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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

マーラー 交響曲第10番(ピアノ独奏版)/クリストファー・ホワイト

2010年05月23日 16時50分41秒 | マーラー+新ウィーン
 マーラーの交響曲第10番のピアノ独奏版。もちろん、マーラー自身はそんなスコアは残していない。これはロナルド・スティーヴンソンというスコットランドの作曲家が第1楽章の編曲をし、残りの楽章は例のデリック・クックの復元版を元に、これを弾いているピアニストであるクリストファー・ホワイト自身が編曲したものである(ちなみにホワイトはスティーヴンソンの弟子とのこと)。
 これが一体、どんな経緯でこれが編曲、録音されたのか私はよく知らないのだが、クレムスキによるビアノ独奏版の「アダージェット(「19世紀のピアノ・トランスクリプション」に収録)」やコチシュが弾いたやはりピアノ独奏版の「トリスタンとイゾルデから前奏曲と愛の死」とかが、大好きな当方としては、これもかなり興味ある編曲であることは間違いない。

 では、一聴して気がついたことでもあれこれ書いてみたい。第1楽章については素晴らしい。オーケストラでないから、ああいう幽玄な趣きとかスケール感はないけれど、この曲の厭世的な気分についてはよく伝わってくるし、なだらかな流れの中から時にピアニスティックな響きが立ち上るあたりは、ちょっとスクリャービンみたいな感触もあったりする。もっとも例の最後の審判みたいな壮大に不協和音が鳴り渡る部分は、さすがにピアノだとちんまりとしてしまっているが。
 第2楽章はまさにこの曲の骨格を聴いている感じ。かなり錯綜した音の流れがここでは実にすっきりと聴こえてきて、オーケストラの演奏からはあまりよく聴こえてこない声部などもくっきりと浮かび上がってきたりもする。ただ、これは復元版の問題なのか、ホワイトによる編曲のせいなのかよくわからないのだけれど、全体に律儀にピアノに置き換えてはいるのものの、ピアノならではのおもしろさが生かし切っていないような印象もうける。。

 第3楽章はほぼ第2楽章と同様な印象だが、原曲そのものが短くコンパクトにまとまっているため、この演奏でもビアノ小品のような感じである。第4楽章はテンポも早く変化に富んだ楽章なので、ピアノもその機動性をいかしてフットワークの軽い音楽に作り替えている。トリオの部分ではふと印象派風な響きがしたりしてカラフルな演奏になっている。
 最後の第5楽章は繋ぎの部分の大太鼓を当然ピアノで代行するため、ちと迫力不足は否めない。また原曲でもこの楽章はかなり完成度の低い、ちと全体をまとめあぐねたような音楽になっているため、それをピアノで敷衍するとなると、更に苦しい感じもなくはなくはないが、2分過ぎあたりからメインの主題が登場して、しばらくしっとりと進んでいくあたりは、ピアノだと非常にモダンな音楽に聴こえるところもあり悪くないと思う。ただ、その後ムードが冒頭に戻り、スケルツォなど楽想があれやこれや交錯し、やがて「復活」を思わせる壮大な部分になると、ちとこぢんまりとしてしまうのは否めないところではあるが。
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マーラー 交響曲第9番/若杉弘&NHKSO

2010年02月07日 22時55分30秒 | マーラー+新ウィーン
 昨年の7月に亡くなった若杉弘への追悼番組としてアンコール放送された第1575回N響定期の映像である(これが彼の最後のN響出演らしい)。若杉弘という指揮者はメジャーなレコードやCDに恵まれなかったせいで、私は彼の指揮した演奏というのにほとんど接したことがないのだが(ArteNovaに残したベートーベンの交響曲第3番くらいか)、もともとドイツ・オーストリアの歌劇場を本拠として活動し、ワーグナーを筆頭に後期ロマン派を得意としていたらしい....ということは、私がクラシックに耽溺していた80年代でも、海の向こうから聞こえてきたことであり、晩年の彼が振ったマーラーの9番(もう一曲はウェーベルンの「パッサカリア」)ということで、興味津々という感じで視聴してみた。

 マーラーの9番はマーラーのおそらく最高位の傑作のひとつで、4つの楽章の両端に緩徐楽章を置き、中間部にふたつのスケルツォ的な楽章が挟まった、いささか特異なスタイルをとっている訳だけれど(チャイコフスキーの「悲愴」の前例に倣ったのかも)、若杉の指揮は明らかに最終楽章にハイライトを置いた演奏だった。この曲は第一楽章を全体のハイライトにする演奏もけっこうあるのだが(その代表格はカラヤンとBPOだろう)、彼の場合、第1楽章はあくまでも壮大な導入部、第2楽章のレントラー風の音楽、そして第3楽章のロンドと、徐々に緊張感を高めていき、告別的な第4楽章でもって最大のクライマックスを築くといった流れだったように思う。さりげないといってもいいくらいの第1楽章に比べ、第4楽章はあまり激しさはないが、気合いの入った指揮振りといい、はりつめたようなテンションはなかなかの熱気、情熱を感じさせた。

 ただ、なんていうか。「日本人指揮者と日本のオケによるマーラー演奏」という、当方の先入観も大きいのか。全体にあっさりして、あまりにも淡泊な演奏というきらいがあったのも事実だ。これは小澤のマーラーにも往々に感じるのだけれど、マーラー的なしつこさ、くどさ、そして振幅の激しさといったものが後退し、やけにお行儀の良くスマートだが、ちと食い足りないような演奏になっているような気がした。実際視聴している時は、こういう角を丸めた純音楽的な演奏というと、クーベリックあたりに近いかな....とか思って、さきほどクーベリックの演奏を聴いてみたが、若杉に比べれば遙かに肉食的でこってり感があったと感じたくらいだ。そんな訳で、全体としては、第4楽章は熱演なのだが、それまでの3つの楽章がとち低カロリーすぎたといったところだろうか。
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シェーンベルク 山鳩の歌/ブーレーズ、ノーマン&EIC

