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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

ガーシュウィン 管弦楽作品集/ワイルド、フィードラー&ボストン・ポップス

2010年06月18日 23時44分43秒 | クラシック(20世紀~)
 映画「巴里のアメリカ人」のHD用にレストアされた映像の素晴らしさを満喫したついでに、あそこで大々的に使われたいた、ガーシュウィンのオーケストラ用の音楽を久しぶりに聴いてみたくなった。私はガーシュウィンの作ったスタンダード・ナンバーや「ラプソディー・イン・ブルー」ならいざしらず、彼が作ったこの手の曲には日頃ほとんど縁がない身なので、自宅のコレクションにこれがあるかどうか怪しかったが、一枚や二枚ならきっと…とばかりに、分散したCDのあちこち探してみたら、ようやくこの演奏(ついでにプレヴィンとLSOも)が見つかった。さして聴くあてがなくとも、買っておけばこういう時に役にたつのである(笑)。

 さて、「巴里のアメリカ人」を観て驚いたのは、映画の終盤ではこれをほぼ全曲を流した上で、約18分に渡る長大なダンス・シーンを形成していた点で(当然セリフや切れ目は一切なし)、さながら交響的バレエの如き様相を呈していたことだ。まぁ、ディズニーの「ファンタジア」を実写でやってしまったようなものといえないこともないが、曲自体はほとんどカオスのように、次々に様々な楽想が繰り出され、時に現実音(車のクラクションとかざわめきとか)を模写したようなサウンドまで登場するだけに、これに物語の終盤に相応しいストーリーをはめ込んで、一連のダンス・シーンとして再構築するのはさぞや試行錯誤しただろう…と感心してしまった。ついでにいえば、この曲随所にラヴェルやストラヴィンスキーの影響を感じさせるオーケストレーションが施され、モダンな響きが充満しているせいで、当時のダンス・ミュージックとしては、おそらくかなり前衛的なものだったろうとも、改めて思ったりもした。

 演奏はさすがに往年のゴールデン・コンビな面目躍如たる快調なものである。フィードラーとボストン・ポップスは50年代のアメリカのライト・クラシックの分野では一斉を風靡した名コンビだが(ちなみにこれの後を継いだのがジョン・ウィリアムス)、この底抜けに楽天的で開放的なアメリカ音楽を、まさにそれに相応しい賑々しさて演奏しているという感じである。クラシックとして聴くにはややけたたましいところはあるものの、この曲はやはりこうやって聴くもの…と素直に納得してしまう。ルンバのリズムを使った「キューバ序曲」なども、ラテンのリズムの熱狂やエキゾチックな雰囲気など、ライトクラシック的な気軽さをよく表現していた思う。
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バーバー 管弦楽作品集 第6巻/オールソップ&ロイヤル・スコッティシュ・ナショナルO

2010年06月03日 23時07分30秒 | クラシック(20世紀~)
・キャプリコーン協奏曲
 スラヴィンスキーみたいなシニカルさ、苦味があるバーバー流の新古典派風作品。ただし、ありがちな晦渋で低回気味なところが延々と続くようなことはなく、全体はキビキビとして颯爽と進み、ある種の爽快感も横溢しているので、聴いていてとても気持ちが良い。バーバーの作品としてはけっこうカタログが充実している作品だが、それも納得できる魅力を持って作品だと思う。

・歌劇「ブリッジ遊び」
たった10分間で完結するやけに小規模な歌劇である。しかもいきなりラウンジの情景を彷彿とさせる4ビート・ジャズのムードで始まる。筋書きは不明だが、おそらくカジノかなにかで、ブリッジをする4人の虚々実々の心理戦のようなものを描写しているのではないだろうか。登場人物は4人、前述の通り時間は短いが、盛り込まれた音楽的情報量はなかなかのものである。

・バッハからの突然変異
金管アンサンブルによる5分半ほどの作品で、なんでも歌劇「アントニーとクレオパトラ」の初演が酷評され、傷心のバーバーがアルプス山麓に隠遁生活を送っていた時に作られたらしい。バッハの荘厳なモチーフを使い、壮麗さ広がりを感じさせる仕上がりになっている。確かに絶望の中から明るい光を希求するような音楽だ。

・歌劇「ヴァネッサ」から間奏曲
 鄙びた抒情が横溢するいかにもバーバーらしい作品。前半は木管とハープのアルペジオの絡み、中盤からは弦がちょっとエキゾチックな旋律を奏でる。全体は「管弦楽のエッセイ」に近い雰囲気が感じられる。

・オーボエと弦楽のためのカンツォネッタ
 タイトル通りオーボエと弦のための作品で、雰囲気としてはV協の第二楽章の近い雰囲気がある。つまり、温度感の低いやや悲痛な面持ちもあるが、その淡々とした中から得も言われぬ抒情がわき上がってくるという出で立ちである。つまり、これもまた極めてバーバー的な抒情が出た作品。

・過ぎ去りし情景のファドグラフ
 70年代に作曲されたもので、「管弦楽のエッセイ3」などと同じ頃の作品。ただし、ああしたシニカルさはあまりなく、多少低回気味なところはあるものの、オーボエとハープによる開幕から、終始神秘なムードで進んでいくスタティックな作品となっている。
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バーバー 管弦楽作品集 第5巻/オールソップ&ロイヤル・スコッティシュ・ナショナルO

2010年04月27日 20時45分39秒 | クラシック(20世紀~)
・ノックスヴィル~1915年の夏
 テネシー州にあるノックスビルという街で過ごした子供の頃の思い出を綴ったジェイムズ・エイジーの詩にバーバーが音楽をつけた曲とのことである。訳詞をみると、原典はノスタルジックな散文詩のようなものであり、音楽の方もそれに沿ってソプラノをリリカルな美しさとオケのゆったりとしたサウンドを生かし、あまりドラマチックなところはないが、ヴァイオリン協奏曲と相通じるようなノスタルジックな抒情を随所に見せた仕上がりになっている。
 ソプラノの少年という設定なので、歌そのものが非常に清涼感を湛えていて、そのリリカルな美しさは歌手にとって腕の見せ所になっているのか、アメリカ人のソプラノはこぞって歌いたがる曲でもあるようだ。バーバーは時にシリアスで晦渋な面も見せるが、本作はそういう部分があまりなく、大変美しくかつまた聴きやすい作品になっている。訳詞を読みながら聴くと、さらにその美しさを味わえそうな曲でもある。

