うちのばあちゃんが30日に誕生日を迎えました。
89才になりました。
この未曾有の大災害のときに誕生日を迎え、ささやかにお祝いしまた。
一時は肺炎に罹り、心配しましたが、元の健常な状態に復しました。
ありがたいことです。
ばあちゃんの認知症は知らず知らずに、進んでいますが、
われわれ家族は、これと上手く付き合い、健康を維持してもらうようにす
るのが今後の課題です。
うちのばあちゃんが30日に誕生日を迎えました。
89才になりました。
この未曾有の大災害のときに誕生日を迎え、ささやかにお祝いしまた。
一時は肺炎に罹り、心配しましたが、元の健常な状態に復しました。
ありがたいことです。
ばあちゃんの認知症は知らず知らずに、進んでいますが、
われわれ家族は、これと上手く付き合い、健康を維持してもらうようにす
るのが今後の課題です。
全く呆れるやら、驚くやら、かわいそうになるやらです。
放送に寄れば、東電の社員が発電所の施設内で、少ない飲み水、簡単
な一日二食の粗食、椅子で仮眠、そうやって必死に復旧の仕事をしてい
るといいます。
まるで戦場のようだといいます。これは会社も国も、何とかして改善して
欲しいです。
十分な食事と眠れる環境を整えて仕事に当たって欲しい。
社員は奴隷のような環境でわが国の国難に当たっているのですから。
近所の雑貨屋さんに買物に行ったときの話です。
放射能を含む水道水の話が報道された途端、ペットボトルの水を買いに
くる人が多かったそうです。若い母親が乳児のために水を売ってください
と来たのですが、その後ろにおばあさんが来て水を売って欲しいと。
店屋のおくさんは、赤ちゃんのいる人に優先的に売るんだから、おばあ
さんは遠慮してくださいといったそうです。
おばあさんは怒って帰ってしまったそうです。
店の奥さんは、よっぽど「65歳を過ぎた人が癌になるのに20年も、30
年もかかるんだから、あんたは水道水を飲んだってチットモ心配ないよ」
と、言いたかったそうです。
なるほど、わたしも同意見です。
年寄りはもう子供を生むわけでもないし、癌にだってそう直ぐになるわ
けではないのです。
このくらいの鷹揚な気持ちでどっしりと構えることが、今のようなときは
必要ですネエ。
この震災のあったときと、時を同じくして実は、93歳のじいちゃんも
背中が痛いと言い出しました。痛みで夜も眠れないと訴えます。
どうやら神経痛らしいので、近所の整形外科医院へ連れて行きました。
レントゲン写真と問診の結果、肋間神経痛とのこと。
鎮痛剤の貼り薬をいただき帰りましたが、どうも思わしくなく、
相変わらず痛い痛いと嘆き苦しみます。
再度、医者へ行って鎮痛用の飲み薬を処方してもらいました。
薬効かなって痛みはだいぶ引きました。
けれども、このところの寒い気候が悪さをしているようです。
もうちょっと春らしく温かくなってくれると好いのですが。毎朝、毎晩、背中
に貼り薬を貼って寝てもらっています。
震災の被災者のお年寄りの方々も、さぞかし大変なことでしょう。
薬の調達もままならぬと聞き、心が痛み、何とかならないものかと思いま
す。医療従事者やボランテイアの人たちが日夜頑張っていると報道され
ており、是非耐えのびて欲しいと願います。
津波に襲われた海岸地方の市町村の余りにも壮絶な壊滅状態には
声も出ません。
これほどまでにも、破壊されつくされるとは、凄い津波です。
海岸から3kmも内陸にまで波が達したそうで、上陸時の波の高さは
30mもあったらしいです。
緊急防災放送で津波の襲来を叫び続けて、そのために津波に飲まれ
て亡くなった若い女性職員もおられたそうです。
彼女の放送のお陰で、何千人もの人々が避難が出来て助かったと聞き
ます。
残されたご両親には何の慰めの言葉も言い出せません。
その短すぎる人生を悼み、ただただ気高い一生であったと、ご冥福をお
祈りするしかありません。
震災から2週間たちました。
ガソリン不足やトイレットペーパーなどの不足は、次第に解消してきまし