2010年01月19日 00時33分10秒 | マーラー+新ウィーン
 このお正月にシェーンベルクの「グレの歌」をウィグルスワース指揮ベルギー王立歌劇場管弦楽団その他で演奏した映像を観て以来、実はあれこれとCDを聴いているところなのだけれど、単独でよく聴くのがこれだ。「山鳩の歌」というのは「グレの歌」の第1部の最後に置かれた山鳩に扮したメゾ・ソプラノによって、現世での主人公のふたりの悲劇的顛末が歌われる曲のことだが、シェーンベルクはこの悲しみ湛えた曲を気に入ったのか、後年、大規模な管弦楽を簡素な室内管弦楽に縮小し、単独の楽曲として編曲している。実際にこれを単独演奏したCDはあまり沢山はないようだが、ジェシー・ノーマンの歌にブーレーズとアンサンブル・アンテルコンタンポランが伴奏を付けたこの演奏は、その少ない演奏例のようである(少なくとも、自宅にはアサートンが振った演奏があるくらいか?)。

 「山鳩の歌」は「グレの歌」の1パートとしても魅力的だが、こうして単独で聴いてもなかなか素晴らしいものがある。オリジナルはあまり派手ではないが、芳醇としかいいようがない絶妙な色合いの管弦楽がバックについている訳だけれど、こちらは伴奏を小規模な室内楽に編曲しているだけあって、全体としてはリートみたいな落ち着いた風情とこれを編曲した時のシェーンベルクの音楽的嗜好と無縁ではなさそうな、新古典主義的なある種の乾いた感触を持ち、かつクリアな響きを持ったオーケストレーション(木管の響きがいかにもそれ的、ブーレーズとアンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏の威力も大だろうが)が独特の効果を上げている。オリジナル版が間近に起きた出来事を生々しく伝えていたような風情だったとすると、こちらは悲痛な回顧録を聞くようなモノクロ的な雰囲気があるとでもいったらいいか。

 ジェシー・ノーマンはこれかなり力強い凛々しい声で歌っている。大管弦楽が伴奏ならもう少しリリカルな声の方が雰囲気があると思うが(実際、そういう例が多いのではないか)、こういう伴奏なら彼女の豊かな声が実に合っている。後半転調してから終盤の絶叫的な部分などは、素晴らしい緊張感とドラマチックさがあり、すっかり聴き惚れてしまった。さて、なにしろ「グレの歌」というのは長い曲なので、聴き比べをしたいと思いつつ、それをするとかなると、けっこうな大作業となってしまいそうなのだが、とりあえず「山鳩の歌」の部分だけなら、10数分なのでけっこう敷居が低そうだ。うーむ、今度、やってみようかな。
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シェーンベルク「グレの歌」第2,3部/ウィグルスワース&ベルギー王立歌劇場O他

2010年01月02日 17時09分35秒 | マーラー+新ウィーン
 巨大な両端にサンドイッチされた第2部はわずか4分たらずである。登場するのはワルデマールのみ、第1部の主題をいくつか回想しつつ、トーベを失った絶望と悲嘆にくれた彼が神を呪い非難する場面である。ワルデマールを演じるステファン・グールドは見た目らかしてヘルデン・テノールっぽくていい、なにしろここからは彼が主役だ(最後のいいところは語り部にもってがれるが-笑)。いずれにしても、この後ワルデマールは現世的には死に、第三部では幽霊となってグレを彷徨うことになるので、独立しているのだろう。これまた極小から極大へ行き交うロマン派最終ステージならではのやり口といえるかもしれない。

 第3部はワーグナー風に「ジークフリート」か「神々の黄昏」風の序奏でスタート。すぐさま亡霊となったワルデマールが同じく死した家臣どもを引き連れて、神の復讐するためグレに攻め込む様が絵かがれる。映像付きでみると例の「10本のホルン」が壮観だ。続く農民の歌は、ワルデマールの騎行におののく様が歌われる。途中、舞台の裏に並んだ合唱団が「ホッラー!」とかけ声を1回だけやるところがあるが(それだけのために!)、ここでもそのように行われていたかどうか、映像には映らなかった。第3曲は亡霊の家臣達が、最後の審判まで狩りをし続けることを歌っている。当然、男性合唱団によるものだが、劇的でかなり複雑そうなポリフォニーを、ぞくぞくするような凄い迫力で歌っている。こうした迫力は映像付きなら、やはり数段スレートに伝わってくる気がする。
 第4曲はワルデマールによるトーベの追想、音楽的にも第1部のロマンティックなムードが回帰する。第三部を交響曲に見立てるとすると緩徐楽章に相当するパートとともいえなくもない。で、前曲が緩徐楽章とすると第5曲はスケルツォという感じだ。今度は道化師のクラウスという新しい登場人物によって歌われるが、ロマン派以降を感じさせるモダンなオーケストレーションが乾いたユーモアが印象的だ(第三部のオーケスレーションはシェーンベルクが無調時代に入ってから行われた)。