・管弦楽の管弦楽のためのエッセイ第2番。第3番
 第2番は冒頭展開される夜明けの田園風景を描写したような冒頭が、第1番に負けず劣らず魅力的だ。しかも、管弦楽はより巧緻にもなっていている。ただその後の展開は、やや一筋縄ではいかないような複雑さのようなものがあり、漫然と聴いているとどこにいるのか分からなくところがある。オールソップはいつも通り、冒頭部分などはふっくらとして実に美しい丹念な演奏を聴かせている。
 第3番は以前にも書いたとおり、作曲時期がこれだけぐっと後年になるためか、抒情的に曲が開始された2曲と異なり、開幕でいきなりリズムが乱舞し、パーカスの鋭い響きが随所に聴こえてくる。もちろん、前の2曲の線ともいえる田園風な音楽もやがて聴こえてはくるのだが、どことなく苦みが感じられる。演奏の方は、鋭角的なリズムがフィーチャーされた曲故、以前聴いたスラトキンとセントルイス響の演奏に比べると、この演奏はややおっとりと構えている感じで、約2分も長くかけて演奏している。それなり克明な足取りがあるのだが、やはりリズムのシャープさは多少後退気味という感じがする。

・祝典トッカータ
 この曲はオーマンディとフィラデルフィア管を想定して作曲されたらしい。なるほどあのコンビに相応しい豪快でパワフルなオーケストラ・ピースになっている。しかもこの曲にはパイプ・オルガンが加わっており、パイプ・オルガン特有に荘重でややエキセントリックな響きがスパイスとなって、ユニークな響きが充満した作品にもなっている。
 曲はトッカータらしくダイナミックなリズムを使った動的な部分とバーバーらしい鄙びた風情の音楽が交互に出てくる感じで進むのだが、中間部などオルガンのヴィルトゥオーゾ的なフレーズが登場するし、オーケストラの方も打楽器、金管を動員し、華麗なオーケストラ・サウンドを満喫できる仕上がりだ。ラストなどまるで「スターウォーズ」のように締めくくられ、かなりのハリウッド調といった風情だが、聴きどころになっているのは間違いない。
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バーバー 管弦楽作品集 第4巻/オールソップ&ロイヤル・スコッティシュ・ナショナルO 他

2010年04月15日 22時36分52秒 | クラシック(20世紀~)
・ピアノ協奏曲
 第1楽章はいきなりピアノ独奏からスタート、華麗なフレーズを次々に繰り出していくと、途中からオーケストラ加わり、華やいだやりとりでもって進行していく。基本的はチェロ協などと同じで、おおむね古典的な形式によってはいるが、聴こえてくる音楽はかなりモダンな響きに満ち満ちているという感じ。もっともあそこまで晦渋ではなく、この曲の場合、プロコフィエフみたいなスポーティーと名技性さがあるので、ある程度は聴きやすさもある。
 第2楽章は切れ切れに散りばめられモチーフやそのその乾いたな響きのせいで、モダンな雰囲気を醸し出してはいる。また、ピアノに様々なソロ楽器が細かく絡むあたりはエキゾチックな趣きもあったりするが、全体としてはかなり静謐なムードをもって進んでいくこともあり、大筋としてはバーバーらしい抒情的緩徐楽章といっていいだろう。
 第3楽章はこれまたプロコ的な野趣を感じさせる音楽。執拗なリズムの繰り返しは、原始主義的なところもあり、不気味なパワーを醸しだしているし、金管の咆哮も賑々しく、まさに野趣満々といった雰囲気がある。ただし、脳天気に明るい訳でも、単にパワーで押し切る訳でもなく、なんとなくヒンデミットを聴いているような晦渋さもある。構成としてはロンド風にテーマが再現しつつ進行するが、最後はもの凄く難しそうな華々しいピアノのパッセージが連打して大団円を迎える。

・クリスマスに
 1960年に作ったバーバーの比較的後の方の作品。どういう目的で書かれたのかはわからないものの、クラシックを題材にしたらしい単体の作品で、第3巻の組曲「遠足」と似たようなライトクラシック風な作品になっている。なにしろクリスマスがテーマで、渋いところが選ばれてはいるが、お馴染みの旋律もいくつか登場するともなれば、聴きやすさやファンタスティック美しさはひとしおである。また、長さも17分ほどあるため、ちいさな交響詩のような量感もあって楽しめる。


・メディアの瞑想と復讐の踊り
 作品23の組曲版は第2巻に収録されていたが、こちらはその更に短縮版ともいえる作品23aで、既にスラトキンとセントルイス響の演奏を聴いているところだが、きちんこちらのヴァージョンも収録されているところはさすがナクソスといったところか。演奏時間に30分近くかかり、やや晦渋なところもあった組曲版に比べ、こちらは約14分でかなり、こちらは瞑想的な前半、劇的な後半と構成としてもメリハリがはっきりしているから、非常に聴きやすい音楽になっている。オールソップの演奏はスラトキンと比較すると、歌い回しもすっきりしていて、より淡泊な印象である。

・コマンド行進曲
 3分ほどの短い曲。ハリウッドというよりは、どちらといえとイギリスの戦争映画のサントラみたいな雰囲気。映画音楽というにはもう堅実な感じがする音楽。ある意味、ウォルトンが作った映画音楽などにも近いかもしれない。もっとも、後半に全開するオプティミズムいっぱいのダイナミズムはいかにもアメリカという雰囲気であるが。
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バーバー 管弦楽作品集 第3巻/オールソップ&ロイヤル・スコッティシュ・ナショナルO

