの単独作も「ディストラクション」「ウィ・ゴット・マリード」「プット・イット・ゼア」といた佳曲ぞろいで、ずっと続くと飽きることもあるが、メリハリの中に配置されると「あぁ、ポールだなぁ」と実に心地よく響くのだ。

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Blogout@ 龍神社

2007年09月20日 20時33分12秒 | others
 本日は船橋市の海神というところにいった。京成電鉄でいったのだが、電車の中は快適なのだが、ひとたび外に出てみると、9月も後半だというのに、まるで真夏が戻ってきたように暑い。たぶん、31,2度は確実にあっただろう。残暑は去年もけっこう厳しく、都内の長期研修中もずいぶんと暑い思いをしたが、今年も相当なものである。私は汗をふきふき住宅地の中を歩いて目的地へ向かったのだが、その途中に道の途中に龍神社という小さな社があった。

 後でわかったことなのだが、この近辺は今では海などしばらく進まないと視界にすら入ず、一戸建てやマンションが林立する住宅地なのだが、昭和の初めの頃までは海岸で、しかも塩田が広がっていたらしい。仕事に赴いた先の方がもなにやら昔のことに詳しい人だったので、あらかた仕事が終わった後、雑談していたら、なんとなく昔の話しになってしまい(笑)、ご当地の江戸時代の地図などをみせてもらうことができたのだが、それを観ると確かにこのあたりは海岸で塩田があり、その中央に鎮座しているのがこの龍神社なのであった。ちと興味を感じたもので。帰り道は注意しながらそこを通ってみると、石碑にはおもしろい伝説がのっかっていた。

 要約すると、婆さんが芋を煮て食べようとしたが、石のように固くて食べられなかったので、怒ってその芋を池に投げ捨てたところ、その芋が芽を出し、何株かに成長したので、それを「石芋」と呼んだとか呼ばないとかというものだ。話の最初の方には弘法大師がその芋を食わせろと婆さんに云うくだりがあって、まぁ、そのあたりが由緒ある伝説のくだりなのだろう。今では住宅地にひっそりと立っている神社ではあるが、きっと昔はこのエリアの中心地だったのだろうな?と、さきほど見せてもらった江戸時代の地図をレイアウトを思い出しつつ、ケータイのシャッターを押した次第である。
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ハービー・ハンコック・トリオ `77

2007年09月19日 21時32分31秒 | JAZZ-Piano Trio
 ハービー・ハンコックはそのヴァーサタイルな活躍振りからすると、ことピアノ・トリオに関してはほとんど拘りがないのか、数えるほどしか作品を残していないが、このアルバムは多分彼が残した最初のピアノ・トリオ・アルバムだ。1977年、VSOPの勢いを借りて日本CBSソニーからの要請で制作されたと思われるため、メンツは当然のことながらトニー・ウィリアムス、ロン・カーターという「いつもメンツ」とも「鉄壁の布陣」ともいえる組み合わせになっている。ただし、音楽的にはグレート・ジャズ・トリオのハンク・ジョーンズがハンコックに替わったようなオーソドックスな4ビート・ジャズではなくて、4ビートと8ビートが交錯し、インプロとスコアリングされたパートの境界が曖昧な....つまり、60年代後半以降の新主流派の流儀で作られたアルバムになっている。

 1曲目の「ウォッチ・イット」は13分に及ぶ作品で、典型的な新主流派の音楽。込み入ったリズムを伴ったややシリアスなムードを持つ作品で、ハンコックのピアノもかなりアブストラクトなソロを展開しているし、ドラムもベースもある意味でラディカルなプレイである。2曲目の「スピーク・ライク・ア・チャイルド」はブルー・ノートに残した同名アルバムのタイトル・トラックの再演だが、茫洋とした印象派風なムードといった点では原曲に劣るが、この曲の思索的な面をストレートかつシンプル、そしてクリアな雰囲気で演奏していして、これはこれでなかなか気持ち良い。3曲目「ウォッチング・ウェイティング・フォー」は1曲目と同様なコンセプトで作られたに違いない後期新主流派の音楽。4曲目の「ルック」はアルバム中で一番リラックスして、奇をてらわない4ビート風の音楽。私の好みからすると1曲目や3曲目のようなギクシャクした作品よりこちらの方が数段楽しめる。5曲目はお馴染み「マイルストーン」で、こちらは期待通り、マイルス~VSOPの線でパワフルに演奏している。