 第6,7曲は神々に攻め入る様がワルデマール(第6曲)とその家臣(第7曲)によって歌われる。当然、4楽章の交響曲というフォーマットに倣うなら、これは最終楽章ということなるだろうが、あまり壮絶なドラマチックさを展開する訳ではなく(そういうところもあるが)、比較的暗い決意表明のような感じである。何故かといえば、朝も近づき彼はやがて浄化されてしまい、この後、本当のクライマックスがこの後続くからである。
 これ以降の3曲(第8,9,10曲)はこの第3部のフィナーレであると同時のこの大曲の全体の総まとめのようになっている。徐々に明かりが差してくるようなオーケストラの序奏(第8曲)に続いて、ハイライトである語り部のパートとなる。例のシュプレッヒ・ゲザングといいう語りと歌の中間をいくようなものだが、これをブリギッテ・ファスベンダーがやっている。ブリギッテ・ファスベンダーで女声の語り部というのは珍しいのではないか。この語り部のパートは枯れきった老人声でやってこそという気がしないでもないが、これはこれで別の音楽的感興がある。ともあれこのパートを浄化された主人公の魂が脇から語られ、ラストの大合唱団による本当のハイライトとなる訳だ。いずれにしても、この最後の2パートは、-聴く時を選びはするが-何度聴いて感激する。今回は映像付きでその高揚感もひとしおである。指揮者もオケ、歌手陣も大熱演で、正月のひととき、この大曲をおおいに堪能させてもらったという感じである。
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シェーンベルク「グレの歌」第1部/ウィグルスワース&ベルギー王立歌劇場O他

2010年01月02日 17時09分21秒 | マーラー+新ウィーン
 昨年の正月は「トリスタンとイゾルデ」だったけれど、今年は「グレの歌」を観てみることにした。この4月にNHKで放送されたもので、マーク・ウィグルスワースがベルギー王立モネ劇場管弦楽団他を振り、ブリギッテ・ファスベンダーなど歌手を揃えて、2007年にアムステルダム・コンセルトヘボウで上演されたものだ。「グレの歌」といえば、シェーンベルクによる「ロマン派の総括」と呼ぶに相応しい畢生の大作であり、数百人の編成、これをオペラ、歌曲集、オラトリオ、カンタータといった要素をハイブリッドしたような形式で物語を展開させていく、膨大な音楽的情報量を包含した巨大な作品である。
 私はこの作品を昔からけっこう愛好していて、これまでかなりの数のCDを購入してきたが)、その独特な形式故なのか、ストーリーが把握しづらい、音楽的ハイライトがよくわからないところも正直いってなくもなく、いまいち作品を身近に感じることができないうらみもあったのて、映像付きで観れるとは千載一遇とばかりに録画してあったもので、さすがに映像付きだと音楽がよく「見える」のはうれしい限り。演奏シーンの邪魔にならない程度にストーリーを暗示するイメージ映像が出るのもいいい。

 前奏のラヴェルの「ダフネ」を思わせるキラキラした前奏(第1曲)での巧みな楽器のリレーションなど、耳だけだとなかなかすーすー流れていってしまうものだが、こうやって映像で見せてもらえると、聴くべきポイントがよく分かるという感じだ。前奏のムードをそのまま引き継いぎ、調度対になっている感もある幸福感に満ちたワルデマールとトーベの最初の歌(第2,3曲)は穏やかだが、随所になんともいえない世紀末的な美しさがにじみ出ていて陶酔的である(特に第2曲の最後はまるでハリウッド調)。第4曲の冒頭はかなり表現主義的な強烈な響きである。ワルデマールがトーベに逢いに馬を走らせている場面だが、風雲急を告げ的な音楽になっているのは、その後の展開を暗示しているのだろう。オーケストラが凱歌のようなムードに変わると、第5曲のトーベの歌となる。これも後半は賑々しい響きとなる。
 第6,7曲は出会った2人の愛の語らいといったところだろうか、前のセクションと併せてさながら「トリスタンとイゾルデ」の2幕の逢瀬の場面を彷彿とさせる。第8,9曲は、ムードに暗雲が漂い始めたりもするが、当然、トリスタン風の音楽だ。第10曲は一連の「愛の場面」のフィナーレに相当する曲で、ワルデマールによって歌われる。続く第11曲はオーケストラのみによる間奏曲。前曲のムードをそのまま引き継いで始まり、次第に激しさと陶酔感を増しつつ、これまで登場した主題やモチーフを次々と登場させていく様は、さながらソナタの展開部のようで、大管弦楽好きの私には「うー、こりゃ、たまらんなぁ」的な音楽になっている。ベルギー王立歌劇場管弦楽団はちともっさりしたところがないでもないが、まずまずの力演だ。

 第12曲は有名な「山鳩の歌」である。単独の歌曲としても演奏されるこの曲でもって、このふたりの現世での悲劇的顛末(ワルデマール王妃によってトーベが殺害、ワルでマールの悲嘆等)が語られることになる訳だ。当事者同士がピンポイントで物語りを進行させ、そのハイライトでもって、いきなり端折り方(?)をして第1部を終わらせてしまうというのはなかなかおもしろい。「愛の場面」を交互の歌の連なりとして表現した前の場面もそうだが、こういうのはロマン派最終期ならではの絡め手なのであろう。
 ちなみに、トーベ役のアンネ・シュヴァンネヴィルムスは第9曲が最後だが、割と癖のない素直な歌いぷりに、もっと劇的に歌う人もいるのだろうが、オペラの劇性とはちょいと違ったところで成立した曲なので、このあたりが頃合いだという、言い方もできるだろう。山鳩役のアンナ・ラーションはまさに歌曲といった感じの端正な歌である(最後のテンションは凄いが)。という訳でまだ第1部が終わったばかりだが、長くなったので第2部以降は別項にて続けたい。
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ベルク ヴァイオリン協奏曲/ムター、レヴァイン&CSO