2010年04月13日 21時27分41秒 | クラシック(20世紀~)
・ヴァイオリン協奏曲
 協奏曲的な対立や競合というより、ゆったりとした空間を作り出すオーケストラの中で、ヴァオリンを自在に泳ぎ回るといった演奏。オールソップの指揮振りは相変わらず力感やシャープさといったものより、女性らしい細やかな神経を感じさせる指揮振りで、ふんわりとした柔らかなオーケストラ・サウンドになっている。なにしろ、曲がこういう抒情が勝ったものだけに、この指揮者の特質が良い方向に作用しているのだろう、特に第2楽章など水彩画を見るような美しさがあり、なかなかの好演奏だ。ヴァイオリンのジェームス・バスウェルは初めて聴く人だが、流麗で良く歌いつつも、よくコントロールされた歌い回しでオーケストラの良く調和した演奏になっている。

・バレエ組曲「思い出」
 どういう筋書きのバレエなのかは不明だが、この組曲は全体的にライトクラシック風な音楽で、気取ったレストランなどで流れていたら似合いそうな、上品でモダンなセンスが横溢した作品になっている。「ワルツ」はR.シュトラウスを思い切りあっさりさせたようなワルツで、「パ・ドゥ・ドゥ」は物憂げなムードに彩られたしっとりした作品。「タンゴ」は、新古典派風な乾いたユーモアがいいスパイスになった不思議な心地よさがある作品で、どれも極上の映画音楽を聴いているような魅力がある。残りのリズミカルな3曲もそれぞれ楽しい出来だ。それにしてもこういう音楽であったから、バレエの物語はきっと現代を舞台にした、ソープオペラ風のものであったに違いない。そういう意味でも音楽が多少ハリウッド風なるのは当然というべきなのだろう。

・弦楽セレナード
 疑似バロック風な衣を纏ったメランコリックな音楽。タイトルやスタイルからしてチャイコの同曲に影響を受けたのは明らかだが、意外にもバーバー風な抒情はあまり出てこず、モダンで響きが随所に聴かれる。第一楽章は第一主題はなかなかの抒情味だが、他の主題はけっこうバーバー流の「変な感じ」がある。第二楽章は夜想曲風のしっとりした音楽だがやはり、新古典派風なシニカルなところも感じられる、バルトークなどにも近い。第三楽章は前半は擬古典的な舞踏曲風の明るい音楽で、スケルツォとフィナーレを合体したような作りになっているのだろうが、トリオに相当するところでやはり変な感じになる。ちなみに本作は作品番号1、つまりバーバー最初の作品である。こんな小規模で比較的軽い曲でデビューしたというのは彼らしいというべきなのだろうか。

・シェリーによる一場面のための音楽
 「シェリー」が何を意味するのは不明だが、出典元が何もクレジットされてないことから大規模なバレエなどから抜粋した音楽ではなく、単体で作曲された一種の交響詩のようなものだと思われる。音楽はほの暗い瞑想的な導入から、次第にミステリアスな音楽へと発展していく。中間部は瑞々しい抒情はバーバーらしいものだが、そのピークでダイナミックな後半に雪崩れ込む構成になっている。かなりティンパニのドロドロ、金管の咆哮などおどろおどろしい感じだが、この部分は何故かあっという間に終わってしまい、再び瞑想的な音楽で幕を閉じる。
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バーバー 管弦楽作品集 第2巻/オールソップ&ロイヤル・スコッティシュ・ナショナルO

2010年03月27日 20時16分40秒 | クラシック(20世紀~)
・チェロ協奏曲
 イッサーリスとスラトキンが組んだものに続いて二つめの演奏。この曲はバーバーにしてはかなり大きな構えの作品で、それほどガチガチにシリアスな訳でもないが、それなりに晦渋さも高めの作品になっている。またチェロにはかなり特殊な奏法らしきものも要求しているようで、聴き慣れない音色が随所に出てくる。第1楽章は民族風に始まりが、エキゾチックな旋律なども織り交ぜて進行するが、一筋縄ではいかない複雑さがある。8分過ぎからのカデンツァはかなりモダンなテクニカルさがある。第2楽章は、バーバーらしい抒情に満ちた楽章で、晦渋な前楽章に比べればかなり聴きやすい仕上がり。ソロ楽器がチェロなせいか、主題にせよサウンドにせよ全体に地味ではあるが、落ち着きある音楽で安らかに聴くことができる。
 第3楽章はかなりダイナミックな音楽で、さぞやチェリストにとっては難しいであろう、テクニカルなフレーズが頻出する。全体は彼の交響曲などにも共通するダイナミックな感じだが、やや無調的な響きも随所にあるのはヴァイオリン協奏曲と似ていなくもない。ただし、こちらは10分近くあるので、一気呵成という訳にはいかず、また、あちこち寄り道しながら進んでいくようなところがあるので、ヴァイオリン協奏曲のような突き抜けた感はイマイチだが。ちなみにチェロはウェンディ・ワーナーという女流で、彼女のセンスなのか、オールソップなのか、よくわからないが、イッサーリスとスラトキンのものに比べ、最終楽章は1分近く長い演奏になっている、

・バレエ音楽メディア
 こちらはバレエ音楽からの組曲、スラトキンのアルバムには「メディアの瞑想と復讐の踊り」というタイトルの曲が収録されていたが、この組曲の後半から更に改訂抜粋されて作られようである。バレエの内容は不明だが、なんとなくサロメを思わせる古代風な趣に感じた。1曲目の「パロドス」は古代風なエキゾチックなリズム(シロフォンの固い響きが印象的)と旋律でもって、古代風の雰囲気を盛り上げる。第2曲「コロス、メデイアとイアソン」は、情景風な音楽で乾いた木管の響きと弦が絡みあってじわじわ進行する。第3曲は「若き王女/イアソン」は、スケルツォ風なリズムにのって、田園的でファンタジックな音楽が展開、後半はファンファーレ風な音楽だ。
 第4曲「コロス II」、第5曲「メデイア」そして、第6曲「カンティコス/アゴニアス」は、「メディアの瞑想と復讐の踊り」となった部分と思われる。「コロス II」はタイトル通り瞑想風な音楽で異国風な音階が心地よいリラクゼーションを誘う。「メデイア」はドラマのハイライトに向けじわじわと盛り上がっていく、後半は嵐のような展開となる。「カンティコス/アゴニアス」は、新ウィーン風な無調音楽。7曲目の「エクソドス」は再びファンファーレ風な音楽で金管が活躍。全曲でこれがラストに来るのかどうかは不明だが、冒頭の主題なども回帰して、大規模作品として体裁を整えている。

