(童話)万華響の日々

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三浦綾子作品2 「母」 その印象

2011-07-20 15:55:11 | 読書三浦綾子作品

読書「母」三浦綾子 角川書店 H4年3月10日発行

 小林多喜二(1903ー1933)の母、小林セキが多喜二の思い出をイ

ンタビューに答えて語る。小林多喜二といえば、有名な小説「蟹工船」の

作者にして、共産党員で警察に逮捕され拷問により若くして死亡したと

いうことである。その人柄などについては全く知らなかったが、本書では

彼の母の思いでの中でそれを知ることができる。

 母セキは秋田県釈迦内村の生まれ(1873年)で、13歳で小林末松と

結婚し、7人の子供をもうけた。多喜二は次男であったが、兄の多喜郎

は12歳で死んだ。セキが35歳、多喜二5歳の時に北海道小樽へ移住

した。小林家は貧しかったが子供たちは親孝行で仲良く暮らした。子供

たちの中には芸術の才能に恵まれていた者もいた。多喜二は小さいと

きから絵が好きでよく描いていたらしい。しかし、絵では食べていけない

と叔父にいわれて、小説を書くようになった。

 多喜二の人の人権を尊重する心構えは生まれながらのもので、その

強い姿勢の為に死に渡されたといえる。

 弟の三吾はヴァイオリンが好きであった、銀行に勤めていた多喜二は

この三吾にヴァイオリンを買ってあげた。彼は後にヴァイオリンの名手と

なり東京交響楽団の第一ヴァイオリン奏者になったとのことである。

 また、小料理屋に身売りされていた女性と運命的な出会いをし、彼女

の身元引受人となり、自由な身としてやり彼が死ぬまでずっと大事に世

話をしたといわれる。

 多喜二の親類や関係者にはキリスト教の信者になった人が何人か居

る。多喜二も教会に通い聖書に親しんだが、行動的には共産党の党員

としての生き方を選んだ。母のセキもまたキリスト教の信者となり、葬式

は教会で行われたそうだ。セキは多喜二が共産党に入党したので、彼

のために自分自身も入党したそうだ。

 セキは晩年になって字を覚えた。お気に入りの賛美歌は「山路越えて」

であった。死ぬまで多喜二のことを思って悲しんだが、彼が天国に居る

かどうかを一番気にしていたそうである。1961年に88歳で世を去っ

た。

 セキは3人の子供に死なれたが、多喜二の死には特別の想いがあっ

たであろう。その死は逮捕され拷問を受け殺されたという異常なる死で

ある。子供に死なれるということは、親にとってそれでなくとも辛いこと、

多喜二の場合は尚更である。母セキは多喜二の死に納得のできる理由

を見いだしたのであろうか、晩年のセキはキリスト教の救いに望みを抱

いた。この世で罪人といわれ、弱い立場の人の味方になったのに拷問さ

れて死んだ多喜二、セキは同じような姿をイエス・キリストの中に認めた

のであろう。そのとき、母セキはやっと、長い苦しみから救われたのであ

ろう。


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