2009年12月27日 21時54分13秒 | マーラー+新ウィーン
 この曲、5つ目の演奏である。ムターがレヴァインとシカゴ響を従えて1992年に収録した演奏だが、非常に大雑把な言い方をすると、グリュミオーとマルケヴィチの演奏の関係が逆になったような演奏....という印象を受けた。つまりここでのオーケストラは美麗で精緻、ほどほどに甘美で万事破綻がないのに対し、ヴァイオリンはこの作品に非常な緊張感と厳しい姿勢でなりふり構わず対峙しているようであり、両者の姿勢は共通しているというよりは、むしろ対照的な様相を呈しているのだけれど、それが故にユニークな協演となったというか、協奏曲的なおもしろさが出た演奏となったように思えるからだ。

 もう少し詳しく書くと、オーケストラは演奏はほぼ全編に渡って緻密で安定感があり、とにかくパーフェクトな印象である。ベルクの曲はあまりにもオーケストラ・サウンドが錯綜しているためか、全体としては混濁して聴こえようなことがしばしばあるけれど、この演奏ではそのあたりの見通しが良く、細部に渡って非常にクリアな印象だが、この手の演奏にありがちな冷たさとか分析過剰な演奏になる一歩手前で、オーソドックスな演奏の枠に留めているのは、レヴァインの手腕が生きているといったところだろう(ベルクにしてはちと整然としすぎて、やや透明感がありすぎるような気がしないでもないが)。また、ドラマチックな場面では(特に2部出だしなど)、獰猛ともいえるパワフルさが顔を出すのは、さすがシカゴといったところだ。

 一方、ムターのヴァイオリンは、あまりに生真面目で律儀だったコルンゴルトの協奏曲のような例もあったので、こういう作品ではどうかなと思ったが、甘さや世紀末的なムードは薄いものの、この曲のレクイエム的な面、あるいは悲劇的な側面を非常に真摯に表現しており、彼女独特のごつごつとしたフレージングがほとんど違和感なかったのが意外だった。とにかく非常に聴き応えのある重量感のある演奏だ。そんな訳で、オーケストラとヴァイオリンが、反対の方向を向いたような演奏であるにもかかわらず、聴こえてくる音楽が非常に充実しているのは、やはり協奏曲というフォーマット故のことなのかもしれない。個人的にはこの演奏、グリュミオーとマルケヴィチのものに次いで気に入ったものとなった。
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ベルク ヴァイオリン協奏曲/クレメール,デイヴィス&バイエルンRSO

2009年12月11日 22時49分44秒 | マーラー+新ウィーン
 ベルクのヴァイオリン協奏曲もこれで4つめ、当時ヴァオリンの鬼才として名を馳せたギドン・クレメールに、クーベリックの後任としてバイエルンの首席となったコリン・デイヴィスとバイエルン放送響の組み合わせで1984年に収録されたので、これもかれこれ四半世紀前の演奏となってしまったが、なにしろ先日のシゲティとミトロプーロスから1945年、グリュミオーやシェリングでも1970年代中盤の収録だったので、私のもっている同曲の演奏ではかなり新しい方に属するものとなる。1984年といえば、既にデジタル録音が一般化して、フォーマットもCDに移行しはじめた頃だと思うけれど、この演奏もデジタル録音の威力が良くでた、高SN比、高解像度、自然なホールトーンという、かなり物理特性を稼いだ録音で、演奏がどうの、解釈がこうで....とかいう前に、まずはこれまでとは段違いに優れた録音の良さが印象的だ。ベルクといえば、オーケストラの響きがやたらと分厚く錯綜しており、古い録音だとたいてい飽和して聴こえがちだったけれど、この演奏では、ヴァイオリンも含め、全体が実にナチュラルに聴こえてくるのである。

 こうした感触は、おそらくクレメールとデイヴィスという組み合わせによるものも大きいのだろう。クレメールのヴァイオリンは冒頭からほとんど神経質と形容したいような面持ちで演奏されていて、特に弱音の使い方、やけに温度感の低い表情など、ほとんどこの曲の叙情的、ロマン派的なムードが一蹴したような雰囲気すら漂う。またデイヴィスの方も元々主情的などという形容とは対極にある律儀で中庸な実に英国らしく演奏をする人だと思うから、ここではクレメールに神妙に付き合っているという感じである。まぁ、そんな演奏なので、この曲の持つ「スタティックな美しさ」を追求した演奏としては随一といってもいいかもしれない。おそらく、演奏自体のクウォリティも完璧に域に達しているだろう。ただ、ベルクの音楽特有の狂おしいような情念、ロマン派の極北のようなある種の饐えたようなムード....、そういった、私がこの曲に求めているものは、この演奏の場合、ちと後方に追いやりすぎている気がするのは私だけだろうか。「あぁ、きれいだなぁ」「整っていてうつくしいなぁ」とは思うけれど、曲の背後にあるドラマは真に盛り上がらない....と感じてしまうのだ。
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ベルク ヴァイオリン協奏曲/シゲティ,ミトロプーロス&NBCSO

2009年12月03日 23時00分08秒 | マーラー+新ウィーン
 こちらは、ぐっと遡って1945年収録にされた往年の名演奏である。ヨゼフ・シゲティにディミトリス・ミトロプーロスという過度なロマン性を配した原典主義、新古典派主義的の巨匠たちの組合わせである。1945年といえば、原曲が作られてから10年やそこいらの時期であり、同曲はほとんど完全な現代音楽だったはずだから、さぞやキリキリと締め上げたストイックで即物的な演奏か....と、びくびくしながら聴いたところ、意外や意外、-ことヴァイオリンに関していえば-同曲のロマン派的な側面にスポットを当てたような演奏であった。これに比べれば、昨夜聴いた、シェリングの謹厳実直な演奏の方が、よほど即物的でゲンダイオンガク的な感じがしたほどだ。