・弦楽のためのアダージョ
 7分50秒弱でサクサク進む、ほとんど胃もたれしない演奏。深刻味も悲愴感もそこそこだが、ここではむしろ幾重にも絡み合う、線が織りなす美しさを全面に出しているようだ。とにかくすっきりとした演奏で、ともすればザッハリッヒな感じになるところを、ここではロイヤル・スコティッシュのややくぐもった柔らい響きが、すっきり感を中和する方向で作用して、全体としてはいい感じの仕上りになっている。バーンスタインのようなこってりした演奏もいいが、これはこれで悪くないと思った。
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バーバー 管弦楽作品集 第1巻/オールソップ&ロイヤル・スコッティシュ・ナショナルO

2010年03月22日 14時11分05秒 | クラシック(20世紀~)
 ナクソスのシリーズ「アメリカン・クラシックス」の一枚。さすがにバーバーは大作曲家という位置づけなのか、主要な管弦楽曲を全てフォローする勢いで、現在まで5,6巻までいっているようだ(ついでにピアノ曲集も購入した)。これはその第1巻である。指揮は全巻を通じて、最近ぼちぼち女流指揮者では出世頭ともいえるマリン・オールソップ(なにしろ、メジャーオケのボルティモア交響楽団の音楽監督というから凄い)、オケはヴァレーズ・サラヴァンデのサントラでお馴染み、ロイヤル・スコッティ・ナショナルッシュ管弦楽団である。先日聴きながらツイートしたログを元に収録曲をメモしておきたい。

・序曲「悪口学校」
 スラトキンとセントルイス響の演奏を聴いたばかりだが、かなり落ち払った風情で演奏している(逆に言えば、スラトキンはかなり推進力と迫力に富んだ演奏だったということになる)。冒頭の賑々しい第一主題の後に登場する田園風景が広がるような第二主題では、なかなか詩情溢れる演奏を展開。先入観かもしれないが、木管の歌わせ方、バランスとなどの美しさは女性ならではのもの....なのかもしれない。

・交響曲第1番
 こちらはかねてから注目していた交響曲。スタンダードな交響曲の4楽章を、例えばシェーンベルクの室内交響曲みたいな感じで、1楽章にまとめたスタイルをとっている模様。第1部は交響詩風なけっこう劇的な風情で進み(非常にアメリカ的....というか、ハリウッド映画っぽい)、第2部はプロコかショスタコかといった感じのモダンな軽快なスケルツォで間奏曲風に進む。木管を中心した楽器のリレーションがかなりテクニカルでおもしろい。
 第3部はほの暗い抒情が横溢するバーバーらしい音楽。冒頭、クラリネットのソロにハープが絡むあたりの美しさは絶品。弦を中心した半音階風の場面も良く、ハイライトではRシュトラウスの「ツァラトゥストラ」ばりのドラマチックな展開となる。第4部はパッサカリアのようだ。金管を重層的な響きを中心に嵐の如く進み、これまで登場したもろもろの主題が再現するあたりはなかなかの構築度である。

・管弦楽のためのエッセイ第1番
 これもスラトキンとセントルイス響の演奏を聴いたばかり。全体に入念というか、かなり慎重な語り口で演奏を進めている印象で、重厚さはほどほどだが、この曲のほの暗い抒情みたいなところはいいムードで演奏している。ただし、途中スケルツォ風になる動的な部分など、決して重いわけではないのだが、いささかもっさりした感なくもなく、この部分の複音楽的なおもしろさは、今一歩という感がある。

・交響曲第2番
 作曲者自ら破棄したらしい作品。第一部はドラマチックで激烈な部分とバーバーらしい民族的な鄙びた部分が複雑に交錯する。作曲家が語りたい音楽の風景のようなものは、たぶん第1番のそれとほぼ同じような世界だと思うが、こちらの方がより響きがモダンだし(新古典的な響きが随所にあね)、とっ散らかっている感はあるものの、戦争交響曲的なオーケストラ・ピースとしてはなかなかの迫力。
 第2部はバーバーらしい田園の風情に心地よい冷気のような抒情をプラスしたような音楽。でも、時に無調にも近寄ったりするのは、作曲した1944年という時代故なのかもしれない。そういえば「管弦楽のためのエッセイ」も1942年に発表された第3番ではかなりモダンな音楽になっていた。第3部はバルトークのオケコンの最後みたいな派手な音楽で、金管も活躍してなかなか爽快。
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バーバー ヴァイオリン協奏曲/ハーン、ウォルフ&セントポールCO

2010年03月19日 23時24分47秒 | クラシック(20世紀~)
 さて、バーバーのヴァイオリン協奏曲の真打ちと、個人的に睨んで購入してきたのが、このヒラリー・ハーンによる演奏だ。彼女の個性といったら、まずは機械の様に正確無比なテクニック、ある種アメリカ的といってもいいような屈託していない明るさのようなもの、そして情緒面ではむしろストイックともいえる端正な表情を見せるあたりにある思う。こうした個性を考える、バーバーの温度感の低い、自然主義的なおおらかさに繊細なリリシズムが混ざり込んだよう音楽は、まさに彼女にうってつけではないか....と考えた訳である。
 で、実際に聴いてみると、これが頭で描いていた以上にぴったりなのであった。ヒラリー・ハーンといえば、しばらく前にエルガーの協奏曲を聴いたけれど、彼女のクールな情緒は、あの重厚な曲を前にしてそれがいささか裏目に出たところが感じられないでもなかったけれど、バーバーのようなら音楽なら、そういう不足感は全くなく、まさに知情意が全て揃った理想的な演奏のように感じられる。第一楽章では冒頭の歌い出しから、例によって、粒立ちがパーフェクトに揃った均質なフレージングから、この曲の早春のような風情を、実に女性らしい優美さでもって表現している。

