(童話)万華響の日々

いつもご訪問ありがとうございます、ブログ開始から大分心境も変わってきました

親の介護で心すべき重要なこと  「悩みのるつぼ」を読んで

2013-09-29 19:23:10 | 看取りと介護道

9月28日朝日新聞beの「悩みのるつぼ」で回答者の上野千鶴子さんの

いくつかのアドバイスに同感しました

つまり、54才の息子が81才の母を介護できるだろうかという相談に対して、

「介護保険を目いっぱい使ってヘルパーさんに来てもらい、それでも足りない

分は自費負担してでも他人の助けを求める」、「そのためには母の資産を

すべて使ってもよい覚悟で実行する」、

「母の虐待者にならぬように、これが一番大事、

どたんばになったら母の意に沿わなくても施設入居も考えること」ということです

親の資産に手を付けるということは、ちょっと勇気がいることですが、

親のために使うということですから十分分かってもらえることです

財産は死んであの世へ持ってゆくことはできないわけですから、

生きているうちに存分に本人(親)のために使って差し上げることは

全く正しいことです

これは、自分が老いて介護を受けるときも、同じことがいえるわけで、

子供や孫に残さず自分のために使い切ってしまうことが望ましいです

また、親の介護を自宅で自力でやり遂げるというのはよっぽど幸運も

伴わないとできないことです

気持ちでは親を自宅介護してやりたいと思っても、虐待になっては元も

子もないです

理想と現実は違うのが通常で、現実的に自分にできるやり方で

介護を完遂させるということが重要と納得しました


コオロギのソロを一晩中楽しんだ

2013-09-28 21:12:12 | 日記

陽が落ちるのが早くなってきました

それと同時に虫たちの声が一段とにぎやかになってきました

これは好いものです、大オーケストラのときもあれば

ソロでアリアを歌ってくれるときもあります

ところで、昨日、玄関の中でコオロギがソロでうつくしく鳴いてくれているではありませんか

ついに一晩中朝方まで鳴きつづけてくれました

水もなく、食べ物もない状態で頑張っていました

これじゃあ、疲れて死んでしまったら可哀想と思い、

捕まえて外へ出してやろうと思いました

ところが、こちらの気知らずで、捕まってくれません

そこで梨の実をひとかけら置いておいたら、鳴きやんで梨に寄っています

そこですかさず、捕まえようと手を出したら、扉の方へ逃げてくれたので

チャンスとばかりに扉を開けて外へ追い出しました

梨には未練があったでしょうが、そのうち諦めたかのように戸外で鳴き始めました

よかった、よかった!!


映画 エリジウム   アメリカ   2013年

2013-09-28 20:42:50 | 映画の印象

このドラマの中で注目すべきは医療ポットという怪我や疾病の治療容器の存在でありエリジウムの住民はID(個人認証コード)を体に刻印してその認証がエリジウム住民と認められれば一瞬にしてポット内で治療回復がされる

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映画の真相とその隠された深層


老人福祉施設では男女比は8対2である

2013-09-24 21:23:48 | 看取りと介護道

老健でも、デイ・サービスやショートステイでも利用者の割合は、

女性が8割、男性が2割以下です

高齢者の数が統計で知らされますが、ここでもこの男女の割合は似たようなものです

やっぱり、年を取ると男性は女性よりも早く世を去るということですかね

ところが、似たようなこの男女割合は決して老人福祉施設に限った話ではありません

展覧会、音楽コンサート、習い事の集まり、カルチャーセンター、英会話スクール

などなど、どこを覗いてもこの割合は保たれている感じがします

なぜでしょうか

ただし唯一碁会所やゲームセンター、パチンコなどでは、

男の方が圧倒的に多いようです

 


「琳派・若冲と花鳥風月」展 

2013-09-22 22:22:50 | 展覧会

千葉市美術館で現在開催中の「琳派・若冲と花鳥風月」展を

観てきました

江戸時代中期に活躍した伊藤若冲(1718-1800)の傑作を観たわけです

他の琳派の絵師たちの作品と比べても若冲は独特だと思いました

大胆さと精緻さで、筆を使い一気に対象を描き上げていますし、

絵の具を使った作品は圧倒される華麗さでした、

ユーモラスな作品もありました


映画 メリー・ポピンズ   アメリカ  1964年

2013-09-20 22:23:48 | 映画の印象

忘れられない台詞、いや歌の歌詞かな
 ”スプーン一杯の砂糖があれば、どんなに苦い薬も飲める”
 いい言葉だ、人生を楽しく生きてゆける、子供も大人も大歓迎の最高傑作ミュージカルだ