 もちろん、シゲティのヴァイオリンはグリミョオーのような甘美さ、流麗さはなく、どちらかといわずとも、なにやら角張っていて、ゴツゴツとした、いかめしい風情が漂う演奏なのだけれど、無骨な中にも非常な緊張感と、マジャール的といったらいいのか、とにかく白か黒か的な熱気があって、それがこの作品に潜むドラマを実にホットに伝えているように思うのだ。第2楽章冒頭のソロなど、超絶テクニックというような運動性とはひと味違う、一種の独特の凄みが感じられる。対するミトロプーロスの指揮は、非常に客観的でクールな印象だ。一昨日聴いたマルケヴィチなんかに共通する、この曲のモダンなオーケストレーションを白日の下に晒したような、非常にドライな感触を持った演奏になっている。この曲にロマン派的なドラマを見いだしたのがシゲティだとすれば、ミトロプーロスのはある意味、この曲の現代性を見据えた演奏ということもできると思う。ちなみにオーケストラはトスカニーニにハウス・オーケストラだったNBC交響楽団で、スーパーテクニック軍団だけあって、まったく危なげない演奏だ。ついでに音質があまりよくないので、よくわからないが、かなりブリリアントなサウンドであったことを伺わせるに十分な演奏でもある。

 ちなみに本演奏の収録は前述のとおり1945年だから、当然SP時代の録音となるが、その割にはかなり良好な音質だ。ディスクから起こした音源だから、ダイミックレンジは時代相応、スクラッチ・ノイズも盛大に聴こえてくるが、リマスタリングに際して、ノイズリダクションや音圧調整が成功したのか、ヴァイオリンの表情といい、オケの量感、ディテールがけっこうよく聴きとれる(デッカを思わせるふっくらとした音質ともいえる)。新ウィーン楽派のような音楽は、ディテールが聴きとれなかったり、マスの響きが貧弱だったりすると、とたんにつまらない音楽になったりするけれど、このクウォリティであれば、とにもかくにも最後まで聴きとおせる音質になっている。
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ベルク ヴァイオリン協奏曲/シェリング,クーベリック&バイエルンRSO

2009年12月02日 23時47分04秒 | マーラー+新ウィーン
 昨夜、久しぶりに聴き入ってしまったベルクのヴァイオリン協奏曲、昨夜はグリュミオーとマルケヴィチが組んだ1967年の演奏だったけれど、今夜はシェリングがクーベリック率いるバイエルン放送響と組んだ演奏を聴いてみた。ちなみにグリュミオーの翌年、つまり1968年録音である。ベルクのヴァイオリン協奏曲はその叙情性から、新ウィーンが再評価される前から比較的取り上げられる機会の多かった作品だったとは思うけれど、60年代後半にフィリップスではグリュミオー、グラモフォンではシェリングという、当時のトップスターを起用して同曲が録音されたというのは、何か理由でもあったのだろうか。カラヤン、ラサールなどを起用して、新ウィーン楽派の音楽をまとめて取り上げられるのは、もう数年後だったような気がするのだが....。

 さて、この演奏だが、ディスクを購入したのはずいぶん昔だが、ほとんど初めて聴くようなものである。「へぇ、こんな演奏だったのねー」という感じ。グリュミオーとマルケヴィチの演奏は、甘美で艶やか、もうエレガントといいたいようなグリュミオーに対して、マルケヴィチはどろどろとした無意識を白日の下に晒したような粘着質なサウンドを展開して、普通だったら水と油になってしまいそうなところが、どういう訳だかそれが絶妙のバランスに演奏になっていたところが良かったのだけれど、シェリング+クーベリックの方は、もう少し常識的....というか、ドイツ風にザッハリッヒな演奏という印象である。冒頭から早めのテンポで進み、ベルクの淀んだようなロマン性、交響詩的な側面には必要以上にこだわらず、けっこうあっさりと進んでいく。シェリングのヴァイオリンはかなり生真面目な印象で、この曲の退廃的な美しさのようなものは今一歩という感じがしないでもない(こういう生真面目さはブラームスなんかだと、ぴったり合うんだけどなぁ)。クーベリックの指揮は、マーラーを振った時などと似たような感触で、多少角が丸まった品の良いサウンドで、良くも悪しくも常識的な演奏になっていると思う。

 そんな訳で、昨夜のグリュミオー+マルケヴィチの演奏にあった、この曲の壮絶なまでの美しさ、そしてある種の凄みみたいな点だけでいえば、ちと凡庸な線に落ち着いてしまっているかなぁ....という印象。批評家風にいえば「純音楽的な演奏」ということになるのかもしれない。その純音楽的という側面をどう受け止めるかは、もちろんリスナーの好み次第で、どちらが良い悪いという問題ではないのだろうけれど、今の自分の気分としては、この曲はグリュミオー+マルケヴィチのような演奏の方が断然楽しめるというのが、正直なところだ。ちなみに先ほどラックを探してみたら、この曲はこれの他にもシゲティ、クレメール、ムッター、渡辺、クラスなどいくつかの演奏があった。ちょっと聴き比べでもしてみようかな....などと思っている。
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ベルク ヴァイオリン協奏曲/グリュミオー、マルケヴィチ&ACO

2009年12月02日 00時20分56秒 | マーラー+新ウィーン
 ベルクは新ウィーンの3羽ガラスの中では、ミニマム指向なウェーベルンとは全く対極的に、ロマン派的に情念の極北みたいな、なにやらフロイト的な無意識を感じさせる暗い情念に満ち満ちた曲を、肥大化した管弦楽で表現したような曲が多く書いた(そういえば、師匠のシェーンベルクは両者をかなり意図的にそういう方向に導いたという話をどっか聞いたことある)。「管弦楽の為の3つの小品」や「抒情組曲」、あと歌劇「ヴォツェック」などがそうした趣のある代表作だが、このヴァイオリン協奏曲は、そうした傾向ももちろんあるのだけれど、私にとっては、なんとなく他とは別格にしたいような作品である。