 第二楽章では、彼女のコントロールの効いたストイックな情緒が際だった美しさを発揮している。この楽章はなんなら映画音楽のように情緒たっぷりに演奏することだって、ひとつの解釈としてはありえるとは思うのだが、ハーンの場合、中間部の比較的情感的に昂ぶるようなところも、そのプロポーションを乱すことなく、まるでアポロのように均整のとれた演奏に終始している。こうした演奏の所作が楽曲キャラクターを全く裏切っていない点は、まさにこの演奏の妙なる部分であろうと思う。
 第三楽章はある意味、この演奏のハイライトだ。この無調で作られた、やや捉えどころがない楽章を彼女は、その輝かしいテクニックでまるでメンデルゾーンのそれの最終楽章のような名技性たっぷり、極上のエンターテイメントにしてしまっている。この曲の演奏も既に何種類か聴いてきた訳だけれど、この最終楽章の音楽的おもしろさ、あるいは音楽としてのハイライトや魅力をこれほど解き明かした演奏もないのではないか。そのくらいこの演奏はハーンの独壇場である。これまで最終楽章の「座りの悪さ」のようなものは何度か書いてきたところだが、この演奏についてはそうした違和感はほぼ雲散霧消である。という訳で、この演奏、全編に渡って素晴らしいとしか云いようがないもので、ますますヒラリー・ファンが昂じてしまいそうである。
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バーバー ヴァイオリン協奏曲/竹澤,スラトキン&セントルイスSO

2010年03月18日 23時29分35秒 | クラシック(20世紀~)
 バーバー関連で注文してあった数枚のうちの一枚。ヴァイオリンは竹澤恭子、伴奏は先日聴いたオリヴェイラと同じくスラトキンとセントルイス響である、オリヴェイラから8年後の1994年の録音となる。ちなみにこの演奏を選んできたのかといえば、Twitter上でバーバーをあれこれつぶやいていたところ、親切な方が推薦してくれたからで、オリヴェイラとヒラリー・ハーンに加えてこれも購入したという訳だ。ああいう場所での生の声といか、忌憚のない意見というのは、建前になりがちだったり、演奏の意義面を強調しがちな、書籍やWebサイトのブログなどの意見より、ある意味「信用できる」と思っているので、今回はバーバーというほとんど未知な音楽家ということもあって、ほとんど迷わず購入してしまった。

 さて、本演奏だが、ほとんど一聴して引き込まれた。竹澤恭子というヴァオリニストは始めて聴く人だが、実に楚々とした女性らしい風情と、それでいてどことなく芯もありそうなフレージングが、バーバーの音楽と自然に溶け合っている感じで、とても魅力的だったのである。先日聴いたオリヴェイラの演奏がどちらかというとオーケストラの中にヴァイオリンがやや埋もれてしまっていたようなところがないでもなかったのだが、こちらは録音のせいもあるだろうが、やや華奢な風情とはいえ、ヴァイオリンの音色がきりりと立っていて、オケとのやりとりも丁寧だが、鋭敏さのようなものもあり、この曲が協奏曲であることも十全に感じさせてくれるところも、またよかった。
 また、8年後の再録音ということで、スラトキンとセントルイス響も熟成したのだろう、オケの響きもスケール感と深味を増している感じで、オケの見せ所である第二楽章冒頭はオなど、実に素晴らしい響きを聴かせてくれる。また、中間部あたりの竹澤のヴァイオリンは、竹澤の楚々とした中にも情熱も感じさせ、その朗々とした歌いぶりが実に胸に染みったりもする。

 また、精力的で錯綜した最終楽章では、オケとヴァイオリン共々この難曲(なのだろう、きっと)を、ファットなオーケストラ・サウンドに包まれて(スラトキンも最後で爆発といったところだろうか)、竹澤も派手ではないが、危なげのない安定感でなんなく乗り切っているという感じであり、適度な名技性という点でも楽しい演奏になっている。終盤のホットさも中々のもので、この楽章に当初感じていた座りの悪い、しかも唐突感のようなものが、この演奏ではかなり自然な感じもする(単に「慣れ」の問題かもしれないが)。
 という訳で、これはシャハム、オリヴェイラに比べると、これは一番好みのバーバーだ。ちなみに、こういう曲では当然ヒラリー・ハーンのキャラクターにも合っているだろう、最終楽章など、あの高分解能なヒラリー・ハーンがテクニック最高度に威力を発揮しそうで、今からその演奏を聴くのも楽しみにもないってきた。
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バーバー 管弦楽のためのエッセイ/スラトキン&セントルイスSO

2010年03月14日 22時05分43秒 | クラシック(20世紀~)
 昨日はヴァイオリン協奏曲だけしか聴くことができなかったが、先ほどの休日の午後のリラックス・タイムを利用してEMIのバーバー作品集(2枚組)の全てをじっくりき聴いてみた。クラシックで、しかも初めて聴く曲ばかりのアルバムとなると、途中で注意力が散漫になったりするのだが、今回は1曲聴いてはTwitter上にメモ替わりにツイートしていくことが励み(?)になったのか、最後までしっかりと聴き通すことができた。
 もちろんバーバーという、過渡にシリアスな方向に傾かない作曲家のキャラクターも幸いしているだろう。これらの作品の中でまず印象に残ったのは「管弦楽のためのエッセイ(全3曲)」である。「エッセイ」という楽曲スタイルははバーバー独自のもののようで、交響詩のように標題がある訳はないが、ソナタ形式によるきっちりとした管弦楽曲とも違う、まさに管弦楽による散文のようなものを意図しているのだろう。