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映画の真相とその隠された深層


「うさぎ」という名の台風19号

2013-09-19 21:48:08 | 日記

異常気象が当たり前に感じ出しているというのは、

何かそら恐ろしいです

強大台風18号が去ったと思ったら、19号がもう生まれました

今度は、どういうことか日本には来ないという予想です

この台風19号につけられた名前が、なんと「うさぎ」だそうです

今日はよく晴れわたり、夜空には満月が輝いています

旧暦の十五夜で満月というのはなかなかないそうです

この不思議な十五夜満月にうさぎの姿が見えるような気がします

19号台風もおとなしく飛び去ってほしいものです


受けるは与えるより劣るのだろうか  その2

2013-09-18 22:12:43 | 病気も仕事

巨大台風18号が過ぎ去って、急に秋らしくなり、昼と夜の

気温差が大きくなってきました

そして、秋の虫の鳴き声も一段とにぎやかになってきました

ところで、この「受けるは与えるより劣るのだろうか」というテーマの続きです

よく言われることですが、「何かを新しくはじめるのに遅すぎる

ということはない」ということがあります

これは歳を取った人にとって実に勇気と元気とを与える励ましの言葉です

多くの中高齢者、たとえば定年退職した人が今までやってみなかったことを、

新しくはじめて生き生きとして暮らしているということをよく聞きます

今年も敬老の日を迎えましたが、新しく趣味を始めたという老人の

紹介などありました

人生を死ぬ瞬間まで生き生きと暮らすために、新しくはじめるというこ

とは大事なことだということはよく分かります

だが、弱い立場に移ってゆき受けることが多くなってきたとき、

それでも新しくはじめることがあるのであろうかという疑問が浮かびます

受ける側に回った割合が90%以上にもなっても、

新しくはじめることがまだ残っていたら幸せというべきで

奇跡的なことです

それはいったいどんなことでしょうか(つづく)


小説「ノラや」 内田百 著について

2013-09-16 21:45:50 | 猫、ねこ、ネコの図書館

ノラや 内田百間 

ちくま文庫 2003年出版

内田百(1889-1971)は夏目漱石の門下生、

岡山市生まれ、東大独文化卒

 猫23編からなるが、最初に掲載の「猫」、「梅雨韻」、「白猫」は猫にからんだ怪異な短編、
 次の「彼ハ猫デアル」、「ノラや」からは大して猫好きでもなかった著者が一匹のノラ猫と出会ったことから
圧倒的な猫好きに変わっていった、

そして突然失踪したノラに対するたまらないほどの愛着と恋慕の情
 は尽きることがない
 著者はノラが消えていったときのことをいつまでもありありと覚えている、「家内の手をすり抜けて下へ降りた。そうして垣根をくぐりトクサの繁みの中を抜けて向こうへ行ってしまった」、それ以来ノラは戻ってこなかった、
 著者は憂鬱になり来る日も来る日もノラが帰ってこないかと気も狂わんばかりの日々を過ごす、その寂しさに思わず涙にむせったことも、ついには謝礼付きの新聞の折り込み広告を出したりする、

 百はどんな猫でも好きになったのではなかった、
いなくなってからその想い出の一つ一つが胸にこみ上げて余計に可愛さが募ったのではないかと思われる


 彼は生涯のうち、たった二匹の猫にだけ愛情を注いだ、
二匹目はノラによく似た迷い猫でクルツという名前だった、このクルは尻尾が短いことを除けばノラに瓜二つだった、
 
 だが、喧嘩をしたときの怪我が原因で体を壊し医者の治療も虚しく死んだ、飼われてから5年ちょっとだった、

 ノラは飼われて一年ちょっとで行方不明となったが、クルは愛情を十分に注がれた一生だった

 百は六十代後半むしろ七十近くなって猫を飼った、
子供もいなかったからその老年の慰めを得た、だからことさらにノラがいなくなったことやクルが短命で死んだことはことのほか応えたに違いない

