本年は今日をもってお休みします、いつも訪問くださった方にお礼申し上げます
今日のニュースでは渡辺和子さんが30日に亡くなられたそうだ、ノートルダム清心学園理事長、「置かれた場所で咲きなさい」の著書に大きい慰めを与えられた、2.26事件で父親が暗殺され現場で目撃したそうである、今という時代に必要な方であった、カトリックの信者で非戦を訴えておられた、まだ生きていて欲しかった、悔やまれるが89才とか、神が地上での仕事はやり終えたからもうこちらへ来なさいと言われたのだろう、真の平和の遺志を引き継ぐ多くの人がいることを願って新年を迎えたい、みなさんに善い年が訪れますように!!
上野の国立西洋美術館で開催中、クラーナハ展、ドイツルネッサンス代表の芸術家・宮廷画家(1472-1553)で日本初公開、1517年のルターによる宗教改革にも深くかかわったらしい、ルターの肖像画を描いており、ルターという人はこんな感じの人だったかと良く分かる、宗教改革者又は革命家の容貌をしている、その鋭い人間性が正確に表現されていて実に興味深い、今から500年も以前の人間でありながら現在に生きているかのごとき生々しさが伝わってくる、ルターという人に関心がある人には重要な肖像画である、
クラーナハの作品の大きなジャンルが聖書を始め文学に現れるサロメ、ユディト、クレティアス、など裸体の女性像である、若いのか幼いのかよく分からない現実的であるようでいて現実にはない肉体バランスの女性が描かれていて、ヨハネやホロフェルネスの首を抱えている図、ギョッとさせられるような絵である、自害しようとする女「ルクレティアの自害」もまた謎に満ちた作品といえる、胸に短剣を当てて今正に死なんとしている女だ、
「正義と寓意(ユスティティア)」もまた似た容貌の感じの裸体女性が短剣と天秤を持って誰を見るともないまなざし、単なるヌードという次元ではない誘惑的であり蠱惑的でありながら背後に潜む悪魔性というかぞっと背筋が寒くなるような怪奇・怪異な魔界からの放射を発して観るものを金縛りにしてしまう、魂を奪い取られないように気を付けないといけないという感じだ
ルターとユスティティアを並べてみると「聖と邪」というような対比があるような気がするが、クラーナハのこころの中にはこの二つが共存して葛藤していたに違いない、
昨日ブログに公開した小林斗盦「篆刻の軌跡」展と同時に鑑賞した展覧会が「禅 心をかたちに」展であった、臨済宗・黄檗宗の高僧の肖像や書、仏像、絵画、工芸等、約300件、そのうち国宝が22件という集大成からなる展覧会であった、
展示物が多くていちいち丹念に見られないので国宝や重文級に絞って鑑賞した、特に禅宗の開祖と言われる「達磨図」(雪舟や蘭渓作)が目を惹く、室町時代の「瓢鯰図」は禅のこころの捉え方を絵と文にて表したものだそうで興味深い、その他なかなか奥深くて自分の理解力を超えている気がして単純に鑑賞できるというような生易しいものではなかったというのが正直なところだった
篆刻とは書画などに押印する落款のこと、いわば書や画の作者サインと並んで脇役のように控えている感じ、だが落款がないと書や画の作者や真贋を証明するのに困ることもあり、実に重要な脇役である、
この落款の彫られた篆刻に人生を傾注した芸術家がいた、小林斗盦(1916-2007)という人、もともとは書道から篆刻の世界に入った、88歳で文化勲章に輝いた、今や篆刻は書道展と一対で展覧会が行われている独立した一大分野である、
この小林斗盦「篆刻の軌跡」展が上野の国立博物館で12/23まで開催中である、字というものを絵のように自由に形態を崩し初めの字の独自性を失わないぎりぎりの限界まで突き詰めて書体とした奔放な作品が目を惹く、印鑑の刻印というものは保有者の人生の幸不幸に関わるともいわれる、何人かの有名人の注文によって篆刻した印鑑と印字が展示されていた、さすが縁起が好い字体で篆刻された印鑑と思われる
福島原発事故で他県に避難した家族が疎外されている、子ども達がいじめにあっているという記事が続々とニュースになってきている、現れたものは多分氷山の一角であろう、なぜこういうことが起きるのか、観光客には「おもてなし」という美徳を説く政治家やマスコミ、その裏側で罪もない他県への福島原発避難者が非難を受ける現実をどう説明するのだろうか、
この件に関して肝心な原発稼働側の東電や政治家たちがコメントや謝罪をした報道にあっていない、責められるべきは避難者ではなく原発事故を起こした側ではないのか、避難した子供が「菌」呼ばわりされるのは全くの濡れ衣というべきだ、いわば一種の福島県の産物が風評被害を受けたようなものである、憐れみや同情や支援や応援があることこそ望ましい、いわんやこのような差別は絶対にすべきではない
国立新美術館にて12/12まで開催されていた「ダリ展」、行って観たがやはりダリは格別だ、難解で謎に満ち大概のものを寄せ付けないバリヤーを張っているように感ずる、だから奇才と言われる所以だ、私が中学校時代には「記憶の固執」だとか「茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)」だとかを教科書で見て、グンニャリ曲がった時計を面白がっていたが、今回久々に本物をみてダリの奥深さに改めて恐れ入った、