 まず第1番だが、冒頭から繰り広げられる暗い情緒が印象的だ。チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」の4楽章風の如き趣きもある曲だが、バーバーのそれはもっと瑞々しい瑞々しいリリシズムがあり、なにか既視感に訴えるような懐かしさがあるのが特徴といえるかもしれない。また、聴いていると、どういう訳か、50年代イタリア映画のサントラを思い出したもする。途中、ブラスが咆哮を伴って一時嵐のようになる部分があり、すぐに冒頭の主題が回帰すると、今度はちょっとプロコフィエフのスケルツォを思わせる動的な部分が登場して、展開部のように発展してそのハイライトでメインの主題が回帰するという流れになっている。構成的にはよく分からない部分があるが、とにかく冒頭で広がる暗い抒情に引き込まれる作品だ。
 続く、第2番も冒頭はほとんど1番と同じ世界が展開されるが、こちらはもう少し山あり谷あり構成で、全体にメリハリとダイナミズムが増した印象を受ける(1番同様にスケルツォ風な音楽がここでも登場する)。また、ハリウッド映画音楽的なある種俗っぽい壮麗さとモダンな響きがダイナミックに交錯するのがおもしろい。アメリカの雄大の自然のもと、つつましく暮らしている人間が大自然に翻弄されるような映画に使えそうな音楽である。

 最後の第3番は作品番号がかなり離れてる、調べて見るとバーバー最後の作品で初演はズビン・メータとニューヨーク・フィルが1978年に行っているというから、かなり最近の作品である(先行した2曲は1940年代前半に書かれている)。そのせいもあってか、叙情的な雰囲気の勝った1や2番と比べると、新古典派風な乾いた響き、打楽器が繰り出す鋭角的なリズムがかなりモダンな雰囲気を醸し出している。従来のバーバー的な抒情も、途中ここぞというところで登場するけれど、全体としてはやや神経症的にぴりぴりとしたところがあり、このあたり作曲家が晩年に抱いた現代を見つめる視点だったのかもしれない。
 という訳で、全3曲、どれもさほど難解でもなく、比較的とっつきやすい曲ばかりなので、とても楽しめた。特に第1番のひんやりとしたリリシズムは印象的だった。あと、それと同じ線で、久しぶりに聴いた「弦楽のためのアダージョ」がことのほか堪能できたことも付け加えておきたい。通俗名曲の類かと思ってたけど、実に素晴らしい曲であったことを再認識した。
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バーバー ヴァイオリン協奏曲/オリヴェイラ,スラトキン&セントルイスSO

2010年03月13日 23時47分01秒 | クラシック(20世紀~)
 一昨日、ひょんなきっかけで聴き始めたバーバーのヴァイオリン協奏曲だが、この2,3日というものかなり頻繁に聴いてきたおかげで、大分気に入ってきた。第1楽章冒頭淡い色彩で始まる広がりを感じさせる田園風景な部分や第2楽章のやはり冒頭木枯らし吹く冬の情景のようなオーボエの旋律とそのリレーといったところは、実に親しみやすくすぐに体に馴染んでしまったという感じである。また、一昨日聴いた時は、コルンドルトの同曲と似た立ち位置にある「遅れてやってきたロマン派の協奏曲」みたいイメージが強かったのだけれど、何回か聴いているうちに、コルンゴルトよりは「先を見ていた」曲というイメージで、ロマン派的な音楽をベースにしつつも、随所にモダンな響きを取り入れて、もっと現代性を身に纏っていた音楽なのだな....という気もしてきた。

 さて、この曲がイケそうな気配なので、お決まりの聴き比べ開始である。もっとも先日も書いたとおり、この曲はシャハムが演奏したもの一種類しか持っていなかったので、とりあえず数枚のアルバムをアマゾンで購入した。まず聴いているのが、このEMIの廉価盤シリーズの一組である「バーバー作品集」である。2枚組でヴァイオリン協奏曲の他、有名な「アダージョ」や主要な管弦楽曲や一部室内楽なども収録している。お目当てのヴァイオリン協奏曲は、エルマー・オリヴェイラのヴァイオリンにレナード・スラットキンとセントルイス交響楽団が伴奏を務めた演奏だ(1986年収録)。私はそもそも指揮のスラットキンからして馴染み薄だが、オリヴェイラといったら多分初めて聴くことになるだろう。よく分からないがメジャー・レーベルにガンガン新譜を吹き込んでいるような人ではないようだ。いずれにしてもアメリカ人であるのは間違いないようで、スラトキン、セントルイス響共々いわば「おらが音楽」という名演が期待できる組み合わせだ。

 一聴した感触としては、この曲の淡彩なところを全面に押し出したような演奏という印象だ。前述の通り、ソリスト、指揮者、オケ共にアメリカ人だから、ハリウッド風なメリハリあるダイナミックな演奏かと予想していたのだが、大違いでちょっと驚いてしまった。それと録音のバランスのせいなのかもしれないが、ややヴァイオリンの音像が遠目で、なんだか聴いている印象としては、コンマスがソロをとるヴァイオリン独奏付きの交響詩を聴いているような気にもなってくる演奏ともいえる。この2枚組にはスラットキンとセントルイス交響楽団が演奏する管弦楽作品が多数収録されてところからして、この演奏もきっとこのコンビによるーバー管弦楽曲集という一貫として収録されたのだろう。それならこのバランスも納得できようものだ。ともあれ、非常にスタティックでなだらかな起伏の演奏である。スラトキンは「アメリカのリッカルド・シャイー」みたいなところもある人だが、これなどそういうところが良く出た穏健な演奏といえるかもしれない。

 また、前述のようにヴァイオリンもオケにひっそりと寄り添っている風情であり、最終楽章ではきっちりと技巧的な冴えを感じさせたりはするけれど、全般的にはあまり突出したところは見せない印象だ。ともあれ、この演奏を聴くと、ハリウッド映画的なダイナミズムやメリハリという点では、前に聴いたシャハムとプレヴィンの方が遙かにそういったセンスを持った演奏だったことがわかる。ただ、なんていうんのだろう、そのあたりが未だよくわからないけれど、虚飾を廃し禁欲的で、かつ内向的な趣きが強い....というあたりがバーバーの音楽の特徴だとすれば、スラトキンの演奏の方が、その特徴を良く伝えているのは確かなような気がした。
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バーバー ヴァイオリン協奏曲/シャハム,プレヴィン&LSO