ノラのことでは、あたかもかぐや姫の物語を連想してしまう、
大きくなったノラは爺と婆を置いて月の世界にいってしまった、
もの悲しい


受けるは与えるより劣るのだろうか

2013-09-14 21:51:06 | 病気も仕事

今日はあまり深入りはしませんが、

「おもてなしをするがわの論理」と逆の「おもてなしを受ける側の論理」

ということです

これは、より広く大きな一般化を行うと、

「与える側の論理」と「与えられる(受ける)側の論理」です

人は誰でも、上にいう「与える」側に立ったり、

「受ける」側に立ったりします

よく言われることには、「与えるは受けるより幸いなり」というものです

このことばが人を偏った考え方に落ち込ませるのです

いったい、「受ける」ことがなぜ「与える」よりも劣るというのでしょうか

ここでは、一つの例を挙げたいと思います

病人は医療・治療の提供を医療関係者から受けます

つまり、患者は「受ける側」であり、医者や看護師は「与える側」になり

ます

明らかに、患者は病み痛み悲惨な目にあい苦しんでいる弱い立場

にいる人たちです

これに対し、医療提供者は治療し、助け、看護し、患者を治し立ち

直らせる強い立場の人たちです

どちらが人生の生きがいを感ずるでしょうか、

あきらかに「与える側」です

しかし、ここでいいたいのは、人は誰でも年を取るにつれて

「与える側」から「受ける側」に次第次第に変わってゆく、あるいは

変わらざるを得ないということです

これはいい直すと、強い立場から弱い立場へ移り変わってゆくことを示します

つまり、人は次第に歳とともに生きがいを失ってゆくということです

このはなしの続きは次回です


映画「サイド・エフェクト」 アメリカ 2013年

2013-09-13 21:54:44 | 映画の印象

この映画は全く予想を覆してくれる、題名のような抗鬱剤の副作用によって恐るべき殺人が無意識下で行われるものかと思っていた観客は足をすくわれる

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就活後は落ち着いた猫のこと

2013-09-11 21:46:05 | 日記

散歩中に猫を飼っているお宅の夫人とごあいさつ

大きな黒い猫が木の陰でこちらを見ています

名前を呼ぶと、尻尾を振ってこたえてくれます

最近、だんだん気を許してくれるようになってきました

しかし、こっちへ寄ってきてはくれないし、鳴いて応えてもくれません

夫人によれば、この猫はノラ猫であったそうで、このお宅に居ついて

餌をもらうようになったそうで、この夫人には全く完全服従だとか

ところが、ノラ時代には誰彼かまわず寝転がって甘えて寄ってきた

ということです

賢い猫だなあと、感心しました

就活成功後は誰彼かまわず媚を売るということは全くしなくなった

ということです

猫にも個性があって、どの猫もこういうことではないと思いますが

立派なネコだと再び感心しました


刺しゅう模様を実物と錯覚する

2013-09-08 21:33:33 | 看取りと介護道

ばあちゃんが何かやっています

見れば、絨毯の上を手の指で何かを摘まもうとしています

何を摘まもうとしているのかねと、聞くと

絨毯の上に手鏡があるというのです

なるほど、確かに見ようによっては手鏡かなとも思います、

しかし、それは絨毯の模様で手鏡のような刺しゅう模様なのです

それがばあちゃんには、浮き上がって実物の手鏡に見えるらしい

実体と、虚物が混在としているようです

一度は説明して、それが刺しゅう模様だとうなづいても、

すぐにまた手を延ばして摘まもうとするわけです

この動作がいつごろから始まったかわかりません、

最近でしょう、また関心が薄くなってゆくのを待つしかないのです


映画「華麗なるギャツビー」  アメリカ  2012年

2013-09-07 21:45:17 | 映画の印象

過去の恋人との愛情生活を取り戻そうと必死であったギャッツビー、
その願いはもろくも消え去り何たる哀れにして不幸なる結末であったことか

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映画「少年H」     日本   2013年

2013-09-06 16:30:22 | 映画の印象

妹尾肇Hが見た体験した貴重なる戦争体験の映画化であり、キリスト教信者が迫害と中傷の中にあって、できることを行い、周囲の誤解を防ぎつつその家族を守り生き抜くことができたという貴重な証であると思う

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