た。それでも、最近は水道水の放射能が報道された途端、スーパーから
ペットボトルの水があっというまに消えてしまいました。
乳児を持つ家庭はサゾ心配なことでしょう。
情報は大事ですが、それによって衝動的に自分に有利な方へ行動する
のは人間の本能かもしれません。
それを攻めることは誰にも出来ません。
兎に角、原発の放射能封じ込めは一刻を争うことです。
同時に避難している人々の深刻な問題を解決してゆかねばなりません。
悩ましいことです。何が協力できるのか、また悩みます。
このような危機のときに、”弱り目に、祟り目”といいますが、我が家
もそれです。
地震があった2,3日後からばあちゃんが、急な発熱(約39度)に襲われ
ました。
これは大変と、休日でもあったので、救急病院へ直行し、診断の結果は
肺炎でした。
翌日、専門病院へゆき、精密検査を受けたたところ、やはり中程度の肺
炎です。
即、入院を勧められましたが、認知症のために入院は無理と判断し、
薬を出してもらって自宅療法を選びました。
あれから、毎日3回の投薬し、体温を測定し、高熱を発しないようにしまし
た。それ以外は通常の生活でしたが、デイ・サービスは勿論休みました。
1週間が過ぎて、病院で再検査を受けました。
その結果、肺の影は始めのころの3分の1ぐらいに減少していました。
ありがたいことです。
さらにもう1週間、同じ治療を継続することになりました。
被災地の避難しているお年寄りの方々も、酷な環境に何とか耐えて、生
き抜いていただきたいと願います。
災害の被災者の方々や、被災地方へどんな救援や支援が出来るだ
ろうか、考えました。
老老介護の身ですから、被災地へ赴いての積極的なボランテイア活動は
で来そうにありません。
募金への協力やガスボンベなどの供出にもできるだけ参加します。
一方、特に今は節電に協力したり、生活必需品の買出しに焦らないとい
う消極的な支援ならば、かなり可能です。
さらに、ますます生活を質素にして、物質的よりも精神的なものに喜びを
見いだす生活へと変えてゆき、その節約できた分を被災地へと還元して
いただくことも可能です。
そのほかに、老人でも出来る何かはないかと思い巡らしています。
その一つは、希望を失わずに、放射線からの恐怖を鎮め、我々が災害か
らの復興と立ち直りを信ずるということも、ささやかながらの救援活動とい
えるでしょうかね。
福島原発の事故で、放射線物質の飛散拡散が報じられています。
正確な情報が求められているといわれています。
かつて1950~60年代に、旧ソ連や中国での核実験が盛んに行われた
時期がありました。
あのころは、放射能を有するチリが飛んできたり、放射能を有する雨が降
ったり、雪が降ったりして、日本各地で放射線量の測定分析が行われて
いました。
当時の放射線量の測定値と、今回の原子炉崩壊から飛散拡散している
放射線量とどれくらい違うのでしょうか。
あの当時も危険な雨にあたるなといわれたものです。
いたずらに慌てることなく、昼夜を分かたず、原子炉の封じ込めに当たっ
ている決死の作業者の方々に期待するのみです。
専門家の意見を聞きたいものです。
日本は過去の二度の原子爆弾の被爆国であるにもかかわらず、
またもや大規模の放射能汚染の危機に遭遇しています。
原子炉崩壊事故による炉心溶融の進行はナンとしても食い止めなけれ
ばなりません。
事に当たる東電社員、自衛隊員、警察隊その他の関係者の方々は、
まさに決死隊です。
わたしは映画を観るのが好きですが、これは映画をはるかに超える厳し
い現実です。
原子炉の水封は時間と、放射能の危険と戦いながらの困難な作業です。
犠牲者が出ないようにと願いつつ、この千年に一度という危機を乗り越え
て欲しい。
原子力発電の功罪を云々するのは、その後です。
大地震・大津波と、崩壊の危機にある原子炉のゆえの電力不足の
ためか、コンビニ、スーパー、ガソリンスタンド等々で買占めが深刻化し
ています。