2010年03月11日 23時29分05秒 | クラシック(20世紀~)
 バーバーというと、私は有名な「アダージョ」くらいしか知らないのだが、このところ偶然ではあろうが、Twitterのタイムラインであちこち見かけたもので、思い立って聴いてみることにした。幸いなことに、シャハムがコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲を入れたアルバムに収録されていたので(バックは当然プレヴィンとLSOだ)、改めて購入する必要がなかったのはありがたい。さっそく聴いてみた。
 第一楽章は広々とした草原を望むようなパースペクティブから開始、冒頭からヴァイオリンが絡み、甘くセンチメンタルな抒情が横溢している。一聴した印象としては、コルンゴルトの同曲のセンチメンタリズムをもうすこし北欧風な温度感にした音楽という感じもする。また、実験的な色彩やシリアスな風情といったものはほとんどなく、モダンな響きに混じって、時に映画音楽風な大衆性をちらほらさせるのはいかにもアメリカの作曲家らしいところだろう。楽章中盤ではドラマチックに盛り上がり、ヴァイオリンも切々伸びやかに旋律を歌いいいムードになっている。ただ、アレグロでぐいぐいと盛り上がるような音楽ではないので、めくるめくようなヴァイオリンの名技性という点では今一歩かもしれない。

 第2楽章は「木枯らしの中ひとりたたずむ....」といった風情のオーケストラに、哀愁を感じさせるオーボエの旋律に始まり、それをオーケストラが引き継ぎ、ゆっくりと進んでいく。やがて現れる第二主題の方はやや情熱的で、時に無調的な響きに接近したりもするが、全体としてはごくまっとうなロマン派風な装いの悲劇的緩徐楽章といった風情であり(私の唯一知っている「アダージョ」と似たような苦味というか渋い雰囲気も感じられる)、エルガーのヴァイオリン協奏曲などに比べれば遙かに「わかりやい」というか、この作曲家は音楽で何を言いたいのかが、よく分かる音楽ともいえる。
 最終楽章は4分弱の短い楽章で、ここで一気に華麗なるヴァイオリンの技巧が披露されるという感じ。音楽的には叙情的な前2楽章に対し、ベートーベン流の「暗から明へ」のパターンとは少し違った、曲はややシニカルで乾いた楽章でフィナーレを迎えるという印象が強い。しかも、第1楽章は10分、第2楽章は8分半の後だから、なにやらあっという間に終わってしまうという感があり、最後の楽章はちと座りが悪いかな....という感じもなくはない。ともあれ、一聴した印象だから、聴き込んでいけばいろいろ印象も変わることと思う、しばらくは何度か繰り返し聴いてみることにしてみたい。
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日本作曲家選輯/深井史郎

2010年02月21日 21時20分18秒 | クラシック(20世紀~)
 けっこう溜め込んでしまった日本作曲家選輯シリーズ、今回は深井史郎を聴いてみた。もちろん始めて聴く人である。ライナーを読んでみると、前回取り上げた須賀田礒太郎などと同世代の明治40年生まれの作曲家で、主として戦前に活躍した人らしい。ドイツロマン派を信奉する当時の日本のアカデミズムとは距離を置いた作曲家でもあったらしく、当時の最先端モードである、ストラヴィンスキーやラヴェルに影響を受けた曲を作ったということだ。
 そうした特質というか、音楽的傾向は本アルバムは冒頭に収録された「パロディ的な4楽章」によく現れていて、各々の楽章が「ファリア」、「ストラヴィスキー」、「ラヴェル」、「ルーセル」と付けられていることからも良く分かる。もっとも、実際聴いて見ると、確かに楽章毎に該当する作曲家を思わせるところはあるのだが(ファリアとルーセルは良く分からないが....)、現代の感覚からすればパロディといった印象はあまり強くなく、あくまで深井のオリジナル作品といった趣で、聴こえてきたり見えてくるのは、日本的な淡彩な抒情だったり、鄙びた田園風景だったりするのだが....。

 その意味で、2つ目に収録されたバレエ音楽「創造」の方が、そのコンセプトといい、規模といい、深井史郎という作曲家の持ち味がよく出ているのではないか。この曲は須賀田の「交響的序曲」などと同様、皇紀祝典2600年にちなんだ作品らしく、日本神話のイザナギ・イナザミの日本創造をテーマにしているようだが、原始の混沌を思わせる第1景から、次々に生物が誕生するダイナミズムをリズミカルに描いた第2景、生命が誕生した後の息吹を感じさせる静かな冒頭から次第に生命の凱歌のよう発展していくのような第3景と、ある意味交響詩としても非常に分かりやすい曲になっている。
 もちろん、時にストラヴィンスキーの「火の鳥」やラヴェルの「ダフネスとクロエ」を思わせるところもあるが(今も昔もオリジナルの物真似寸前になってしまうのは、日本的特性なのか-笑)、基本的に淡麗な管弦楽で、欧米のそれに比べれば、いかにもあっさりしている日本神話の風景を、その特色を生かしてストレートに描いているという感じである。こうしたモダンな管弦楽を用いながらも、そこから聴こえてくるのは、意外に健全で穏やかな知性のようで、そのあたりに深井史郎という作曲家の持ち味を感じたりもした。

 なお、3つ目の「ジャワの唄声」はラヴェルの「ボレロ」風な反復を主体とした作品だ。ここでも聴こえてくるのはあくまでもトラディショナルな日本情緒で、前回とりあげた須賀田の「東洋の舞姫」と同様に、非常にポピュラリティーのある、まるで映画音楽のような仕上がりになっている(「ボレロ」のような終盤の盛り上がりはない)。そういえば、深井史郎は戦前に沢山の映画音楽を書いたようで、中でも時代劇などではずいぶん生彩のある音楽をつけていたようだが、一体どんな音楽をつけていたのだろうか。このアルバムの音楽から感じられる、意外のまっとうな感性からすれば、時代劇などさぞや明朗闊達な音楽をつけていたことだろう。興味あるところである。