 曲はまず冒頭、ヴァイオリンと薄めの管弦楽で奏でられる主題からはじまる。この主題は12音に基づいているのにもかかわらず、一度聴いたらまず忘れられないくらいに、世紀末的な妖しさと、どこか痛ましいような美しさがあってまずここに引き込まれる。また、この曲は当然のことながらヴァイオリン協奏曲なのだけれど、シェーンベルクのようなガチガチの形式感、オケ対ソロ楽器的な闘争している感じがさほどなく、全楽章を通じてヴァイオリンとオーケストラの実に自然な美しさ絡み合っているところもいい(昔からヴァイオリン協奏曲が苦手だった私が例外的にこの曲だけは馴染んでいたのはこのせいだろう)。さらにいえば、この第1楽章には民謡、第2楽章にはコラール(バッハのカンタータ第60番「おお永遠よ、汝おそろしき言葉よ」の終曲)が実に効果的な引用をされているところも、音楽的インパクトも大きい。要するに、この曲は聴いていて、時に12音であることやヴァイオリン協奏曲であるといった邪念(?)を忘れさせ、ひたすら「壮絶なまでに美しい音楽」を対峙している気にさせてくれる曲なのである。

 なお、この曲はアルマ・マーラーの娘マノン(ただしマーラーの娘ではない)が、19歳で急死した追悼に作られた事情が成立大きくかかわっているようで、wikiによれば「第1楽章は現世におけるマノンの愛すべき音楽的肖像であるが、第2楽章はマノンの闘病生活と死による浄化(昇天)が表現されている。」ということらしいから、この曲の持つロマン派的な交響詩みたいな起伏というのは、こうした作曲の経緯に由来するところが大きいのだろう。ともあれ、異様に美しい開始から、それが絶望的なドラマチックなドラマへと展開し、ラストは全てを昇華するようにコラールで終わるラストは実に感動的だ。
 ちなみに、今夜聴いた演奏はグリュミオーがマルケヴィチ率いるアムスと組んだ往年の名演だが、甘美なヴァイオリンに対し、ざっくりとしてえぐりこむようなオーケストラ・サウンドが、なぜだか絶妙に調和しているところが良かったかな。
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シェーンベルク 弦楽四重奏曲第4番/新ウィーン弦楽四重奏団

2009年11月20日 23時30分47秒 | マーラー+新ウィーン
 昨夜取り上げた3番に続く作品で、3番からおおよそ10年後の1936年に作曲されている作品らしい。1936年といえば迫り来るナチズムの迫害から逃れてシェーンベルクはすでにロスアンジェルスに移住していた訳だけれど、アメリカに移り住んだせいなのか、どうかはわからないけれど、この4番は3番に比べれば、かなり分かりやすい作品だと思う。もちろん12音という手法で作られた音楽だから、分かりやすいなどといってもたかがしれたものだが(笑)、こちらは随所に調性的で耳に残るモチーフだのが散りばめられており、一度始まってしまえば、あとはひたすら灰色....というイメージの12音音楽にしては、かなりとっかかりがあるのである(そういえば本作に隣接した室内交響曲第2番もかなりわかりやすい作品だったような記憶がある)。

 例えば、第1楽章冒頭のものものしい風情の主題。第2楽章のなにやらマッドサイエンシストの研究室みたいな奇妙な冷徹さ、第3楽章の冒頭は一瞬、「これ調性音楽?」と思わせる、なにやら室内交響曲の頃に戻ったようなロマンティックなムード、逆に第4楽章は非常にアブストラトな音響中心....という感じでとにかく楽章毎にメリハリがあって聴きやすいのである。もっとも、その分3番にあったような、厳格なまでに古典的な楽章構成にのっとり、モダンな響きをまとってはいるが、実は古めかしい弦楽四重奏曲という感じもない。組曲とかそういう感じである。また、3番には全編に渡って感じられたロマン派的情緒も、第3楽章だけは濃厚にあるが、他の楽章はむしろ当時のストラヴィンスキーなんかとも共通するようなシニカルで乾いた響きに満ちている印象なのである。
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シェーンベルク 弦楽四重奏曲第3番/新ウィーン弦楽四重奏団

2009年11月19日 23時14分39秒 | マーラー+新ウィーン
 シェーンベルクの弦楽四重奏曲の第2番をあれこれ書いてから、もう2年が過ぎてしまった。当初は4番まで順繰りに書いていくつもりだったのだけれど、あの時も書いたとおりバルトークとかシェーンベルクの弦楽四重奏曲というのは、中々聴き通すモチベーションが続かず、たいてい途中で頓挫してしまうのだ(笑)。さて、この3番は前作から約20年を経た1927年(昭和2年)に発表されたものである。1927年といえば日本でせは金融大恐慌があり、シェーンベルクが居たドイツではナチスが次第に勢力を拡大していた時期にあたる。要するに第二次世界大戦前夜の不穏な社会情勢だったのである。シェーンベルクはこの時期、既に無調音楽から12音音楽へと音楽の創作スタイルを変えており、この曲もその手法で書かれているようだが、なんというか、1927年という物的にも精神的にも世界中が「不安」に覆い尽くしていた時代の空気を見事なまでに伝える音楽になっていると思う。