まずダリの作品名がユニークである、「謎めいた要素のある風景」、「皿のない二つの目玉焼きを背に乗せ、ポルトガルパンのかけらを犯そうとしている平凡なフランスパン」、「オーケストラの皮を持った3人の若いシュルレアリストの女たち」、「ラファエロの聖母の最高速度」などなど実に理解不能な複雑さだ・・・変てこな名称はまだまだある、その該当する絵がまた解らない、
部分的に極めて緻密で繊細な描写があるのに全体は抽象的で不可解、そんな中で彼の妻ガラを主題としたものは比較的に分かりいいのは妻の姿を余りにも抽象化することを躊躇したのかもしれない、
そんな中で今回の作品中、気に入ったのが「鳥籠(バレエ ドン・ファン・テノーリオの舞台美術のためのスケッチ)」という作品、美麗で緻密なる鳥籠と中にいる鳥は形だけ、
一方ダリは原子力に興味があった画家、ウラニウムやパイ中間子など核分裂をテーマにした作品群がある、明らかに広島・長崎への原爆投下と大殺戮がダリに衝撃を与えたのは確か、その中で特筆すべきものが「ポルト・リガトの聖母(1950年)」である、この作品所蔵が福岡市美術館つまり日本であるという点が意義深い、
作品はずいぶん大きく275×210cmである、殺伐とした砂漠のような景色の中、空中にガラの顔をした聖母マリアが祈る、その懐には幼児イエスが両手を広げ、恰も十字架の磔の姿で存在する、その胸には小さな額がありパンが一切れ描かれている、聖母の頭上から卵が落下しつつある、卵は命の始まりか、または投下された原爆のようにも見える、
聖母は右足を棺桶のような中身が見える箱の上に掛けている、原爆のように見える卵は聖母子の上に落下中であり、棺桶という滅亡の次元 死に至る、だが棺桶からはバラの花と葉が伸びだしている、ダリは現代の核戦争危機を回避し命に至る希望または奇跡を期待していたのであろう、
これは現在と未来への黙示録である、ダリは核兵器と原発という核エネルギーを封印することが人類の希望に繋がると黙示したと思える、その作品が日本の美術館に所蔵されているということは・・・・・!!
上 鳥籠
下 ポルト・リガトの聖母
11/29朝日新聞の「声 若い世代」で15歳中学生小林さんの「AI開発どこまで必要か考えて」を読んで我が意を得たりと納得し、さすが若い感性でよく世の中を見ていると感心した、人工知能AIはあらゆる場面で人間を凌駕するようになるだろう、自動運転自動車はその先端を行っている、今多くの人が必要不可欠となって携帯しているスマホはまだまだ原始的ながらAIに近づきつつある、
IoT(インターネット オブ スィングズ)はインターネットで社会のあらゆる機器に繋げるというもの、AIは単独では善いも悪いもない、だが通信機器や機械と結んだときにその魔力を発揮する、そのとき人間のすることはロボットに奪われ、機械に支配され機械の奴隷になり下がる危機が訪れよう、開発をどこで中止するか、遅らせるかに人間の英知が求められている、地球温暖化や核兵器・原発や再生医療と同じレベルの人類に脅威を与える重要な問題である
国が疲労しつつある姿がありありだ、安倍長期政権は案外もろい中味を有しているようだ、安倍首相は自民党の憲法草案について野党の質問を受けても憲法審査会がやることだといい、真面目に答えようとしない、今回のカジノ法案についても民進党蓮舫代表から質問されても議員立法だと変な理屈で回答を真っすぐにしようとしない、はぐらかしや焦点反らしの回答が目立つ、そして強行採決だけが際立つ、質問時間が余ったからと般若心経を唱える自民党議員がいる、一体これでは国会の意味がないではないのか、中身を欠き外形だけをどんどん断行してゆく政治は内容が詰まっていないから危ういのである、格差社会もまたその仲間である、結果でもある、中間がなく内容がなく両極端だけである、そして富裕層だけが前進し弱者は置き去りにされる、
強行採決は政権党 自民・公明党のお家芸か、思い出せば安保法案(集団的自衛権)の決議、TPPの決議、今回のカジノ法案の決議、数に物言わせての連続暴挙である、さて政権はよくよくギャンブルが好きだと思う、今回のカジノ法案もそうだが、年金基金を株式の投資に掛けている、トランプがTPPを進めるか否か明言する前に(政権与党は)決議した、これはトランプに掛けている姿勢である、もしかしたら将来TPP推進に変更してくれないかという期待がある、
原発もんじゅも賭けである、もう死に体と言ってよいもんじゅをまだ生かしておきたい、というか生き吹き返すかもしれないという淡い期待だけで推進するようだ、高速炉という原発実証炉を目指すという、実験炉すら動かないと言っていいくらいだったのに何が実証炉か、しかも実験炉が失敗しているのにその理由をはっきりさせずに実証炉に行けるはずがないではないか、一応核燃料サイクルという大義は聞くものの、それでも高速炉実証炉の強行をしようとする、なぜか、その理由は謎である、封印された理由があるが今は表に明らかにされていない、