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日本作曲家選輯/須賀田礒太郎

2009年12月14日 14時10分40秒 | クラシック(20世紀~)
 そういえば最近は日本作曲家選輯を聴いてなかったな....と、ちょっと調べてみたら、前回の大澤壽人のディスクを取り上げたのが2007年の11月、かれこれ2年も空いてしまっていたことになる。このシリーズは音楽面はもちろんだが、知的歴史探究みたいな点でもおもしろく、決してお義理で聴いているような代物ではないのだが、ついつい置いてけぼりをしてしまう。当方が音楽的つまみ食いが過ぎてる故だろう、もっと時間が....いや、明晰な頭脳と記憶力が欲しい(笑)。さて、このディスクの主は須賀田礒太郎という人だが、もちろん始めて聞く人である。なんでも第二次大戦前の登場し、当時はかなり高い評価を得ていた人らしいのだが、戦後、音楽のトレンドが変わり、自身が1952年に亡くなっていることも手伝って、全く再評価されることなく忘れ去れてしまっていたらしい。従って、本ディスクのほとんどが世界初録音である。

 収録曲は全部で4つ。1曲目の「交響的序曲」は1939年に作曲されたもので、先に取り上げた橋本の交響曲第1番、大澤の交響曲第3番と同じく、皇紀祝典2600年にちなんだ作品らしい。序奏部がついた単一楽章物となっていて、「紀元節」のモチーフを見え隠れさせつつ序奏部が進み、やがて祝典的な本編に入っていくという趣向である。序奏部は非常に長く(全体の半分はある)、純和風な趣を重厚だがやや焦点がないようなヒンデミット風なサウンドで表現し、アレグロの本編はやはりヒンデミットやショスターヴィチのようなモダンな軽快さがある音楽で、その頂点で「紀元節」が登場する仕掛けになっている。それにしても、この人に限らないが、当時の日本でこのような「機会音楽」がどのように扱われ、また聴いた人はどんな印象をもったのだろう。2曲目の「双龍交遊之舞」は1940年の作品で、これも皇紀祝典2600年にちなんで作曲されたものらしいが、国家的行事向けにやや気負ってつくられた感じの「交響的序曲」のスクウェアさに比べると、こちらは非常にシンプルな作品だ。日本的な雅楽を印象派、あるいはロシア、スラブ風のオーケストレーションで表現したといった趣だが、こうした音楽的傾向は、例えば伊福部先生もそうしたところがあったし、きっと戦前のトレンドだったのだろう。

 3曲目のバレエ音楽「生命の律動」は戦後の1950年に作られた晩年の作品で、ストラヴィンスキーの三大バレーのボキャブラリーを使って、日本的な旋律や情緒を表現している作品になっている。第1部の不気味な序奏は「春の祭典」風、続く主部では「ペトルーシュカ」や「火の鳥」のような情景描写が現れる。続く、第2部、第3部も「春の祭典」的な導入から、「ペトルーシュカ」の情景風な音楽というパターンで進んでいく。もちろん、スラヴィンスキー的とはいっても、そこに表現されているのは日本的な淡泊な世界であり、肉食的なしつこさや凶暴さみたいなものは注意深く避けられている。特にリズム面はむしろ凡庸といいたい程まともである。とはいえ、ここまで似ていると、ちと物真似というかコピーみたいな感じがしてしまう。私のような素人が聴いてもそうなのだから、おそらく専門家が聴いたら感じるかと思ってしまうが、ライナーを読むと、「これはこれでポストモダン的作風の先取り」旨のことが書いてある、なるほど、そう聴けばおもしろいかもしれない。「東洋の舞姫」は1941年に作られたバレエ組曲からの一曲、これだけ初録音でないことからすると、昔からこれだけは有名なのかもしれない。曲は良くも悪しくも戦前の映画音楽かポピュラー・ミュージックみたいなムードがあって、そのエキゾチックな雰囲気は馴染みやすい世界を作っている。
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ハンソン 交響曲 第2番「ロマンティック」/ハンソン&ロチェスターO

2009年12月08日 23時34分54秒 | クラシック(20世紀~)
 ハンソンの交響曲第2番は、少し前の9月中頃に「エイリアン」のサントラ絡みで、スラトキンがセントルイスを振ったものをダウンロード購入して、繰り返し聴いていたが、やはり作曲者自身による自作自演盤を聴きたくなって、その直後に購入してはみたものの、お決まりの放置状態になっていたので、思い立って先ほどから聴いているところである。一聴した印象としては、「けっこうあっさりしているな」という感じ。ストラヴィンスキーの自作自演などもそうらしいが、作曲者自身が演奏した演奏というのは、何故だか妙にインテンポでせかせか演奏したり、そっけなかったりするものが多いようだが、これも割とそういう感が強い。前にも書いた通り、ハンソンは指揮者としてもけっこう活躍していた人だから、指揮の技術が足りなくて舌足らずな演奏になってしまったのでは、たぶんないだろう。作曲家自身は「この曲はかくあるべし」と思って演奏している訳だ。

 もっとも、私がこれまで聴いて来たスラトキンの演奏は90年代のもので、きっとあの演奏の語り口が巧すぎるというところもあると思う。こちらの演奏は58年ということで、あまりこの曲のロマンティックさを滔々と開陳するような時代でもなかったのだろう。なにしろジョージ・セルやフリッツ・ライナー、同じマーキュリーではアンタル・ドラティらの新古典派流な低カロリーな演奏がスタンダードだった時期である。冒頭のちょっと緊張感ある序奏から、けっこうさっさと流していくし、各楽章に循環する主題も実にすっきりと演奏している。「エイリアン」のエンドタイトルに使用された第1楽章のコーダの部分もスラトキンな比べると、その早めのテンポにはちと違和感を覚えるほどだ、第2、第3楽章も同様。まぁ、一概に新しい演奏がいいとばかりはいえないにしても、聴いていていると、30年という月日はずいぶんと演奏スタイルを変えてしまうものだな....と感じてしまった。

 ちなみに録音は1958年、この時期はステレオ最初期にあたるが、さすがにマーキュリーである。同じ頃のドラティの「ペトルーシュカ」などと同じく、高域が多少頭打ちなところ、全体に潤いに乏しいところがたまに傷だが、解像度の高さ、芯が感じられる音の密度感は、今聴いても1958年とは到底思えないクウォリティだと思う。少なくとも同じころのデッカやグラモフォンに比べれば、解像度やダイナミックの広さという点では、それらの一段上をいく音質ではある。これで1964年だったら、更にレンジが広がり、聴き映えがしただろうに....とちと残念ではあるが。
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