 第1楽章はわさわさと蠢くような弦の動きが様々な形に変容し、緊張と弛緩を行き交いつつ、なにやら不安神経症になってしまった人の精神世界を切り取ったような、着地点のない不安な世界を作り出している。第2楽章は虚無的な諦念に満ちた雰囲気だが、ちょっとベルクに近い感じのロマン派的な匂いもする緩徐楽章になっている。第3楽章は第1楽章にけっこう近いムードで進むスケルツォ。まぁ、12音音楽ということで、耳に残る旋律だのモチーフなどは当然ないが、とりあえずスケルツォには聴こえるのはシェーンベルクの音楽の妙というか、さすがに形式だけは温存させていたことがよく分かろうものだ。また、最終楽章はロンドとなっているが、音符が読めず、音感もない私のような人間には、やはりこの曲のテーマを明確に識別するのは至難の業だが、なんとか繰り返しテーマが回帰しているようには聴こえるあたりは、こうした形式を押さえた上で、12音という技法が使っていたことによるのだろう。

 もっとも、戦後の音楽界はこれすらも破壊して、音楽はほぼ完全な音響デザインと化してしまうのだけれど(シェーンベルクは逆に多少先祖返りするのだけれど)、この曲の場合、こういう形式感、楽章ごとの古典的な起伏のようなものを残したことと、そして、発表が1927年だったからなのかどうかはわからないけれど、とにかくこの曲で表現されたやや歪んだ情緒、気分のせいで、曲はかろうじてロマン派の最終ステージの音楽のように聴こえるのかもしれない....などと、理屈はともかく、この曲、不安で気持ち悪いところが、妙に心地よかったりするもので、最近のよく読書や作業にBGMに使っている。
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マーラー ピアノ四重奏曲/プロアルテ・ピアノ四重奏団

2009年11月16日 21時20分53秒 | マーラー+新ウィーン
 このところブラームスのピアノ四重奏曲を1番から3番まであれこれ聴いているのは、ここにいくつか書いているとおりだが、CDラックを探していたところ、10年くらい前にアルテノヴァから出て、プロアルテ・ピアノ四重奏団という団体(ルーマニアのジョルジュ・エネスコ・ブカレスト・フィルハーモニー管弦楽団のピックアップ・メンバーで構成さているらしい、いにしえのプロアルテ四重奏団とは関係ないようだ)が演奏するピアノ四重奏曲の2番を収めたアルバムを発見した。あぁ、そういえば、こんなのもってたな....という感じだが(笑)、多分、これはブラームスを目当てに購入してきたものではない。実はあまり記憶にもないのだが、お目当ては間違いなくフィルアップに収録されたマーラーのピアノ四重奏曲の方だったのだろう。もちろん、今ならお目当ては当然ブラームスだが、このマーラーの若き日の習作については、ほとんどどんな曲だが記憶に残っていなかったので、まずはこちらから聴いてみることにした。

 マーラーの交響曲以前の作品といえば、18歳の時に書いたカンタータ「嘆きの歌」が有名だが、このピアノ四重奏曲はそれに遡ること2年前、16歳の時の作品らしく、現存するマーラーの作品では一番初期のものともいわれている。マーラーの作品は前述の「嘆きの歌」にしてから、その後のマーラーらしさという点からすれば、けっこうオーソドックスな趣が強いが、その2年前の本作ともなれば更にそういう感が強い。曲は一楽章のみ、全体に悲劇的なムードが横溢している。4分ほどしたところで突如テンポが激変して嵐のような展開になったりする部分、あるいはそれ以降の大きな身振りでもって激情を展開していくあたりは、既にマーラー的なるもの原型を感じさせる部分だが、まぁ、あくまでも「オーソドックスな室内楽の枠」の中での話で、この作品の段階では、後年の捨て身で破れかぶれの音楽をやっているようなところはまだ少ない。また、悲痛な旋律はなかなかのものだが、どちらかといえばロシア・スラブ系の美しさに近いし、全体の生真面目さはいたってまっとうなドイツ流だとも思う。要するに優等生の音楽といった様相だ。

 ところでこの楽章だが、当然この続きがあったのだろうが、続く「スケルツォ」のみが多少残っているくらいのようだ。完成したのに残りが散逸したのではなく、この楽章とスケルツォの冒頭まで書いて、放置されたままにったということらしい。マーラーはこのピアノ四重奏曲をどのように構想していたのだろう?。常識的に考えれば、この悲劇的な楽章をスタートに、やがて輝かしい最終楽章へと進んでいくような、つまり交響曲の5番のようにもの作るつもりだったとは容易に想像できるところだけど、スケルツォがあるところを見ると当然完成品は4楽章以上。かなりドラマチックな展開に満ちた交響詩的なピアノ四重奏曲になったに違いない....こんなことを考えながら、マーラーの若書きを聴くのも楽しいひとときである。
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コルンゴルト ヴァイオリン協奏曲/ハーン, ナガノ&ドイツ・ベルリンSO

2009年04月06日 21時22分04秒 | マーラー+新ウィーン
 先の週末のことだが、「Hilary Hahn A Portrait」というDVDが届いた。このディスクはヒラリー・ハーンの音楽活動を文字通りポートレイト的に追っていくというものなのだが、ボーナストラック的にケント・ナガノ指揮のベルリン・ドイツ交響楽団を従えたコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲が全曲収録されているということで購入したものだ。なにしろ、ハーンの弾いた同曲は、未だにCDがないし、かの曲の復興の一翼を担ったとされる彼女の演奏が映像付きで鑑賞できるとなればなおさらである。

 演奏はすばらしいの一語に尽きる。ケント・ナガノとベルリン・ドイツのモダンなテンポ感覚に裏打ちされた適度にシャープで重厚なサウンドに、ハーンのクリーンですっきりとしたフレージングが絶妙にマッチして、この曲の甘美さ、旋律美を裏切ることなく流れるような名演になっていたと思う。これを聴いてしまうと、シャハムとプレヴィンの名演すら、やや時代がかった大仰さを感じてしまうほどだ。また、映像付きで聴くと、この曲がいかにも「難しい曲」であるかが良く分かる。甘くとろけそうな旋律の合間に、オーケストラとの掛け合いや、さりげないフックに、素人目も難技巧な部分が満載である。ハーンはこうした部分をほとんどこともなげに、時に微笑みすら浮かべて颯爽と弾ききっていて、こうした難技巧が連打する第3楽章でも全く危なげないのは驚異ですらある。