 という訳で、ピアノ・トリオ・アルバムとしては今一歩という感じ。新主流派の音楽というのはモードとフュージョンの狭間にあって、フリー以外の方向性を模索した動きだったように思うけれど、ジャズ自体が袋小路に入ってしまっていたあの時代、破壊でも回帰でもない新しい音楽を作ろうとして、これ自体、絵でいったら新印象派みたいなもので、よりテクニカルで複雑、高度でプロフェッショナルな音楽ではあったけれど、一種のマニエリスム的なものだったと思う。このアルバムもそういうところが色濃く感じられ、私には少々「考えすぎ」のように感じられるのだ。
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李心潔(リー・シンチエ)/ 愛像大海[Disc2]

2007年09月18日 23時33分53秒 | 台湾のあれこれ
 一昨日、レビュウした李心潔の「愛像大海」のボーナス・ディスクである。収録曲は3曲で、うち1曲はタイトル曲のリミックスで、残り2曲は一応本編未収録の曲ということになる(おそらく旧作のリミックスだとだろう)。このくらいの量ならDisc.1の方に余裕で収録できるとは思うのだが、あえて別ディスクにして、その間に見開きのミニ写真集はさみこみ、更にはCDジャケとは別のカバーにくるんで、やたらと分厚いパッケージとして豪華な佇まいで売るというのが台湾流なのだろう。前にも書いたけれど、このあたりの初版限定豪華ヴァージョンというのは本当に楽しいし、ちょっぴりうれしい。もちろん日本にもこの手の限定パッケージはないでもないが、ミニ写真集はボーナス・ディスクはいわずもがな、シャンプーをつけたり、トランクにしてしまったり、システム手帳付きとかショップで観ているだけでもわくわくしたものだ。

 さて、アルバム「愛像大海」の本編は、台湾ニュー・ウィブ以降のテクノ&ギター・サウンドをベースにしつつも、バラードあり、アコスティック・サウンドありで、とてもポップでカラフルな仕上がりだったけれども、こちらのボーナス・ディスクはうって変わって全編ダークでモノトーンなデトロイト・テクノ風なサウンドで、李心潔自身のボーカルはもうほとんど素材に遠景に追いやられているという感じである。前回ちょっと引き合いだした中谷美紀も2枚目のアルバムのボーナスディスクでは、中谷美紀のナの字もでてこない鬱蒼としたアンビエント・テクノだったけれど、あれほどではないにしても(一応、原曲のリミックスという体裁は保っている)、ここでも坂本プロデュースのアイデアを借りたのかもしれない。ともあれ、モノクロで顔を隠したジャケが素直に納得できる仕上がりであり、台湾ニューウェイブの後の2000年頃、突如勃興した台湾テクノのすごさを改めて思いださせたりもする内容でもある。
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シューマン 交響曲全集/サヴァリッシュ&シュターツカペレ・ドレスデン

2007年09月17日 23時52分29秒 | クラシック(一般)
 8月中はボサノバなどでレビュウしていた関係上、ブログではシューマンの交響曲についてはすっかりごぶさた状態だったのだが、実はWalkmanなどでこの夏中かなり頻繁に聴いていた。ムーティ、インバル、マリナー、バーンスタイン、セルなどをとっかえひっかえ状態で聴いていた訳だけれど、個人的に一番良かったのはやはりくっきりすっきり毅然としたたたずまいセル、次いでスタイリッシュな推進力でぐいぐい進むムーティー、爽やでクセのないプレーンなマリナー、といったところが気に入った(ブラームス流にもっさりとしたインバルやウィーン・フィルは素晴らしいものの、全体に大味なバーンスタインは最近今一歩という感じるようになってきた)。今回聴いたのは、1974年にサヴァリッシュがシュターツカペレ・ドレスデンを振った全集である。

