政界・国会ではここへ来て「ない」とされた日報、報告書、メモや決議書などが続々と表に出てきている、いわば問題となっている疑惑の追及の結果である、疑惑の追及に対して書いた証拠は破棄されたとか、そもそも議事録を取らなかったとか、たとえ議事録やメモがあったとしても上部の意向に合わせて書き換える、削除する、挙句の果てには廃棄する、・・・、こういう政界の常識である、
一方で事実を正しく書き留めるということは非常に大切である、なんでもいいから余計と思われることまで書き留める、これが日報であり、個人の日記やメモである、それが国家の名のもとになされたものであれば国家の公文書である、記録には記載日や時間を添えなければならない、時間順に後からでも並べることができ、コンピューターに記録させればた易く並べ替えや検索が可能である、
こういう記録が完全に残っていれば今起こっている政治の疑惑は忽ちに解明できる、一旦記録完了し公文書となったものはもはや個人や部署のものではなく専門機関によって管理されるべきものだ、そうすれば改ざんなど起きようが無い、アメリカでは詳細な記録を後世に残す努力は徹底している、日本もそれに倣うべきだ
一番の問題点は記録をしないことである、当事者たちが自分の脳の中に留めておく、国会の質疑でも「記憶にない」とか「知らない」と突っ張ればそれ以上に進まない、
世界にはインカ帝国のように文字を持たなかった文明もある、従って文字による記録がない、彼らは言葉を話さなかったわけではあるまい、処が文字を持たなかったというのはどういうことだろうか、動物も鳴いて意思疎通する、しかし当然ながら文字を持たない、インカ文明は動物並みだったのか、否である、インカは帝国であり高級な遺跡を建造した、正確に天体の動きを観測し暦を持っていた、だが文字を用いなかった、文字以外の記録方法をもったのかもしれないが、考古学者はそれを発見していないだけかもしれない、ともかく文字記録がないと歴史事実が残らない、
歴史から消えていなかったことにしたいならば記録を残さないことだ、日本の従来政治にはそういう(暗黙の)意志が感じられる、(だとすればそれはなぜなのか*1)だがそれでは後世への責任と義務を果たしたといえるだろうか、インカ文明が有していた幻の記録技術のようなものがない限り文字記録を優先させるべきなのだ
(*1)記録をしない理由の一つは、当事者たちが悪行を働いていると自覚している、厄介なことにならないようにしたいなど、つまり隠したい(隠蔽)、あまり良い理由がない、逆に善行をする自覚があれば謙遜してむしろ他人には黙っている、記録しない、というのが人間ではなかろうか、今の政界ではこの関係はひっくり返っている