かつてオイル危機の1970年代のとき、トイレットペパーの買占めが社会
を騒がせました。
またか、40年ぶりにこの悪現象が再現したか、とがっかりです。
被災地への支援が大優先ではないでしょうか。
多くの人の買占めの行動は、結局は弱い立場の人を窮地に陥れるでしょう。
こういうときこそ、ゆったりと大人の行動をとりたいものです。
それも、ささやかながら被災地への支援活動といえるでしょう。
大変な災害です。
千年に一度といわれる大地震と津波、東北地方から千葉県にかけての
東日本一帯に及ぶ大規模地震と津波。
被災者の方に心からお見舞い申し上げます。
一瞬にして津波に飲まれて亡くなられた大勢の方には、余りのことに
お悔やみのことばすら出せません。
ここ千葉県も大変な揺れでした。
原子力発電の大トラブルに一刻も早い修復を祈ります。
関係の技術者や行政など対応者に頑張っていただきたい。
この危機を何とか乗り越えたい。
お互いに助け合い、出来ることをしなければと思います。
またまた、河津の花のお話です。
カーネーションの試験栽培をしている”かわづカーネーション見本
園”を見学しました。
温室の中には、多くの種類のカーネーションが咲いていました。
カーネーションの花の匂いは余りないですが、花色鮮やかで、花木
は1メートル50センチメートルぐらいの背丈のものが随分とあります。
意外と背高ですね。母の日のプレゼント用切花の大きさからは想像で
きない身長の高さです。
花模様も実に多種類で驚きました。一重あり、八重あり、バラ柄あり、
縁取りのあるもの、星型の花びら等々、様々です。
別の花園さんでは、花の切り摘みをさせてくれました。
そこで、何本か摘んで買ってきました。これも、楽しい体験でした。
河津町の杉桙別命(すぎほこわけのみこと)神社(来宮神社)には
大楠の御神木があります。その樹齢は千年を超え、幹周りは15メート
ル、樹高は24メートルということです。国の天然記念物にも指定されてい
ます。
残念ながら、近寄ってその幹に触れることはできませんでした。
巨樹に触れると、そのパワーをもらえるというので、巨樹に会うたびにな
るべく触らせてもらっています。
大楠は一つの世界です。その樹は水をたたえ、緑に満ち、日陰と、日当
たりを与え、小鳥たちや、虫たちに生活の場所を与え、生命を維持できる
一つの世界だなあと、つくづく思います。
千年以上に亘って、多くの動植物たちを守ってきたのですから、まさしく
御神木というにふさわしいでしょう。
すべての、森や林がそういうことだナと思います。
今回、この大楠を見て地球の緑を守らねばならないと再認識しました。
河津へ行ったおりに、折角ですから、河津桜の原木を訪ねました。
以下は、原木の傍らにある立て看板に書いてあった
”河津桜原木物語”です。
「昭和30年頃の2月のある日、この家の主であった飯田勝美氏が、
河津川沿い(豊泉橋上流の田中地区側)の冬枯れの雑草ので芽吹いて
いた約1メートル位育った桜の若木を偶然見つけて庭先に植えた事が
始まりでした 約十年後の昭和41年1月下旬、やっと花が咲き始めました。
同年4月、主の勝美氏は花が咲くのを見届け永眠しました。
後にきれいに咲く桜を見て譲ってほしいという話もありましたが、思い出
の桜の為手放さなかったそうです。
当時、この家の屋号からこの桜は「小峰桜」と呼ばれ、親しまれていまし
た。その後の調査で新種の桜とわかり昭和49年に河津で生まれた桜で
あることから「河津桜」と命名され、昭和50年4月河津町の木に指定され
ました。
原木の大きさ
木高 約10メートル
樹幅 約10メートル
幹周 約115センチメートル
開花時期 1月下旬から3月上旬
河津桜はオオシマザクラとカンヒザクラの自然交配種と推定されます。(河津町商工会青年部平成13年1月28日)」
自然に交配されて新種の植物が生まれたそうです。
人工でないところがいいです。気をつけて自然を観察していれば、
こういう幸運な発見もできるのかと思います。