 それにしても、ハーンという人のテクニック至上主義ぶりというか、完璧なる演奏を目指してやまない完璧主義ぶりみたいなところは、映像付きでみるとその精緻さかいっそう鮮やかである。弓の動きにせよ、指使いにしたところで、とにかく機械の如き正確さである(そう見える)。また細かいフレーズだのヴィブラートなどを聴くにつけ、この人は音楽を演奏する時の分解能が非常に高いんじゃないだろうかと思うことが多々ある。分解能などというとまるでシーケンサーみたいだが、分解能というのは、例えば4分音符を何等分くらいに分割して表現できるかということで、この人の場合、その能力が異常に高そうな気がするのだ。ある意味、普通の人より音楽がゆっくり聴こえているのではないかということで、とにかく細かいところ、早いところでリズムが極めて正確、縦割りでまず崩れないという精緻さに感心してしまう。

 ついでに書くと、本編の方だが、この人オフの映像では典型的なアメリカのフランクな女のコというイメージなんだけど、演奏シーンになるとみるからにスター的なオーラが出ていて、ああこのコはスターなんだなぁと思わせる(まぁ、そういう影像なのだから当たり前か)。ちなみに、途中「自分の演奏が、誰かの人生を変えたり、この曲の印象を一変させることができるとは思わない。ただ、作品を聴くきっかけになればいい(要旨)」としゃべるところあるけれど、20台半ばでここまでいえれば、建前にしたって立派なものである。まさに絵に描いたような優等生で、また、それが妙にサマになっちゃうのも、またスターたる所以だろう。はい、私もすっかりファンになってしまいました。
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コルンゴルト シンフォニエッタ/アルブレヒト&ベルリンRSO

2009年03月23日 23時12分40秒 | マーラー+新ウィーン
 このところヴァイオリン協奏曲を聴きまくっているコルンゴルトの、これも純音楽畑の作品。ただしこちらはハリウッドへ渡る前のもので、しかも彼の作品歴の中ではごく初期(作品番号5)、なんと15歳の時の作品である。何度書いている通り、当時、「モーツァルト以来の神童」として知られていた彼は、この時点でウィーンの一流作曲家の仲間入りをしていて、この作品など初期の活動のハイライトのひとつといえるものらしく、当時、ニキシュだの、ワインガルトナー、R.シュトラウスが振ったというから、凄いものである。正式な作品名は「大管弦楽のための小交響曲(シンフォニエッタ)」で、大オーケストラで、演奏時間が45分もかかる作品が「小さい交響曲」というのも、ちょっと矛盾したような感じもするが、恐らくこれは規模の話ではなく、作品に盛り込まれた気分のようなものが、いわゆる交響曲のようなシリアスなものではなく、もう少し気軽なもの....という意味なのだろうと思う。

 なるほど、曲は全編にわたって、ウィーンの田園風景のような、なだらかな起伏に終始している。金管が轟くように咆哮したり、オーケストラが嵐のようにうごめいたりするようなところはあまりなく(ない訳ではないが)、さながらブラームスのセレナードを20世紀初頭にリファインしたような音楽....とでもいいたいような、いってしまえば「のんびりした音楽」になっている。
 第1楽章の冒頭はまるでオペレッタか、後年手がけることになるハリウッド映画のロマンスもののオープニング・タイトルのような音楽に始まり、主となる部分はワルツみたいなリズムで実に優雅に進んでいくが(第二主題あたりは特にそう)、このあたりは実にコルンゴルトらしい甘美な音楽になっている。しかも、随所にオーケストラのモダンな響きが散りばめられていて、全体としては古臭くて、それでいて新しいような感覚があり、まさにコルンゴルトの音楽の面目躍如たるものだ。もう15歳でこれだった訳だ。

 第2楽章はスケルツォ、全曲中、もっともダイナミックな音楽である。後年の「ロビンフッドの冒険」や「シー・ホーク」を思わせる壮麗さがあり、これまた彼らしい響きに満ち満ちているのだが、それは長く続かず、すぐさま田園風なトリオになって、第1楽章の気分にもどり(主題も循環しているようだ)。この振幅の交替によりスケール大きな楽章に仕立て上げている感じ。
 第3楽章は子守歌のような緩徐楽章である。20世紀初頭の楽曲らしく、多少印象派のようなオーケストレーションでもって、幻想的なムードを導入しているのが、この楽章の特徴だろう。また、ここでも第1楽章メインの主題を循環させたり、様々な音楽的要素を散りばめつつ進行していくが、その情報量たるや並のものではない。まさにひとつの文化が終わろうとしている時のみに出現するあらゆるものが統合された音楽だ。

 全曲中もっとも長い(15分くらいかかる)最終楽章は、文字通りフィナーレで、メインの主題を変形した断片に始まり、やや表現主義な不穏なムードにはじまるのが印象的だが、実はそれは味付け程度で、主部はコルンゴルトらしいオプティミズム満開の明るい音楽でもって、あちこち寄り道しつつ、次第に壮大な盛り上がり、ブルックナー風なコラールでハイライトを作っていくという筋書きである。
 という訳で、このCDを購入したのはもう10年以上前のことだが、これまでダラダラと聴き流してばかりいて、じっくりと聴いてみたのは、実はこれが初めてなのだが、とても良い曲であった。それにしてもこんな巧緻極まりない曲を15歳で作ってしまうというのは、やはり恐るべき神童という他はない。ツェムリンスキーもR.シュトラウスも戦慄を感じるのもさもありなん。
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