 サヴァリッシュというドイツの指揮者は日本ではN響の指揮者というイメージもあるが、個人的には60年代前半のバイロイトのワーグナーやフィリップスに残した一連のブラームスなどで見せた、オーソドックスなドイツ的安定感をベースに、モダンなシャープさと理知的なセンスでもって音楽を作る人みたいな印象の方が強い。特に60年代初頭の頃、フィリップスに残した何枚かのアルバムはワーグナーばかりが有名だが、ウィーン・シンフォニーを振ったブラームスの2番あたりは、セル以上にクリアでかつドイツ的な雰囲気にも不足しないけっこうな名演だったと思う。ただ全体としてみると、どうもメジャー・レーベルでの盤歴に恵まれないせいか(オルフェオに残したブルックナーとか良かったが)、レコードやCDでのイメージはいまひとつで、やはり彼の代表盤というと、EMIに残したこのアルバムあたりになるような気がする。

 さて、このシューマンの交響曲全集、まだディスク1を聴いたばかりだが、一聴してとても気に入った。このアルバムは定評ある名盤として、いろいろなところで取り上げられているが、それが納得できる仕上がりである。おそらく誰もがいうところだろうが、ごくごくまっとうドイツ流にオーソドックスな演奏で、奇をてらったところなどどこにもないのだが、多分、サバリッシュの主知的なセンスがものをいっているのだろう、ふっくらとして十二分にシンフォニックな響きにもかかわらず、きびきびしたリズムと曖昧さがないディテールによって、シューマン的な情感を表現しきっているという感じなのである。うーむ、これはセルと並び称されるべき演奏のような気がする。
 なお、ドレスデンのシンフォニックで雄大なサウンドとそれを捉えたEMI録音特有な絹ごしな音調が実にマッチしていてこれまた魅力的だ。
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SACDの音 [3]

2007年09月16日 15時07分27秒 | PC+AUDIO
 ちょい前に話題に出したアシュケナージ指揮によるマーラーの第7番のHDCD盤を入手したので、SACD盤と聴き比べをしてみた。印象としては、空間表現と音の滑らかさみたいなところでSACDが優れているという感じである。これの差を例えると、ちょうどMDやMP3で聴いたソースをオリジナルのCDで聴いた時に音質向上感に近いものがあるといったところか。SACDを長時間聴いた後、CDを聴くと、高音に特有の鋭さというかある種のざらつきのようなものを感じるし、弱音部での音の細やかさみたいなところが、粗雑に聴こえてくるという感じなのだ。とはいえ、それも数分も聴けば慣れてしまう程度の落差ではあるのだが....。

 思うに、SACD化して聴き映えがするのは、やはりアナログ録音ではないだろうか、このところ聴いた一連のSACDではマイルスの「フォア・アンド・モア」やブーレーズの「春の祭典」といったアナログ録音の方が、明らかに音質のグレードが上がっていることを実感できるというか、「やはりCDの音質には限界があったんだねぇ~」と思える音質になっているので不思議だ。やはり現行のデジタル録音は未だにマルチビット方式だからそのあたりでいろいろ問題あるのだろうか?。
 ともあれ、リッチな音ではある>SACD(2002年1月13日(日)22時33分)

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まぁ、今思うと「フォア・アンド・モア」や「春の祭典」で感心した音質のグレードアップというのは、SACDという器の恩恵もさることながら、やはりその時に施したリマスタリング&リミックスの効果というのも大きかったという気がします。なにしろ、「春の祭典」などCDで聴いても前のものとは全く違った音に聴こえましたから。
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